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  ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。

 ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~
 814  長老ティッサ・メッテーヤがいった、
  ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの
   教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。
 815  師(ブッダ)は答えた、
  ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。
   これはかれのうちにある卑しいことがらである。
 816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、
   車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫
   と呼ぶ。
 817  かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと
   を見て、性の交わりを断つことを学べ。
 818  かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。
   このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。
 819  そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、
   虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。
 820  独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、
   ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。
 821  聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま
   もり、性の交わりに耽ってはならない。
 822  (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ
   とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら
   ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。
 823  聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを
   渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ
   を羨むのである。
 と。
 (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 疑問点です。
 1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。
 つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?

 2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。
 つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。

A 回答 (16件中1~10件)

 ‘えいやっとばかりに、感覚的にすっきり決める’



 理詰めのbragelonneさんにもこうした状況に陥ることがあるんですね。

 安心しました。

 これで回答を終了いたします。

 楽しかったです。
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ☆★  ‘えいやっとばかりに、感覚的にすっきり決める’
 ☆ のは すでに一たん検討が済んでいてほかに選択肢がないと判断した場合です。

 ○ すべてのことには時がある。
 ☆ ただし
 ○ 時を得ても得なくても〔進む〕
 ☆ という場合も出てくると考えます。

 それではまた。

お礼日時:2009/07/30 07:23

 逆質問への回答、たいへん興味深いものでした。



 少しずつ、少しずつ、bragelonneさんの胸のうちに、‘侵入’しつつあるような気分です。

 これからも‘素直な’bragelonne さんに、接していけたらと思います。(皮肉ではありません。bragelonneさんの、‘感性’にも接していきたいという意味です)

 この回答には、再度検討していこうと思っていますので、受け止め方が変わってしまうかも知れません。‘とりあえず’の感想です。

 ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん あっ そうだったですか――ご回答をありがとうございます―― 理屈を並べる文章ではなく 話をしているみたいに感情のようなものも出ていましたか。
 たしかに普段は――問答だからということもあるでしょうが―― 理詰めですね。言われてみれば。

 一点おぎないます。その(3)です。
 1. 腑に落ちるというかたちの感覚的な合点。
 2. 論理的な文章について最後に これでよっしゃと見なす感覚的な合点。
 3. 論理的にひとまづ合点が行っているけれども どうも腑に落ちない。というとき さりとてほかの考えはない。またはあっても劣るものである。こういうとき すっきりしないけれども 時には えいやっと感覚的に強引にすっきり決めるときもあります。

お礼日時:2009/07/29 07:05

 以前、bragelonneさんは私に逆質問してきました。



 今回は、私が逆質問です。

 いらないものは捨ててもいいのでは、なんて寝ぼけて言ってしまっていますが。

 それって、肉体の賢さ、精神の賢さ、のことを言っているように思えるのですが。

 今回bragelonneさんが取り上げた‘ブッダの発言’を反面教師として捉えているのですね。
 
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いらないものは捨ててもいいのでは、なんて寝ぼけて言ってしまっていますが。

 それって、肉体の賢さ、精神の賢さ、のことを言っているように思えるのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに《要らない》と言い《捨ててもいい》と言うのは わが精神の意志による判断です。けれどもこの場合 
 ▲ (スッタニパータ§814) ~~~~~~~~~~~~~~~
 きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問いを受けて答えるときに いちいち精神で考え慎重に判断するといった過程を経るでしょうか? 
 まぁ わたしは考えるというひともいるでしょうが わたしの場合は
 ○ そんなことは考えるまでもない。ひとそれぞれなんだから 答えはありませんよ。問いとして体を成さないと思いますよ。
 ☆ という答えなのです。すでに初めの感性で結論を出している恰好なんです。
 
 あるいはそれでは いつでも感性が先行するかと言えば そうではないとこれまた答えざるを得ません。得ませんが そういう場合には こういう判断の仕方をわたしはします。
 ○ つまり 知解力によって推論を整えて結論をみちびいたというとき それで行こうと最終的に判断をくだすのは――たとえば 《腑に落ちる》といった表現があるように――やはり感覚によるのです。よっしゃという最後の決断は 感性によります。

 これが わたしが《スサノヲイスム》という思想のあり方です。
 ○ スサノヲ人間語とアマテラス人格語
 ○ 市民のふつうのことばとお役所の役人ことば
 ○ 感性言語と理性言語
 ○ 《わたし》というひとりの存在としての主観語と普遍性を追究する客観概念語
 ☆ むろん けっきょくスサノヲ人間語とアマテラス人格語との統合がいちばんよろしいかと思います。しかも そのときにも基礎は スサノヲ人間語なのです。スサノヲ人間語がアマテラス人格語をみちびきます。
 こんな感じですが いかがでしょう?

お礼日時:2009/07/28 23:29

>>> No.8お礼欄


 性愛論は 常識に任せばいいのだと考えます。その意味でブッダは・もしくはその教団は くだらない戒律を定めたものだと考えます。そのあたりについて もう少しみなさんからのご見解が聞けたらありがたいのです。
<<<

時代背景として、出家同士が集団化したばあい、「単に」、そういった戒律を設定せざるを得なかった状況だったということではないでしょうか?

たとえば、
http://www.interq.or.jp/japan/akutoku/india.htm
第一編!あの女修行者に酒を飲ますことが出来るか?
などありますし、
時代が下りますがインドでは
『カーマ・スートラ』(ヴァーツヤーヤナ:4~5世紀頃)
というのもあります。

そういったことを顧慮してもなお
>>> No.5お礼欄
 ★ 時代背景と風土および思想背景を考慮して読む必要があると思います。
 ★ そもそも、八つの詩句の章は、そういった(時代背景からも、出家して修行する)人々を対象にしていると思います。
 ☆ だったら こうなりますか?
 1. 最初期のおしえは ただ過去の遺産として・記録としてのみ遺されているという意味ですか?
 2. つまり削除してもいいほど現代にとっては意味のないものだという意味ですか? 僧侶も一般には妻帯していますから 修行者専用というおしえも無意味でしょう。
 3. 間接的な問題ですが ただしもしこのように原初のおしえが無意味だと見なされるものもあるとなれば このような無意味だという見直しは ひとによってまったく自由におこなうことが出来るとなります。それでいいのかという問題が起こります。
<<<
という推論を立てられるのは、あまりにも身勝手であり、かつ、飛躍しすぎではないでしょうか?

スッタニパータはゴータマ・ブッダの「思索」そのものを書いているのではなく、「ゴータマ・ブッダが思索しようとしたこと」を含めたその周辺をざっくりと切り出して、伝承形式にして語り継がれたと見るべきでしょう。

bragelonneさんも岩波文庫版をお持ちなら、既にご存じのように、
>>> 「スッタニパータ」の解説(中村 元、岩波文庫ワイド版、p.433-434)
現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちでも、最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。(中略)最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。
<<<
とあります。

ゴータマ・ブッダの思索がどうであったかを、そこに見いだそうとするならば、書かれた書物である「スッタニパータ」の向こう側を見ようとしなければならない。

その時に、当時の風習や文化を顧慮しなければ、本質を見誤るであろうことは、当然のことだと思われます。

この回答への補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 当時の風習や文化を顧慮しなければ、本質を見誤るであろうことは、当然のことだと思われます。
 ☆ 時代背景を考慮に入れることは大前提です。ですが どういう
 ★ 本質を見誤る
 ☆ ことになるでしょう?
 ★ ゴータマ・ブッダの思索がどうであったかを、そこに見いだそうとするならば、書かれた書物である「スッタニパータ」の向こう側を見ようとしなければならない。 / その時に、
 ☆ ということのようですが いったい
 ★ 本質
 ☆ とは何でしょう?

 ★ 第一編!あの女修行者に酒を飲ますことが出来るか?
 ☆ これは ブッダとは関係ないようですから 確かに時代背景です。これが本質を見るために大事だと言う意味は どこにありましょう? 自由に還俗すれば ブッダの発言内容としての性愛観にかかわる戒も律も あってなきが如しという意味でしょうか? ブッディストもそれでよいと言うのでしょうか?
 ★ 『カーマ・スートラ』(ヴァーツヤーヤナ:4~5世紀頃) / というのもあります。
 ☆ この質問には何の関係もありません。両性の二角関係が 特定の対の関係に成ったなら 何も規定すべきことはないという趣旨にとっては 時代背景がどうであろうと関係ありません。その上で考えておくべきことを問うています。考えておかなくてもよいのではないかということを問うています。

 ★ 本質
 ☆ はどうも見まちがっていなかったようです。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  だったら こうなりますか?
 1. 最初期のおしえは ただ過去の遺産として・記録としてのみ遺されているという意味ですか?
 2. つまり削除してもいいほど現代にとっては意味のないものだという意味ですか? 僧侶も一般には妻帯していますから 修行者専用というおしえも無意味でしょう。
 3. 間接的な問題ですが ただしもしこのように原初のおしえが無意味だと見なされるものもあるとなれば このような無意味だという見直しは ひとによってまったく自由におこなうことが出来るとなります。それでいいのかという問題が起こります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし註釈が別だったようです。《無視・削除》の問題ではなくて 原文をそのままにして《向こう側の本質を見よ》ということのようです。
 要するにこうでしょうか?
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ブッダにかかわる文章を読むときには ブッダにとってもしくは自分にとって好ましいように読みなさい。
 ★ ゴータマ・ブッダの思索がどうであったか
 ☆ はいっさい分かりません。あいまいです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうなりますよ。

補足日時:2009/07/27 08:14
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2011/12/21 10:59

 bragelonneさんを攻め落としてみよう、なんて大それたことを考えていましたが、とても歯が立たないことにやっと気がつきました。



 将棋や碁をやろうとするならば、盤や碁石、駒が必要ですが、私には碁石や将棋の駒が無かったのです。盤は用意してあるつもりなのですが。

 そこで、bragelonneさんに挑戦(論破)することは諦めることにします。降参です。

 これからは自分に素直に、自分流に学んでいこうと思います

 私が前に取り上げた、例の‘肉体の賢さ’を見習いつつ。

 『ざわめいて濁っていた池の水が落ち着いて澄んでくれば、其の中の様子がよく見えて来て、危険が迫ってくればそれが何か(知識)分からなくても避ける(智慧)ことが出来る』

 こうした‘心の賢さ’をよりどころとします。

 でも私なりにここの対話を楽しんでいるので、質問も回答も私なりの視点で続けたいと思います。

 よろしくお願いいたします。

 

 

 
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。境地のもんだいとしては すなおなふた言・み言でも済むのでしょうけれど 対話において 論点が現われたなら 徹底的に論理も境地の中身も総動員してしかるべき道を互いに模索すると思います。言ってみれば そこでは容赦があってはならないのだろうと思います。

 もっと寝ぼけたことを言えば
 ○ この世の中のすべてのことは みな神からの手紙である。
 ☆ と捉えています。ただし要らないものは捨ててもいいのではないでしょうか。反面教師になるような手紙が多いように思います。

 このように言ったり書いたりしているわたしたちも その振る舞いや文章が 神からの書簡の一部を成している。こうなります。
 こちらこそ今後とも よろしくお願いします。

お礼日時:2009/07/25 11:36

お久しぶりです。


オコリザルです。
補足要求です

☆ というのではなく そのように喩えて言ってみるということだと捉えています。

というのではなく そのように(言葉がすべて嘘を生むゆえに)喩えて言ってみるということだと捉えています。
大体こんな意味でしょうか。
私にしてみれば、いわゆる考えとされている行為が存在に由来しない行為で本来は考えでない。
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この回答へのお礼

 primeape さん しばらくでした。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そのように(言葉がすべて嘘を生むゆえに)喩えて言ってみるということだと捉えています。
 大体こんな意味でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。
 ○ 神もしくはわたしと神との関係は――あるいは 無神とわたしとの関係はと言っても同じことだとかんがえますが―― もしそれを言葉で表わすとなると すべては 虚構である。
 ☆ という意味です。ですから
 ★ 言葉がすべて嘘を生むゆえに
 ☆ という部分は ほとんどそうなのですが この虚構で表現するとき みづからの主観においては心で同意していること・納得していることを言葉にします。
 でも虚構ですから けっきょくほかにも言い表わし方はいくつか存在するということになっています。

 ★ 私にしてみれば、いわゆる考えとされている行為が存在に由来しない行為で本来は考えでない。
 ☆ とおっしゃるような事情でしょうね。
 信仰=非思考から観想が得られます。ひらめきのようなものです。これを言葉にして表わします。
 ★ 本来は考えでない。
 ☆ つまり非思考ですし 
 ★ 行為
 ☆ でもないですね。非思考というのは 非経験(=神あるいは無神)との関係ですから 
 ○ 信仰を言葉にしたもの(物語といいましょうか)は 経験としての思考でもなく 行為でもありません。
 ☆ ただし虚構の中では 経験的な思考や行為として表わされて来ます。
 といった感じです。どうでしょう。

お礼日時:2009/07/25 05:29

 宗教の世界(仏教やキリスト教)では、神や仏と、人間との関係を親と子との関係のようなものであると受け止めて居る、と言うことを、bragelonneさんは、肯定されますか。



 注・攻めの布石です。

 とはいっても、攻めきる自身はありません。
 でも試してみたい。
 挫折したら、軽蔑されてしまうことを覚悟して冒険してみます。

この回答への補足

 ○ 【参考になった】を押しても 数字が出なくなっています。

補足日時:2009/07/25 06:30
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 宗教の世界(仏教やキリスト教)では、神や仏と、人間との関係を親と子との関係のようなものであると受け止めて居る、と言うことを、bragelonneさんは、肯定されますか。
 ☆ これは 決まっています。
 信仰が非思考であるという意味は その対象が表象しえないことです。つまり 神は人間のことばでは言い表わせないとなります。
 ですから このあとは 神を表わすには その代理としての表現を用います。
 ★ 神や仏と、人間との関係を親と子との関係のようなものであると受け止めて居る
 ☆ というのではなく そのように喩えて言ってみるということだと捉えています。
 神にかんしては すべてが表現の問題だという意味なのですが どうでしょう?
 神という言葉も 《ほんとうに神であるもの》の代理としての表現です。

お礼日時:2009/07/24 23:05

 単純な頭なので一点のみ取り上げます。



 再度、‘長老’への‘発言’とbragelonneさんの質問を吟味してみました。

 ここは‘長老’が‘師’に問い、それに‘師’が答えた。という設定なので、出家者を対象にした発言であると見る、回答No.1maggaさんの受け止め方が自然かと思います。

 それを一般の人間関係に結び付けてしまうところにbragelonneさんの‘疑問’が起きてしまうのではないでしょうか。
 
 ではなぜbragelonneさんが、一般の人間関係についていっているように受け止めてしまったのでしょう。

 たぶん、ブッダが発言したとされる言葉が‘濁っている’からだと思います。

 私はこの発言を、ブッダの教えを後世に伝えようと言う、弟子の気持ちが入り込んでいると見ます。

 また‘耽る’という表現は修行僧にも当てはまることだったのではないでしょうか。要するに修行中という生身の人間だ、と言うことです。
 
 
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん お待ちしていました。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 一般的な性愛論もしくは対(つい)関係論についても問うかたちになっていると思いますが まづはこのスッタニパータの詩句に就いて考えるのが筋でしょうね。
 ★ 出家者を対象にした発言であると見る
 ☆ これにつきましては 二つの見方が 反応として出てくるように思います。それは
 ▲ 816  かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。
 ☆ というように 婚姻の可能性を見ていますね。つまり
 ★ 一般の人間関係に結び付けてしまう
 ☆ という要素が のちの人生の段階としてありうると言っているのではないでしょうか。
 そしてもう一つの見方は
 ★ また‘耽る’という表現は修行僧にも当てはまることだったのではないでしょうか。要するに修行中という生身の人間だ、と言うことです。
 ☆ というように《独り身》の修行者のための発言だということになるかと。

 ところでわたしの見解は はっきり言いまして このような性愛論については触れる必要がないというものです。節度を持つあるいは中庸の徳を養うというのは 世間一般の知恵としてきわめて普通の思想だと考えるからです。
 ところで たとえば日本ではいまこのような意味での聖者は あとにも先にも 明恵という人ひとりだと聞いています。ただしそのことが 思想つまり生涯の自己表現にとってどれほど大きく影響を与えているか これは けっきょくのところでは いちいち調べようとも思わないほどであると思うのですが どうでしょう? おおきな影響がありますか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たぶん、ブッダが発言したとされる言葉が‘濁っている’からだと思います。

 私はこの発言を、ブッダの教えを後世に伝えようと言う、弟子の気持ちが入り込んでいると見ます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは どちらもありうるように思うのですが そしてその意味でもわたしは性愛論の中身には触れる必要がないと考えるのですが ともかくいまの詩句には なぜこんな発言が残っているのかと疑いたくなります。
 こんなところでしょうか。

お礼日時:2009/07/24 13:27

スッタニパータの文章を巡る「ブッダ」概念については、先ほど


http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5121424.html
に投稿しました。

問題の根底にあるものは、上記の回答番号13に記載させていただいたものだと認識しております。

最初期のサンガ形成時期(直接の弟子以外を取らなかった時期)における出家という概念が、スッタニパータにて扱われている概念に相当すると思われます。(なぜなら、対等な立場で出家について質問している文章だから)

http://www.sakya-muni.jp/shousai/ronbun19.html
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この回答へのお礼

 k_jinen さん お早うございます。あちらの質問といい ご回答をしっかりとした問題の立て方からの検証を交えて寄せていただきありがとうございます。
 美女の事件説話はひとまづ片づきましたが こちらは――どうでしょう?――そうはかんたんに問屋が卸すものではないのではないでしょうか?
 そして 転法輪というのでしょうか その最初期のブッダの言葉だからこれこれの制約や事情があるという問題だけにはおさまらない問題が このばあいにはあると言わねばならないのではないでしょうか?
 なぜなら どの期どの段階の発言であるかや対機説法と言うようにその相手や事情・背景がどうであるかを考慮せねばならないという問題とは別に そもそも基本的に ブッディスムの性愛観はどうであるか このように問いを立てることができるからです。あるいは 不邪淫戒とも言っているわけですから 現代において どういう考えなのか これを明らかにするのが ブッディストの義務ではないでしょうか?
 つまりは このスッタニパータの文章が今では反故であるというのであれば そのことを明らかにするとともに では今ではどういう性愛観であるか これを明らかにせねばならないでしょう。また門外漢はこれを問うてもよいでしょう。
 そういう問題ではないでしょうか?

 No.4に紹介がある本『仏教が好き! 』(河合隼雄と中沢新一の対話です)には 実際この性にかんする戒めが いかに詳細をきわめたものであるか 笑うに笑えぬ事態を引き起こしたかが明らかにされています。中身はおすすめできませんが その資料としては面白いと言えます。(つまり 買わないでください)。
 性愛論は 常識に任せばいいのだと考えます。その意味でブッダは・もしくはその教団は くだらない戒律を定めたものだと考えます。そのあたりについて もう少しみなさんからのご見解が聞けたらありがたいのです。
 さとりだとか無我だとか 雲をつかむような話には みなさんと言っていいほど大勢のかたが投稿なさっていますが こういう具体的な話になると 気がお乗りにならないみたいですね。どうも雲も霧もかかっているようですし やはり繭の中にすっぽりと入って平和な状態なのでしょうか? これは k_jinen さんに対して 挑発行為ですかね。

お礼日時:2009/07/24 08:06

No.4です。


承知しました。
では、今後当方並びに拙文に関し、別質問中にて二度と揶揄、示唆しないよう願い上げます。
以下の【 】の箇所につきましても、他質問内の拙文を照合なさっている好例と拝察致しております。
正規の質問外において当方の拙文に【直接】言及されても、困惑する一方なのです。
せめてこの1点だけでも、ご理解に努めて下さいますよう切にお願い申し上げます。

『イエスは特異点か』No.5
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5111414.html

>おぎないます。
>【観自在菩薩を人格化した像と赤子との関係を 釈迦とカンダタに喩えること】――このことのほうが よほどわたしには 《教訓》めいて感じられます。つまり早い話が 道徳規範は愚の骨頂だというそのたぐいです。
>蚕が繭の中にすっぽりと入って平和な状態――そういう観念の共同がわが日本の社会には《伝統的》に蔓延しています。わたしの嫌いなひとは 共同幻想と言ったようです。アマテラス・マヂック。
>減らず口でした。


≪何ら過去になにもひきずっていないはずなのに≫、「mashumaro2 さんと呼んでいたときとは違って これで恩讐もきれいにふっきれて 互いにただの質疑応答者として表現していけますね。」と拙問『知の欺瞞』No.20でわざわざ切り出し、むしろこちらに誤解を招くようなことをもたらしたのは「そちら」なのです。

「☆ それがわたしの《誤解》ではないとはっきりしたというのが これまでの経過でした。中ほどで最後にも触れますと述べた点ですが この見方は変わっておりませんし 今回述べて来ましたように 変わる要素はありませんでした。」という言説は、ご自身の意見表明に過ぎず、当方の理解を意図したものではありません。

わたくしは元来何ら測りし得えないことゆえ、年長者を尊うという「極めて独断的な判断から」丁重にご遠慮申し上げたまでのことです。
こちらも何ら深い意味はありません。
と、このようにこの場をお借りして代えさせていただきます。

「散逸構造」に関しましては、必要に応じて、当方宛てではなく直接相応しい回答者様と対話なさっていただきますよう。
当質問中No.4の中沢氏等の対談は≪他愛もない、こんな見方もあるよ≫程度なのは、誰が見ても明らかなはずです。
それを当該質問に”あえて”引用した、その意図も全くの徒労に過ぎませんでした。


>>古代の外国で成立した宗教であること、他宗教との戒律の規定の差異などから・・・成立状況を十分に推察、理解することが大切ではないでしょうか。
>哲学はふふんと一笑に付すでしょう。むろんそういう論旨のもとに世の中を生きている人びとのほうが 責任ある地位についていろいろと社会に貢献しているというのも現実です。
>哲学からは これは揶揄ですし そうでない見地からは ただの犬の遠吠えだということです。

海外には日本で知られる仏教宗派の支部が点在し、信者を相応に獲得していることを拙いながら若干見知っております。
仏教に携わる方々には日本国内という井の中の蛙に陥らず、必要に応じて膠着部分を見出し内外から刷新し、広く海外へ平和の希求を伝搬していって頂きたいという願いを抱いております。
その意を込めて、そしてその一環として、当該質問に一片の真理の希求を見出したがゆえの投稿でもありました。

質問者との見解の差なのでしょう。
わたくしは自らの主張につき、一片足りとも負け犬の見解、などとは思ってはおりません。
むろんそちらがご自身の哲学的見地によりそのように断定するもしないもご自由ですし、もはや当方は関知し得えない範疇です。
ただし、どうか、≪この場かぎり≫においてなさって下さいますよう。
ご理解いただけますでしょうか。


ということにより、No.4は他の方々への投稿と趣旨変更させていただきます。
失礼致しました。
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この回答へのお礼

 要点のみしるします。
 
 ★ 今後当方並びに拙文に関し、別質問中にて二度と揶揄、示唆しないよう願い上げます。
 ☆ これは 投稿に関して投稿したあとでは 公的な側面とそしてなお投稿者個人に属する側面とのふたつがあります。
 五分五分ではなく 十分十分でどちらも成り立ちます。特別に個人の側面において行きすぎがなければ 公的な側面で〔のみ〕扱われます。自由に引用していいのです。
 むろんわたしも一般的な議論のために引用したということです。
 したがって 誤解であり不当な要求だと見なします。

 あとは 筋道がたどりにくいものばかりです。
 ★ 『知の欺瞞』No.20
 ☆ 記憶のかぎりでは
 ☆☆ ≪何ら過去になにもひきずっていない≫、
 ☆ ので投稿したということです。相手はつまりあなたは そうではなかった。ので
 ☆☆ これで恩讐もきれいにふっきれて 
 ☆ とわざと言ったのでしょう。でしょうと言うのは 過去があったということを確認することばであれば何でもいいという意味です。
 その確認のあとは もう成り行きにまかせたという意味です。

 ★ ご自身の意見表明に過ぎず、当方の理解を意図したものではありません。
 ☆ 意味が取れません。誰もが自分の意見表明をおこないます。

 ★ 「散逸構造」に関しましては・・・
 ☆ No.4という回答に向けてすべては発言しています。

 ★ 中沢
 ☆ はぢゃあもうどうでもよいでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >哲学からは これは揶揄ですし そうでない見地からは ただの犬の遠吠えだということです。
 ・・・
 質問者との見解の差なのでしょう。
 わたくしは自らの主張につき、一片足りとも負け犬の見解、などとは思ってはおりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《犬の遠吠え》と見られかねないというのは 哲学からのわたしの見解のほうです。

お礼日時:2009/07/23 13:55

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