【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

 『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。

 § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?

 ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~
   ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。
 と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。
 それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・
 (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)
  ~~~~~~~~~~~

 【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?

 【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?

 § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?

 ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~
 ・・・尊師はこのように言われた。
  ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・
    修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・
 (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)
 ~~~~~~~~~~~

 【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。
 (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。

 【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。

 § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?

 ▲(自灯明・法灯明) ~~~~
   ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。
 (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)
 ~~~~~~

 【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?

 【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?
 つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。
 ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか? 
 みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?
 
 《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。



 
 これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。
 以上について よろしくご教授ください。

A 回答 (21件中1~10件)

>「解決の道」



そんなものが、あるのでしょうか。


「無い、無い、無い」、そういうものだと諦める。
そっちのほうが、近い気がする。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 たぶん ゴータマ・ブッダの亡霊にすっかりなじみ切っている。ゆえに そういう諦観に行き着く。のではないでしょうか?

 これは ゴータマ氏の犯行とそれの称揚によって じんるいの多くの部分においてクセ・ナラワシになってしまっている。のではないでしょうか?

 ゴータマくんの罪は重い。

 どうでしょう?
 

お礼日時:2012/07/04 01:36

>「苦や無常から自由な境地になるには 文字通りには《死ぬ》ことだと言っているにひとしい。

――暗いですね。」

・・・私見では、それは「死ぬ」ということではなくて、
・・・「(「そういうもの」だ)と、『観』ずる」というようなことですね。。。暗いですかね。


>「
 もしこのようだとしたら くりなるさんは どうしてゴータマ・ブッダの肩を持つのでしょうか? 味方する必要はないのではないでしょうか?
 はっきり ゴータマ氏は おかしい! と言ってよいのではないでしょうか? いえ そんな段階ではないと思います。はっきりと ゴータマくんは おかしいと言わねばならないときではないでしょうか?
 あたかも集団催眠にかかったかのごとく あるいは二千年の洗脳が効いているかのごとく ゴータマくんの味方をするようです 人びとは。

 そこのところ つまりはゴータマ・ブッダを克服するということ ここに 日本と日本人の復興がかかっていると考えます。どうでしょう?


「ゴータマ・ブッダを克服する」
・・・ありがとうございます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 〔ニルワーナは〕 ・・・私見では、それは「死ぬ」ということではなくて、
 ・・・「(「そういうもの」だ)と、『観』ずる」というようなことですね。。。暗いですかね。
 ~~~~~~
 ☆ たしかにわたしの勇み足でした。それどころか マチガイを犯したかも知れません。率直にあやまります。

 ▲ (ヰキぺ:涅槃) ~~~
 § 灰身滅智(けしんめっち)とは、

  身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。

 § 身心都滅(しんしんとめつ)とは、

  肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。

 このことから、これらは一種の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。

 ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。

 この立場で、のちに無住処涅槃という。

 「さとり」の世界では、無明を滅して智慧を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生を仏道に導く。

 このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界である。その転化の根本は智慧の完成である。ゆえに「さとり」が智慧なのである。
 ~~~~~~~~~

 したがいまして もしこの《真意》が人びとに知られているならばよいがという 愚痴のようなものを言っていました。

 いづれにしましても そうしますと こうなりましょうか?

 ○ 「〔世間にあんがい根深く広まっていると思われるような《ネクラ》の〕ゴータマ・ブッダを克服する」

 のだと。ネクラというよりは すべて物分かりがよいと一見すると見られるような・ただし多分に事なかれ主義と見られても仕方がないような無気力に通じるところ これは ないでしょうか? ゴータマ・ブッダに。

お礼日時:2012/07/04 00:34

bragelonne様、こんばんは、Ano.14です。



やはり「無常」とか「諦観」とか、用語が正しいかどうかは自信がありませんが、そういうことがカギになるのではないかと思います。


>「《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。」

ブッダは、(仰るところの)人間の能力や愛情といったものを、それほどまでには評価していないものと考えます。・・・「一隅を照らす」と言って、照らし得たとして、それが「無常」の前に、いかほどの役に立つのでしょうか。
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 わたしのわるいくせで 設問は 五つまで出来るので 早くには閉めないでおくといった状態にほうっておいてありました。

 そうですね。
 ★ 無常
 ☆ の一色といった感じなのですが どうでしょう? つまり ゴータマ・ブッダの思想としてそうであるとおっしゃっているのか? それとも くりなるさんご自身もそのような見解を持つとおっしゃっているのか?

 煮詰めた話になりますが さとりとか ブッダになるとか言うのでしたら とうぜんのごとく 無常や苦や煩悩を――それとともに存在しているとしても―― 突き抜けてしまったようにして捉えていること。これが 必要であり 大事なのではないかと考えます。
 ブッダもたしかにそのように言っていると見られる場合もあるのかも知れません。
 《明知》というのですから。
 
 ただし おっしゃるように 非常に暗いですね ブッダは。ニルワ゛ーナなんて言うのは 《消え入る》という意味だそうで つまりは苦や無常から自由な境地になるには 文字通りには《死ぬ》ことだと言っているにひとしい。――暗いですね。


 もしこのようだとしたら くりなるさんは どうしてゴータマ・ブッダの肩を持つのでしょうか? 味方する必要はないのではないでしょうか?
 はっきり ゴータマ氏は おかしい! と言ってよいのではないでしょうか? いえ そんな段階ではないと思います。はっきりと ゴータマくんは おかしいと言わねばならないときではないでしょうか?
 あたかも集団催眠にかかったかのごとく あるいは二千年の洗脳が効いているかのごとく ゴータマくんの味方をするようです 人びとは。

 そこのところ つまりはゴータマ・ブッダを克服するということ ここに 日本と日本人の復興がかかっていると考えます。どうでしょう?

お礼日時:2012/07/03 23:21

こんばんは。





☆☆☆
☆サイトのご紹介のあった《布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)》は 参考程度になるのでしょうか?

◇この部分の現代語訳は非常に危険です。
大正新脩大蔵経のデータベースで調べてみたのですけれど(仏説長阿含17巻第三分布吒婆樓經第九)、
直接これに対応する部分を見つけることはできませんでした。
例によって、ゴータマ・ブッダは、この手の質問に関しては、《だんまり》を決め込むか、《はぐらかし》の姿勢を見せているので。
なので、この記事を書いた人(どこかの宗教組織?)の解釈が紛れ込んでいる可能性が大です。
四禅・無色四禅に関する部分は、まぁ、そこそこ信じてもいいと思いますけれど。。。

漢訳だと恐いなので(僕の漢文読解力が低いためです)、
念のために、この部分の英語訳があるのかと、いくつか英語サイトを覗いたのですけれど、断片的なものしか見つけられず....
パーリ語全文は見つけたのですけれど、パーリ語は分からないもので....
この件については、はっきりしたことは申し上げられませんが、たぶん、
《違う》ような気がします。



☆☆☆
☆ 《自我の確立》などというのは くそくらえだとすら思います。《わたし》なんです どこまでも。《他我》などとさえ言うようになりました。他人と書いて《ひと》 あるいは 《ひとさま》でしょう。
 《自分・自己》でじゅうぶんだと思います。

◇《Das Ich》やラテン語の《Ego》はちょっとまずい気がします。仏教の場合、心の表層部分で動くものだけではなく、深層心理の《Es》や《Id》まで含むんでいるので....
《Super Ego》《超自我》は《道徳原則》に近いらしいので、はてはて。
bragelonneさん提案の平仮名の《わたし》、あるいは《私って思い》くらいが適切なのかもしれませんね。



☆☆☆
☆ ~~~
 それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。
 衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。
 そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。
 (唯識は違いますけれども....)
 ~~~~~~
 ★ 《無住処涅槃》と解していいのでしょうか?


◇究極の目標は《無住処涅槃》になるんでしょうけれど、これはもうほとんど《仏さま》なので、どうでしょう。
僕は、あくまで人間レベルで、もっと低くていいんじゃないか、と思いますけれど。




☆☆☆
◇プラクリティについて、いくつか調べてみました。
根本原質・《プラクリティ》は《未顕現・avyakta》と同じ意味らしいです。
《未顕現》の特徴は、遍満、無限、思惟を超えた存在らしいので、やはり、《非経験・非思考の庭》の存在ですね。

ウパニシャッドによって、《プラクリティ》あるいは《未顕現》の序列が異なっていて、
カタ・ウパニシャッドでは
《神我・プルシャ》>《未顕現(プラクリティ)》>《偉大なるアートマン・mahan atma》>《ブッディ》>《意(識)》>《(感覚器官の)対象》>《感覚器官》   (”>”は”偉大の意味“)
バガヴァッド・ギーターでは、
《プラクリティ》と《プルシャ》に超越し、その発生原因である《バガヴァット・至高神》を立てているようです。《バガヴァット》が《梵》より上位にあるのか、同じものなのか、バガヴァッド・ギーターでは立場がまだ定まっていません。時に《梵》と同じく、時に《梵》すら超越しています。

この他にも、色々な説があるようです。
仏教を含めてですが、
本当、後先のことを考えない古代インド人の場当たり的羅列主義には困ったものです。
しかも、現実と空想が同等の存在として語られるのだから、いやはや、なんとも。

ちなみに、
(古)サンキーヤで、《プルシャ》が一人一人別であり、解脱後もその《プルシャ》がそれぞれ別のものとして存在するのは、人間の霊魂の個別性の説明のためではないか、ということらしいです。
《梵我一如》だと、人間の個別性、個体性がうまく説明できない。
だから、アートマンとは異なる《プルシャ》という言葉を使って、この説明を試みた、といったところではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ○ 《布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)》
 ★ について保留ということで了解しました。



 ◇ 《 Das Ich 》やラテン語の《 Ego 》はちょっとまずい気がします。仏教の場合、心の表層部分で動くものだけではなく、深層心理の《 Es 》や《 Id 》まで含むんでいるので....
 ★ じつは 《自然本性》の心 すなわち精神=《記憶・知解・意志》のうちの《記憶》が とうぜんのごとく《深層の記憶》をもふくみます。
 これが 個別の存在としては 《わたし》です。《わたし》に含まれます。
 もっとも アーラヤ識がどうのという議論になると 《記憶》という能力行為がどこまで対応しうるかは定かではありません。




 ◇ ~~~~
  ★ 《無住処涅槃》と解していいのでしょうか?

  ◇ 究極の目標は《無住処涅槃》になるんでしょうけれど、これはもうほとんど《仏さま》なので、どうでしょう。
  僕は、あくまで人間レベルで、もっと低くていいんじゃないか、と思いますけれど。
 ~~~~~~~
 ★ なるほど。そういう見方なのですね。つまり 往相・還相の還相のごとく無住処涅槃を捉えると もろにすでに《仏さま》であるということですか。
 この《仏さま》が 人びとの自由な思考に枠組みをはめるというようなことがないのでしたら 論理的にも おっしゃるとおりだと思います。



 ◇ ~~~~
 ウパニシャッドによって、《プラクリティ》あるいは《未顕現》の序列が異なっていて、
 カタ・ウパニシャッドでは
 《神我・プルシャ》>《未顕現(プラクリティ)》>《偉大なるアートマン・mahan atma》>《ブッディ》>《意(識)》>《(感覚器官の)対象》>《感覚器官》   (”>”は”偉大の意味“)
 ~~~~~
 ★ これでしたら やはり物語が《非経験の場》の中にも持ち込まれていると見られます。そして 経験世界と筋道がつながっているという話ですよね。
 ◇ ~~~
 仏教を含めてですが、
 本当、後先のことを考えない古代インド人の場当たり的羅列主義には困ったものです。
 しかも、現実と空想が同等の存在として語られるのだから、いやはや、なんとも。
 ~~~~~
 ★ と見て 交通整理をしていくことになるかと思います。





 ◇ ~~~~
 (古)サンキーヤで、《プルシャ》が一人一人別であり、解脱後もその《プルシャ》がそれぞれ別のものとして存在するのは、人間の霊魂の個別性の説明のためではないか、ということらしいです。
 《梵我一如》だと、人間の個別性、個体性がうまく説明できない。
 だから、アートマンとは異なる《プルシャ》という言葉を使って、この説明を試みた、といったところではないでしょうか。
 ~~~~~~
 ★ これは もっともな話だと思います。重要でしょうね。

 《神は アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神である》という個別性・個体性の問題だと思います。

 《非経験の場》は 個体を超えています。
 個体つまり《わたし》が おのおの これを受け容れる――わざわざとしてでも きちんと その領収証を切る――のは あくまで個別の意志行為です。その結果 それぞれ《わたし》の非思考の庭が おのおのの心に成る。ということだと思います。

 仏性や自性清浄心は 個体の次元に降りて来ていますが まだ概念であり やはり《わたし》によるその具体的な受け容れないし目覚めを 一人ひとりにおいて 出発点とするものと考えます。

 


 質問の表題から少し離れたかも知れません。ただし 深められているものと思います。

 どう締めたらよいか。考えつつ しばらく開いています。

お礼日時:2012/06/28 21:18

#No.16の補足です。


ベックの仏教に、十二支縁起とプラクリティ展開の関係についての記述がありましたので、
紹介します。

「仏教では、無明すなわち錯誤は、ふつう、苦悩説の四つの尊い真理についての無知であると説明される。仏教とは違うが、サーンキャの考え方では、展開の系列が質料の凝固する過程であると見る。そして、その個々の支分を組成するものは、超感性的で微細と考えられているにせよ、やはり質料であるとみなされる。仏教の無明は、サーンキャでいう超感性的な根本質料(プラクリティ)にあたる。それは、サーンキャとヴェーダーンタとを融和させる方面において、宇宙的迷妄と同一視される。このような考え方は、仏教からは遠ざけられるべきであるが、仏教の縁起説の中で無明は超個人的な、したがって宇宙的な性質を帯びなければならないことになる。その理由は簡単である。もし仏教がおよそ個人性を認めるとすれば、それは第四の支分すなわち名色にいたってはじめて到達されるものだからである。それに先行するものはまだ個人性の圏外である。…
 行の次に生起するものは識である。これはすでに意識されているが、まだ超個性的な霊的存在である。前に述べたように、サーンキャでいう宇宙的な覚(ブッディ)に対応する。仏教の場合とは異なり、サーンキャにおいては、この覚は質料のもっとも微細な発展形態、すなわち質料の最初の展開であると見なされている。つぎにその識から、個性の仮象と陰影〔名色〕とが展開し...」
(ベック著 仏教(下) 岩波文庫 122~124頁からの抜粋)
(○○)の部分は、原文にはなく、分かりやすくするために、追加しました。

百年近い前の本なので、ベックのこの考え方の妥当性がどの程度のものなのか分かりませんが、
参考にはなるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 こちらから先にご返答してまいります。

 ▲ (ベック:仏教) ~~~
 ・・・仏教の縁起説の中で無明は超個人的な、したがって宇宙的な性質を帯びなければならないことになる。
 その理由は簡単である。もし仏教がおよそ個人性を認めるとすれば、それは第四の支分すなわち名色にいたってはじめて到達されるものだからである。それに先行するものはまだ個人性の圏外である。…
 ~~~~~
 ☆ ここらあたりで 例の二元論のグノーシス主義を思い出しました。なるほど プレーローマですとか うろ覚えで言えば 少女ソフィアの遍歴のような話ですとか かなり細かく詳しい物語を展開させているという内容ですよね?

 それが 《個人性の圏外》であるのか。あるいは要するに《経験世界の圏外=つまり 非経験》という想定の場なのか。これほど想像力をはたらかせるとは おそれいりますというお話であるようにも思います。
 そういう物語として見れば けっこうおもしろいと感じるようにはなりましたが。


 ▲ 超個人的な宇宙的な性質を帯びた無明
 ☆ ううーん。桁はづれに豪快な思想と言うのか。観想・瞑想を比喩で表わしたと言うのか。

 ▲ サーンキャの考え方では、展開の系列が質料の凝固する過程であると見る。
 ☆ 《展開》は やはり《非経験の場》と《経験世界》とにきちんと分けるとよいと思っています。
 《質料》が現われたなら 経験世界でなければならないでしょうね。
 いえ。形而上のものごとは やはりすでに経験世界に属しますよね。

 ▲ 仏教の無明は、サーンキャでいう超感性的な根本質料(プラクリティ)にあたる。
 ☆ 《超感性的》にして《質料》は ないのでしょうね。だから そうではなく《根本質料》ですか。かたちのない質料。これは 《非経験の場》に想定していることを意味するのだろうか。と思ってしまいます。


 ▲ 行の次に生起するものは識である。これはすでに意識されているが、まだ超個性的な霊的存在である。
 ☆ 《識》ですら 《超個性的》にしてしかも《霊的存在》だと言うのですね。しかも《すでに意識されている》。ちょっと《超越論的》と言うべきでしょうか?
 まぁ わたしも雲をつかむようなばけもの談義をしていますが。



 とりとめのない感想でした。

お礼日時:2012/06/27 23:58

こんばんは。



#No.13の補足欄に対する返答。


☆☆☆
はいはい、《プルシャ》を最終的に宇宙の最高原理である《梵=アートマン》とみなす考え方も存在します。
でも、これは古典サーンキヤ学派の考え方ではなく、ヴェーダンタなどの考え方です。
紀元3~4世紀頃に成立したと考えられる古典サーンキヤ学派の考え方ではありません。
あくまで、古典サーンキヤは《プルシャ》《プラクリティ》の二元論です。
これが同一なものであると、そこまで踏み込みません。
聞くところによると、《唯一神的サーンキヤ》なるものもあるそうですが....
僕のサーンキヤ学習は、仏教の唯識思想理解のためのものなので、そこまで踏み込んで勉強をする気もありませんし....

また、「《プラクリティ》は経験界に存在する第一原因ではない」と思います。
宇宙の《アハンカーラ》なるとんでもない存在もあるらしいので....
なので、これも形而上的存在、《非経験・非思考の庭》の存在であると考えるべきだと思います。
そして、《ブッティ》が経験界に最初に顕現し、順次、《アハンカーラ》→《マナス》→…と物質が展開してゆくと考えるべきだと思います。

なお、《プラクリティ》を《梵》の《物質的質料因》とみなす考え方もあります。
これはこれで、じゃぁ、《梵》には二つの面があるのか、という新たな問題を投げかけると思いますけれども....



☆☆☆
III ‐1 まづサーンキヤとしての二元論から ひょっとすると 十二支縁起の順観と逆観というあたかも二筋の道を得たか?

 無明から生起する苦の循環する筋道が 大きく粗く《プラクリティ》の欲界・色界で 明知へと逆転した逆観の筋道が あたかも無色界としての《プルシャ》。

III ‐2 このとき 逆観を もしアートマンに相当すると見られるプルシャに当てることがためらわれたとすれば それについて《アン‐アートマン》説を立てた。と考えると分かりやすいようなのですが あまりにも安易な類推でしょうか。

☆だと思います。
ただ、ゴータマ・ブッダは、《プラクリティ》を想定しなかった。
《プラクリティ》を想定しなくても、輪廻は説明できると考えた。
そして、その第一原因として、《無明》においた。
宇宙の生成については、解脱に関係ないとして排除した。
といったところではないでしょうか。

仏教は、もともと、解脱を目的とする心的一元論なので、宇宙の物質的生成を説明する必要がありませんから。

また、
《プルシャ》には、無色界ではたぶん到達できないと思います。
もう一つ上の、《滅尽定》で《滅界》や《甘露界》というところまで進まないと、
《真我》《プルシャ》には到達できないのではないでしょうか。
《滅尽定》は、たぶん、《非経験・非思考の場》そのものですから。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 断片的に感想を述べるにとどまりますが。

 ☆ あくまで、古典サーンキヤは《プルシャ》《プラクリティ》の二元論です。

 ☆☆(回答No.13) ~~~~
 《プルシャ》は《非思考の庭》の存在です。
 現象世界の原理ではない、《引っ込んでしまった神》さま的存在です。
 それを《プルシャ》と呼ぼうが、真の《アートマン》と呼ぼうが、
 《光り輝くこころ》あるいは《自性清浄心》と呼ぼうが、
 それは言葉の呼び方の違いにしかすぎない。
 ~~~~~~~~~~
 ★ わたしの言葉でわたしなりにげんみつに言うとすれば

 ○ (非経験の場は 一元論でしかないと考えられること) ~~~
 1. 非思考の庭は 非経験の場〔という想定――なぜ想定するかと言えば 《かみ》という言葉を所与として持つから――〕を受け容れることによって 人の心に成るものと見ています。

 2. したがって 《プルシャ》=《引っ込んでしまった神》(≒ Deus absconditus )=《アートマン》=《光り輝く心=自性清浄心》は まづ最初の想定としては 《非経験の場》のことを言っている。

 3. しかも 《神》もけっきょくにおいてそうだと言ったほうがよさそうですが でも今は措いておいて 特には《アートマン》=《光り輝く心=自性清浄心》 これが 心に受け容れられた(または すでに生まれつき心にそなわったものを受け留めた)なら そこで《非思考の庭》が成る。

 4. 神は 非経験であり これをともかく受け容れるなら その受け容れ行為が まづは経験行為である。というややこしいあり方をしている。非経験を経験的な意志行為で受け容れた。よって そこに成るのは 《非思考の庭》と表わす。
 ~~~~~~~~~~~~

 これで 《プルシャ》は落ち着いたとすれば では《プラクリティ》は どこにおさまるのか?

 プルシャと二元を成すというからには プルシャと同じ次元においてだとは考えられる。しかも 《非経験の場》は 想定による存在であるからには その中身を人間存在やその経験事物として捉えることは出来ない。規定することも出来ない。(ただし その言葉を用いて仮りに表わすことになる)。

 とすれば 手前味噌になるかも知れませんが 次のように《非経験》と《経験》とに分けて捉えることもひとつの解釈になるかと。
 ★★(No.13補足欄) ~~~
 II ‐4 あるいは 無難な解釈としては プラクリティを 《経験事物としてのプラクリティ》と 《非経験なるプルシャにひとしいプラクリティ》とに分けて捉えればよいのだと見ます。
 ~~~~~~~
 
 大雑把に見るなら 非経験の場は アートマン(=ブラフマン)で代表させてもよいかと。




 ☆ ~~~
 宇宙の《アハンカーラ》なるとんでもない存在もあるらしいので....
 なので、これも形而上的存在、《非経験・非思考の庭》の存在であると考えるべきだと思います。
 ~~~~~
 ★ 口幅ったい言い分ですが 《形而上的存在》は 精神による思考上・想像上のものだと見ますから やはり経験世界に属します。《非経験の場 / 非思考の庭》は やはり化け物の世界だと見ます。《無根拠》です。
 グノーシス主義は 《アハンカーラ》はなかったのでしょうか(分かりませんが) いろんな思考による概念や想像上のものごとをこの《非経験の場》に盛り込んで物語としているのでしょうね。経験世界における出来事を 逆に投影しているのでしょうか? そこのところは 詳しくはありません。



 ☆ そして、《ブッティ》が経験界に最初に顕現し、順次、《アハンカーラ》→《マナス》→…と物質が展開してゆくと考えるべきだと思います。
 ★ そうなんですか。ついに経験世界における展開が現われるのですね。これが 《超個性的》だったりはしないのですかね。するのでしょうか。もう《霊的存在》ではないのでしょうね。
 
 おもしろいのですが 恐れ入りますと言うのでしょうか 思想=生活態度としては どう活用したらよいかといった単純な見方をしてしまいます。

 そして おっしゃるように:
 ☆ ~~~~
 なお、《プラクリティ》を《梵》の《物質的質料因》とみなす考え方もあります。
 これはこれで、じゃぁ、《梵》には二つの面があるのか、という新たな問題を投げかけると思いますけれども....
 ~~~~~~~
 ★ というような受け留めになるかとわたしも思います。ということは プルシャと同じということになるかと。




 あとは 引用することのみで応答するかたちです。
 ☆ ~~~~
 ただ、ゴータマ・ブッダは、《プラクリティ》を想定しなかった。
 《プラクリティ》を想定しなくても、輪廻は説明できると考えた。
 そして、その第一原因として、《無明》においた。
 宇宙の生成については、解脱に関係ないとして排除した。
 といったところではないでしょうか。

 仏教は、もともと、解脱を目的とする心的一元論なので、宇宙の物質的生成を説明する必要がありませんから。

 また、
 《プルシャ》には、無色界ではたぶん到達できないと思います。
 もう一つ上の、《滅尽定》で《滅界》や《甘露界》というところまで進まないと、
 《真我》《プルシャ》には到達できないのではないでしょうか。
 《滅尽定》は、たぶん、《非経験・非思考の場》そのものですから。
 ~~~~~~~~~

 ★ 《輪廻ないし苦の〔第一〕原因を無明に置く》ばあい その原因を生じさせる〔へそ曲がりの〕意志行為が〔それでも〕 おのれの自然本性においてそなえる仏性ないし楽についても前提として触れて欲しかった。と言えるなら よいと思っています。

お礼日時:2012/06/28 00:52

こんばんは。





☆☆☆
★ ニルワ゛-ナの文字通りの解釈は 無意味だとさえ考えます。ねむりねこさんも 生のため・生ゆえにというご見解だったと思いますが。

☆はい、わたしは、「宗教は《生のため・生ゆえに》必要だ」と考えています。より良い《死後》のためのものだとは、まったく考えていません。
ですから、ゴータマ・ブッダの《生(命)軽視》《肉体軽視》の考え方は大嫌いです。
わたしの考え方とは根本的に相容れません。

「夫(それ)、仏法、遥(はる)かにあらず。
心中にしてすなわち近し。
真如、外(ほか)にあらず。
《身を棄(す)てて、何(いづく)にか求めん》。
《迷悟》、われにあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、すなわち到(いた)る」 (空海・般若心経秘鍵)

この部分の現代語訳は、以下のアドレスで。
http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm

今ある《からだ》と《こころ》を離れ、この二つを棄てて、仏教(宗教)などありえない。
これが僕の根幹をなす考えです。

《自灯明》と《法灯明》つながりで、《理趣経》の一節を、ねむりねこ語で紹介。
「日々、よく読んで、《自分の頭》でよく考えれば、
お父さんとお母さんからもらった《今のからだ》のまんまで、
最高の《さとり》を得ることができるさ、きっと」 (般若理趣経)
ということなので、僕としては、
《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。


これが、
 ★★ ナーガルジュナの《アートマンの考察》なる見解にもとづき 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》を それ(ヒトなる生物)としての主体と見て立てるものです。
 
 と述べましたが これを焦点としては どうでしょうか?
に対する、僕の返答です。


◇僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが...



☆☆☆
☆ ~~~~
 寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた
 布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)
 に、何かそれを匂わせるような記述があるらしいです。
 《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。
 ことばでは表現できない。
 ヨーガによって感じるしかない》
 みたいなことを言っているとか、いないとか....
 ~~~~~~~
 ★ できましたら ここら辺を解き明かしておきたいように思います。《わたし》とはどういう行為主体としての存在であるのか? だと思います。

◇《わたし》の行為主体は、《客塵煩悩》を容れた《わたし》だと思います。
サーンキヤは仏教でないので、仏教の唯識的立場で言うと
《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》、すなわち《末那識》にとらわれた現勢態・動態の《こころ》ってことになるのではないでしょうか。

《自性清浄心》は形而上的な存在、《非思考の庭》の存在なので、ひとまず別にして....

《中論》の18章の別の現代語訳を紹介すると、
「2 我が存在しないとき、いずれに我所(わがもの)があろう....
 3 わがものの観念をはなれ、我慢を離れる人は、存在しないのである。
   わがものの観念の無と、我慢の無を見る人は、見ないのである」
(中論の頌・大乗仏典 中村元編 筑摩書房)

我慢とは、《末那識》の心作用の一つです。
第八根本識《阿頼耶識》を《真我》と錯誤し、それを《常楽我浄》と思い、《我癡・我慢・我見・我執》の心作用(心所)が発生する。
龍樹は自我意識を心の作用の一つとして捉えたけれど、唯識は、執著性を強調するために、その心作用を《末那識》と名付けて、別建てにした。
そんなところではないでしょうか。
サーンキヤで《アハンカーラ》と呼んだものを、《末那識》と呼んだのではないでしょうか。

布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)の現代語訳は
http://yusan.sakura.ne.jp/library/buddha_pottapa …
で見ることができます。
現代語訳が正確かどうか分からないので、あくまで参考程度に。
いちおう、四禅・無色四禅の説明もあるようですし....



☆☆☆
 ☆ ~~~~~~~~~~~~~
  《無種子三昧》あるいは《無想三昧》といわれる深いヨーガによって、
 物質的存在の形成力(サンスカーラ・行)の原因を消滅させないかぎり、《プルシャ》は物質的存在にとらわれたままです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 であってよい。無明を《わたし》の内に含んでいても構わない。という《わたし》説です。いかがでしょう?

◇だと思います。《無明》を内包しない《わたし》は存在しえないので。
いたら、それは《人間》ではない!!

それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。
衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。
そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。
(唯識は違いますけれども....)



☆☆☆
☆~~~~~~~~~~~~~
  《ブッディ》(サーンキヤの学習)と《ヨーガ》によって、《プルシャ》が《プラクリティ》から展開された物質的存在から解放される、それが《解脱》であるとする
  ~~~~~~~~~~~~~~~

 なる《彼岸》を何ら立てない。という意味です。
 これは まさにゴータマ・ブッダが《苦》や《無明》を最初の最初に立てたその説に真っ向から対立しようとする見方になると思います。

◇はい、この世から隔絶した、どこか遠くにある《彼岸》なんていりません。
わたしの核心部分、密教(真言)なので。
《真如、外に非ず。身を棄てて、何にか求めん。》!!
です。
「《身体性》の欠如した仏教なんか、いらない」とさえ思っていますので。

そのため、ゴータマ氏弁護に苦労しています(笑い)。
なかなか、わたしの考え方と繋がらないもので。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 ご返答が遅くなりました。
 でも ここを訪問なさる方々は すでに今回のご回答で納得されたものと思います。

 空海に通じている方は ここでいままでにお二人知っています。
 ぼんのうさん( bonnnou03 )さん と へたのすけさんです。

 そのとき《加持祈祷》について本を一冊読んだこともありました。
 けっきょく日蓮風に言って 境智冥合なのだと思いました。ただしその実修は分かりませんが。

 ▲ 真言密教について-(序の口)
  http://www.kurusonzan.or.jp/ShingonMikkyo.htm
 ▲ (《わたしたちはおのおの ブッダである》) ~~~
 つまり、仏様だけが仏なのではなく、我々も同様に仏であり、本来仏たる資質を備えている。そして、たとえスケールは違っていても、我々も他の人に代わってもらうことのできない独自な仏としての役回りを持っている。
 だから、「仏と我々の身体・言葉・心の三種の行為の形態が、不思議な働きによって感応しあう時、速やかに悟りの世界が現れてくる。(三密加持)」と説きます。
 ~~~~~~~~~
 ★ そう言えば ぼんのうさんさんが 高野山で僧侶が外国人に話をしていて 《 We are buddhas. 》と言っていたことを聞いたと 言っていました。これを思い出しました。

 ▲ (《梵我一如》≒《境智冥合》(?)の展開?) ~~~
  ▲ 三密加持とは、
 以我功徳力=我々の功徳の力
 如来加持力=仏の救済の力
 及以法界力=両者の出会いの場としての全宇宙のあらゆる力
 この三つが融合しあうことをいいます。

  ▲ 加持とは、
 「加」とは、仏のお力(ご加護)が修行する我々の心に映ることであり、
 「持」とは、修行者の心が仏のお力(ご加護)をよく感じること」です。
 ~~~~~~~~~~




 ▲ (なんぢ 煩悩よ) ~~~~
 真言密教では、次のように欲をとらえています。
 「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
 「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
 「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、
 目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
 「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
 ~~~~~~~~~~~~
 ★ これに対しては 次のわたしの質疑応答でお応えしたいと思います。
 
 ○ 【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html
 





 ☆ 《自灯明》は《いま現勢態としてある、ココロとカラダ》と考えたいです。
 ★ そうですね。わたくしの場合は 《わたし》になりますが これはいわゆる現存在として《いま・ここなる〈わたし〉》ですから 同じことのように思います。
 たぶん ひとことつけ加えれば 《自然本性》が前提になるということですが たぶん《客塵煩悩 自性清浄心》を――間接的に――前提とされるのかも分かりません。

 《自然本性》は けっきょく《身と心》であり 心は 精神であり 精神は《記憶・知解・意志》の三つの行為能力を持つというかたちです。その中軸を成す《意志》は 特に身つまり感性の持つものごとにかんするわきまえの能力――これが ココロでもある――にさからってはたらく場合がある。これを 善(感性善)の損傷行為として 悪とよぶ。

 ここで自己宣伝のごとく この自然本性のあり方を解釈したものを提示します。《〈かみ〉の似像(にすがた)》としてのヒトなる存在です。


 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解―― 

  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。


 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇ 僕のもっとも根底・核心にある密教(真言)の部分、あんまり、他人(ひと)には見せたくなかったのですが... 
 ★ ちょうど正反対の露出狂であります わたしは。




 ☆ 《わたし》《わがもの》という観念を抱く《自我意識》
 ★ 正直にしかも唐突に述べますが 《自我》という言葉 これはどうにかなりませんか? と思っているのですが どうでしょう? 《わたし・われ》でしかないと思うのです。

 《 das Ich 》というから 漢語を使うというのかも知れません。でもそれなら《わたしなるもの》くらいでいいのではないでしょうか?
 一人称のイッヒを使っている意味が 《自我》だと隠れてしまう。(文字では つながってはいますが その慣用からは どうも別の意味合いがつきまとうように感じられます)。
 つまり 何か別の意味内容を帯びた概念になった感じをあたえてしまう。いっそ《おれ意識》と言えば早いのかも知れませんし。 
 ひょっとして 現代人は 《自我》と《われ》とは別だと思っているのではないでしょうか?

 《自我の確立》などというのは くそくらえだとすら思います。《わたし》なんです どこまでも。《他我》などとさえ言うようになりました。他人と書いて《ひと》 あるいは 《ひとさま》でしょう。
 《自分・自己》でじゅうぶんだと思います。



 ・ ナーガルジュナの翻訳 これら二つどちらについても正直に言えば もっとこなれた日本文に出来ないかなと思います。意味は取れますが。


 サイトのご紹介のあった《布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)》は 参考程度になるのでしょうか 掲げます。
 ■ (ブッダ on アートマン) ~~~
 「尊師よ、アートマン、即ち、真実の自我、
 つまり、真我なるものは、存在するのですか。
 それとも、真我なるものは、存在しないですか。」

 「行者よ、有るとも言え、無いとも言える。
 無我を観じられないと、真我を感じられない。
 これは、確めるべきであり、語るべきではない。」

    (布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ) 第五章)
 ~~~~~~~~~~~


 ☆ ~~~
 それに、大乗のめざすべき最高の人格は、悟りを得た《ブッダ》ではありません。
 衆生とともに、一緒に泥田を這い回る《菩薩》なので。
 そして、誰もがその《菩薩》になれるというのが、大乗の教えだと思うので。
 (唯識は違いますけれども....)
 ~~~~~~
 ★ 《無住処涅槃》と解していいのでしょうか?


 

 これで まとめに入れましょうか?
 ただし よいまとめ方が いま考え浮かばないのですが。

お礼日時:2012/06/28 10:49

bragelonneさん、こんばんは



ブッダ(の立場)にとっては、弟子(の「行為によって、自分がどうこう?」なんてどうでもよかった、
まして、それ以外の他者も同様だった、のではないかと思います。


私は、ブッダの思想は「己一個の精神(心?)を治める道(方法)」であると思います。
そこに「他者」は、無関係である、というよりむしろ(積極的に)排除されるような存在であると思います。
(注、「他者」とは「己」以外の存在の全て)




で、それによって、「心の平安」を得て、ですね。
同様なことで心の平安を(我、一人、)得ようと努力する者が現れて、ですね。
さらに、そこに「「我、一人」でいいのか?」と言い出す輩も現れる、

・・・そこで「信教の自由だ」と言える者があれば良かったのでしょうか?

「輪廻」だって、「この教えを広めよう」という立場に都合が良かったから採用されたのだ、とか
そんなところを細々と突付かれるのは、大乗仏教の人たちからしたら、
「アナタたちのことを思って、思ったからこその方便だったのだ」というところでしょうか、。


・・・「科学(化学?)としての光明や温かみ」は、得られなくても、
思いやりや愛情(そんなに苦しまなくてもいいんだよ?)は、仏陀によっても表現可能なものだと思います。
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 《犀の角のようにひとり歩め》というのは たとえば自由意志があくまで一人ひとりの存在としてあることを心得るには 大事なことかと思います。決して たとえば共犯というような意志行為であっても 意志はそれぞれの自由にもとづくものであり それよりほかにあり得ないことを いやが上でも わきまえることになる。つまり弁えなければいけないということを示しているかと思います。

 ですが あとは 大したことを言っているとは思えません。
 ★ ~~~
 ブッダ(の立場)にとっては、弟子(の「行為によって、自分がどうこう?」なんてどうでもよかった、
 まして、それ以外の他者も同様だった、のではないかと思います。
 ~~~~~
 ☆ そうだと見て 批判しているわけですが たとえ出家というような社会における自身の位置づけだからだとしても それが オシエとなることには 疑問がのこります。いえ 疑問がのこるなどという生ぬるい批判では むしろ あってはならない。こういうことではないのでしょうか?
 そんなことは 理屈抜きで 社会に生きる者なら わきまえているはずです。
 ゴータマ氏よ 何を血迷ったか! というセリフを用意せねばならないのではありませんか?




 でも ほんとうに次のようでよいとお考えになるのでしょうか?
 ★ ~~~ 
 私は、ブッダの思想は「己一個の精神(心?)を治める道(方法)」であると思います。
 そこに「他者」は、無関係である、というよりむしろ(積極的に)排除されるような存在であると思います。
 ~~~~
 ☆ このような唯我独尊の態度で
 ★ で、それによって、「心の平安」を得て、ですね。
 ☆ のあと そのブッダの境地に接するなら
 ★ ~~~~
 ・・・「科学(化学?)としての光明や温かみ」は、得られなくても、
 思いやりや愛情(そんなに苦しまなくてもいいんだよ?)は、仏陀によっても表現可能なものだと思います。
 ~~~~~~
 ☆ というように 人は やすらぎが得られるということなのでしょうか?

お礼日時:2012/06/27 09:25

こんばんは。






前回の回答の訂正と、議論をより正確にするために
☆☆☆
アハンカーラ(aham-kara): 我を作るもの、我を形成するもの。

ブッディを《我・アートマン》と錯誤すると書きましたが、
「《プルシャ・神我》を根本原質《プラクリティ》に属すると、《ブッディ・理性》もしくは《アハンカーラ》が誤認する」
これが《無知》であり、そのために《プルシャ》が《独存》を果たせない。そのために、《輪廻》する
のようです。
仏教の唯識思想における《末那識》と《アハンカーラ》を混同していました。

もっとも、これは紀元後3~4世紀頃にヴェーダやウパニシャッドを整理し、体系化されたサーンキヤ学派の考え方なので、ゴータマ・ブッダが学んだであろう(古)サーンキヤとは同じものかどうかは、推測する以外にないのですけれど…
ウパニシャッドの経典によって、物質的質量因である《プラクリティ》からの展開・転変されるものが異なっていて、《アハンカーラ》を立てずに、《プラクリティ》→《ブッディ》→《マナス》の展開もあるようです。

しかし、《プルシャ》が《享受者》、ただの《傍観者》であり、主体的な役割を果たさない。
《ブッディ》(サーンキヤの学習)と《ヨーガ》によって、《プルシャ》が《プラクリティ》から展開された物質的存在から解放される、それが《解脱》であるとするところは、一致しているようです。


☆☆☆
★ であるとすれば そのあとにるる述べられる《修行》は ことさら必須のことであるとも思われません。錯誤を錯誤と認めたならば その認めたわれは すでに輪廻の原因から自由になっているからです。

☆だと話は楽なのですけれど、サーンキヤでは、そのように考えません。
メタ物質原理である《プラクリティ》から展開されたものである物質的存在にとらわれている間、《プルシャ》の《独存》が果たせないからです。
《無種子三昧》あるいは《無想三昧》といわれる深いヨーガによって、
物質的存在の形成力(サンスカーラ・行)の原因を消滅させないかぎり、《プルシャ》は物質的存在にとらわれたままです。
《ブッディ》すら現象世界から消えなければならない。
《ブッディ》を筆頭に《プラクリティ》から展開されたものは、すべて《プラクリティ》に戻ってしまわなければならない。
《プルシャ》と《プラクリティ》はまったく異なる原理ですので。

ちなみに、サーンキヤは、ゴータマ仏教と同じく《梵》を立てません。《解脱》に《梵》の存在は必要としない、という考え方をします。
仏教で十二支縁起と唱えるところを、《プラクリティ》からの物質(サーンキヤでは《心》すら物質原理から展開されたもの)の展開で説明します。
すべてを運動と動態でとらえます。
ゴータマ・ブッダは、この《プラクリティ》からの展開説から、(十二支)縁起のヒントを得たのではという欧米の学者もいるようです。



☆☆☆
☆ 大切なのは《ブッディ・理性》です。これが解脱の主導的な役割を果たします。
 ★ と言うときには 実際に中軸となるのは この《ブッディ・理性》なのではなく またそれによるヨーガの実修なのでもなく そうではなく じつにそれらをいま このように捉えて全体を見ている《わたし》 これが当然のごとく《解脱の主導的な役割を果たします》と言わねばなりません。
 あるいはさらに 推論を伸ばし得ます。 
 この《わたし》にわたしが立ち還ったなら その場で即座に このアハンカーラの錯誤にかんするかぎりでは解脱しています。こう来なくっちゃならないのではないでしょうか?

◇《プルシャ》はただの傍観者です。対象を持たない純粋な知(cit)だそうです。
(ウパニシャッドなどのこの考え方は、僕には矛盾しているように思われます。
対象を持たない純粋な知であるならば、傍観者にすらなれない!!
対象を持たない純粋な知とするならば、現象世界に絶対の無関心であるべきだ。
むしろ、この理論はここで完成する!!)
その性質は遍満、無限です。
ということで、《プルシャ》は《非思考の庭》の存在です。
現象世界の原理ではない、《引っ込んでしまった神》さま的存在です。
それを《プルシャ》と呼ぼうが、真の《アートマン》と呼ぼうが、
《光り輝くこころ》あるいは《自性清浄心》と呼ぼうが、
それは言葉の呼び方の違いにしかすぎない。
など、わたしは、危険な考えを持っています。

寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた
布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)
に、何かそれを匂わせるような記述があるらしいです。
《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。
ことばでは表現できない。
ヨーガによって感じるしかない》
みたいなことを言っているとか、いないとか....

なので、《真我》である《プルシャ》は、
形而下の《わたし》にも、《わたしの心》にもなりえないと思います。
外道のヨーガ・スートラに従えば、
《こころ》=《ブッディ》+《アハンカーラ》+《マナス・意》
と解釈するべきなのでしょう。
(唯識的に言えば
 《こころ》=《阿頼耶識》+《末那識》+《意識》+《前五識》)
そして、その《こころ》が現象界から消え、根本原質である《プラクリティ》に帰還する。それが《解脱》なのでしょう。
たぶん、解脱した瞬間、そのヨーガ行者は消えちゃうんでしょう。
(ベックは、《再生》の形成力を断つと言っていますが....)

しつこいようでですが、
サーンキヤの《根本原質・プラクリティ》と《プルシャ》はまったく別の原理です。
サーンキヤは《梵我一如》を言っていないので。

なのですが、サーンキヤでは
この《プルシャ》は《遍満》《無限》であるにもかかわらず、個々人に一つずつ、しかも解脱後も別個の存在として存在するとされているそうです。
形而下世界と形而上世界の区別をしない古代インド人の考え方は、阿呆な《わたしの頭》では、とんと理解ができません。




☆☆☆
★ ということですから 《自灯明および法灯明》は それだけですでに《最高の境地》であると言っているのではありませんか? 

☆確か、この部分は、わたしの記憶によれば、
「ゴータマ・ブッダ滅後に、誰を師として仰げばよいのか」という質問に対する答えですよね。
で、《自灯明・法灯明》となる。
違いましたっけ。

それはそれとして、
《最高の境地》。
お釈迦さま、ここでもまた後世に誤解をうむ表現をしてくれたもんだ。困ったもんだ。

たぶん、これは、《悟り》を意味するのではないと思います。

《ダンマパダ》の《第二章 はげみ》などに見られる
《つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
このことをはっきり知って、つとめ励みよく知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者の境涯をたのしむ》
(中村元著 ブッダの真理の言葉、感興の言葉 岩波文庫)
のような意味なのでしょう。

ここでは、《つとめ励む》=《不死の境地》ではないです。《つとめ励む》ことによって《不死の境地》に近づくことができるという意味です。
同様に《自灯明・法灯明》=《最高の境地》ではないんじゃないでしょうか。
《自灯明・法灯明》をたよりに、《最高の境地》をめざせ、という意味くらいでしょうか。

この回答への補足

 《サーンキヤ》について間接的に(無謀にも)触れ得るかと思い そしてその結果にもとづきゴータマ・ブッダの無我説についても認識と評価を伸ばせるかと思い お礼欄の議論を継ぎます。


 I 梵我一如としての《アートマン》論をまづ見ておきたいと思います。

 I ‐1 前田専学の理解によると こうです:

 ▼ (アートマンは これこれでないという仕方でしか定義できない) ~~~
 真実のアートマンは つねに認識主体であって 決して庭の木のような認識対象とはならないものであり 尋常な方法では把握できない存在です。
 それゆえに われわれが日常使っている言葉で《アートマンは X である》というようには 肯定的には表現できない存在です。もし言葉で表現するとすれば 《アートマンは A ではない アートマンは B ではない・・・》と 否定に否定を重ねて 間接的に表現する以外には方法がないものです。
  (前田専学:『インド哲学へのいざない――ヱ゛-ダとウパニシャド――』 2000 p.264 )
 ~~~~~~~~~~
 ★ 《非経験の場》という想定による定義と同じ趣旨と見ます。

 I ‐2 つづけて:

 ▼ (アートマンはブラフマンである) ~~~
 
   じつにこの偉大な 不生であり 不老不死で 死んだことのなく
  恐怖のないアートマンは ブラフマンである。
   (ヤージュニャワ゛ルキヤの説――『ブリハッド・アーラニヤカ・
   ウパニシャド』四・四)
 
  (前田前掲書 p.263 )
 ~~~~~~~~~~~
 
 I ‐3 また 《プルシャ》とのかかわりとしては:

 ▼ (プルシャが アートマンである) ~~~
 
   七 認識からなり 諸生気の中にあり 心臓の中にある内部の光
    であるプルシャなるもの それが〔アートマンであり すべて
    のものに〕共通であって〔この世界とあの世界との〕二つの世
    界を動きまわる。それはあたかも瞑想するかのようであり あ
    たかも動揺するかのようであり 夢眠〔の状態〕となってこの
    世界をもろもろの死を超越する。
    (ヤージュニャワ゛ルキヤの説――『ブリハッド・アーラニヤカ・
    ウパニシャド』四・四)

  (前田前掲書 p.256 )
 ~~~~~~~~~~

 II サーンキヤについての粗い理解により その二元論を解釈しなおします。

 II ‐1 プルシャとプラクリティ

 ▲ (ヰキぺ:サーンキヤ学派) ~~~
 精神原理であるプルシャは永遠に変化することのない実体である。物質原理であるプラクリティは第1原因とも呼ばれ、サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる3つの構成要素からなる。これら構成要素が平衡状態にあるときプラクリティは変化しない。
 ~~~~~~~~
 
 II ‐2 プラクリティは 経験世界に属すると考えられる。

 《プルシャ》は 《精神原理》と言うとおかしいのですが 《永遠・不可変性・実体》と言うなら 先(I)のアートマンにひとしいと考えられます。
 質料なき純粋形相というような言い方も あいまいさを残すようです。

 《プラクリティ》は 形相なき純粋質料だと言えば けっきょく《質料なき純粋形相》つまり《第一形相 ないし 世界精神》と同じことだと見られます。
 (これを 《物質》と呼んで その定義のもとに《唯物論》を立てるときには これと《純粋形相ないし 世界精神としての心》つまりそこからの《唯心論》とは 類型として同じものと考えます)。

 II ‐3 けれども プラクリティには

 ▲ サットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(翳質)という、相互に関わる3つの構成要素

 があるとするなら すでに経験事物です。そう言わざるを得ないと思います。

 II ‐4 あるいは 無難な解釈としては プラクリティを 《経験事物としてのプラクリティ》と 《非経験なるプルシャにひとしいプラクリティ》とに分けて捉えればよいのだと見ます。

 いわゆる《第一原因》が その中で相異なる二つ以上のものに分かれるというのは あり得ないと考えられますから。



 III ゴータマ・ブッダは その縁起説をもしプラクリティ理論から得たとしたら

 III ‐1 まづサーンキヤとしての二元論から ひょっとすると 十二支縁起の順観と逆観というあたかも二筋の道を得たか?

 無明から生起する苦の循環する筋道が 大きく粗く《プラクリティ》の欲界・色界で 明知へと逆転した逆観の筋道が あたかも無色界としての《プルシャ》。

 III ‐2 このとき 逆観を もしアートマンに相当すると見られるプルシャに当てることがためらわれたとすれば それについて《アン‐アートマン》説を立てた。と考えると分かりやすいようなのですが あまりにも安易な類推でしょうか。

 III ‐3 すなわち 《非経験の場》としてのアートマン=プルシャおよびそれにひとしいプラクリティ について 《アン‐アートマン》をとなえることによって まさに無神論に立った。つまり この《無い神》は アートマン=ブラフマンなる《有る神》と けっきょく類型としてひとしい。こう考えられます。

補足日時:2012/06/27 16:25
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ☆ サーンキヤ
 ★ については まだ分かりません。

 ☆ ~~~
 サーンキヤの《根本原質・プラクリティ》と《プルシャ》はまったく別の原理です。
 サーンキヤは《梵我一如》を言っていないので。

 なのですが、サーンキヤでは
 この《プルシャ》は《遍満》《無限》であるにもかかわらず、個々人に一つずつ、しかも解脱後も別個の存在として存在するとされているそうです。
 ~~~~~~
 ★ ここらあたりが 目下の課題にとって重要ではないかと感じます。《わたし》とは ブッダないしインド思想において 何であるか? をめぐってだと思います。
 そしてそれは 次のご見解がさらに具体的な焦点となっているのだと思われます。

 ☆ ~~~~
 ということで、《プルシャ》は《非思考の庭》の存在です。
 現象世界の原理ではない、《引っ込んでしまった神》さま的存在です。
 それを《プルシャ》と呼ぼうが、真の《アートマン》と呼ぼうが、
 《光り輝くこころ》あるいは《自性清浄心》と呼ぼうが、
 それは言葉の呼び方の違いにしかすぎない。
 など、わたしは、危険な考えを持っています。
 ~~~~~~

 ★ 《引っ込んでしまった神》は 《隠れたる神(デウス・アブスコンディトゥス)》を思い出させますが もしその図式で捉えて大きな間違いがないとすれば けっきょくそれも有神論の内にあって 表現の多様性であるに過ぎないとも考えられます。
 そうして しかも無神論であってもその《無い神》も 有神論の神と――わが心の《非思考の庭》にかんするかぎり―― 同じことだと見ています。

 たぶん もし乱暴に整理することがゆるされるならば 次のような視点が ただいまの論点にかんする交通整理にとって有効だと思われますが いかがでしょう?


 ▲ (アハンカーラ論(?))~~~~~~~~~~~

   《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
   存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
   のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (ナーガルジュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

 という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
   
  (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
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 ★ すなわち――いま ゴータマ・ブッダ論を離れるかも知れませんが―― 次のご議論の内容については 批判的に見ています。
 ☆ ~~~~~
 なので、《真我》である《プルシャ》は、
 形而下の《わたし》にも、《わたしの心》にもなりえないと思います。
 外道のヨーガ・スートラに従えば、
 《こころ》=《ブッディ》+《アハンカーラ》+《マナス・意》
 と解釈するべきなのでしょう。
 (唯識的に言えば
 《こころ》=《阿頼耶識》+《末那識》+《意識》+《前五識》)
 そして、その《こころ》が現象界から消え、根本原質である《プラクリティ》に帰還する。それが《解脱》なのでしょう。
 たぶん、解脱した瞬間、そのヨーガ行者は消えちゃうんでしょう。
 (ベックは、《再生》の形成力を断つと言っていますが....)
 ~~~~~~~
 ★ ニルワ゛-ナの文字通りの解釈は 無意味だとさえ考えます。ねむりねこさんも 生のため・生ゆえにというご見解だったと思いますが。




 ☆ ~~~~
 ここでは、《つとめ励む》=《不死の境地》ではないです。《つとめ励む》ことによって《不死の境地》に近づくことができるという意味です。
 同様に《自灯明・法灯明》=《最高の境地》ではないんじゃないでしょうか。
 《自灯明・法灯明》をたよりに、《最高の境地》をめざせ、という意味くらいでしょうか。
 ~~~~~~
 ★ ということでしたら 世間一般の思潮と言いますか風潮と言いますかにわたしが引きつられたのだと思います。《自灯明》は 一隅を照らすということで 基本的な・また根本的な意味を持つものという先入見がありました。
 つまりは 《自信を持ってがんばれよ》という程度の意味だとすれば 《無我》説のほうが活きるということのようです。

 そして 無我についても 初めの《ただ我執を離れよ》という見方に過ぎない場合から 人間存在をもとうぜんのごとく仮りのものであり空と見るという意味での無我説のばあいまであると思われます。

 質問者としましては 先ほどのナーガルジュナの《アートマンの考察》なる見解にもとづき 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》を それ(ヒトなる生物)としての主体と見て立てるものです。

    *

 あとは 【Q‐6】の《みづからの心の燈心を灯す》こと 《みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?》の主題を 保留するかたちで持つことが ひとつです。

 そうして もうひとつは プルシャなどをめぐるサーンキヤを垣間見ながら アートマンを捉えつつ 《わたし》を明らかにしておくこと。でしょうか?

 ☆ ~~~~
 寡聞なわたしの知識によりますと、実在したゴータマ・ブッダの説いた
 布咜婆樓経(ポッタパーダ・スッタ)
 に、何かそれを匂わせるような記述があるらしいです。
 《真のアートマンはあると言えるし、ないとも言える。
 ことばでは表現できない。
 ヨーガによって感じるしかない》
 みたいなことを言っているとか、いないとか....
 ~~~~~~~
 ★ できましたら ここら辺を解き明かしておきたいように思います。《わたし》とはどういう行為主体としての存在であるのか? だと思います。

 そのためには次の問い方をしてみたいと思います。
 【Q‐9】 ~~~~~~~
 行論の中で

 ★★ ナーガルジュナの《アートマンの考察》なる見解にもとづき 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》を それ(ヒトなる生物)としての主体と見て立てるものです。
 
 と述べましたが これを焦点としては どうでしょうか?
 すなわち

  ○ 《客塵煩悩》をも容れた《わたし》は ヒトなる生物であってそのような生身の存在としてこそ主体と見て立てるとき すでにそもそも《自性清浄心》を想定するからには ブッダと呼べる存在である。ただし この存在は 時間的過程的にして存在する。《わたし》は 《わたしする動態》である。 

 すなわち

  ☆ ~~~~~~~~~~~~~
  《無種子三昧》あるいは《無想三昧》といわれる深いヨーガによって、
 物質的存在の形成力(サンスカーラ・行)の原因を消滅させないかぎり、《プルシャ》は物質的存在にとらわれたままです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 であってよい。無明を《わたし》の内に含んでいても構わない。という《わたし》説です。いかがでしょう?
 くどいように述べるなら

  ☆ ~~~~~~~~~~~~~
  《ブッディ》(サーンキヤの学習)と《ヨーガ》によって、《プルシャ》が《プラクリティ》から展開された物質的存在から解放される、それが《解脱》であるとする
  ~~~~~~~~~~~~~~~

 なる《彼岸》を何ら立てない。という意味です。
 これは まさにゴータマ・ブッダが《苦》や《無明》を最初の最初に立てたその説に真っ向から対立しようとする見方になると思います。
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お礼日時:2012/06/26 22:37

ご自身で示された引用先をよく読んでください。



引用
>部派仏教における空の用例も初期仏教とほぼ同じで、上記の段階では、空が仏教の中心思想にまでは達していない。

”空が仏教の中心思想にまでは達していない。”
つまり仏陀と直弟子は四法印を中核に説いたのです。


>☆ もしそういう指摘によって批判をしりぞけるのでしたら たとえば《空》なる概念は ゴータマ・ブッダのオシエでは間に合わないのではないですか?

そうだから、ブッダの説いてないことに関してブッダの矛盾点を言うのは意味不明ということです。ブッダの述べた内容の中で矛盾があれば批判するのはわかりますが・・・
もしゴータマ・ブッダのオシエでは間に合わないならば、勝手にやればいいのではないでしょうか。

>☆ これも異なことをおっしゃる。《仏性》こそゴータマ・ブッダは言っていないとしても 潜在的にはじっさいに言っていたわけであるし――なぜなら ブッダだとは言っている―― 自性清浄心にかんしては あまりにも法外な弁明ではないでしょうか?

潜在性ですか・・・
御説は、ブッダになる潜在性があるから、既にブッダってことですよね。
それなら、みんな宝くじに当たる潜在性があるから、既に億万長者なんでしょうか?

引用
> 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。

”説一切有部などはこれを認めない。”

つまり、いろいろな説や派が存在するわけですよ。
「アホ」とか侮辱的な悪口を言わない限り、否定はしません。好きにやってください。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ それなら、みんな宝くじに当たる潜在性があるから、既に億万長者なんでしょうか?
 ☆ 限られた人数において という条件がついており これは 外せません。

 ★ 御説は、ブッダになる潜在性があるから、既にブッダってことですよね。
 ☆ 人数に限りはありません。




 ★ ~~~~
 > 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。

 ”説一切有部などはこれを認めない。”

 つまり、いろいろな説や派が存在するわけですよ。
 ~~~~~~~
 ☆ だから何とかして 全体として出来るだけ体系的に整合性のあるブディズムを捉えようとするわけです。
 でもたとえば 絶対他力と絶対自力との相反する説もあるわけです。こういう場合には どちらかひとつを採って そのひとつの説にもとづくかぎりで やはりひとつの思想体系を立てればよいわけです。

 言いかえると ブッダの後世の人びとは そのようにしてブディズムを打ち建てようとした。いくつかあって構わないわけです。

 だけれども いちおうゴータマ・ブッダの言説だというオシエの場合には それとして整合性を見い出さねばなりません。
 ですから 自灯明〔および同時に法灯明〕説と無我説との関係はどうなっているか? と問うています。矛盾していないか? とです。






 ★ ~~~~
 引用
 >部派仏教における空の用例も初期仏教とほぼ同じで、上記の段階では、空が仏教の中心思想にまでは達していない。

 ”空が仏教の中心思想にまでは達していない。”
 つまり仏陀と直弟子は四法印を中核に説いたのです。
 ~~~~~
 ☆ ですから この《達していない》段階と状態では きちんとした思想の形態としては捉えがたい。ゆえに 後世の修正や補足をも参照するということ。これだけのことだと思いますが?






 あるいは文意を採って こういうことでしょうか?
 つまり いくつかのブディズム体系が成り立つ〔かも知れない〕。それぞれが 勝手に研究し実践して行けばよいではないか?
 ――でしょうか?
 
 たぶん その態度はマチガイでしょう。ここまでお伝えするまでなのかも知れません。





 * 先ほどの絶対他力と絶対自力とは 有神論と無神論という区別として捉えるなら 後者の無神論も じつは 前者と同じように非思考の庭=つまり信仰 のことだと考えられます。
 《空ないし 空性》と対応させうる《非経験の場》を《絶対》とすれば 《絶対他力》は そのまま《絶対なる神は 人間にとって他力である》ということでいいわけです。
 そして同時に 絶対自力のばあいは じつは《絶対無神――〈無い神〉――のもとにある自力》と捉えることが出来て まったく矛盾はないと考えられます。《無い神》は 他力なのです。もしくは――他力と言うと それとして《有る神》になってしまうので 言い方をかえれば―― 人間の自力なのではないわけです。それだけでよいはずです。

 たぶん 確かに信仰にとっては 互いに違ったおのおののブディズムに分かれていてよいし そのままに放っておいてもよいのでしょうが 哲学は そうは行かない。信仰にしたところで 良心的な姿勢としては 互いにその内容を類型的には照らし合わせることも 大事ではないかと考えます。
 いづれにせよ哲学は それらのあいだの異同にかんして 徹底して合理性を追究して明らかにするというわけです。いわゆる交通整理を とことんまでおこなっておこうというイトナミでありましょう。

お礼日時:2012/06/26 17:32

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