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- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
(1)大宝元年(701)に制定された「大宝律令」のもとでの朝廷を支える役目として「貴族」が生まれましたが、三位以上を「貴」と呼び、四、五位を「通貴」と呼びました。「貴」は上流貴族として、「通貴」は中流、下流貴族に位置づけられました。
この頃の大和政権下で国政審議に参与する貴族たちを「議政官(公卿)」といい、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢(こせ)氏、石川氏で、各氏(うじ)からは1人代表として出ることになっていましたが、やがては、藤原氏の勢力分布の拡大と他の氏の没落などもあり、藤原氏から何人も議政官を出すようになり、藤原氏が栄華を極めるようになりました。
(2)やがて、地方豪族が「国司」に任命され、私的に富を蓄財し、有力貴族に貢納することにより中央への進出を果たしました。そして、藤原氏、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏などが台頭してきました。彼らの所領地として代表的なのは、
藤原氏・・・大和地方一帯(京都、奈良などの一部)、伊勢、加賀、備後、近江、佐野、佐渡など。
源氏・・・・畿内、摂津、河内、甲斐、常陸、下野、上野、信濃など。
橘氏・・・・筑後など。
清原氏・・・出羽など。
菅原氏・・・大和国菅原邑(むら)など。
(3)この内、清原氏と菅原氏は衰退をし、代わって登場したのが平氏でした。桓武天皇の頃より「源」「平」「藤(藤原)」「橘」が有力貴族となり、政治に関与しました。と今なお有力貴族として語られていますよね。
平氏・・・・東山、東海、山陽、南海道付近など。
(4)こうした人々は「平安貴族」と呼ばれ、収入源は必ずしも荘園だけではなく、むしろ、官職に応じて朝廷から給付される田地や禄などが主要収入で、この給与は莫大なものであったと言われています。記録としては、藤原北家(藤原良房)は、職田、位田、職封、位封、資人、季禄などで、現在の貨幣価値に換算しても3~5億円の収入があったとされています。
(5)その他としては、
弓削道鏡・・・・河内。
大伴国造・・・・武蔵国。
(6)なお、鎌倉幕府以前は、土地は全て「天皇(朝廷)の物」で、民は「貸し与えられた者」と位置付けられていたため(荘園制度)、朝廷内で功績のあった者への褒美などとして、次々と切り取られたりしましたので、いわゆる、国としての国境などもはっきりせず、また、国司もその時々の勢力によりコロコロと代わっており、鎌倉時代以降のように国の境目がありませんでした。足利幕府後期~戦国時代になり、荘園制度の崩壊とあいまって、初めて国境(くにざかい)が取り沙汰されるようになりました。
(7)従って、平安時代(それ以前も)の勢力図は定まった国司が定まった国を支配していたわけではありませんので、おそらく、勢力分布図などは皆無に等しいと思います。
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