三色旗がフランス革命期に使われ、第3共和制下に復活したことは話題にされます。では、ナポレオン3世の時代はどうだったのでしょうか。
アロー戦争の発端にはイギリス国旗への侮辱という説明があります。
ナポレオン3世も、海外へも派手に出かけました。その際に掲げていたのはどのような旗だったのでしょうか。教えてください。

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A 回答 (1件)

フランス革命後、ナポレオンが登場し、フランスは帝政となりました。


そのときは、国歌は「VEILLONS AU SALUT DE L'EMPIRE」(帝国よ安泰なれ)という曲に変えましたが、「革命の継承者」を自任していたナポレオンは、国旗は革命のシンボル、三色旗を使い続けたのです。

でも、ロシア遠征のとき、革命の生き残りの古つわものの兵士たちが、ラ・マルセイエーズを歌い始め、兵士たちが歌ったという記録があるそうです。もともと進軍の歌だから、調子があったのでしょうね。

そして王政復古。また王様が帰ってくると、国歌は「VIVE HENRI IV」(アンリ4世ばんざいーーブルボン王朝の最初の王です)という曲に、国旗はブルボン王朝の色である白になりました。

王様はすぐに追い出され、共和制が戻ります(第2共和制)。そうすると、国歌も国旗も、革命時のものに戻ります。


第2共和制のもとで、
史上最初の フランス大統領に選ばれたのが、ナポレオンの甥、ルイ・ナポレオンだったのです。そして彼はナポレオン三世を名乗り、帝政に移行し、また帝政が始まりました。
ここで、彼はおじさんを踏襲し、国歌は「VEILLONS AU SALUT DE L'EMPIRE」を、国歌は、そのまま三色旗を使ったのです。


※しかし、大ナポレオンとナオレオン三世では、
アルセーヌ・ルパンとルパン三世以上に、品格に差があるような(^^♪

パリ・コミューンは壊滅しましたが、三色旗を振り
「ラ・マルセイエーズ」を歌った(実は「インターナショナル」と赤旗もパリ・コミューンで作られたのですが(^^♪)伝統は、第三共和制に引き継がれます。

後、ドイツ占領下のペタン政権でも、ペタンは「MARCHAL NOUS VOILA!」(元帥よ、われわれはここにいる)を国歌としましたが三色旗には、手をつけませんでした。

 というわけで、フランス革命以後は、第二王政の時期以外は、一貫してフランスの旗は三色旗です。
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この回答へのお礼

丁寧な回答をありがとうございます。
ナポレオン3世の時代だけでなく、その周辺の時代についても触れていただきよくわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/21 10:06

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よろしくお願いします。

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また来ました。m(__)m
No7 さんの回答に補足します。

この海戦の直前まで、実はウラジオストックを根城にしたロシア艦隊が、日本の輸送船を襲いまくって多大な被害が出ています。

上村司令官が巡洋艦という足の速い船の艦隊で追いかけまわしたのですが逃げまくられて被害が続出し、司令官の自宅には「ロ譚(ろたん:ロシアのスパイという意味)」と言われて石を投げられたそうです。

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そしてバルチック艦隊とは、未曾有の超大艦隊でした。

ここまで切羽詰った大会戦というのも珍しいのではないかと思います。

また来ました。m(__)m
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この海戦の直前まで、実はウラジオストックを根城にしたロシア艦隊が、日本の輸送船を襲いまくって多大な被害が出ています。

上村司令官が巡洋艦という足の速い船の艦隊で追いかけまわしたのですが逃げまくられて被害が続出し、司令官の自宅には「ロ譚(ろたん:ロシアのスパイという意味)」と言われて石を投げられたそうです。

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Bath Abby は、下記にあるように1942年4月25日、26日、27日の三日にわたるドイツ軍の大空襲によって、下記のような悲惨な状態になり、死者数700名と言われています。これが Bath Blits(下記には bits とありますが blitz が正しいです)「バース大空襲」です。
http://www.bathabbey.org/creatingvoices
    https://www.google.com/search?q=bath+blitz&client=firefox-a&hs=O7D&rls=org.mozilla:en-US:official&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=s3uVUrr8C8LroATjzYK4Ag&ved=0CDYQsAQ&biw=1364&bih=880
    http://www.bathchronicle.co.uk/story-Bath-Blitz-people-lived/story-15979907-detail/story.html

    これに反撃を加えたのはアメリカの空軍でその功を讃えるためだと思います。

Bath Abby は、下記にあるように1942年4月25日、26日、27日の三日にわたるドイツ軍の大空襲によって、下記のような悲惨な状態になり、死者数700名と言われています。これが Bath Blits(下記には bits とありますが blitz が正しいです)「バース大空襲」です。
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ジャンヌ・ダルクについてはさほど知りませんが
フランス語のwikiには1817年に刊行された本が
彼女の再評価の流れをきめたような感じで書いてありますね。
どの記述をみても、本格的な再評価はナポレオン統治時代に始まり、
その終わりごろにはだいたい流れが定着し、
第一次世界大戦のころに本格的な国民的スターになったというのが
基本的な路線のようです。
そして1920年に聖人に列せられるというわけ。
この顛末には、政治的作為と、大衆世論が大きくかかわっており
誰かがどうこうしたとかいうことではないです。
ナショナリズムを背景としたある種のムーブメントといえるかな。

私が知る限りですが、
ナポレオンはオルレアンの祭りなどには参加してないと思います。
というのも革命時期はカトリック関係の祝祭は禁止されてましたし
少なくともコンコルダートまでは、カトリックの宗教行事と
関わることは無理だったでしょう。
そもそもジャンヌはブルボン家を支持する王党派だったわけで
共和派の立場からは余り好ましい人物ではありません。
ただ貧しい生まれで、貴族ではないことから、
生まれは平等主義の観点からは評価もできたでしょう。

もともとジャンヌ・ダルクとはローカルヒロインであり、
歴史を振り返れば、パリ市民に破れ、オルレアン派に捕まっており、
要するにフランス人に対して負けて、捕まった人間。
宗教的な奇跡云々はおいておいても、歴史としては
君主擁護者だったという点以外ではフランスに名誉をもたらしたとは言いがたいのですが
ナポレオンは政治的意図をもって、この人物を
新しくイギリスを駆逐(しようとした)”フランスの英雄”という
新たな観点を与えたということろがナポレオンのジャンヌ像への影響の主な部分です。
しかしだからといって個人的に熱心に運動したわけでもないはずです。
その必要もありませんからね。
関心をもっていたわけでもないでしょう。
要するにメディア操作であり、言論統制、あるいは世論誘導です。
ナポレオンにとっては、ジャンヌはその材料に過ぎません。
歴史的にはジャンヌはフランスを救おうとしたわけではないし、
そもそも中世当時はフランスなる国民国家は存在しなかったわけですが、
ナポレオンそういう歴史的事実を若干捻じ曲げて偶像をつくりだす
きっかけをつくったというところでしょう。

1803年ごろに言及があったと調べたそうですが、その時期に
そういったことが行われたことは合理的といえるでしょう。
ナポレオンは皇帝を目指し、かつ宗教和解を進めていましたから、
ローカルな庶民の英雄に脚光を与えてることは好ましいです。
カトリック信仰深い人にとっては宗教的寛容であり、
カトリック信仰を捨てた人々にとっては非教会系のヒロインということで
折り合いが付けやすい。
ナポレオンは、シャルルマーニュの模倣を始め、その後継者を
自認するようになりますが、ジャンヌにしても、
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必要であるということを世論操作しよういうのでしょう。
彼が皇帝になる過程、あるいは動機のひとつには
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ジャンヌ自身はさっきいったようにナポレオンの時代には
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(もともとフランスなど国を擬人化するときは女性を用いたので)
フランスの守護者としてのイメージが
後年たかまっていって、広まっていったわけで、
振り返ってみて、ナポレオンのころに始まったんだなぁという程度です。
ま、この流れは、要するにナショナリズムの高揚とほぼ同義でしょうね。

ジャンヌ・ダルクについてはさほど知りませんが
フランス語のwikiには1817年に刊行された本が
彼女の再評価の流れをきめたような感じで書いてありますね。
どの記述をみても、本格的な再評価はナポレオン統治時代に始まり、
その終わりごろにはだいたい流れが定着し、
第一次世界大戦のころに本格的な国民的スターになったというのが
基本的な路線のようです。
そして1920年に聖人に列せられるというわけ。
この顛末には、政治的作為と、大衆世論が大きくかかわっており
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Q【米ソ冷戦】米ソ冷戦はセルドア・ポールというアメリカ人青年の科学者が発端だったそうです。セルドア

【米ソ冷戦】米ソ冷戦はセルドア・ポールというアメリカ人青年の科学者が発端だったそうです。

セルドア・ポールが取った行動は正しかったのでしょうか?

米ソ冷戦はセルドア・ポールという若い科学者が原爆の設計図を原子爆弾の開発に遅れを取っていたソ連に渡したからだとのこと。

セルドア・ポール青年はアメリカが原子爆弾を単独で保有すると世界秩序が乱れ、アメリカの一国独裁になると恐れて、わざとソ連に原子爆弾の開発設計図を流してソ連の遅れを取っていた核爆弾の開発成功を10年早めたと言われいます。

アメリカの科学者であるセルドア・ポールはわざとソ連側の2重スパイに志願して、その理由を「核爆弾をアメリカだけが保有すると世界秩序が崩壊してしまう。ソ連も核爆弾を保有すれば世界秩序が保たれる」と予言しました。

その天才セルドア・ポール青年科学者の予言通り世界は米ソ冷戦時代に突入しました。

核爆弾を敵対する2国が保有することで世界秩序が保たれたと言う人と核爆弾を敵対する2国が保有したことで世界秩序がさらに乱れたという人がいます。

もしセルドア・ポール青年がスーパースパイ(2重スパイ)にならずにアメリカだけが核爆弾保有国になり、アメリカの独裁世界が10年間存在していたとすると世界はどのようになっていたと思いますか?

私はソ連は核爆弾を保有する前にアメリカに核爆弾開発者を暗殺されてソ連はアメリカに戦争を挑む機会を10年どころか20年はアメリカの一国独裁世界が続いていただろうと思います。

セルドア・ポール青年の判断は正しかったのでしょうか?

2国が核爆弾を保有することで冷戦に突入してセルドア・ポール青年の予言通りに世界秩序の均衡が核爆弾の傘のもとで今も保たれていますが、今はソ連に核爆弾を持たせた性で未だにアメリカとロシアは世界の覇権争いで日々第三国で代理戦争をしています。

セルドア・ポール青年はソ連に核爆弾製造技術を渡さなかった方が世界は幸せになっていたのか世界史の歴史研究者はどう判断しているのか教えて貰いたいです。

【米ソ冷戦】米ソ冷戦はセルドア・ポールというアメリカ人青年の科学者が発端だったそうです。

セルドア・ポールが取った行動は正しかったのでしょうか?

米ソ冷戦はセルドア・ポールという若い科学者が原爆の設計図を原子爆弾の開発に遅れを取っていたソ連に渡したからだとのこと。

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Aベストアンサー

正確には、「冷戦」の発端ではなく、「核軍備競争の発端」でしょう。

冷戦は、もともとはソビエトが社会主義国として成立したときから、より現実的には米ソが共通の「戦勝国」になったときから始まっていますから。

歴史に「れば、たら」(~していれば、~になっていたら)は禁物ですが、想像するのは楽しいですね。
「歴史研究者」はそういうことはしません。小説家や空想家(やディレッタント)がすることです。


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