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ネイやミュラのように配下の武将には処刑されている人物がいるのに、何故ナポレオン
自身は死刑にならずに流罪にとどめられたのでしょうか?
しかも一度流罪になった後脱走して再起してるのに。
二度目に流されたのは絶海の孤島であるセントヘレナ島ですが、それにしても
どうして命は助けられたのでしょうか?

A 回答 (3件)

簡単に説明すると、


ナポレオンが王侯だからです。
欧州に限らず、王侯は処刑しないというのが
君主主義国家の基本原則であって、
君主と平民とで差を付けることが
君主主義において非常に重要です。

つまりは王侯を処刑する、つまりは
何らかの(神の法以外の)法で裁けるということは
イギリスやプロシアの国王や、オーストリア、ロシア帝も
裁かれるうるということを意味するわけで
”諸刃の剣”となるわけです。

ピューリタン革命のときのチャールズ1世の処刑や
フランス革命のときのルイ16世の処刑を
忌まわしきものと考える場合、
王侯を処刑することは過去の前例も承認するに
等しいわけで、そういうことはできないわけです。

もちろんブリュッヒャー元帥のように
ボナパルトはただ不当な王位簒奪者であるのだから、
ウィーン会議で声高にナポレオン処刑を主張した人も
いましたが、ナポレオンはハプスブルク家の婿であって
バイエルン王家の義父であり、その他、ドイツ王室の
親戚であるので、彼を殺すことは
ヨーロッパの君主制の死に直結しかねない問題なのです。

イギリスのロンドン塔は有名ですが、
しばしば国王が幽閉されたのは同様の理由です。
ただし現実的にはイギリスでも入牢中に暗殺などで
処分されるケースもあったので、
それでナポレオンも暗殺説がいまだに根強いのです。


ちょっと急いでるので話はこのくらいにしておきますが
説明不足があったら言ってください。書き足します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大変よく分かりましたが、またいくつか疑問が出てきました。

王侯は処刑しないというのは欧州に限らないとの事ですが、他の地域では戦争に敗れたら
君主であっても処刑される事はしばしば有り得るように思います。

ナポレオン自身は貧乏貴族の出身に過ぎず、皇帝の座も追われているのですが、
それでも他の王家と縁戚関係にあるからには王侯として扱われたのでしょうか?

三十年戦争のグスタフ・アドルフ王のように、国王が親征に及んで戦死している例
もありますが、王を処刑する事は無くとも戦場で王を討ち取る事は許容されたのでしょうか?
(戦闘の最中にそんな配慮はいちいちしていられないかもしれませんが)

お礼日時:2006/02/25 18:44

国王が処刑されるケースは、


大半は蛮族の王と判断された場合です。
つまり国王としての格を認められず
反逆者や謀反人と同レベルに処刑されたということです。
中国などでも正統な王は殺さずに
禅譲という独自の譲位スタイルを確立させましたし、
分裂時代においての小国の王は格が低いという扱い。
国王を殺さない別の理由としては
征服地の民心を収めるという目的もあって
旧体制の構成員を味方に引き込んで
反乱を防止するという象徴的行為ともいえます。

歴史を振り返って数えてみればわかりますが
国王が処刑された例はかなり少ないといえます。

戦場での戦死は偶発的な出来事として処理されます。
西欧の場合、基本的に戦闘の結果は神の意思であると
考えるわけで、国王に大権を与えたのも神であるので
それを奪うのも神の力ということです。
しかし積極的に王を戦場で殺そうということは
まずありません。
それは非紳士的行為であり、また捕虜にしないと身代金も入らないので
無駄に野蛮な行為だったからです。
例外があるとすれば、ヘースティングスの戦い。
ノルマン軍は勝利のためにハロルド王を殺害して
敵戦列を撃破しましたが、これは戦史のなかでも稀な例といえます。
しかし中世後期以降は、国王が戦争に直接臨むこと自体が
減って、戦場にいても後方に控えて眺めているのが普通になったので、
グスタフ・アドルフとかごく少数の変わり者だけが戦死のリスクを負いました。
彼らの場合、ナポレオンもそうですが、
戦場で勝つことが命と同じくらい重要だったわけですが、
積極的に暗殺されなかったのは古き良き道徳心のおかげといえるでしょう。
19世紀まで士官を狙撃することすら(公には)タブーとされていたほどですから。


ナポレオンは貧乏貴族だ、と言いますが、
ブルボン家だってもとは貧乏貴族です。
大概の王侯貴族はその出自をたどると
取るに足らないものです。
一介の小貴族にすぎなかったユーグ・カペーが王位を簒奪した後、
その権威を確保できたのはシャルルマーニュ帝の
直系子孫の娘と子孫が結婚したからです。
婚姻政策というのは、君主制の根幹といえます。
姻戚関係を無視するなら、全ての貴族は
ただの平民となんらかわりません。

ボナパルト家は古くは(イタリアのトスカナ地方にある)サルツァーナの血統貴族の出で
だいたい6百年前後つづく家系ですから、
長さからいったら他の王家とかわりません。
(というか、欧州の貴族はすべて
10~12世紀前後から始まっているので
どれも同じともいえるのですが)
問題は格式ということになるでしょうが、
ナポレオンは皇帝としてイタリア国王として、
ヨーロッパのすべての国、教皇庁や
イギリスを含めて全ての国の承認をうけています。

だからナポレオンの帝位や王位にいちゃもんを付けるということは
列強が公式におこなったかつての発言や宣言、条約すべてを反故にする
必要がでてくるわけで、現実的に不可能なのです。

ウィーン会議で表面上は正統主義が採択されて
ナポレオン以前にもどそうということで一致するわけですが
実際には世界はナポレオンと革命ありきで進んでいるわけで
それを取り消しにすることはできないわけです。

しかもナポレオンはイギリス軍に保護を求めたので
法的には罪人ではなく、彼を裁く如何なる法律もありませんでした。
それで裁判はなく、曖昧な法的立場のまま
セント=ヘレナに送られることになったわけで、
国際法上は不当な拘束にあたりますが、
現在でもグアンタナモ基地みたいなのがありますから、
政治家は都合が悪くなると法律を捻じ曲げるというのは
今も昔もかわらないところでしょう。
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マクロな視点でみると当時のヨーロッパの君主制は危機に瀕していました。


共和化、民主化の波が押し寄せていたのです。
昔は聖書を読めるのはカトリック系聖職者や貴族階級に限定されていましたが、活版印刷の普及によって聖書が大衆の目に触れる機会が増えてきました。
聖書が普及してなかった頃は王侯貴族や教会といった支配者層が聖書の内容を自分たちに都合のいいように曲解して王権神授説などを打ち立てましたが、民間の知識層や聖書を研究する機会が出来た事により、王権神授などの矛盾や欺瞞が表面化します。
それがプロテスタントを生み出すのですが、アメリカという王侯貴族のいない辺境が独立した事で多くのプロテスタントが新天地に集結して勢力を増すのです。
そういった大局的な流れの中でフランスでは民衆の不満とあいまってフランス革命が勃発するのですが、この革命は知識層と富裕層と一般民衆の意識の乖離によって頓挫してしまいます。
その中で台頭したのがナポレオンであり、欧州の諸王室にしてみればナポレオンとは「王権を脅かす民主化の波を歯止めをかけた成り上がり」なのです。
そのナポレオンを死刑にしてしまっては、ナポレオンの業績を否定する事になります。
即ち、ナポレオンを生かすことで、民主化を否定するという態度をヨーロッパの王室は選んだのです。
ナポレオンを王として遇する事で、フランス革命そのものを完全否定したのです。
つまり、ヨーロッパの王室にとってナポレオンの軍事力よりも、民衆革命の方が脅威であったという事です。
そう感じる事事態が王権の凋落を物語っているのは皮肉なのですけどね。
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