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ワーテルローの戦いでナポレオン率いるフランス軍が敗れた最大の
原因は、皆さんはなんだと思いますか?

ナポレオンがド・グルーシーの別働隊に兵力を分割したことでしょうか?

それとも、プロイセン軍への追撃を打ち切って
ワーテルローの戦場に向かわなかったグルーシー自身の判断ミス?

あるいは、ネイ元帥が勝手にイギリス軍への総攻撃を行って騎兵隊を
全滅させたこと?

みなさんはどのようなことが原因だと思いますか?

A 回答 (7件)

漫談です。



ワーテルローをあつかったボード・ウォーゲームをいくつかしっていますが、7対3でフランス軍が勝てるようです。もうちょっとフランス軍に目があるかもしれません。

グルーシーは上司のボナパルトから、プロイセン軍を追撃し撃破せよ、と明確な命令を受けているので、判断ミスもなにもないとおもいます。また、本体と合流して英国・オランダ軍と交戦せよ、という伝令がグルーシーにむけて出されはしたのですが、わずか一人で、グルーシーに出会えたのは夜の19時という無意味なオチとなっています(全盛期のナポレオンとその部下なら、伝令を最低でも1ダースはだしたと言われています)。

で、ネイの話になるわけですが、ここで重要なのはナポレオンが当日、体調が悪かった、という点です。
ネイが騎兵を突撃させた時、ナポレオンは体調をくずして(実は前の夜からおかしかった)農家の納屋で、軍医にさとされ1時間横になっていました。

このときウェリントンは英国・オランダ連合軍が押され気味で、プロイセン軍の合流なくしては自軍が危ういと判断し、軍に100歩後退を命じています。これに応じて英国軍はアクスブリッジが騎兵に突撃を命じたのですが、経験の浅い英国騎兵は壊滅し、本人も戦死しました。が、フランス軍歩兵予備がこの対応にあたったので、フランス軍予備は老親衛隊だけとなってしまいます。

ネイはフランス軍騎兵を突っ込めば、歩兵が逃げつつあり(100歩後退を逃げると錯覚したのです)騎兵が壊滅した連合軍をつぶせる、と判断したのです。そして彼は騎兵に突撃を命じました。

連合軍の100歩後退は、ネイから見えない尾根の向こうへの移動でした。そこで連合軍歩兵は方陣、つまり四角い枡目に並んで、迫りくるフランス騎兵に対して防御体制をとります。ネイが突っ込んだのはこの方陣に構えた歩兵のまっただなかで、かつ騎兵に続いて歩兵を突っ込ませる判断まではできませんでした。
フランス騎兵は連合軍の方陣の前でがんばりましたがこれを蹂躙できず、また連合軍が放棄した砲の破壊(砲の尾栓に釘をうちこむ)こともできないまま、ついに後退するハメになります。

ナポレオンが休んでいる間にこれだけのことがおきました。ネイが増援をもとめた報告がちょうどきたのですが、兵を作れるとでも思っているのか、と激怒したといいます。

この辺でグルーシーを振り切ったプロイセン軍が戦場に到着しだします。フランス軍の背後から現れたプロイセン軍が戦果をあげるまえに、正面の連合軍を粉砕するべくナポレオンは親衛隊を投入するのですが、ネイが破壊できなかった連合軍歩兵と砲兵に撃たれて、その親衛隊が崩壊し、潰走します。ここでフランス軍はパニックとなり、連合軍の追撃戦がはじまって、ワーテルローの戦いは決したのでした。

しかし、ナポレオンは生き延びます。死にませんでした。捕虜にもなりませんでした。落ち延びることに成功します。

ただ、謎なのは、ここで3万の兵力をもっているグルーシーと合流して、後退しつつ戦うことをナポレオンが選ばなかったことです。もし合流していたら、戦争はフランス国内に移り、ナポレオンに打つ手が生まれた可能性はあります。しかし、しなかった。なぜか?

ナポレオンがマレンゴの時みたいに負ける寸前でやり返した気力をもっていたら? しかし、彼は体調をくずし、おそらくは気力も萎えていたのだと思います。

ナポレオン・ボナパルト個人のカリスマで維持されていた大陸軍です。
そのナポレオン個人がくずれたことが、現代の戦争では考えがたいですが、個人の指揮能力がものをいった当時の、ワーテルローを決した最大要因ではないでしょうか。

個人のカリスマと能力が物をいった戦争は、この50年後のアメリカ南北戦争まで続きます。だから、ナポレオンは負けたから無能、だとは思いません。

前述したボード・ゲームのワーテルローですが、私はナポレオンが勝利した結果も数回みているので、彼にもチャンスはあったとはおもうのです。
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この回答へのお礼

>プロイセン軍を追撃し撃破せよ、と命令を受けているので、判断ミスも何もないと思います

そうなんですよね。

グルーシーがナポレオンから受けていた命令は、敗走するプロイセン軍を追撃、
殲滅せよというものだったわけですから、もしグルーシーが部隊を率いてワーテル
ローの戦場に向かっていたら、ナポレオンから「プロイセン軍はどうした? お前は
なぜ命令を無視してプロイセン軍を放置したのだ?」と命令違反の責任を追及されていたかもしれないですしね。

だからグルーシーの行動だけを判断ミスだと言って批判するのは必ずしも正しくはないと思うのですが、ただワーテルローでのグルーシーの行動については、歴史家や戦記マニアの中に、「グルーシーは融通がきかなすぎた」「臨機応変の指揮や状況判断が出来なかった」と言って批判する人がかなりいるんですよね。
でもグルーシーの状況判断にも問題はあったかもしれないけど、ナポレオンにしても、おっしゃる通り伝令兵を1人しか出さなかったとか(ただしこの件については参謀長だったスールトにも責任はあると思いますが…)、意思の伝達、命令の伝達に
おいて手ぬかりがあったと思います。

それとやはりナポレオンの「体調」ですね。

私も、決戦当日のナポレオンの体調がすぐれなかったという話は知っていたので、
ようやくこの点について指摘される回答者の方が現れたかという思いですが(笑)、問題のネイの突撃が行われ時に、おっしゃるように本当に1時間も指揮がとれない状態だったとしたら、それが戦局全体を左右したとしてもおかしくはありませんね。

ワーテルローの戦いについて記した本を読んでも、その時実は、ウェリントンは
フランス軍の攻勢によってかなり追いこまれていて苦しい状況だった、イギリス軍はかなり「やばい状態」だったという記述をよく見かけます。
もしそこでナポレオンが、ネイの増援要請を受け入れて即座に予備兵力の老親衛隊を投入していたら、イギリス軍は戦線を持ちこたえられずに敗走、壊滅していたかもしれない・・・・というわけです。
そうしたナポレオンの的確な指揮や状況判断を、体調の悪化がさまたげていたと
いうことは十分ありえるように思います。

また確かにナポレオン時代の戦争は、個人の能力やカリスマが物をいう時代で
した。
個人の力量ではなく組織全体で戦争を行なうようになるのは、もう少し後にプロイ
センが参謀本部制度をととのえるようになってからですかね。

長文にわたりいろいろと示唆に富む回答、ご意見、ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/23 04:06

一言で言うと、



目が届く範囲は無敵だけど、組織が大きくなり、細部に目が届かなくなった。

ではないでしょうか?!
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この回答へのお礼

ワーテルローの戦いでナポレオンが投入した軍隊の規模は、グルーシーの別働隊も含めれば10万人を超えてましたから、確かに1人の人間が10万人以上もの軍隊を完全に統制して目を行き届かせることは難しかったかもしれませんね。

回答していただきありがとうございます。

お礼日時:2014/05/23 04:14

ワーテルローの戦いの時点で、当時のフランスは既に政治的にも財政的にも破綻状態で、敗北によりかろうじて軍事的につながっていた細い糸が切れただけであり、ただ単に「瀕死の病人にとどめを刺した」に過ぎません。


仮にワーテルローに勝利したところでせいぜい数ヶ月、破滅が先に伸びただけです。

そもそもナポレオンが戦争に強かった大きな理由は「ナポレオンと彼の率いる大陸軍は一体である」という「美しい幻想」があったからです。
これは決して単純な精神論ではなく「全ての兵たちの弾薬入れには元帥杖が入っている」という言葉に象徴されるように、たとえ一介の兵士でも能力と功績次第で元帥にもなれるという、それまでの「宮廷貴族が高官を独占する軍」とは全く異なる大陸軍においては、血縁や親の地位に関係なく優秀な人材が集まり、強大化しつつあった軍を他国より効率的に運用するシステムを建設することに成功したのです。
また士官への昇進も読み書き、計算、地図を読む、絵の描く(当時は写真がないため絵を描く能力は重要です)などの能力重視で行われ、そうやって作られた世界で最初の「国民軍」がナポレオンという「戦争の天才」の指導の下で一体となって行動する事で、他国の軍に対し大きなアドバンテージを得ていたのです。
似たような例としては革命直後のソ連において「世界で最初の社会主義体制」がそれまでのツァーリに抑圧された体制とはかけ離れた、国民と一体のかつてない素晴らしい社会を建設するという幻想から、急速な工業化を成し遂げた事も挙げられるでしょう。
しかし幻想はいつまでも続きません。
数限りなく戦い、勝利を重ねても結局のところ長期に渡る平和は訪れず、著名なロシア遠征の失敗により「戦争の天才」の威信は大きく傷つきました。
また他国もフランス軍に学んで自らを改革し(プロイセンのシャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツらの行った軍政改革は現代の軍にも多大な影響を与えています)、フランス軍の優位も消えてしまいます。
敢えて言えば「最初にパソコンを導入した企業が最も古い機材を使い続ける事になった」ようにナポレオンは先駆者となったが故に追い越されてしまったのです。
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この回答へのお礼

おっしゃる通り、たとえワーテルローでフランス軍が勝っていたとしても、ヨーロッパに対仏大同盟が存在する限り、ナポレオンの破滅が単に数ヶ月先延ばしになっていただけかもしれませんね。

ただたとえそうだとわかっていたとしても、また歴史に“IF”は禁物だとしても、「もし
ワーテルローでナポレオンが勝っていたら…」というテーマは、戦史好きの人間や
戦記マニアからすると、やはり興味をそそるものがあります。
今さらあれこれ考えたところで歴史は変わらないとわかっていても、つい「あの時
ああしていれば…」なんて思ってしまうんですよね(笑)

フランス革命で生まれた国民軍のアドバンテージと他国の軍制改革については、
確かにおっしゃるように、“先行者のメリット”が時間の経過とともに“後発組に追われるデメリット”に転じたという部分はあったと思います。

ナポレオン軍の特質について解説、回答して下さりありがとうございます。

お礼日時:2014/05/23 02:28

概ね#2さんに同意です。



グランダルメって、不世出の軍神ナポレオンがいたからこその軍隊だったと思うのです。だから皇帝陛下がキレキレのときは文字通りに無双モードになるわけですが、結局すべては皇帝陛下次第の軍隊だったのですよ。
ナポレオンの命令書というのは具体的な指示が細かく書かれていたことで有名です。#2さんが指摘する「ナポレオンが目が届く範囲なら無敵」というのはそういうことなんですよ。でもある程度以上に組織が育っていくと部下も自分自身で考えて行動しなければならないことが増えてきます。しかし、そもそもがトップダウンで大成功を収めた組織ですから、途中から急に「自分で考えて適切な行動をせよ」といってもそれは無理なんですよ。なんとなれば、部下も皇帝陛下の命令に忠実だからこそ大勝利を収めてきたわけですからね。
だから、グルーシーが、ネイが、というのはスポーツの試合でいうと「あのシュートが入っていれば」とか「あそこでヒットが出ていたら」みたいなものだったと思います。それでその試合は勝ったかもしれないけど、戦いはその試合だけで終わりではないですからね。その組織が構造的に抱えている問題は、いつかどこかで必ず露見してしまいます。

スポーツチームでも、とんでもないエースが君臨しているチームは、そのエースが衰えてくると勝てなくなりますよね。
また、ビジネスの世界でも、名物社長の指導力で急成長を遂げた企業は、その名物社長が衰えたり引退したり亡くなると急速に勢いを失います。ダイエーがそうだったし、日本マクドナルドがそうだったでしょ。ダイエーは小売業に革命を起こしたけど、創業者の中内功さんが衰えたら潰れる寸前まできてしまったわけです。私もトップダウンの会社にいたからよく分かります。トップダウンの組織だと、「考えるのは社長がやること。お前たちは何も考えずにいわれたことを忠実にやれ」となって、考えて自分で行動しようとする部下はことごとく排除されちゃうのです。勝手な行動は組織としても困るじゃないですか。
グランダルメがどうだったか分からないですが、ネイもミュラも脳内筋肉タイプだからなあ。ダヴーは自分で行動する能力がある人だけど、人望がない。でもそれは逆に彼にとっては幸いで、もし人望があるタイプだったら皇帝陛下にとって自分の地位を脅かす危険な男として排除されたでしょうしね。

余談だけど、鈴木社長亡き後のスズキ、孫社長亡き後のソフトバンク、鈴木社長亡き後のセブンアンドアイ、柳井社長亡き後のユニクロも終わると思いますよ。特にソフトバンクとユニクロはすぐダメになると思います。

この回答への補足

おおむね♯2の回答者の方に近いお考えのようですね。

私流に解釈すると、軍の機動とか部隊への指示といった戦術的な理由以前に組織論として考えた場合、当時のフランス軍はナポレオンに依存しすぎていて自律的に機能できる組織ではなかった、配下の将軍達もナポレオンの命令を受身で遂行する事に慣れきっていて、独自に判断したり行動する能力に欠けていた、それが最大の敗因である・・・・・という趣旨のご意見ではないかと理解します。

一般企業の例もいろいろと挙げられていますが、確かにワンマンタイプでカリスマ性のある指導者、リーダーというのは、国にしても企業やスポーツチームにしても、
不在になった時の後継者の舵取りというのは難しい問題ですね。それがうまくいかず急に弱体化したりする組織は確かによく見かけます。

ただグラン・ダルメ衰退の理由はおっしゃるようなことだとして、ワーテルローの戦場では、グルーシーの別働隊以外は一応ナポレオンが直接指揮してましたよね?

まあそれでも広範囲に部隊が展開はしていましたが、戦場や指揮する部隊のスケール自体は、ナポレオンが圧勝したアウステルリッツやフリートラントの戦いなどと
あまり変わらなかったと思います。つまり一応、「ナポレオンの目がそれなりに届く
スケールの戦い」だったのではないかと。
となるとそこでの敗北は、フランス軍の根本的な組織構造や配下の将軍たちの能力不足などの他に、ナポレオン自身の戦場における個々の判断ミスや指揮のまずさというのもあったのではないでしょうか?

それと、ダヴーって人望なかったんですか?

ナポレオン配下の将軍の中ではかなり有能で高潔な人物というイメージがあるので、人望がなかったというのはちょっと意外な感じですね^^

補足日時:2014/05/21 15:18
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 補足、承りました。

#2です。

>やはりド・グルーシーに大軍を与えて分割指揮させた事が敗因の1つということになるんでしょうか?

 それは目に見える現象の一つですね。私個人は敗因に含めていません。孫子風に言えば、ナポレオンは、敵を知らず己を知らなかったため、エルバ配流前に戦わずして敵に屈していたのです。そうなってしまってから、戦いを始めて勝ちを求めても無駄なことです。
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この回答へのお礼

ご意見は理解しました。

グルーシーの件はあくまで表面的、表層上の理由に過ぎないというお考えですね。

それ以前のもっと根本的な理由(ナポレオンの統帥スタイルや
フランス軍の指揮命令系統など)により、戦う前から勝敗は決していたと・・・・

それもまた1つの見識だと思います。

質問へのご意見をいただきありがとうございます。

お礼日時:2014/05/21 14:13

 ナポレオンが「無能レベル」に達してしまったからです。

無能レベルとは、有能さを発揮して昇進などで地位や保有する権力、支配地域面積・人数等々が上がっていくと、あるポイントで突如として有能から無能と化す現象を言います。

 ナポレオンが突如として敵の大軍を打ち破って以来、連戦連勝をしていた期間は(海戦ではイギリスに勝てなかったのはやむを得ないとしておきます)、機動戦略と呼ばれる大軍ならを三つに分かち、その優劣で勝敗を判断していた他国に対し、移動力を高めた一つに密集した軍による集中砲撃と騎兵の突撃という、戦術的革命によるものでした。

 ナポレオンが連戦連勝し勢力を拡大し、軍の兵数も増えていくと、敵国それぞれも軍備増強し、さらに連合するなどしていきます。これは兵数含め、戦争の規模が拡大したということを意味します。

 ナポレオン軍が強かったのは、ナポレオンが直接指揮を執ったときでした。部将は優秀ではあるものの、他国の将軍に抜きん出て強かったわけではありません。ナポレオン軍は「砲声に赴く」とも呼ばれる、最初の砲撃音があれば、指示を待たずに全軍が殺到することが強みでした。ナポレオンも急行して、その場で式を振います。

 一方、他国の軍では軍団全体の司令官が命令しないと動きません。兵数・火力劣勢で将の資質も劣る一支隊では、支えきれません。そこでの戦闘で大敗した他国軍が潰走すると、影響は他国友軍にも及び、敵全軍が大敗走するのが常でした。

 しかし、戦争の規模が拡大すると、一部分の勝敗が全体へ影響する度合いが下がります。ナポレオン中枢軍と距離を置いた敵軍は混乱に陥らず、状況を見ながら備え直して反撃に転じてくるようになります。そして、ナポレオンの指揮は離れたフランス友軍には届きません。

 ナポレオンが戦闘全体の指揮を執れなくなってくるわけです。すると、各所でナポレオンの部将軍と、敵国の将帥ひきいる軍の衝突になります。これは平均すれば互角以上に敵国が有利になります。兵数・火力では敵が上だからです。将の能力が同等なら、兵数・火力が上のほうが勝ちます。

 しかも、ナポレオン頼みで軍全体の指揮系統の発達が遅れたフランス・ナポレオン軍に対し、敵は各国連合の必要性に以前から迫られていただけあって、大軍をうまく動かせる能力を得ていました。

 ナポレオンの強さは直接指揮できる軍の規模でしか発揮されません。一方、敵国は軍の規模が大きくなればなるほど強くなります。一個人の能力にも頼りません。ナポレオンがエルバに流された時点で、もうナポレオンは勝てなくなっていたのです。隙をついてエルバを脱出し、フランスに戻って昔ながらの軍を復活させても、どのみち勝てない運命だったのです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

「無能レベル」ですか・・・・

確かにワーテルローの時のナポレオンは、
若いころと比べてなんとなく軍の指揮に精彩を欠いていたような
印象がありますね。

>ナポレオンの指揮は離れたフランス友軍には届きません。

ということは、やはりド・グルーシーに大軍を与えて
分割指揮させた事が敗因の1つということになるんでしょうか?

補足日時:2014/05/21 08:20
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この回答へのお礼

補足にも再度回答していただきありがとうございました。

お礼日時:2014/05/28 00:54

    敗因は一つではないでしょう。

戦略家のアントアン•アンリ•ジョミニの言うように

1。    ブリュッヘル指揮のプロイセン軍の到着と機を同じゅうしたグルーシー別働隊の動き。
2。    ウェリントン麾下のイギリス歩兵の強さ
3。    ナポレオンが悪天候で午前中フランス軍を膠着状態にしたこと。
4。    第1軍団の即戦力に欠けるお団子隊形。

    などが考えられます。

    さらに、国内外における政治的な失態、兵力の劣勢、言わば四面楚歌の体勢で「士気」が上がらなかった事も、背景として挙げられるのではないでしょうか。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

そうですね。敗因は1つに限定されるのではなく複数存在すると
いうのが妥当なのでしょうね。

挙げられた敗因の2。については、
確かに方陣でのイギリス歩兵の粘り強さは昔からよく聞きますね。

3。のナポレオンの初動が遅れたというのもよく聞く話です。

ジョミニについてはあまりよく知らないので、1度暇があったら
調べてみようと思います。

補足日時:2014/05/21 07:51
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この回答へのお礼

一番初めに簡潔明瞭な回答をしていただき、
再度お礼申し上げます。

お礼日時:2014/05/28 00:57

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