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科学と思想の真理性の違いって何なのでしょうか?
言語が介在する思想は、言語自体が恣意的なため、言語によって組み立てられた思想などは真理はない・・・。
そう考えると、私自身、科学は何が思想と違うのかがぼやけてイマチチよくかわらなくなってしまいます。
反証可能性があるかないかが分かれ道なのでしょうか?
そもそも科学は真理なのか?も伺いたいです。
専門家のみなさん、また詳しいみなさん、よろしければ回答をお願いします。

A 回答 (10件)

科学は、現象の世界を解析する世界です。


真理は、現象の世界と現象を認識している側を統合することができ、さらに、真理から多様な現象の世界を説明することができる世界です。
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科学も思想も、脳の論理思考に依存しています。

論理思考は、情緒を排除します。これが脳の矛盾の始まりです。だから脳は、大宇宙では、不調和不完全な存在です。だから科学が、最初は便利なものに見えても、矛盾があり、結果は不調和な事が発生します。科学が発達したら、自然破壊が発生したのが実例です。病気に良く効く薬品ほど、薬害が強いです。これが脳の矛盾です。脳は、見かけは表は、調和的でも、裏は本性は、不調和です。地球では、脳の科学が発達したら、様々な問題が発生してます。原因は、脳は、宇宙では不調和世界の代表なのです。だから科学で、真理を解明する事は、不可能です。
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科学=自然科学、社会科学、人文科学


文学、言語、論理学、哲学。
思想というのは、イデオロギー(観念形態)のことでしょうか?
多数決で真理が決まるとは思いませんが、総選挙で民主党を選択した国民の意思を尊重することは大切です。
歴史を見ると、NHK大河ドラマ「天地人」の関が原の合戦の戦後処理のなかで、家康の権謀術数で領地を拡大していくずるがしこさと、上杉家の義を貫く、すがすがしさ。歴史は、勝者が公式記録を残して、文書を残したものが正統となります。敗者の歴史は、記述されたものには残りにくいものです。民間伝承、義民伝承、わらべうた、郷土史などにほそぼそと語りつたえられるものです。
学問とは、疑ってみること。定説を信じるのではなく、仮説をたてて、資料をさがして、検証していくことではないでしょうか。
現代の地球上の生物の多様性と人類の存続のためには、個別科学の力では、解決できない大きな問題が山積しています。戦争をしている場合ではありません。
科学が真理かどうか、ウラン、プルトニウムの核分裂の反応と、E=mc^2
という質量とエネルギーの等価をあらわすアインシュタインの式から、原子爆弾を作って、エネルギーを解放したこと、これで、仮説は真理になりました。しかし、その原子爆弾を人間の殺戮に使うかどうかを、人間が判断(政治的に)することは、これは、人類が滅びるまで問い続けなければならない問題でしょう。現代思想の根本問題です。
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/radio …
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/radio …
知性は、だれとでも手を組む(悪魔とでも)。
理性の復権を。
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科学も近代思想のひとつではありますので、余りに科学を信頼しすぎるのも弊害はある、という説もあります。


ま、それはさておき、質問者様の意図するところは、
A:科学的手法による客観事実に基づいた理論が証明する真理と、
B:いわゆる思想家が築き上げた理論がゆきつく真理とはどんな違いがあるのかというほどのことでしょうか。
AとBとはそれぞれの次元で完結していますので、比べることは出来ないと思います。つまり、どちらが真の真実なのか(真実性の程度?)は、分からない、ということでしょう。いまのところ、多くの場合科学の方法論が優れているということになっているのではないでしょうか。証明はされていないと思いますが。
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科学と思想の真理性の違いって何なのでしょうか?



「真理は思いの中にしか存在しないものである。」と考えればいいんじゃないでしょうか。
そうすれば、科学や思想・哲学が真理の範疇や表現の一手段でしかないことがわかりますね。
科学的手段は限定範囲ではあるが多くの人が信じることが出来る真理ですね。
一方、思想・哲学(宗教を含む)はもっとおおきな漠然とした範囲の真理であるが信じる人は限られるということでしょうね。
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宇宙の真理を証明するのは不可能です。


なぜならわれわれが感覚する現実も脳が解釈する電気信号で現実とは
違うものだからです。また科学も思想も言葉を用いており、その言葉
自体われわれが作り出したもので、真実とは違うものだからです。
言葉で真実を指し示そうとしても、言葉という道具が真実ではなく
感じる脳の仕組みも真実で無いので永遠に真実は見えないものです。

科学における真実は真実として妥当という程度のものです。
思想や宗教における真理は真理と思い込んでいる程度のものです。
真実すら見えないのにその道理が分かったなどと言い張るのは
わたしからすれば愚の骨頂です。シャカ然り、キリスト然り・・・。
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「真理」ないし「真理性」という概念よりも、そもそも「科学的」および「客観的」といった概念が何を意味するのか?を考える方がいいように思われます。



1.科学的な手法ないし手順は、理論と実験にて組み立てられています。
2.理論は、無矛盾な論理性を保つ(ないし追求する)ことであり、思想の範疇に入るでしょう。
3.実験の目的は、概して素朴実在論をベースに、再現性・規則性について「客観的な記述」を行うことにあります。
4.科学における「客観的」とは、「誰にとっても同じ」(AさんとBさんといった立場を入れ替えても同じ、交換可能)ということです。突っ込んで言えば、「こころ(とくに意図・意志・恣意)の状態に影響されない」ということであり、「心と独立した」といった表現がなされます。このことは、「心の情態に影響されないものはない」に抵触しません。たとえば、「室温」は「俺は熱いのが嫌いだ」とか「俺は寒いのが嫌いだ」とかいった意志にて調整されますが、温度に影響される実験系の場合に実験環境の温度設定が為されたなら、再現性・規則性は現れないでしょう。通常は、実験対象への「心による影響」が問題視されることがないように、環境の均質化が「意図的に」図られます。さらに言えば、(心を含めた)環境を意図的に調整する(ないし意図的に変化させる)ことが、対象にどのような変化を及ぼすのか?について、再現可能で、規則的な記述が得られたなら、客観性の高い記述となり得ます。

上述のような「実験」+「客観性」をベースに「理論」を組み立てる段階(考察の段階)で、「意図・意志・恣意」が影響し得ます。
しかしながら、この段階でも「客観性」といった観点を保ち続けようとすることで、(すなわち、「誰にとっても同じ」(交換可能な状態)を「意図的に」想定することで、)恣意性を排除しようとします。

その結果として得られた規則性(理論)に「真理(ないし真理性)」を見いだすことも可能かも知れませんが、実のところ「対象についての記述の一つの可能性」でしかあり得ません。
※このあたりは、ゲーデルの「不完全性定理」と関連します。

ちなみに、素朴実在論、ないし科学的実在論についてのwikipediaでの記述では、
>>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6% …
科学的実在論によれば、理想的な科学理論は以下の要素をもつ。

1.知覚できないものについて理論がおこなう主張は真であるか偽であるかどちらかであり、真偽いずれであるかを測る規準は、その理論で話題にされている実体が理論で言及されている通りの仕方で実在しているかどうかである。以上が科学的実在論の意味論的含意である。
2.科学理論によって記述されるものはたとえ知覚不可能であっても、心とは独立に客観的に実在している。以上が科学的実在論の形而上学的含意である。
3.知覚できないものについて理論が主張する要素の大部分は信じる理由がある。以上が科学的実在論の認識論的含意である。
第1と第2の主張を組み合わせると、真に実在している知覚不可能(観察不可能)な実体について、理想的な科学理論は正しく発言できることになる。第3の主張によれば、知覚不可能な実体について言われていることは正しいと信じる理由があることになる。
<<<
となっており、「心」(意志・意図・恣意)との位置付けが記述されています。
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理系と文系の違い。

かな。
だけど、真理とか言うものには、分別がないよね。
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科学は真理というよりも事実ですよね。


これがこうしてこうなった。
あくまでそれだけです。

人が生きるメカニズムや生き続けていたい心理は解明できるけど
「人が生きる意味」は教えてくれない。そういうものです。
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すみません、質問の内容がいまいち分からないのですが・・・、



・『~の真理性』とは具体的にどういう事でしょうか。
・この場合の『真理』とはどういった事を指すのでしょうか。

因みに、科学ほど『真理』という言葉から離れているものは無いと思います。
この場合の真理は『間違いの無い・正しい』という意味で使いますが、
一応、私の考えた範囲で、科学と思想の真理についての扱いの違いを
下に書いておきます。

例えばある仮説について、実験結果をもって証明しようとします。
この際、たった一回の実験では偶然良い結果が得られただけかもしれない為、
同じ実験を10回繰り返し、再現性を確認します。
しかし、これについても良い結果が偶然10回連続で得られた可能性は
捨てきれない訳で、この可能性を小さくするには100回、1000回と繰り
返していく必要があります。
しかし、これについても結局は偶然良い結果が出た、という可能性を
小さくするだけであり、確実な真理には至りません。
この例では、実験の結果についての話ですが、もっと根本から言ってしまえば、
自身の目と脳が誤った情報を手にしていないか、ということから疑わなければ
いけませんし、もちろんそんな事は証明できませんので。

科学の場合、思想などで見られる根拠を欠いた真理のような『曖昧さ』を排除し、
『正確さ』を求めた事により、真理とは最も離れた思考方法になっています。
逆に、思想では真理に対して根拠を必要としなかったり、曖昧な根拠で
真理としたりするため、正確さが欠けることになります。
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