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石川啄木の詩の
 (ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく)
の表現技法を教えてください。インターネットで私なりに調べて見たのですが、よく分かりませんでした。回答お願いします。

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A 回答 (6件)

 「急いでます」とのことですが、今頃はもう授業の最中で間に合わなかったかな。



 まず啄木のこの作品は「短歌」です。
 広い意味では、短歌も詩の中の1つの特殊な種類ですが、一般的には(入試などにおいても)普通の「詩」とは区別します。
 普通は「詩・短歌・俳句」というように異なる3つの種類として扱うのです。

 したがって、普通の場合に短歌を「詩」と呼ぶと、犬も動物に含まれるということで、「かわいい犬ですね」というところを「かわいい動物ですね」と言っているような感じがします。

 啄木の場合は(狭い意味での)詩も書いているので、中学生で「石川啄木の詩」をお読みになっているということで、いったいどんな「詩」かとても興味があったのですが、そうか短歌たったのか、という感じです。「ふるさとの」の短歌なら、非常によく取り上げられる教材ですね。

 短歌は「五・七・五・七・七」の5つのまとまりからなる31音でできた「詩」です。 ちなみに「俳句」は「五・七・五」の17音からなります。
 啄木のこの作品は決して「俳句」ではありませんので気を付けてください。

 「ひとごみのなかに」は本来7音の部分が8音ですから、「字余り」です。
 「破調」ではありますが、音数が少ない「字足らず」と区別する意味で「字余り」というのがよいと思います。

 短歌・俳句では、音数が制限されるので短くするために、わかりきったことは省略します。この歌でもたとえば主語は省略されていますが、短歌ではごく当たり前のことなので、特に注目すべき場合以外は「この短歌には省略法が用いられている」とはわざわざ言いません。この短歌でもわざわざ「表現技法」として取り上げるほどではないと思います。

 一首を言葉を補って現代語にすると、

 (わたしは)ふるさとの訛(が)なつかしい。(だから、わたしは)停車場の人ごみの中に、それを聞きに行く。

といったところでしょうか。

 したがって倒置になっている箇所はないと思います。

 「なつかし」は「文語(古語)」のシク活用(←高校で習います)の形容詞の終止形です。
 〔主語を表す〕格助詞の「が」は文語では省略されるというか、元々用いないことが多いのですが、ここも「訛」のあとに(対象を示す)「が」があると考えるとよいでしょう。
 「そを」の「そ」は「それ」に当たる文語(古語)です。「こ」(=これ)、「か」(=あれ)といった語も文語では使われます。

 上の現代語で「なつかしい。」としたように、「なつかし」のところで意味が切れて文の終わりになります。したがって「句切れ」は「二句切れ」です。
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この「停車場」とはどこの駅か知っていますか?


東京の上野駅です。東北の人たちには上野駅が東京の入口。
駅の改札を出て、大都会の雑踏へと消えていくのです。
郷里盛岡で神童とささやかれた啄木も、
かつて夢と希望に胸ふくらませてこの駅に降り立ったのでした。
それがいまや落ちぶれ果てての東京暮らし。
仕事をしていないから、あちこちに作った借金。
その返済のために盛岡で寺の住職をしていた父が、
檀家に無断で寺の木を売り払ったために、住職の地位を失い、
息子啄木にすがりつくように身を寄せている。
老いた両親と妻を抱えての追い詰められた暮らし。
啄木は結核を病み、家族へと感染して、
やがてみんな息絶えてしまうのですが、
小説家として世に出る夢もかなわず、
痩せさらばえたその背に家族を負っての悶々の日々の、
せめてもの憩いとなったのが、上野駅で郷里の言葉を耳にして、
恵まれていた在りし日に思いを寄せることでした。
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I am going to listen to the words in the crowd of station.



The words are familier to me.

私は、それを聴きに行く、停車場の人ごみの中に、その懐かしい、ふる

さとの、おくに訛りを。

倒置法ではないでしょうか? 主語述語が、文の最後にきています。

普通の文では、主語が文の先頭に来て、述語が文の最後にきます。

倒置法は、強調したいものを、文の先頭にもってきて、文章の安定感を

壊して、緊張感、不安定感、動的な、何かを伝えたいときに使うのでは

ないでしょうか?

まだ、若い人には、故郷をはなれて、勉学や仕事で苦労する体験が

ないと思いますが、知らない土地で(外国で)日本語を聞くときの安心感

を想像してください。
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これといって技法はないですよ。



ふるさとのなまりがなつかしいので
停車場の人ごみの中へ、(よく聞こえる位置へ)
聞きに行く

という作文を俳句の字数に収めただけです。
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まずこの詩の種類は何か? 字数を数えましょう。



ふるさとの なまりなつかし ていしゃばの
ひとごみのなかに そをききにゆく

五七五七七(字余り)の短歌ですね。

次に「短歌の表現技法」にどんなものがあるか調べてみましょう。
私が中学の時使っていた国語便覧をみると、
「比喩、倒置法、体言止め、押韻、破調、枕詞」などが載っています。

ではどれが当てはまるのか。
「ひとごみのなかに」が字余りの為、「破調」が当てはまりそうですね。
「ふるさとの ~ ていしゃばの」、「の」の「押韻」も当てはまりそうです。
上記技法で、他に該当するものはなさそうです。

そんな感じで調べてみてはいかがでしょうか。
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「訛なつかし」は倒置法ですかね。



ふるさとの懐かしい訛。が普通の文法となるところを
→ふるさとの訛。懐かしい。に前後を入れ替えています。

全体も倒置法になっていて
訛なつかし 停車場の っていう所の響きが特に
いい句ですね。
日常の中のささいな喜び(楽しみ)の歌ですが
啄木の人柄やこの情景が思い浮かびますね。
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Q啄木の短歌の「そ」の意味

石川啄木の有名な短歌に
 ふるさとの訛(なまり)なつかし
 停車場の人ごみの中に
 そを聴きにゆく
というのがありますが、「なまり」と訳される「そ」は、
どのような漢字なのでしょうか?

Aベストアンサー

この場合の 「 そ 」 とは 「 それ 」 の意です。
「 あれ 」「 これ 」「 それ 」 の 「 それ 」 です。
あえて漢字で書けば 「 其れ 」 となります。

Qテスト直前なのに、短歌の区切れがわかりません………。

短歌の句切れ、どのように見分けたらよいのかがわかりません。
感動の助詞(けりなど)がなかったら『句切れなし』なのでしょうか?

以下の句の句切れ、自分で考えても理解できず、家族や友人に聞いてもわからないと言う返事しか返ってこなく、
ネットで調べてもよくわからないので困っています。
どうぞよろしくお願いします。

・防人に 行くはたが背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思もせず(防人歌)
・多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき(東歌)
・君待つと 吾が恋ひをれば 我がやどの すだれ動かし 秋の風吹く(額田王)
・近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(柿本人麻呂)
・うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思えば(大伴家持)

すべて万葉集で、とても一般的な句なのだそうですが、よくわかりません。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ。

3、終止形や命令形で言い切っているところ。

4、体言止めで言い切っているところ。
ただし、体言で句が終わっていても、そこへ「を」「に」などの助詞を補ってあとの句へ意味がつながるような場合は、ここを句切れとは考えません。

5、倒置法のあるところ。

6、呼び掛け法のあるところ。

韻文の場合、芸術的に感心できませんが、一応、「解釈(分かりやすい現代語に訳す)」をしてみると、句切れも分かるかと思います。

*防人に・・・
あの九州の警備兵として徴兵されていくのは誰の旦那さんかしらね、と訊く人を、見ることのうらやましさと言ったらないよ。なんの悩み事もなくて(あの防人は私の夫なのだよ、私には危険な国境に夫を送り出すという悩みがあるのだ)。
→「ともしさ」が体言止めで、意味的に倒置法なので四句切れです。

*多摩川に・・・
多摩川に晒して作る布を見ていた。その「さらす」という音でふと思い出したが、さらにさらにどうしてあの子がこんなに恋しいのだろうか。
→「多摩川にさらす手作り」までは、「さらさらに」を導くための「序詞(じょことば)」で、和歌の解釈としては内容的な意味はなく、「手作り」は体言止めで、二句切れです。

*君待つと・・・
恋人のあなたの訪れを待って私があなたを恋い慕っていると、私の家の簾を動かして、あなたの代わりに秋の風が訪れ、あなたはまだ来ないのだった。
→順当な流れのうちに結句まで言い切っている歌で、句切れなし。ちなみに、古今集以降だと、「秋風」を「飽き」との掛詞(かけことば)と考えて、恋人の訪れがないのを、恋人とが自分に「飽き」たからだ、と、別れや失恋を暗示するのですが、万葉集だとそこまで読むのは深読みと考えられるでしょう。単に季節がほんとに秋だっただけ。女心の寂しさは詠み込まれているけど。

*近江の海・・・
琵琶湖に夕方立つさざ波に群れ遊んでいる千鳥たちよ、お前が鳴くと、私はひどくしみじみと悲しくなって、昔のことが偲ばれてならないよ。
→「夕波千鳥」を呼び掛け法と考えても、単なる体言止めと考えても、いずれにせよ二句切れ。

*うらうらに・・・
うららかに照っている春の陽射しに雲雀が空高く舞い上がり、私の心はいっそう悲しいなあ。一人ぼっちで物思いに耽っているので。
→「心悲しも」の「も」は、上代特有の助詞で、詠嘆を表すので、ここで切れて四句切れ。春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。雲雀の楽しそうなさえずりと、自分の憂鬱な物思いとの対比。

万葉集の和歌には、二句や四句の偶数で句切れのある歌が多いのです。
五七/五七/七
と「五七」のリズムが強調されるので、「五七調」と呼ばれます。
(古今集以降の和歌は、初句や三句の奇数句で句切れのある歌が多く、五/七五/七七と「七五」のリズムが強調されて、「七五調」と呼ばれます)
五七調の和歌は、五音という軽い上半身を、七音という重い下半身でしっかりと支えるので、歌体が安定し、堂々とした力強い響きをもたらします。
七五調の和歌は、反対に、七音という重い上半身が、五音という軽い下半身の上に乗っかる格好になるので、歌体はふらつき、なよなよとした流麗な流れの良い歌になります。

「句切れ」とは、和歌や俳句において、意味の上でいったん切れるところです。
以下のような場合があります。

1、切れ字のあるところ。
「切れ字」は、「や」「かな」「けり」など。俳句の項目で調べると分かります。でも、松尾芭蕉は「全て切れ字」とも言っていて、本質的には奥の深いもので、一概に「これが切れ字」とは言えません
↑「けり」は「詠嘆の助動詞」です(「助詞」ではない)。

2、係り結びの結んであるところ。
係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ...続きを読む

Q石川啄木の短歌について

ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく

という短歌があるのですが、この短歌の『大意』(作者の思い)
と、『技法』を教えてください。

Aベストアンサー

石川啄木は家庭の事情で故郷を「石もて追わ」れた人です。
それゆえに望郷の念がたいそう強かったようです。
故郷をしのぶ歌を多く作っています。

故郷の訛りが無性に懐かしくなって、
上野駅の人ごみの中にそれを聴きに行きました。

ありのままを読んだだけだと思います。
聞くではなくて聴くを使っていますので、
かなり熱心に自分の故郷の言葉を探したのでしょう。
東北弁も地方によって様々ですから。
「三行分かち書き」という形式で書かれている以外は特に技法はないと思われるのですが……。

Q石川啄木について

啄木の、
 うすみどり/飲めば身体が水のごと透きとほるてふ/薬はなきか
という歌を調べています。「石川啄木記念館」や、「啄木勉強ノート」といったサイトを見ましたがこの歌についての解説はありませんでした。
どうかこの歌について教えてください。

Aベストアンサー

石川啄木の上田博著 石川啄木全歌鑑賞によると
H.G.ウェルズの「透明人間」をモチーフに歌ったものとされておりました。
しかし、1897年(明治30年)に英国で発表されたものが明治43年までに紹介され、日本語訳されていたのか?では「うすみどり」とはどういう意味か?疑問です。
透明人間を読んだことがないので関連は不明です。

ただ確実なのは、啄木25歳の明治43年7月15日~10月13日までの歌稿にあり、同年11月にスバルに「秋のなかばに歌へる」の中で発表されたということだそうです。

いずれにせよ、人から注目される、または非難されたくない、消えてしまいたい心境かと推察いたします。10月には子供も生まれていますし、育てる責任から逃げたかった?かも。
関連があるかどうか不明ですが、同じ一握の砂に
何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ
というのもあります。

Q若山牧水 白鳥は・・の訳について

白鳥は「哀しからずや」の「哀しからずや」はどう訳せば良いのでしょうか。
できれば、入試問題的な解答をいただきたいのですが。

Aベストアンサー

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで、決して、「かなしい+かなしい」の二重重ねではないはずです。(悲哀、悲痛、哀切で、人によって把握が違うかも知れませんが、明らかにニュアンスが違っています。みな、同じ「かなしい」ことだと言えば、乱暴でしょう)。
 
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、悲痛ではないのだろうか
  しらとりはかなしからずや → 白い鳥は、哀切ではないのだろうか
 
  これは、意味やニュアンスが違っています。「悲痛」というと、しらとりを見て、心が、どういう理由か「痛む」という感じで、かなり感情で辛いものがあります。「哀切」というと、心に痛みがあるかも知れませんが、それを詩的に受け止めるというか、ある程度客観化し、距離を置いた感じがわたしにはします。(悲痛は、「私が悲痛」で、哀切は、「何かが哀切」です。大ざっぱですが)。
 
  白き鳥よ、あなたは何と哀切なことか、空はこんなに青く、海はあんなに青いのに、空からも海からも離れ、ひとり孤独に漂っていることか。

  (そのように、わたしの心も、哀切のなか、漂泊の思いに満たされる……)。
 
  これは、わたしの解釈ですが。
 

 
  牧水の元の歌はひらがなだたような気もするのですが、漢字で「哀」を使っていたなら、それは「悲」の場合の「かなしからずや」とはニュアンスが違います。そもそも、同じ「かなし」が、何故、「哀し・悲し・愛し(かなし)」に漢字で書き分けるかと言うと、元の言葉に複数の意味・ニュアンスがあって、それを表現するための工夫で、自覚的に文章を書いている人は、それぞれに意味やニュアンスを区別して使っているはずです。
 
  「悲哀」は、「かなしみ」ですが、「悲痛+哀切」というような感じで...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q石川啄木

短歌
 
やわらかに 柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに  
の意味(口語での)を教えて下さい 
大まかな背景も教えて頂ければ幸いですm(__)m

Aベストアンサー

 ご参考までに
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1226297392
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1249690972

Q石川啄木の短歌について・・・

石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と「しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな」の意味を教えてください。お願いします

Aベストアンサー

【不来方のお城の草に寝ころびて
        空に吸はれし十五の心】

15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて
私の心は吸い込まれそうだった。


盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで
空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、
16歳に中学校をやめて、この後上京します。


しらしらと水かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

釧路の海の水面は月の明かりでしらしらと輝いています。
夜の冬の釧路の海には千鳥はいない静寂があります。

啄木は明治40年(1907)生活の行き詰まりから北海道に渡ります。
北海道の函館、札幌、小樽、釧路と漂白生活をすごしました。
76日間の釧路時代に歌った歌でしょう。

注:私は【千鳥なく】を千鳥は夜はいない(なく)と解釈します。
夜は千鳥はいないと思います。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/namur/takuboku/takuboku.htm,http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/kankou/b/b03-003.html

【不来方のお城の草に寝ころびて
        空に吸はれし十五の心】

15歳のころ、不来方城の草原に寝転で空を見ていて
私の心は吸い込まれそうだった。


盛岡城は別名不来方(こずかた)城といいます。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。
学校を抜け出し不来方城の草原で寝転んで
空を見ていたころを懐かしんでいる歌ですね。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、
16歳に中学校をやめて、この後上京します。


しらしらと水かがやき千鳥なく釧路...続きを読む

Q石川啄木はどうしてふるさとを追われたのか?

啄木の歌、
 石をもて追はるるごとく
 ふるさとを出でしかなしみ
 消ゆる時なし

どうして石で追われるようにふるさとを出たのでしょうか?
なにか悪いことでもしたのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

決定的だったのは、父親の起こした不祥事だったと思います。
啄木の父、一禎は、故郷の渋民村で寺の住職をしていましたが、宗費滞納事件を起こし、寺を追われました。
啄木はその後も渋民村で代用教員をしていますが、その間も父の事件は村の大問題としてくすぶり続けます。そして、ついには父が家出をし、啄木の一家は離散状態になります。
啄木は、中学(旧制)時代にも学校で問題を起こして退学になったり、代用教員の直接の辞任理由もスト騒動だったり(ともに思想的な背景とともに、啄木の性格にも原因があったがあった)というように、父の問題以外にもいろいろな問題を起こしていますが、「石をもて追は」れたとまでいうほど、最も心に引っかかっていたのは、父親の問題であったと思います。

Q比喩法や擬人化を上手に使われた和歌や俳句をを紹介していただけないでしょうか

 日本語を勉強中の中国人です。先日、「比喩法や擬人化で有名な日本の詩句を紹介していただけないでしょうか」という質問をいたしましたが、日本近代詩の例文をたくさんいただきました。その時は、「和歌」と「俳句」という言い方を知りませんでしたので、「詩句」という大雑把な書き方にいたしました。実は、あの時、和歌と俳句では、優れた比喩法や擬人化が使われた文を知りたかったのですが、うまく書けませんでした。

 ということで、再度質問をさせてください。比喩法や擬人化が上手に使われた和歌や俳句を知りたいのですが、紹介していただけないでしょうか。恐れ入りますが、古典がよく判らないものですので、お挙げになった例文の現代語訳も書いていただけないでしょうか。難しい単語に読み方も振っていただければ助かります。
 
 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それについてもご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

初めに
短歌形式の歌のうち、近世以前(江戸時代より前)のものを和歌、近代以降(明治時代よりあと)のものを短歌といいます。その違いは、単に時代の違いであり、近代の短歌も、文語で書き表すのが常です(口語の歌が出てきたのはごく最近のことです)。
ただし、和歌(特に最盛期の平安~鎌倉時代の歌)は、我々にとっても語学的に理解が困難なものです。
そこで、ここでは、和歌=短歌入門編として、近代短歌(以下「短歌」と表す)の中から、比喩が巧みに用いられている作品をいくつか紹介してみます。
なお、短歌本文は歴史的仮名遣い、( )内の読み仮名は現代仮名遣いで記します。

向日葵(ひまわり)は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ            前田夕暮

訳 向日葵は金の油を身に浴びたように輝いて、ゆらりと高く立っている。それに比べて、後ろに見える太陽のなんと小さいことか。

説明「金の油を身にあびて」に比喩が用いられています。「身にあびて」は擬人的表現。「金の油」を日光の隠喩ととらえる説と、単に光り輝く向日葵を形容した表現ととる説よがあります。いずれにしろ比喩にはちがいありません。いうまでもありませんが、この歌の主題は「向日葵」の大きさにあるのであって、「日のちひささ」にあるのではありません。
なお、この作者は自然主義的な作風で知られており、また、この作品は、絵画の印象派の影響を受けています。「風格」といえるかどうかわかりませんが、日本の歌、俳句にも「流派」というものがあり、それぞれに個性を主張し合っています。


金色(こんじき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いちょう)散るなり夕日の丘に      与謝野晶子

訳 金色の小さな鳥のような形をしながら、いちょうの葉が散っていることだ。夕日が差すこの丘に。

説明「かたちして」で直喩を表した珍しい作品。文語の直喩は「ごとし」で表されることが多いようです。また、訳をご覧になればおわかりのとおり、倒置法が用いられています。
この作者は、浪漫(ろまん・ろうまん)主義の代表的歌人です。浪漫主義は、上記の自然主義とは対極にある流派です。この作品も絵画的(自然描写的)なものではありますが、実景の写実ではなく、作者の心象を描写したものといわれています。


見てあれば一葉(ひとは)先づ(まず)落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹(おおき)   若山牧水

訳 見ていると、一枚の葉が落ち、続いてまた一枚の葉が落ちた。何を思ってこうして葉を落とし続けるのだろう。夕日の当たる丘に立つこの大樹は

説明 「何おもふとや夕日の大樹」に擬人法と体言止めが使われています。


病(やまい)のごと
思郷(しきょう)のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも        石川啄木

訳 まるで病気になったように、故郷を思う気持ちが胸にわいてくる一日だ。青空に立ち上る煙もなんと私の目には悲しく見えることか。

説明 「病のごと」は直喩。「ごと」は「ごとくに」の意味。初句が六音で字余り。

※以上の四首のうち三首に「夕日・日」が出てきますが、それは偶然です。特に好まれる題材というわけではありません。

俳句について
ご存じのとおり俳句は十七音を定型とする非常に短い詩です。よって、直喩で説明的に叙述するよりも、隠喩や象徴的な表現の方が多くみられるようです。
また、俳句でポイントになるのはなんと言っても、季語と切れ字です。
よって、短歌に比べて、俳句は比喩などの技法を手がかりに読解する重要性は低いと考えます。
そこで、俳句に関しては、次に何句かを挙げるだけにさせていただきます。
直喩
去年今年貫く棒の如きもの(こぞことしつらぬくぼうのごときもの)             高浜虚子
ところてん煙の如く沈み居り(しずみおり)日野草城
擬人法
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々(きつつきやおちばをいそぐまきのきぎ)          水原秋桜子
海に出て木枯(こがらし)帰るところなし 山口誓子


このほかにも、いくらでも例があげられますが、きりがありません。ご自分で学習することをおすすめしますが、初めのうちは、丁寧で詳しい説明のついた、中学生から高校生向けの学習書を読むといいでしょう。
「教科書にでてくる短歌の解釈」東京美術発行
「現代短歌」「現代俳句」いずれも學燈社発行

最後にこちらから質問です。日本では、擬人法を比喩の一種と考える説が有力ですが、中国ではどうなんでしょう。また、日本の短歌、俳句では倒置、体言止めが多用されますが、中国ではいかがですか。そもそも日本のように、中国では今でも漢詩が作られていますか。

初めに
短歌形式の歌のうち、近世以前(江戸時代より前)のものを和歌、近代以降(明治時代よりあと)のものを短歌といいます。その違いは、単に時代の違いであり、近代の短歌も、文語で書き表すのが常です(口語の歌が出てきたのはごく最近のことです)。
ただし、和歌(特に最盛期の平安~鎌倉時代の歌)は、我々にとっても語学的に理解が困難なものです。
そこで、ここでは、和歌=短歌入門編として、近代短歌(以下「短歌」と表す)の中から、比喩が巧みに用いられている作品をいくつか紹介してみます。
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