忘れられない激○○料理

私は秋月龍珉氏の「誤解された仏教」を先日読了しました。
その中に
「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」
とありました。
空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。よろしくお願い致します。

A 回答 (6件)

このご質問に正確にお答えできるのは、仏教思想の専門の方がふさわしいように思います。


素人の私の感想になりますが・・・

mmkyさんが簡潔におっしゃられているように、空海という人物は桁外れの天才だったのでしょう。
最澄という学問肌の天才とはまた違って、実修を重んじ、実証さえ示す事のできた稀有の天才だったようです。

仏教思想の極至とも言われるその教えが、広く一般に受け入れられてこなかったのには、事相とも言われる実修面での複雑さが影響しているように思われます。
また、教相とも言われる教理面においても、あくまで実修を通してのみ確かな理解が可能のようにも思えます。
一般人が近ずけるのは、実証であるところの現世利益の面に限られてきてしまったように思えます。
学者からの目においても、遠巻きに論じられてきた感があります。
>空海の思想・・・云々・・・と言っても、果たしてそれが正鵠を射たものなのかどうか、疑問があります。
遠巻きの論評を参考にして、空海の思想の本質を探る事には無理があるのではないでしょうか(失礼ながら・・・)

少し大げさな表現かもしれませんが・・・
釈迦と空海は仏教史においての超弩級的な存在のようにも思えます。
空海の般若心経秘鍵に書かれていますが
釈迦が祇園精舎において、天人や菩薩に対して般若菩薩の印、真言、曼荼羅の法を説いたとあります。
これは釈迦が在世中に、既に密教の法を説いたという事にもなってしまいます。
この表現に対して仏教学者は一言も解釈をしていません。
解釈のしようが無いのでしょう、下手な解釈を下せば仏教思想の上で大変な事になってしまうからです。
空海が釈迦に等しい境地を得たことを現したもののようには思いますが
言い切ったところが凄いと思います。

この事一つをとってみても、空海の思想というものは
論評するのは自由だとしても、確かな解釈を下しずらいものだと思います。
しかし、その思想の本質の核そのものについては、一般人でも受け入れられる面があるようにも思えます。

加とは如来の大悲をいう
持とは衆生の信心をいう

空海の教えはこの言葉に尽きているとも言われます。
如来の大慈悲心を信じるという事ならば、我々一般人でも受け入れ易い教えになります。
加持というものを、ある方はこのように分かり易く言われたのを覚えています。
・・・真心で祈る・・・と
仏の大慈悲心を信じて、純粋な気持ちで祈るという事なのでしょう。

学ぶだけではなくて、祈る、というところに空海、お大師様の教えの本領があると思います。
そのあたりの事を念頭において学ばれる事をお勧めいたします。
ご参考になれば幸いです。
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失礼ながら、kitaroo77さんの一文が気になりましたので付け加えさせて頂きます。



>しかし大日如来は実体的なものではなく諸法無我という真理を客観的
に表現したものに過ぎない。

真言行者の実際の修法においては(胎蔵界)、六大一実の観相と真言念誦より入り、空、無我の境地に入り、さらに阿即空という境地に進むと言われています。
阿とは、生じることも無く、滅することも無いもので、絶対なるものと言われるものです。
阿即空の境地においては、五感も無くなり、時間、方向、遠近の感覚が無く、行者と仏と祈願の対象が一つになると言われています。
如来の大悲を受けるのみ、とも表されます。
阿とは大日如来であり、この段階に至れば真言は無相になるとも言われています。

このような真言念誦の実修の体験の描写から思える事ですが
絶対ともいうべき宇宙の実在が大日如来であり、大日如来と一体になった境地においては、主観や客観を超えた無分別智といわれる世界に入っているものと思われます。
真言の専門家であれば、さらに詳細な解説がいくらでも可能でしょう。
しかし、行者さん自らが、そうした修法の実際の内容について書かれたものはあまり見当たらないのです。
誤解や誤伝を生む恐れがあるからでしょう、また、そうした内容を説く事には厳しい戒めもあるように思われます。

こうした神秘的とも思われる修法の世界は、概ね学者からは疎んじられてきたように思います。
あくまで理によって仏教を理解し、理によって仏教を説く事が優れたもののように思われてきた面があります。
行者の修法の世界を見下したような面が感じられるわけです。
もちろん、行者さんにもいろいろな方がおられた事が大きな要因だとは思いますが・・・

少しとりとめの無い話になってしまいましたが
空海の思想は、大日如来という真理への参入を真言をもってする、という事を抜きにしては語れないと思われます。

大日如来が実体では無いとか、諸法無我の客観的表現であるとか、おっしゃられるのには疑問を感じます。
体験を抜きにした見方だけでは、空海の思想の論評だけに終始してしまい、その本質に近ずく事は出来ないものであると思うのですが・・・
論評される事はいかようにもご自由だと思いますが、それだけで片付けてしまっては、お大師様がきっと残念がられるのではないでしょうか。

参考図書  織田隆弘著 密教祈祷の秘密
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>空海自身の思想は、梵我一如思想から一線を画していたとは、どういうことでしょうか?



これは容易に想像がつきますね。

絶対者を実体と捉えれば梵我一如になります。

例えば真言密教は大日如来という絶対者を措定して、これと人間が合一することを悟りと考えますが、これは外面的には梵我一如の思想に似ています。

そして>以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。
とはどういうことか?

つまり絶対者を実体と捉えた。


しかし大日如来は実体的なものではなく諸法無我という真理を客観的に表現したものに過ぎない。

したがって梵我一如が絶対者への帰入という神秘思想であるのと違って密教の場合でも神秘思想は存在しない。

これが>「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが

ということを表現しているのだと推測できます。
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空海は大日如来の再誕として自ら位置づけ、そしてそれを弟子に実行させるため南無遍照金剛=と唱えさせました。



遍照金剛とは大日如来で、これを知ることが彼の思想を知ることです。

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想です。

空海はこの梵我一如から一線を画していたにしても王道である仏法からは外れていました。

王道とは釈尊から始まり日本の聖徳太子へ。そして伝教大師日蓮聖人と受け継がれた仏法の正しい流れです。
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私は空海思想がよくわらないので、どなたか教えていただけないでしょうか。



空海は生まれた時から超が付く天才だったのですね。10代前半で漢文・漢詩を自由に操り、儒教・仏教思想の優劣を対話形式にした書籍も書いているのですね。当然現代人のように東京大学の代わりに当時は京都の大学で学んでいますが、19歳ぐらいには大学ですでに学ぶことさえなかったのでしょう。京都を離れて山野で修行し、高知の室戸湾での瞑想で彼流の梵我一如の経験をするわけです。その後は中国にわたり恵果和尚から第八祖を継いだことは有名な話ですね。中国でもあまり学ぶことはなかったと思いますし、実際半年ぐらいで卒業してますね。
さて、何をいいたいかといえば、空海は千年に一人の逸材ですから釈迦仏教を早い段階で習得し、実体験もしていたということです。
このような人物が高野山に真言宗を開き教祖となったわけですが、さて集まった弟子に何を教えていくかなんですね。
自身が得た梵我一如のことは伝えたとしても凡人弟子には到底理解できないことはわかっているものですね。まずは正当な仏教の学びと修行をさせることが主たる学びですよね。空海もそのようにしたはずですね。
後代の弟子は空海が達しえた「梵我一如」にあこがれることは至極当然なことですね。その結果を求めるあまり途中過程を飛ばした思想や修行に陥ったということでしょう。
それが、
「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近してしまった。」
という表現じゃないかと思いますね。
凡人は天才を理解できないことは釈尊の時代も空海の時代も現代もおなじですね。
一方、天才空海の即身成仏(梵我一如思想)を秀才最澄はまったく理解できなかったようで、「即身成仏」にたいして「悉皆成仏」などがありますね。生きているうちはわからんが死んだら仏だといいたかったのですかね。この程度の思想が天台の大元ですからどちらへも何もいえないですね。
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あまり詳しくないのですが、「悟りの挑戦(下巻)/大川隆法/幸福の科学出版」を読むと以下のように思えます。



★梵我一如思想

個人の霊体の核は、死後、天上界の神様的存在と一体となる。(個人と宇宙の理法が一体とする考え方)
インドのバラモンという僧侶階級が伝統的に持っていた思想。
 -->個人は、死後に神と一体になるので、現状肯定でよい。個人の努力は別に無くてもいい。そのままで成仏できる。
  -->修行を疎かにして、堕落、腐敗した生き方でも良い。
   -->天台本覚思想(一切衆生悉皆成仏)


★空海の思想

・釈迦の縁起を認める
 -->良いことをすれば、良い結果が生まれる。悪いことをすれば悪い結果が生まれる。
  -->修行をしない怠け心、堕落、腐敗した生き方は、それ相応の結果を生む。
    (ただし、その結果は、死後に天国・地獄というだけでなく、転生輪廻したとき、つまり次に生まれたときに報いを受けることもある。犯罪者がうまく逃げ切った場合、次の人生が酷いことになる)

・無我思想
 -->3次元的に認識できる「我」は、ほんとうの「我」では無い。

なお、この無我思想は、「我が無い」-->「魂が無い」-->「転生輪廻の主体が存在しない」と誤解され、これが仏教がインドで滅ぶ要因の一つになったそうです。
また、この誤解は、仏教を「この世が全て、死んだら何もない」つまりは「唯物論」を主張しているとも思われたようです。日本の仏教界も、このように誤解している僧侶が多いらしいです。

   -->一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の思想へ。


大川氏の著作によれば、空海は、「宇宙即我」の悟りを持っていた、また霊能力を持っていたそうです。なので、きちんと釈迦の思想を理解できたが、そういう力を得てない仏教者たちは、釈迦の思想を「唯物論」と誤解してしまったそうです。そして、その誤解は今も続いているそうです。
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