中2です。
冬休みの宿題で人物調べというものがあります。
僕は武田信玄を調べることになりましたが、
武田信玄のことをそんなに知りません。
教えてください。

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A 回答 (3件)

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0% …

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した。
http://blog.livedoor.jp/steere0112/archives/5088 …

兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
助かります。

お礼日時:2009/12/18 21:05

1です。


信玄の特筆すべき点は狼煙台ネットワークと軍用道路を使った事です。
支城が攻撃されされた際、速やかな救援が可能でした。
有名な第四次川中島の戦いの際も狼煙ネットワークにて上杉の出陣
を知る事ができました。
川中島から甲府まで150kmくらいの道のりを狼煙リレーで2時間程度で
情報を伝る事出来たそうです。

軍用道路は棒道と呼び、軍勢が移動しやすいように直線の道路を切り開きました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%92%E9%81%93
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この回答へのお礼

ありがとうございます。助かります。

お礼日時:2009/12/18 21:06

人に聞く前に自分でどこまで調べたか?


どんな本を読んだか?
ネットでどのような事を知ったか?
宿題でしょ?そこでわからなかった事を聞くべきです。
人に「知らないから教えて」と軽々しく聞く前に。
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この回答へのお礼

わかりました。
さきに自分で調べてから聞きます。

お礼日時:2009/12/18 21:04

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Q武田信玄関連のマンガ本知りませんか???

「武田信玄」について、色々知りたいと思っています。

歴史的勉強とかではなく、人間像や生き方、人生観などを学んでみたいと思っています。

手っ取り早く、できれば「マンガ」がいいかなって思っています。

お奨めの本ってありますか?

ご存じの方、是非、書き込みをお願いします。

Aベストアンサー

ネットで探せば山ほど出てきますけど。。。
私が読んだことあるのは
横山光輝 「武田信玄」。
これは、まあお勧め。
でも、どうせ読むなら続編の「武田勝頼」まで読まないと。
(ご存知でしょうけど、念のため。
 武田勝頼は武田信玄の子供。
 後継者で、この代で武田家が滅亡します。)

Q信玄の家来の数

武田信玄は何人家来がいたのでしょう?

Aベストアンサー

 落城で城が焼け滅びた武将については、資料が
少なく武田氏も同じです。

 信憑性は低いようですが、「甲陽軍鑑」が頼りで

 「武田法性院信玄公御代惣人数之事」
一、 「騎馬数合わせ」 9121騎 とあるそうです。
 これが家来数というところですか。

 但し騎とは騎馬武者の数ではなくて、人数と
解すべきで、9121人ということです。

 家来の武士1人が仮に従者3人を連れたとすると
総兵力、約3万6千というところです。

 従者とは徴発農民兵が大部分でしょう。

 城が残った、後北条や上杉には信頼すべき資料が
あるようです。
 
 謙信の天正3年の「軍役帳」が有名で 5514 人と
あります。

 家来(家臣)をどう捉えるべきかですが、徴発農民兵
を除いた準常備兵のこの数字でどうでしょう。

Q武田信玄について人物像などがわかりやすい本はありますか?

武田信玄ファンの方にお尋ねします。
新田次郎さんの小説は有名だと聞きましたが
長そうなので、時間のあるときに読んでみようと思います。

ただ・・・もし手っとり早く人物像や具体的にどんな
活躍ぶり(合戦以外で)かを知りたい場合
写真付きの解説などがあるわかりやすい本などはあるのでしょうか?
DNA的に?一族とつながりあることがわかってきました。

歴史ファンの中ではとても評価が高い信玄ですがなぜなのか?
この人にとても興味があります。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 武田信玄ファンではありませんが、回答がないようですので、参考に記入します。

 戦国時代の人物をビジュアル的に見たいのであれば、学研の「歴史群像」シリーズが一応のお勧めです(合戦や城郭の想像画が豊富です)。武田信玄は人気武将ですので、数回取り上げられています。内容までは確認できませんが、家臣団の紹介や築いた城郭の紹介、内政面として信玄堤等の記事があるかもしれません。
 参考URLに一覧がありますが、「武田信玄」と名前があるものの他、「風林火山」も(山本勘介が主でしょうが)武田信玄もとりあげていると思います。

 実物は見ていませんが、山梨県や甲府市の編纂した県史・市史あたりにも、写真情報が載っているかもしれません。

 甲斐源氏は多くの武将を輩出した一族です。男系でも高家武田家を始めとして、江戸時代にも血統は残っているようです。女系(大河ドラマ「天地人」の上杉景勝の正室は武田信玄の娘でしたね)や甲斐源氏の支流も含めれば、相当数がいると思います。一庶民からみると、夢のある話で羨ましい限りです。

参考URL:http://rekigun.net/published/series.html

 武田信玄ファンではありませんが、回答がないようですので、参考に記入します。

 戦国時代の人物をビジュアル的に見たいのであれば、学研の「歴史群像」シリーズが一応のお勧めです(合戦や城郭の想像画が豊富です)。武田信玄は人気武将ですので、数回取り上げられています。内容までは確認できませんが、家臣団の紹介や築いた城郭の紹介、内政面として信玄堤等の記事があるかもしれません。
 参考URLに一覧がありますが、「武田信玄」と名前があるものの他、「風林火山」も(山本勘介が主でしょうが)武...続きを読む

Qチャーチルは信玄ではない

動かざる事山のごとくない気がしました。
1945年のバルジ攻勢で怖気づいて?ソ連に攻勢を促進しました。
これは後に連合国側につけとなってしまったのではないでしょうか。
この経緯についての評価は一般にどうなのでしょうか。

Aベストアンサー

もともとソ連軍の攻勢を要望したのはアイゼンハワーで、チャーチルはそれに応えてソ連に電文を出したと思いましたが・・・ちなみにアイゼンハワーは、米本国にもソ連軍の攻勢を望む電報を出しています。
ソ連軍が攻勢に出たから後の外交的取引で不利に働いたという事はないと思います。
そもそも貸し借りで言えば、ソ連の借りの方も大きなものでした。米・英のソ連に対する軍事援助は莫大なもので、戦車1万両以上、航空機1万6000機以上、トラック40万両以上、その他の物資も莫大な数量が援助されています。
こうした援助がなければ、ソ連は勝てなかったでしょう。それを考えれば、ソ連軍の攻勢・・・、それも米軍の反撃が始まって10日も経ってからの攻勢では、大きな借りになったとは考え難いです。

そもそも、ソ連は米・英の軍事援助に感謝はしますが、それを外交上の事で配慮するという事はしない国です。
1944年8月のワルシャワ蜂起の時、英国は抵抗組織へのソ連軍による救援、または弾薬・対戦車砲の援助、もしくは救援物資を運ぶ飛行機の着陸許可を、ソ連に求めますが、ソ連はこれを拒否します。
ソ連は自国の都合が第一にあり、他国の都合は第二です。そのような国が一方的にバルジでの借りを返せと言っても妥当性はないでしょう。

ヤルタ会談では確かにスターリンのペースで事が運んだと言えるでしょうが、未だドイツが健在であり仲違いをしている時ではない事と、対日参戦を取り付ける必要があった事から米英が譲歩したいうのが一般的な見解です。バルジはそれほどつけにはなっていないと思います。

もともとソ連軍の攻勢を要望したのはアイゼンハワーで、チャーチルはそれに応えてソ連に電文を出したと思いましたが・・・ちなみにアイゼンハワーは、米本国にもソ連軍の攻勢を望む電報を出しています。
ソ連軍が攻勢に出たから後の外交的取引で不利に働いたという事はないと思います。
そもそも貸し借りで言えば、ソ連の借りの方も大きなものでした。米・英のソ連に対する軍事援助は莫大なもので、戦車1万両以上、航空機1万6000機以上、トラック40万両以上、その他の物資も莫大な数量が援助されています。
こ...続きを読む

Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q【謙信VS信玄・山本勘助】 川中島の合戦に関する質問

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。

疑問に思ったことを質問します。

1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?

2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?

3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?

4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?

5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?

6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?

7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?

8)山本勘助は実在したのですか?

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して...続きを読む

Aベストアンサー

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。

2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。

3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。

4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。

5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。

6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。

7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。

8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。...続きを読む

Q武田信玄

中2です。
冬休みの宿題で人物調べというものがあります。
僕は武田信玄を調べることになりましたが、
武田信玄のことをそんなに知りません。
教えてください。

Aベストアンサー

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した。
http://blog.livedoor.jp/steere0112/archives/50884237.html

兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した...続きを読む

Q武田軍が長篠城まで攻め込んでいたということは、遠江は武田に支配されていたのですか?

(1)武田軍が長篠城まで攻め込んでいたということは、信濃の松尾城~犬居城~二俣城~井伊谷城~長篠城というルートで攻め込んだのでしょか?
それとも直接、信濃から三河に攻め込んだのでしょうか?

(2)三河の田峰城などから信濃に侵攻することは可能でしょうか?

(3)曳馬城・横須賀城などの海に近い城は武田に占領されたことがありますか?

(4)遠江の半分は武田に支配されていた時期はあるのでしょうか?


よろしくお願いします。

Aベストアンサー

武田家の最大版図は信玄ではなく、勝頼によって達成されました。
長篠の戦いの時点で、遠江の徳川方は浜松城を拠点として南西部のみを押さえており、遠江の大部分は武田領でした。

1)直接に三河へ入り、豊川~二連木~牛久保と攻めたようです。
2)村々を調略しながらであれば、どこまでも進撃は可能です。ただしそれには、主力決戦に勝利するなど、調略に成功する材料が必要です。
3)曳馬城は浜松城の一部というべきかも。長期にわたり占領されたことはありません。横須賀城は、高天神城を武田に奪われた危機感から浜松防衛のために築かれたもので、武田に攻められたことはありません。
4)半分以上が武田に支配されていました。

Q武田信玄の家来 先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました 諏訪と言う名字です 家紋は諏訪神社下社と

武田信玄の家来
先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました
諏訪と言う名字です
家紋は諏訪神社下社と同じで諏訪梶の葉です
本当に武田信玄の家来でしょうか
わかる方教えて下さい

Aベストアンサー

その情報で断定は出来ないんじゃないでしょうか。

せめて家系図無いんでしょうか?
諏訪を名乗れるということは、諏訪氏一族でも本家に近いはずですから、
家系図ぐらいはあるはずです。

それも無いのなら、話半分くらいで聞いておくのが一番良いんだろうと思います(笑)。

Q信玄・謙信の一騎打ち

川中島の戦いで信玄と謙信の一騎打ちは本当に
有ったのですか?
実際戦いを見ていた京都の公家が
戦いの様子を日記に残しているそうなのですが。

Aベストアンサー

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはできません。こういう時代に大将同士が対決することはほとんどありません。

従軍した公家の日記、とありますが。信頼性の上で問題が二点あります。

従軍と言うとフリーな立場ではないですよね。ましてお公家さんなら、自分の面倒すら他人に頼ってますよ。食糧から安全まで。それなら雇い主のためにいい事をでっち上げる可能性も無きにしも非ずです。また検閲もあったでしょう。名も無き兵たちの活躍よりも大将同士の一騎打ちのほうが、ウケますよね。

さらに、当時の公家の日記というのは、誰にも見せず秘密にするものというより、誰かが見ることを前提に書いていたらしいです。これまた大将の一騎打ちのほうが、読んでいて楽しいですよね。

余談ですが川中島の戦いも、言われてるほど名勝負というのではないらしいです。
一回で決着が着かなかったのは、よく言えば実力伯仲、悪く言えば傑出した才能ではなかったからと言う理由。
武田、上杉両軍も織田軍と違い、半農半兵(農耕のために力を温存しなければならない)なのと、雪国なので限られた時期しか戦えないために、両軍とも総力を結した戦いではなかったらしいです。

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはで...続きを読む


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