土曜の昼、学校帰りの昼メシの思い出

4年ほど前、京都の紅葉で有名なお寺に行った時の事。
お茶を飲みながら庭の紅葉を十分に堪能して帰ろうとした時、どういう流れかは忘れましたが真言の話を同行者とすることになりました。
(おそらく住職の話に出たか、寺の掛け軸にあったか)
で、軽い気持ちで「昔、猿飛佐助のアニメがあって、主人公のサスケが『オン キリキリバサラ ウンハッタ』と唱えて色々な術を使っていたよ」
という話をしました。
また「孔雀王という漫画で『アビラ ウンケン ソワカ』なんても言ってたな」とも。

すると遠くでそれを聞いていたご住職がとんできて
「そういう言葉をみだりに発してはいけない」
という話を15分ほどされました。

そのお寺は紅葉のライトアップなどをしていて、観光地のお金儲けという様相が強かったので、そういう寺の住職が説教するとはよほど重大なあやまちを犯したのかと怖くなってしまいました。

それらの言葉はどんな意味があるのでしょうか。

A 回答 (9件)

真言は、正しい時に正しく発音すれば言葉が実体化すると信じられているものです。



で、発音した言葉は正しくは無いのですが、言葉の意味を知らないものがむやみにマントラの類の音を発音するのはよくないと言いたったんじゃないか と。
間違えて発音しちゃって、それが時が合致していたら、その間違えた発音のことが現実化すると信じられているからじゃないかと。


だから、天皇は公の場で、ゆっくり文字を読み上げるんです。
天皇が発する言葉は神が発する言葉とし、「国民の幸福を」のはずが、「国民の不幸を」なんて間違えてしまったら、その通りになってしまう という感じ?



表は観光地化していても、仕事上みんなの幸せを願う呪文を毎日お仕事として唱えてはいるんじゃないかと。



日本人は映画を観て「サノ〇ビッチとか」「アス〇ール」「ファ〇クユー」とかみだりに言いますが、それをもしアメリカ人に言ったら、ただじゃすまされない事態になってしまいます。
そういった禁句を、日本人がみだりに唱えているのを見て、アメリカ人は複雑な気持ちなんじゃないかと。
知らないからみだりに言えるわけで、時があっていたら、床に叩きのめされてしまうでしょう。

これが言葉の力の恐ろしいところ。


良い呪文であっても、厳かな言葉をみだりに使うってのは、価値を認めていないってことになり、、、、
例えば古代バビロニアあたりでは、神の名をみだりに唱えてはならなかったので、エルとかエールって神を代名詞で呼んでいたんですね。
意味は「我が主」。

ユダヤ人もそれにならって、エルと表記していたのですが、大贖罪をするときは大祭司は神を呼び出すために、神の真名を唱えていたらしいです。
7年に一度後継者に神の本当の名前を教えていたのだそうです。

一般人や他の聖職者にどうして教えなかったのかというと、その言葉をみだりに使われないためと、敵に名前を知られると、神が呪術で呪われてしまうから。



日本も昔<諱>というものがあったそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

<これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。>

遠山の金さんは、遠山金四郎景元が本名で、景元が諱。つまり景元が本人の本質を表した文字なので、親とか上司しか知らなかったってわけです。
敵に知られると、呪術で支配されてしまうと信じられていた。


ってことで、この文化の人たちが信じていることを部外者の人がみだりに使うって、よくないんじゃないかと。
例えば、日本人は子供をみて「かわいいなぁ」と左手でなでたりしても問題ないですが、インドでそれやったら、親は烈火のごとく起こる。
文化の違いで、あっちではとんでもないことになるわけです。
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15分も説教されて、なにも判らなかったのですか?



お寺がワビサビで、くすんだもの、モノクロの世界だという誤解は多くの常識人の中にも多いです。
仏教には二つの面があって、一つは自ら修行する事で世の中を救うというもの。これが質素なイメージの仏教です。
もう一つは民に極楽浄土を示して、救われようとする希望や自立心を発起させようという姿勢。金色の対物や極彩色の彩りはこのためです。
昔は世間にあまり派手な色が多くなかったので、極彩色の寺院や金銀の仏があれば、皆華やかな気分に包まれたでしょう。
色が溢れている現代において、ライトアップはそれと同じ意味合いを持ちます。決して金儲け主義とは関係ありません。

真言は、言葉自体に力を持つ呪文のようなものです。
「言霊(ことだま)」というのを聞いた事があると思いますが、人に対し罵倒すると、そのマイナスの力が相手に作用して不幸にするとか。逆に誉めるとプラスに作用するという奴です。
真言はそれを、更に強く作用させる言葉なのです。
そして「ちちんぷい」のような呪文とは異なり、要するに外国語です。

外国の言葉や習慣を理解しないで外国に行き、或いは外国人に対してとんでもない言動に及び、殺されたり逮捕されたりする日本人は報道されないだけでかなり多い。
日本でソープランドをトルコ風呂といってトルコの人達が激怒した過去があります。聖地という意味でメッカという言葉を多用してモスリムの人たちが激怒した過去があります。
でも実際の所、日本人の中には「何でそんなに怒る必要があるのか」という意見が多かった。
外国人が罵倒しても馬鹿にしてもエヘラエヘラしていられる平和ボケの日本人だから、愛国心や強い宗教心を持たない日本人だから実感できないのです。

それに多くの漫画に出てくる真言は、相手をやっつける為のものです。つまりさほどの危機感も無く話す言葉は、相手を傷つけたり殺したりする為の言葉なのです。

多分、現在も真言と同じ言葉を使われている国であったなら、漫画や小説でもそのまま書くような事はないでしょう。
信じていない、ただの観光客から見れば照明もたんなる商業主義だし、真言も「ちちんぷい」も差が無いでしょうが、信仰に生きている人にとっては大きな意味と実現力のある言葉なのです。
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私も若い頃に似たような体験があります。


札所にもなっている由緒ある観音様の霊場にお参りした時の事でした。
観音様のお姿を一目見たいと思い、本堂の前の柵を乗り越えて扉を開けようとしました。
すると近くに居た住職の人から、大きな声で、それは結界ですよ
結界を破ってはいけませんよ、と言われました。
ああそうか、礼儀知らずで悪い事をしてしまったのか、と思いました。
住職の方は年配の女の人でしたが、非礼を詫びて話をしたところ、実に温かみのある人でした。

心の広い仏様の前でも、最低限守らなければいけない礼儀というものがあります。
真言は仏様の本名のようなものだと思います。
お寺の境内で、仏様の本名を軽々しくあざ笑うような事もやってはいけない事なのだと思います。
仏様の徳を面前で侮辱するようなものです(少し大げさかもしれませんが)
観光化されたお寺に遊びに行っても、やはりそうした礼儀は守るべきでしょう。

私と同様に貴重な体験をされたと思ってください。
お寺が遊びの場所であっても、そこで仏様をけなすような事だけはしないように注意なさってください。
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お寺っていうのは世間とは隔離された場所ですから、おそらく


「俗な会話をするな」
っていう意味だと思います。

せっかく隔離された場所で俗と同じ会話をしていたら「お寺」の意味もないですからね
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昔から 仏教でも 声というのは大切な精神的な要素として認められてきました。



有名な「経」という一字も、 単に言葉を意味しているのではなくて、音声という気持ちや生活のすべてがそこに繁栄される世界を意味していて、大切にされてきました。

でも、 音声は 例えば現代の日本では歌の世界で重視されていませんし、現代の日本人は聞く耳も衰えているといわれていますが、 ベルカント歌唱法のような心や自然な体の使い方を大事にする世界では  発音の正しさなんかよりもずっと大切な歌の要素として扱われていたりしますし、西洋人のほうが今では 音声から人の心や想いの世界を直接に理解する能力は高いとも言われているわけです。

でも、それは昔からそうだったわけではないはずです。

ともかく 少なくとも昔の仏教では、 声の世界はとても大切にされていて、 そこに生活の大切な思想とかのすべてを込めた 音声を発するための言葉を文にしてきた歴史があったりするわけです。

念力というのは、物理的にはほんのわずかの 小指の力にも及ばない力しか発揮できませんが存在はします。 念を入れることでわずかな力は実際に働きます。

それが たとえば、その念が正常で深く 優しく相手の体をいたわって 痛むところをさすってあげたりすれば、 それだけではわずかな力や効果であっても やがてそこから気脈の世界を発見して医学の基礎を築いた昔の仁術の達人達のように、 長い間には その想いの世界は 実際の世界にも通用する知恵となったりするのですが、

そういう念を 深い知恵の言葉と一致させることで 人にも歌のように心を通じ合わせ念を通じ合わせより大きな たとえば平和への力としてゆくことを、昔の知恵のある人たちや仏教の修行者たちは求めていたと思います。

今ではたしかに、 そこまで考えて真剣に現代人には現代人の必要な世界を考え必死にそのへんを教えてくれる人とかいなくなっているかと思いますが 昔の人の知恵への敬服の心は残っていて、それがビジネスや形骸化した信仰とか、一部金儲けのための逆方便のような偽善に使われていたりしようとも、   おそらく 15分も真剣に怒ってくれたことには、そのへんの敬服の心からの まじめな心によるものと思われます。

過去の文化遺産をともかく守るという程度のものとなっているのかもしれませんが、どうせならそのもともとの意味合いと深さを、もっと、もっと、私たち現代人にも解かりやすく教えてくれる、真剣な人が住職がたくさん出てくるといいと私は思っていますが、

ともかく 経(音声とともにある言葉)や それを唱えるもともとの意味合いは深い哲学や知恵の跡が隠されていたりします。  

たしかに 大切な点を注意されたのだとは思いますが、 だからといって、みなさんが言われるように 怖くなる必要は無いでしょう(笑)。

アニメや漫画に使われるのは、 おもしろおかしくするための盗用です^^。

なおさら そんな気でおしゃべりしただけなら気にする必要ないですね^^。

私、ここに書いている『~』内の言葉の意味は解からないのですが、 全体からそんな類推回答をしてみました。
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その住職がバカなだけです。

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言霊使いです。

言葉は意味を知って使うから「用」を成すので意味も知らず今回のように使うのは全く大丈夫ですので安心してください。

そういうことも知らず勉強もせずに注意したこの坊さんは無知極まりないので、反対に怒り返していいくらいです。

たとえば、ある新興宗教の宗派で「アーメン」をいえば世界は平和になると言ってますが、内心はお金がもうかればいいと思っているので全然世界は平和になりません。

このように言葉とその時考えていることによって実現されるものが変わりますので、どのような言葉もその言う人の心によって変わります。意味だけで変わるものではありません。

言う言葉と意味と心の3つが揃わないと効力は薄いのです。
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お金をはらって(寄付して)も感謝されないというのは、不条理ですよね。


でも日本はそういう世の中なのです。残念ながら。

奉納金・通行税・お布施を「はらわさせてもらって」ありがたいとおもえ!
ということです。
おじじこそアラヒトガミ。絶対なのです。

この説教の背景には、
他人からお金を搾り取る権利は、おじじのみに属し、

なおかつ、何が正しいことかと決定する権利=

世の中の「へそ曲がり」を矯正する絶対的親権が、おじじのみに帰属するという
基本理念が存在します。

おじじこそがただしい。
おじじがきほん。

愚民は、「だまって」金だけ払っていろということです。

別に不思議なことではありません。

自分は無知で質問しているくせに
回答者を軽んじ、感謝もせず、質問する自分が偉いと勘違いして、回答者に感謝もしない。

回答させてやるのだから感謝しろ!というこのコミュニティーの一部の人間(老人)と
ある意味、共通する部分がある
といえるのではないでしょうか。
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ちょっと調べたら、



*オン キリキリバサラ ウンハッタ→マントラのアレンジ<密教の呪文>です。


*アビラ ウンケンは、<大日如来>の事のようです。

*ソワカ→真言宗の何かです。

だから、安易に言葉として発する事が、駄目だからでしょう。
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