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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
徳川家斉は11代将軍です。
12代家慶は「子」で、13代家定は「孫」、14代家茂も「孫」です。
しかし、15代慶喜は水戸家の出身であり、徳川宗家からは非常に遠い血筋です。

家斉は53人もの子をもうけた人物であり、「好色な馬鹿殿様」のイメージが
強いですが、彼は自分の血筋を絶やさないようにするため、必死だったの
かもしれません。
事実、彼は水戸家を除く御三家・御三卿には、実子や弟を養子入りさせました。
(しかし、実家である一橋家の系統は断絶し、水戸家から徳川慶喜が養子
入りして後に将軍になったという事実はなんという皮肉でしょうか)

では、幕末期においては、家斉を血を引く人物は多数いただろうに
血統が非常に遠い慶喜が将軍に即位したのはどういった事情によるものなんで
しょうか?

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A 回答 (5件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>徳川家斉の家系は絶えてないのに、宗家を継げなかったのはなぜ?

回答から先に述べますと、世継ぎがいない場合は、必ず、神君家康公の血筋に戻す、つまり「本流に戻す」という決まりがありました。

(1)13代家茂に子どもが生まれず、14代を誰が継ぐかで議論がされました。
(2)その候補としては、徳川慶福(よしとみ=14代家茂)と、一橋慶喜でした。
(3)あなたのおっしゃる通り、慶福は、11代家斉の孫に当たり、将軍家とは最も血筋の濃いことから候補に挙がりました。
(4)13代家定の時代に、重臣として政務を一手にこなしていたのが老中首座の安部正弘でした。
(5)安部正弘は、諸外国に開国を迫られる中で、米国の総領事ハリスと通商条約提携に向けて話し合いをしていましたが、安政4年(1857)6月17日に39歳の若さで急死してしまいました。
(6)その時、動いたのが、井伊直弼で、「自分なら諸外国とうまくやっていける」と、豪語して、13代家茂に取り入り「大老」となりました。
(7)家茂に世継ぎができなかったため、直ちに、次期将軍を選ぶ必要がありました。
(8)慶喜を押す水戸の徳川斉昭、慶篤親子や尾張の徳川慶恕、松平慶永(春獄)、島津斉彬などは、当然、「血筋を戻すべきだ」としていましたが、慶喜は無類の「倹約家」として有名であり、大奥は13代家茂の継々室(3番目の正室)の篤姫(天璋院)以外は、「大奥が粛清される」との噂が立ち、こぞって、慶喜を嫌っていました。
(9)井伊直弼は、世情不安の中、さらには大奥を敵に回しては、自分の保身にはつながらない、と考えていました。
(10)そんな中で、井伊は「尊王派」であったため、死亡した安部の後を継いで、慎重に開国の話を進めていましたが、安政5年(1858)6月16日、ロシア軍艦アスコルドが下田に入港しました。米国との交渉役であった、岩瀬忠震(ただなり)と井上清直は、色々な経緯もありましたが、米国と勝手に「通商条約」を締結してしまいました。
(11)これに対して、同じ「尊王派」であるのに、なぜ性急に締結してしまったのだ、と、(8)の連中が6月23日に登城して井伊を吊るしあげました。
(12)井伊は大老とはいえ、家格が下でしたので、ただただ平身低頭をしていましたが、(8)の連中はさらに井伊を追い落とすべく24日にも登城して、井伊を吊るしあげようとしましたが、井伊は、この2度の事件を逆手にとって、いわゆる「安政の大獄」を実施し、(8)の連中を除外し、大奥に人気のあった慶福(=家茂)を14代とすることに成功しました。しかし、家茂にも世継ぎが生まれなかったため、また、井伊は「桜田門外の変」で刺殺されたため、15代には「神君の血筋に戻す」の慣例から、慶喜が15代将軍となりました。

安政の大獄:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%94%BF% …

この欄では、字数の制限がありますので、「かいつまんで」お話をさせていただきました。
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徳川の相続は必ずしも血筋ではないです。


前例として8代将軍ですけど、家光の直系の孫で6代家宣の実弟にあたる松平清武が健在であり、血筋で言えばこの方が8代に座ってもよかったのですけど、なぜか傍系の紀州から吉宗が入ってきています。
巷間言われる「いったん養子に出たから」という説も、兄が新見家の養子から出戻っており、54歳という年齢がネックになったという点も血筋とは関係ない話で、逆に将軍後継者は血筋より情勢と言うことと思います。
慶喜の場合、もう1点おもしろいのは他家がほとんど一橋一族の血筋でしめられているのに、宗家だけ血が違うという皮肉。
つまり、「血縁の一橋傍系VS血のつながらない宗家」という政治的対立もあったと言うことかと。
血筋ではないという前例がある以上、当時の政治情勢から最適任と思われたのが彼だったのでしょう。
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興味あるので少し調べてみました。


家斉の息子は、大半が家系を残すことができていませんね。
あるいは男児が生まれても、その息子達の男児が男児を残さず死んでいます。

家慶は12代、家定を含む15人の男児を作るも、男系の孫は皆無。
斉順の家系は唯一の男系が14代に続いています。
斉明 絶える。
斉荘 絶える
斉衆 鳥取藩池田家へ養子、徳川から外れたため候補にはなれず。
斉民 津山藩松平家へ養子、徳川から外れたため候補にはなれず。
斉良 絶える
斉温 絶える
斉彊 絶える
斉善 絶える
斉裕 阿波藩蜂須賀家へ養子、徳川から外れたため候補にはなれず。
斉省 川越藩松平家へ養子、徳川から外れたため候補にはなれず。
斉宣 明石藩松平家へ養子、徳川から外れたため候補にはなれず。

他の12人は元服前に死んでいるので、おそらく男児はいないと思います。

25人の男児をもうけても、結局幕末まで男系を保っているのは、徳川を離れた5家だけですね。
御三家御三卿で血脈を保てなかったという単純な結論になりそうです。

14代家茂は家斉弟斉匡の孫田安亀之助家達を後継指名しますが、4歳という若年ゆえに老中・和宮・雄

藩の反対にあい16代とされます。
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”徳川”を名乗ってなければ、継承できない。

一度”徳川”から離れたら戻れない。
血統が近くても、松平定信は、候補に上がっていない。

家斉は名君か?
幕末の将軍 (講談社選書メチエ) (単行本)
久住 真也 (著)
この辺の解説によると、無論「血統を多く残した名君」として幕末には幕府の中では評価されていたとのことです。

徳川実紀は、家斉の時代に建議された。
だいたい、こういう歴史物は、俺ってえらいよ、その理由は歴史的に正しいのさ!とされて作られます。すくなくとも本人と、建議した人間はそのように思っています。

日本書紀
→ 天武天皇
吾妻鏡
→ 北条家
太平記
→ 足利直義関与
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慶喜将軍就任時は他の候補は


同じ御三卿の田安亀之助がいましたが幼児の為、
一橋家当主の慶喜が将軍になった様です。
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