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論語(孔子)の「而立」「不惑」の現代的意義とは?

ポスト資本主義(「超~」なのかな?)かつ超高齢化の現代社会において、かつて
孔子のいった30で「立つ」、40で「惑わず」ということの意味は、どういうも
のになります?
(不変だよ、という回答も想定されますが……)

たとえば組織(会社)内での役職にわりあてるといった陳腐な解釈は論外(なるべ
くね)として、もっと広いパースペクティブで理解するなら。
やはり精神的成熟の「ものさし」になりますか?
それはつまらない、とまでは言わないけれども、大胆さに欠けるきらいがあるようで。

まあ、素人の疑問ですが、相当ハードでハイレベルなことを聞いちゃっても答える
人がないのは困りますから、もうちょっと具体的にいえば、あたかも「40」を避け
るようにして死んだ有名人っていますよね、太宰や芥川。
あれは何でしょう?

あるいは、小林秀雄や三島由紀夫は「不惑」や「而立」についてまともに論じたこと
がありますか?
そのあたり博識な回答者がいれば(すごく)助かります。

A 回答 (2件)

 意義なんかない。


 あれは仲尼の個人的回想。それを普遍の発達課題みたいに思う奴の気が知れない。ちなみに小戴礼、いわゆる『礼記』では、四十歳で仕官することになっている。だから40にして立つことになるが、これも漢代に作られたものだから、当てにはならない。
 春秋末は社会が乱れ、いわゆる外嬖は、若くして仕官することも多かった。
 『論語』は聖人君子の説いた人倫の規範なんかではない。一般化する方がどうかしてる。ダンマパダじゃないんだから。

 芥川は評価するし、気の毒だと思うが、太宰も三島も小林も、ろくな人間ではない。作品も、読むに耐えない。まあ、若いときなら読めるかも知れないが。ドストエフスキーと一緒で、青春文学だね。
 同じ背伸びするなら、梅崎とかモーリャックでも読めよ。
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2千5百年のスケールで生き残って来たことが、ポスト資本主義だ、超高齢化の社会だ、太宰や芥川や小林秀雄や三島由紀夫などと、いきなりタイムスケールの小さい話になっているとは、随分スケールの小さい話になっていますね。

で、太宰や芥川や小林秀雄や三島由紀夫などは2千5百年後の人類に影響を与えることが出来ると思いますか。それに対して人間とは何かを考えるときの「而立」「不惑」という認識の仕方は今後の2千5百年後に納得されなくなっていると思いますか。

それとも質問者さんは「現代的意義」という、如何にもマスコミ受けする流行りごとの刹那的な言葉に興味がお在りなのでしょうか。何だか、世界が自分を中心に回っているのだと思い込んで悩んでいる、青春の若々しさを感じます。多感な青春を謳歌して下さい。そしていろいろ目から鱗が落ちる経験をして下さい。

20代は夢が、30代では仕事が、40代では健康が、50代では老後が誰にでも興味の中心になるようです。
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