親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

江戸時代までの庶民は貴重品の管理をどうやっていたのか気になります。

例えば時代劇などに登場する庶民の住居ですが、都市部では多くは長屋ですよね。 ちょっと上のクラスの商売人 (例えば夫婦だけでやっているような) になれば数部屋ある一戸建てに住んでいたと思います。

時代劇で見た範囲で言えば、外出する時、今のように鍵をかけるとか一切無くて、開けっ放しの状態ですよね? 

ただ防犯面で言えば、大体は隣近所の付き合いが濃厚なので空巣にやられ難い面もあったでしょうし、仮に泥棒が入ったところで家の中には貴重品や現金などを置きっ放しにするケースなど無い状態だったのではないかなと思っています。

それでも自宅で小商いや食堂を経営している人の家には常に若干の現金 (当日の売上金や支払に当てるお金など) はあっただろうと思うのですが、外出して家に誰もいなくなる時、一体どうやって貴重品などを管理していたのでしょうか?

もしかして、24時間、常にふところに入れて肌身離さなかったのでしょうか?

でも銭湯に行く時は? お湯の中まで持って入ったのでしょうか?

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A 回答 (5件)

>時代劇で見た範囲で言えば、外出する時、今のように鍵をかけるとか一切無くて、開けっ放しの状態ですよね? 


その通りですね。
今とは逆で、外出する時はカギをかけないで、在室している夜間にはカギをかけていました。
日中は、隣近所の方々がお互いの家に注意・関心を払っていたのです。
「向こう3軒両隣」という言葉も残っていますよね。
そもそも、金目の物がありません。
多くの住民は「日払い・日給制度」です。今日貰った給金は翌日まで残さない!(宵越の金は持たない)のが、江戸っ子の心意気でした。

>外出して家に誰もいなくなる時、一体どうやって貴重品などを管理していたのでしょうか?

大店(おおたな)の場合は、蔵の中に入れていた様です。
一般の商人とか庶民は、床下の地面に穴をあけ、そこに甕を置き、その甕の中に金品・貴重品を入れていた様ですね。
東京都下の武家屋敷跡地建築工事では、時々地下から小判が纏まって出土しています。
下町の地域では、時々地下から寛永通宝などの束(当時は、紐にお金を結んでいた。銭形平次参照)

>もしかして、24時間、常にふところに入れて肌身離さなかったのでしょうか?

江戸の標準な大工さん。
(米価を基準とすれば、1両は75000円前後)今の金額にすると、日給は約1000円です。(棟梁で約3000円)
ニ八蕎麦が16文ですから、蕎麦一杯が320円もします。
母ちゃん・子供が居れば、懐にいれる程のお金はありません。
買物も、多くは「つけ払い」です。「ゴト日」には、多くの店から集金人が長屋になってきます。
落語の花見の話ですが、卵焼きの代わりに沢庵。蒲鉾の代わりに、大根の切り身の政界なんです。(笑)

>でも銭湯に行く時は? お湯の中まで持って入ったのでしょうか?

庶民は、余分なお金は一切持ち歩きません。(持つ事が出来ません)
自営業の場合などは、店主・番頭など交代で銭湯に行きます。
大店では、自分の家に内風呂がありますが・・・。
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この回答へのお礼

興味深いお話を頂き、有難うございました。
どうも一般庶民は床下に埋めた容器に多少の金子を保管していたようですね。
時代劇などでも、何かの拍子で多額の現金を手にした町民が、盗まれないように、どこかに埋めるというシーンをよく見かけます。
でも、職人のレベルでは「その日暮らし」が現実で、家の中に盗まれるような貴重品など存在しなかったのでしょうね。

留守の間は開けっ放し、人がいる夜は戸締りをシッカリ ・・・ 今とは随分と違いますね。

お礼日時:2010/04/28 15:44

 江戸時代の民芸品博物館などに行くと良く有る、隠し貯金箱に入れていたのでは?


 (一見すると貯金箱に見えないのだが、特定の手順を踏むと現金などを入れておける箱が開く物)

 私の祖母も嫁入りの時に持ち込んだタンスにそんな仕掛け(正にタンス預金ですが…。)が有りそうなのですが、急死したため空け方が分らず、しかも桐で出来たそれなりの物ですから、壊すのも躊躇われ、家族では現在たいした物など入っていないと思い込む事にしています。
 (タンスクラスだと空き巣が気軽に持ち出せる物では有りませんし…。)

 なお両替商(本両替と呼ばれた大両替商は、為替・預金・貸付・手形の発行により信用取引の仲介もやっていた)などは、今の銀行のように有る程度の規模の顧客の現金を預かったりしていました。

 両替商の預金の対象になれない中小の商家や一般家庭などでは、頼母子講(たのもしこう)と言う庶民の相互扶助を目的として、多数の人が金銭などを持ち寄り、集団で運用すると言う事が行われました。
 (沖縄では現在でも、これに似た模合[もあい、むえー]といった団体に県民の半数近くが参加しているとか…。沖縄以外の地方でもまだ残っている所も有るとか)

 なお、明治以降には無尽などと呼ばれ会社化していき、大正の頃(世界恐慌があった頃)には一般の銀行に匹敵する日本の経済を担う金融機関の一つとなっていました。

 戦後はGHQが難色(無尽の利益配当方法を賭博行為[特定の者(多くの場合は順番)に利益を供与される為]であると認識)を示した為、相互銀行へ転換し、現在では第二地方銀行(行名に県名を関した銀行など)や消費者金融として存続しています。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、隠し引き出しのような所にお金を保管していたとも考えられるわけですね。
そういえば、昔の家具にはそのようなカラクリが多くあったと聞いた事があります。
でも、お祖母様のタンスですが、中に何が保管されているのか、お話を聞いただけでも気になりますよね。

お礼日時:2010/04/28 15:48

江戸時代なんて遠くの昔まで戻らなくても、つい4、50年前までは、庶民の家では今ほど厳重な鍵はついておりませんでした。

私が子供の頃、母が外出中の時に早く下校し過ぎた時など、木をスライドさせる程度の鍵は子供の私でも簡単に開けられました。私の家は普通の庶民の家でしたが、貴重品が無かった訳でもありませんでしたよ。夜になったら雨戸を閉めるとか、昔の江戸の長屋では木戸を閉めるなどの工夫もありました。しかし、つい最近まで戸締まりがそんな程度ですんだのは、物理的な工夫ばかりに頼るのではなく、文化的な工夫もあったからなのだと思います。要するに、他人の物を取るのは悪いことだと言う共通認識が徹底していた文化を持っていたということです。

昔、私の先生と奈良の正倉院を訪れた時に、その先生が突然気が付いたようにこんなことを言いました。「日本人とは何とも変わった国民だ。見てみ給え。校倉造りと言い、鼠返しと言い、この正倉院は宝物を自然災害から守るために、感心するようないろいろな工夫が成されている。湿気の多い日本の気候から守る工夫は現代科学から見ても舌を巻くくらいだ。ところが盗賊から守る工夫が、ほとんど何も成されていない。何なんだ、日本人て。」

そう言えば、日本の古墳もそうですね。ピラミッドだって中国の墳墓だって、彼らが全智全能を傾けたのは盗掘防止の工夫だったですね。ピラミッドの盗掘防止装置は特に有名ですね。ところが、日本人のそんな文化的な盗難予防法も、外国と接触するようになってじわじわと通じなくなり、開国後約百年経って、やっと最近になって日本人も外国の先進国並みに盗難防止には物理的な工夫に限ることに目覚めたようですね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、西洋と日本とでは「窃盗」に対する考え方に大きな違いありそうですね。興味深いお話です。
たしかにピラミッドのような盗掘防止装置なんて日本の古墳には無かったのではと思います。
文化の違いなのでしょうね。
一方、江戸時代は「10両の金子を盗めば死罪」になったと聞いた事があります。
少ない同心で江戸の治安を守れたのは、そのような厳罰主義で臨んだからだとか。
ただ、現実の江戸の町は、今のようなキチッとした警察組織が完備されておらず、やくざと岡っ引きの区別も曖昧で、逆に混乱を極めていたという話も聞いた事があります。
興味深いお話に感謝します。

お礼日時:2010/04/28 15:39

ご参考。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5754438.html

>もしかして、24時間、常にふところに入れて肌身離さなかったのでしょうか?
>でも銭湯に行く時は? お湯の中まで持って入ったのでしょうか?

江戸の粋を示す言葉で「宵越しの金は持たない」って言葉がありますが、これは「貯金する方法が無かったから」なんです。

つまり「あればあったで使い切ってしまう」のが「江戸の庶民の経済感覚」なのです。

ある程度お金を持っていた商家は土蔵などにしまって鍵をかけるなどしていましたけどね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、一般庶民には安全に貯金する方法が無かったので、「宵越しの金は持たない」という風潮が広まったわけですね。

お礼日時:2010/04/28 09:49

庶民は銭を壷や竹の銭筒に入れ、板敷きの下や土間の穴に隠す、おなじみの方法でしたが、


やがて、小金を貯めた庶民は、頼母子講あるいは無尽講とよばれる組織を作り、少額の金銭を持ち寄って運用しました。

頼母子講や無尽講は、一種地域コミュニティーとしての色彩が強い組織で、飲み会や雑談のための溜まり場的な要素もあり、貯蓄や利殖だけを目的としたものでは無いのですが、実態は今日の信用組合信用金庫の前身といえます。時代劇でも、よくでてくる、おなじみのものです。

 また、大店の主人の大金持ちは盗賊を恐れて、信用ある両替商に金を預け、預かり手形を受け取りました。いまでいうと無利子の当座預金で遠方への送金にも重宝がられました。銀行の貸し金庫という所です。両替商はこの預金も、無利子の幕府の御用預かり金と共に、高利で貸し付けに回し莫大な利益を得ました。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、庶民は物理的に隠してしまう。そして商売人は両替商に預けてしまう。
このようにして貴重品を管理していたわけですね。

お礼日時:2010/04/28 09:46

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Q江戸時代までの家 : 留守にする時の鍵は?

江戸時代までの家の玄関なのですが、昼間など全く留守にする時、鍵はどうしていたのでしょうか?

夜、寝る時には 「つっかい棒」 で戸を固定して開かないようにしていたと思うのですが、昼間で家人がいない時は?

但し、貧乏長屋などで盗まれる物が全然ない家は除外するとします。  そもそも泥棒が入るわけはないですからね。

もう少し上の階層というか、そこそこの財産はあるが、大店のように昼間でもいつも人が多くいる事はない、家族しか住んでいない、といって多少の金目の物はある、映画で言えばそうですね、銭型平次などのように 「小金」 程度はある家の場合です。

昼間に家を空ける時があると思うのですが、そんな場合、玄関の鍵はどうしていたのでしょうか?

もしかして当時から既に今のように玄関の戸に鍵をかけていた?  でも時代劇なんかでそんなシーン、見た事がないんですよね。

あるいは鍵なんかかけなくても泥棒の心配がない時代だった?

それと、もっと昔の時代ならどうしていたか、あわせて教えて下さい。

Aベストアンサー

 江戸期のやや大きな邸宅の場合、たしかにまったく誰も居ないといった状況は少なかったものですが、それでも戸締りは大切なことでしたから、やはりいろいろな仕掛けや錠前が作り出され使われていました。もう皆さんからご回答が寄せられていますので、ここでは当時、戸締りとして使われていた防犯器具について書いてみましょう。

1.「落し」
 これは引き戸の下の方に取り付けて上下に上げ下げ出来る木片で、戸を閉じたあと「落し」を敷居に嵌まり込ませて戸を固定するものです。別名を「さる」とか「こっとり」などとも呼び、外からはLの字の形をした鉄製の「鉤」を戸の穴から中にさしいれて「落し」を引き上げて開錠できるものも作られました。

2.「かんぬき」
 おもに開き戸に使われたもので、戸のほぼ中央部に水平に取り付けられ、左右にスライドする堅牢な木製の角棒で、これをコの字型の受金にさし入れて戸を固定するもので、お寺の山門などに今でも見られますが、あの「忠臣蔵」で大石蔵之助率いる赤穂四十七士が吉良上野之介の屋敷に討ち入る際にゲンノウでこれを打ち壊すシーンはことに有名です。

3.「しんばり棒」
 引き戸を閉じたあと、戸が開かぬようにつっかえとして使う棒のことで、「つっかえ棒」とも呼ばれ、一般庶民からお屋敷まで広く使われていました。

4.「栓錠」
 1.の「落し」を鉄を素材に替えて作り上げたもので、中には美しい装飾を施したものもあるなど、ここまで来ると本格的な錠前の一種と言えるものです。施錠や開錠の原理はほぼ「落し」と同じです。

5.「蝦錠(えびじょう)」
 江戸期に入って、わが国独自の本格的な錠前が作られるようになり、同時に急速に普及し始めました。
 そのルーツは奈良朝の頃(7~8世紀頃)に唐から伝来した海老錠とされ、錠本体にコの字型になったカンヌキをさし込むと、本体の中でバネがパチンと広がって引っかかり、カンヌキが抜けなくなるという構造をしていました。
 これを開錠するには本体の反対側から棒のような姿の鍵をさし込んで、本体の中で広がったバネを縮めてカンヌキを抜き取るという仕組みになっています。
 使い方としては今の南京錠とまったく同じですが、後に、今日のように錠本体の正面から鍵をさし込んでグルリと回すと中のバネが縮められるという構造の物も作られています。

 これらの「蝦錠」は江戸錠、阿波錠、土佐錠、などと全国で大小沢山作られ、大は蔵の戸から小は仏壇の逗子の扉などへと大変普及したものでした。ちなみに唐から伝わった「海老錠」は今も正倉院の御物として保存されています。

 ついでに言いますと、このような錠前、テレビドラマではカンザシなどでいとも簡単に開けてしまいますが、あれはウソ。本物はドッコイそんなに簡単に開くものではありません。今でもコレクターの手で沢山収集されて実際に見ることが出来ますが、大変精密でしかもほとんど錆びることすらなく、当時の錠前師の腕と材料の良さは世界一だと言っても過言ではありません。

6.「からくり錠」
 このように優れた錠前製造技術を持っていた当時の錠前師ですが、なかでも国産の錠として世界に誇れるのが「からくり錠」です。見えている鍵穴は実はニセモノで、本当の鍵穴は装飾の中に隠されていたり、動かせる部分を正しく順に動かさないと鍵穴が露出しないとか、下手にいじると空砲が鳴るとか、アイデア一杯のものが見られます。

 そのほか、盗難防止の方法として「隠す」という手段もありました。床の間の掛け軸を外すと、その裏に秘密の隠し場所があるなんてよくドラマにも出て来ますよね。

 それではそれ以前の時代はどうかと言えば、農耕や狩猟、漁業などによって財産というものが出来だしたと同時にセキュリティの感覚が当然生まれたであろうし、もちろんそのための仕掛けもあったと考えられます。
 ひとつの例として封印とかヒモで縛るとか、また立ち入り禁止をアピールするしめ縄なども挙げられますが、落しやカンヌキ、しんばり棒などはかなり古代から使われて来たとされています。
 ただ、当時とて大きな屋敷などでは屈強な門番や見回り人、用心棒などといった人を置くことはもちろん、塀には尖った金物を埋め込むこと、こうしたことは当然行われていたようです。

 こうした締り装置や金具、錠前について書かれた書籍は大変少なく、日本のものではせいぜい3冊ぐらいしかありませんが、中でも錠前全般にいて書かれた書籍として「錠と鍵の世界(赤松征夫著・彰国社発行)」をお読みになると、世界の、そして日本の、錠前の歴史をはじめ、種類や構造などがよくわかりますので、良い参考資料としてお勧めします。

 江戸期のやや大きな邸宅の場合、たしかにまったく誰も居ないといった状況は少なかったものですが、それでも戸締りは大切なことでしたから、やはりいろいろな仕掛けや錠前が作り出され使われていました。もう皆さんからご回答が寄せられていますので、ここでは当時、戸締りとして使われていた防犯器具について書いてみましょう。

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Q江戸時代の貯金

江戸時代お金をすごくたくさん貯めた人は、そのお金をどうキープしたのですか。今のような貯金通帳のようなものがあったのでしょうか。なぜ、こんなことを思ったかというと、歴史ヒスとリアという番組で一人の僧が大仏修理に必要な大金を独力で寄付をつのる旅をして集めたというように聞いたからです。そんな大金をかついで旅ができるわけないしいったいどうしていたのか不思議でした。この僧に限らず、大金を得た商人などはどう貯金したのでしょうか。やはり蔵に隠したのですか?

Aベストアンサー

 庶民は銭を壷に入れ、板敷きの下や土間の穴に隠す、おなじみの方法でしたが、
やがて、一般庶民は、頼母子講あるいは無尽講とよばれる組織を作り、少額の金銭を持ち寄って運用しました。

頼母子講や無尽講は、一種地域コミュニティーとしての色彩が強い組織で、飲み会や雑談のための溜まり場的な要素もあり、貯蓄や利殖だけを目的としたものでは無いのですが、実態は今日の信用組合信用金庫の前身といえます。時代劇でも、よくでてくる、おなじみのものです。

 また、町人の大金持ちは盗賊を恐れて、信用ある両替商に金を預け、預かり手形を受け取りました。いまでいうと無利子の当座預金で遠方への送金にも重宝がられました。銀行の貸し金庫という所です。両替商はこの預金も、無利子の幕府の御用預かり金と共に、高利で貸し付け莫大な利益を得ました。
大名貸しでは五年年賦で、年一割から一割二分の利子を取ったと云われています。  商人貸しはわかりませんが、年一割二分が相場でしょうか。

 資金運用ということでは、金貸しを公許されていた盲人に自分のカネを預け(金主と呼ばれる)、盲人が金貸しを行って得た利益の配当を受けるようなことも、あったようです。

このへんは、時代劇を見ると、わかりますよ(^^♪
 

 庶民は銭を壷に入れ、板敷きの下や土間の穴に隠す、おなじみの方法でしたが、
やがて、一般庶民は、頼母子講あるいは無尽講とよばれる組織を作り、少額の金銭を持ち寄って運用しました。

頼母子講や無尽講は、一種地域コミュニティーとしての色彩が強い組織で、飲み会や雑談のための溜まり場的な要素もあり、貯蓄や利殖だけを目的としたものでは無いのですが、実態は今日の信用組合信用金庫の前身といえます。時代劇でも、よくでてくる、おなじみのものです。

 また、町人の大金持ちは盗賊を恐れて、信...続きを読む

Q江戸時代家一軒の値段は?

江戸の長屋の家賃は格安だったそうですが、
江戸時代に家一軒を買うとなるとどれくらいのお金がかかったのでしょうか?
江戸の庶民的な家、地方の家などの値段が知りたいです。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「庶民的な家」ということで、「町屋普請」「家屋敷の値段」をキーワードで検索しました。

(1)洛中における「家屋敷」の売買例
16世紀末から17世紀末にかけて洛中で売買された家屋敷の事例163件を調べた論文があります。
売買に関する証文から、その家屋敷の場所、間口寸法、裏行寸法、値段、年月は分かりますが、建物の状態(傷み具合)については一切分かりません。
現代でいうところの「中古物件」ですから、とにかく安い物件を選びました。

年    間口寸法    裏行寸法   値段
1664年 2間      9間      代銀20枚(銀1枚=京目43匁)
1676年 2間3尺5寸  8間6尺2寸 銀20枚 (同上) 
1682年 3間      16間0尺7寸 代金10両(金1両=銀60匁)
1697年 2間4尺6寸  7間3尺3寸 金子20両(同上 1693年大坂相場)
注:単位の換算 1間=6尺5寸 (この注の意味は不明です。回答者)

「17世紀京都における家屋敷の値段」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006657362

(2)大坂・三津寺町(一般的な商業地)における「家屋敷」の売買例
文化9年(1812)から文政12年(1829)までの売買例20件から最安値。

1815年(文化12)  間口5間  代銀 7貫
安いと言っても大坂の商業地ですから、庶民にとっては、小商いを始めるのも大変だったでしょう。

「家屋敷売買に見る近世大坂 町の空間」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004133773

(3)天明大火(1788年)直後の京都における町屋普請(建て替え)の場合。
   
18例中、安い事例。間口2間3尺1寸5分、梁行5間で外に約2尺の縁あり。柱は松4寸角。主屋の建坪12.4坪(縁含まず)。付属屋を含む建坪16坪。屋根は瓦。工費(材木,大工手間,屋根,左官,建具など)銀1貫800匁。

「天明大火直後の京都における町屋普請 : 寛政 2, 3 年『注文帳』を中心に」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003882956

抄録:天明8年(1788年)宮河町から発した火により,京都の市中はその大部分を焼失。その時期に大工近江屋吉兵衛の作成した「注文書」には,約20軒の町屋普請の実態,1)規模(間口,はり行,軒高,天井高などの各部の寸法),2)木寄(所要木材を部位別にその材質,寸法,数量,価格を列挙したもの),3)工費(材木,大工手間,屋根,左官,建具など費目別内訳)が記録され,大変貴重。

この資料(とても面白い)、によれば、
工費に大きな比重を占めるのは、材木費と大工手間で両者で60-70%、大工の手間は30%前後です。
見積り・積算に際して坪当たり工費(標準工費)という指標も用いられていたことが推測されています。
この『注文帳』による普請例では、2階屋に限ると坪当たり工費は、75-150匁/坪に分布しています。

3都以外の地方で、「庶民」が手に入れることができる程度の家を探したのですが、見つけることができませんでした。

「庶民的な家」ということで、「町屋普請」「家屋敷の値段」をキーワードで検索しました。

(1)洛中における「家屋敷」の売買例
16世紀末から17世紀末にかけて洛中で売買された家屋敷の事例163件を調べた論文があります。
売買に関する証文から、その家屋敷の場所、間口寸法、裏行寸法、値段、年月は分かりますが、建物の状態(傷み具合)については一切分かりません。
現代でいうところの「中古物件」ですから、とにかく安い物件を選びました。

年    間口寸法    裏行寸法   値段
1664年 2間 ...続きを読む


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