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「醜い」とは。

そして、なるべく醜くないようにするには、どうしたら良いでしょうか。
よろしくお願いします。

A 回答 (15件中11~15件)

<<私は基本的にはせいぜい「生臭坊主」のようです。

>>

お坊さんなのですね^^

<<最近、自分を「醜い」と思うことがあって、混乱してしまいました>>

人間、悟るまでは無知による矛盾を多くはらんでいますからね^^;

<<小乗仏教>>

当時小乗といっていた部派仏教はいま残っていましたっけ・・・?
それとも最近は小乗批判の内容がパーリ語仏典にあるという考え方もあるのかな?

無知ですいません^^;

<<他者が絡んでくると>>

他者の行為は
言葉は音であって
行為は感覚でしょう^^

問題は自分の思考概念・妄想なんですよね^^;

<<他者からそれを指摘されて「ダメ」と言われてしまうことを怖れているんですね>>

理想の自分像があって、それに適合していない自分を見つけて、それを指摘されたくないのですね^^

私にも心の中にありますね^^;

どこか自分を完璧視したいという感情が・・・


「私は無知でバカで何にも知らないんだ。だから学ぶんだ。知ってるなら学ぶ必要なんてないでしょう。」

と徐々にでも認められるようになるといいなぁと^^b
私は言い聞かせてます^^;

<<私もいいなあと感じるのですが、私は基本的にはせいぜい「生臭坊主」のようです>>

阿羅漢のために説いたものでなく、煩悩にまみれたわれわれのために説いたものですから、
地道に精進いたしましょうノシ


~あなたに悟りの光が現れますように~

この回答への補足

すみません、私は難しいことは判らないのです。
知識レベルとしては、高校卒業程度に毛が生えた程度とお考えください。

補足日時:2010/05/06 11:51
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。


>お坊さん

私は仏教徒なのかな、と思っています。

>小乗仏教
>パーリ語

私は、宗派といったことには、ほとんど関心がありません。その教義を聞いて「へー」と思う事はありますが。
スマナサーラ長老については、日本語に訳された著書で存じ上げていました。

>他者の行為は(中略)問題は自分の思考概念・妄想

スマナサーラ長老の説くところでは、そうなるのでしょうか。
私は、テキストで学ぶことはあっても、「誰かに師事する」というような学び方は、積極的には、しないつもりです。


>自分を完璧視したいという感情

(ここで、ではないですが)「幼児性」と指摘されたこともあるような気がします。


>「地道に精進いたしましょう」

・・・今回は、その結果、自分の醜さを発見した、とも思えるのですが、あるいは逆かもしれません。何かにこだわり続けて、あるとき、その拘り自体が「醜い」なあ、(より正確には「醜かったなあ」?)と思ってしまったのです。
ブッダが「厳しい修行のみではダメ」と言われたということを、自分なりに都合よく解釈していたためかもしれないと思います。

何かを達成した、すなわち、「成長を実感」した、というときに、それまでとは違った自分というのを感じた時に、それまでの自分に対して感じてしまった嫌悪感、とでもいうのでしょうか、そんな感覚です。
それは、成長することを目指して、成長を達成して実感したからこそ、得られた感覚なんですよね。
だけど、(だからこそ?)「それまでの自分」をそんなに「醜い」と思ってしまうことに、違和感もあったのです。・・・いったい、これはどういうことか、と。双方向に引っ張られるような感じです。

なんだか、これは、とてもレベルの低い内容なのでしたら、すみません。
お読みいただき、ありがとうございます。

お礼日時:2010/05/06 12:20

こんにちは。


とても難しいご質問のように察せられ、また、
何か言及しにくい部分をも感じながらの拙い回答になりましたこと、ご容赦願います。

>「醜い」とは。

古来より「美」は、往々にして「善」と共に熱く語られ、
ある意味「絶対的」なるものとして志向し問い求められてきました。

そしてその相反する果てに、例えば「悪」が在るかのように、
「醜」は「美」の対極として、まさに嫌悪の対象でもありました。

ところが、この「醜」につき、
芸術作品では、古今東西で相応に見出せるものの、
「美」「善」もしくは「悪」ほどには、
主眼を置いて語られることなど、案外少なかったのかもしれませんね。

そして「醜」は「美」のように望まれない以上、
明快に想起されるどころか、
その本質に至っては、なかなか掴みきれずに多義的かもしれません。

「美」の漢字の語源は「羊+大」、形のよい大きな羊をあらわすもので、
義、善、祥に「羊」を含むのは、最も「大切」な家畜と考えたからとのこと。
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/q/q_008.html

一方の「醜」はどうでしょう。
なんと、「鬼」が居ついているのですね。
ということは、上述の「美」のように「大切」な意味付与どころか、
鬼の酷い形相を仄めかしていることが察せられます。
他にどのような意味があるのでしょうね。

そのような「醜」など、誰もが避けたい、なりたくない、と思うはず。
私もその一人です。


>なるべく醜くないようにするには、どうしたら良いでしょうか。

はい。いったい、どうしたらよろしいのでしょう。
醜くないようにしていたいです。
でも、外観上の問題だけでもないような気も致します。

「醜」を外観上、物理的/心理的に遠ざけてひたすら「美」を目指せば、
はたしてそれが「醜」と真に無縁になるのでしょうか。
また「真(=正)善・美」の相対的なくくりとして、
「不正」「悪」との関連付けなど、必ずしも成り立つと言えるのでしょうか。

「醜」にかかわる鬼の形相、異形というものは、
さぞかし恐ろしく凄まじいものに違いありません。
醜い対象から被るものは、決して少なくないはずです。

でも例えば、醜い鬼の側にも複雑な事情がもしあるのだとしたら。
それなのに、「美」の範疇から外れる対象として、あるいは
「醜」を安易に捉えて遠ざけてきたとするのなら、
いったい、どうなのでしょうね。

何度か哲学カテでふれた『安達原』の人喰い婆の話で恐縮ですが、
鬼の身形に変えてまで逃げる僧を追うハメになるその訳は、
「見てはならぬ」と入念に誓約したはずなのに、
勝手に禁忌を破った僧側の裏切りに他ならず、
絶望と悲嘆に満ちて自らの力では為すすべもない状況なのです。

結局僧等の調伏で「退治」されることになるのですが、
今際の時に発する言葉は「恥ずかしの我が姿や」であり、
恨みなどではなく、ひたすらに
自らの鬼の身上を恥じ入りながら静かに消え去るのです。

そしてそれは「醜」の対象として捉えられるべきものでしょうか。

また、日本の代表的な「醜女」と言えば、
鶴屋南北の「四谷怪談」のお岩も挙げられますね。

しかし、姿形はこの世のものとは思えぬほど醜く崩れても、
「真に醜く鬼が棲む」心持ちなのは、
むしろ相手の男(伊右衛門)の方に違いありません。
(上記の例は女性が男性を咎める構図ですが、それは回答の趣旨ではありません)

あらためて「醜」とは何か、「美」の極にあるものなのか、
或いは、それらを容易く遠ざける傾向にあるのではないか、
などと思ってみたりもするのです。

理念上希求するのであれば別なのかもしれません。
でも仮に「醜」が絶対を志向せずに相対的な概念である以上は、
孤高を持する以外に「醜」を完全に遠ざけることなど、
およそ不可能なことのように思えてならないのです。

むしろ、現代の世界は「共生」の時代とも言えましょう。
ある文化が、他の異文化に属する人々とって、「醜」に映りかねず、
残念なことですが、嫌悪、反感、偏見、排斥に繋がる怖れもありましょう。

「美」とは対照的に、誰もが一見避けて通りたくなるような「醜」に対する考察は、
「美とは何か」と逆説的に問い求めるという意味合いの他に、もしかすると、
現代世界における多文化共生に対するヒントも隠されているのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

「鬼のよう」とか「~の鬼」と言った場合、それは必ずしも否定的なニュアンスとは限らず、肯定的なニュアンスも含めて使われる場合がありますね。

お礼日時:2010/05/06 07:19

僕の抱く見解を書いてみますね^^



醜いとは

「事実を認めないこと」

だと思ってます^^

醜くならないようにするには、事実を探求し、
それを認めていくことの探求をし
実践することと思います

怒りを例に説明を試みてみます。

怒りたくて怒っているのにそれを認めない
怒りを怒りでもって自己を抑圧する

これは醜いことと
思います

怒りたくて怒っていることを認める
上記よりも醜くないように感じます

しかし、怒ること自体も
「私は~こうあるべきと思っているのになんでそうならないんだ」
「私は正しい、世界が間違っている」
「私の思うままになるべき」

というとんでもない無知な想いが隠されているように感じます

なので「怒らないこと」

は「醜くない」

といえると僕は感じます^^

怒りについてはスマナサーラ長老の「怒らないこと」が思索にやくにたつとおもいます。

パーリ語の仏典も多くこのような考え方に役立つものと思いますのでお勧めです^^

何か役に立てれば幸いです^^b
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

最近、自分を「醜い」と思うことがあって、混乱してしまいました。それは「焦り」に近いと思います。あるいは「怖れ」でしょうか。

「絶対的な基準は無い」ということからは、他者が「そうは思わない」と言ってくれればそれまでですし、「感情に過ぎない」ということからは、私と同じように感じるかどうか、判りません。
でも、私はちょっと自信を無くして不安定な状態になってしまいました。


スマナサーラ長老というのは、小乗仏教の方ですよね。問題に対するアプローチという意味では、方向性は判るつもりですし、私の期待していた回答に近いものでもあります。
が、他者が絡んでくると、小乗仏教的な行き方でいいのかどうか、不安もあります。

醜い自分(外見だけでなく(笑))を発見して、そんな自分が許せなくて、怒りを感じてしまっている、そうかもしれません。そして、他者からそれを指摘されて「ダメ」と言われてしまうことを怖れているんですね。


今回、「経験することによって、自分の醜さを確認できた」というようにも感じています。
小乗仏教の考え方や方向性は、私もいいなあと感じるのですが、私は基本的にはせいぜい「生臭坊主」のようです。

・・・「醜い」と感じ、それを怖れ、怒りを感じる事もまた「醜い」のですね。
なんだか、ちょっとまた判ったような気もしました。

お礼日時:2010/05/06 06:42

「美醜善悪」は、人の心の中に派生するもので、絶対的・普遍的な基準はありません。



「醜い」というのも、ある人にとって有害・不快な対象に対して感じる、本能的・経験的な視覚的条件反射です。
それを低減するには、そうした「条件反射」の根底にある、五感の相関した経験の蓄積において、その「有害・不快」を打ち消す、「有益・快適」な経験を重ねる事です。
最初ブスだと思っても、優しさにふれているうちに、可愛くなってくるものです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

>絶対的・普遍的基準はありません

判るつもりです。


>「視覚的条件反射」

そうでしょうか。しかし。「視覚的」に限られない、というような気もします。

お礼日時:2010/05/04 20:32

醜いとは、見苦しい 見っともない 醜悪 醜怪 醜貌 不器量 不細工 毒々しい けばけばしい 不格好 気持ち悪い 不愉快   などの意味がありますから、 


醜くないためにはこれらの感情を与えなければ良いだけです。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

ちょっと難しいようですが、要は感情の問題なのですね。

お礼日時:2010/05/04 17:54

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