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「日本語の乱れ」は、見方を変えると表現力が豊かになったと言えるか?



「日本語の乱れ」が問題視される事は良くあります。

「とても良い」や「すばらしい快挙」と言う言葉はすでに誤った言葉が寧ろ正しい言葉と使われ、「生き様」「拘り」と言った誤った使い方は何故か黙認されている。

しかし、「全然良い」や「普通に美味しい」などのいわゆる「若者言葉」は、誤った言葉として問題視されます。


厳密に言えば、例に挙げたこれら全ての日本語は、誤りと言ってよいでしょう。

他にも数多くあるはずですし、私も知らず知らず誤った日本語を使っているでしょう。
しかし、一つの事実は「その誤った使い方でも相手に通じる」と言う事です。

「本来の使い方ではなくとも、意図が通じる」ならば、これは言葉の誤りを越え、「日本語がそれだけ表現力豊かになった」と言えないでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

言語は時代を経るにつれて様々な新しい語彙(外国語なども含み)を付け加えて単語そのものの数を増やし、また言いまわしやら文法体系がより複雑になり、細やかになってより幅広く、深く微妙な言語的表現が可能になってきました。

世のひとたちはこういった現象を「表現力が豊かになった」といっているようです。
仰る「日本語の乱れ」はこれとは異なった現象のように思われます。ただ、言語表現の変化が従来の言い方と平行に使用され、変わったというより新たな語彙として加わり、これまでになかった表現が可能になることがあります。こういった現象は「日本語に何らかのプラスアルファーを付け加えることになるかもしれません。確かにこれは「豊かになった」という例でしょう。
>「本来の使い方ではなくとも、意図が通じる」ならば、これは言葉の誤りを越え、「日本語がそれだけ表現力豊かになった」と言えないでしょうか?
仰る「言葉の誤り」が本来の「正しい言葉」に完全に置き換わるのではなく、また、その「誤った言葉やいいまわし」が本来の言葉にはなかった意味を表現できるツールになったのならば、貴方の主張は正しいと思います。こういった例は少なくないと思いますが、本来のことばや表現が失われていく傾向にその現象が暴力的な力を振るっている現状を思えば、私はあまり歓迎できないことだと思います。
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この回答へのお礼

>本来のことばや表現が失われていく傾向にその現象が暴力的な力を振るっている現状を思えば、
>私はあまり歓迎できないことだと思います。

確かに歓迎は出来ません。
「豊かになった」と私が思いたいのは「豊かになった」って思うと、日本語の乱れに嫌な思いを抱く必要がなくなるからです。

豊かになる事は良い事でしょうから。

お礼日時:2010/06/24 04:34

>「日本語の乱れ」は、見方を変えると表現力が豊かになったと言えるか?



どちらとも言えない。

このドラマヤバい、この映画ヤバい、こいつヤバい、このケーキヤバい、この遊びヤバい。
ポジティブな評価が何でも「ヤバい」になったら表現力が豊かになったとは言えない。これは表現力が貧困になっている。50年後に「いいもの=ヤバい」しか表現する言葉が無くなったら表現力の貧困化だろう。

ら抜き言葉のように、可能と受け身を区別するような動きは表現が豊かになったといえるかもしれない。




>「本来の使い方ではなくとも、意図が通じる」ならば、
>これは言葉の誤りを越え、「日本語がそれだけ表現力豊かになった」

これは違う。
それだと日本人がカタコトで話す間違った英語は表現力豊かな英語になる。なぜなら本来の使い方でなくとも、意図が通じているから。
本来の使い方でなくても意図が通じることが表現力の豊かさとするなら、ネイティブが推測で意味を汲み取れるギリギリの水準のカタコトこそ表現力豊かという矛盾を呼ぶ。

「私に お金 困る 遠い 家が 帰る 無い お金」
これだと本来の文法からすれば間違った日本語だが、「家が遠くてお金が無くて困っている」という意図は通じている。
でも、日本語がこう変化しても表現が豊かになったとは言わない。


限られた情報から真意を汲み取れる新に表現力が豊かな人がいるから本来の意味から離れたカタコトでも通じているだけ。カタコトの人たちだけでは通じない。
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この回答へのお礼

>どちらとも言えない。

それは紛れもない真実ですね。

>ギリギリの水準のカタコトこそ表現力豊かという矛盾を呼ぶ。・・・「私に お金 困る 遠い 家が 帰る 無い お金」・・・日本語がこう変化しても表現が豊かになったとは言わない。

議論のすり替え。
そのカタコト言葉で意図が通じる人は想像力が豊かな人。外国人のカタコト言葉やジャスチャーで推測して導き出せる人です。

若者言葉で話したら、年寄りに意図が通じないのは、年寄りが想像力が貧相だからではなく、若者言葉の知識(新語の知識)がないだけ。

根本的に「意図が通じる」の意味が違う。

カタコト言葉は想像力が貧相な人は「は?なに言ってるの。ちゃんと喋れ」と思うが、若者言葉は知識さえあれば想像力が無い人でも意図が通じる。それが私の言っている「本来の使い方ではなくとも、意図が通じる」と言う意味です。

お礼日時:2010/06/24 04:30

時代とともに言葉は変化するものだと思います。



豊かになったかどうかは関係ないでしょう。

明治の文豪の名作を今の若い人は読んでもちんぷんかんぷんでしょう。
もう、明治の文学って古典ですから。

今批判の多い「コンビニ敬語」も数年後にはスタンダードになってるかも知れません。
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この回答へのお礼

表現が豊かになったと言うより「変化」したと言う解釈の方がしっくり来る人が多いらしいです。

私としてはその変化こそ「豊かになった」と思っているのですが、それに関しての説明が不十分だったようです。

お礼日時:2010/06/24 04:12

 専門家の教えをまつのであれば、国語のカテにどうぞ。

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この回答へのお礼

自分で専門家と思い込んでいる「大先生」にはご遠慮願いたいので、国語カテゴリーにはこう言う質問はしません。

お礼日時:2010/06/22 20:42

表現が豊かになったと言う言い方もあり得るかもしれませんが...


その一方で死語もいっぱいあるわけでほんとに豊かになったかどうかは誰にも分からないように思います.
言語という物も,その時代を反映するという物では無いかと思います.というのも,そもそも古語という物があることからも分かるように,言語そのものが生き物のように変化しているという側面があるからです.
私としては,言語は生きているので死語や新しい言葉が生まれているものと思っています.
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この回答へのお礼

>豊かになったかどうかは誰にも分からないように思います.

全くその通りですね。

私は何も客観的根拠もなく「日本語が乱れている」という人と同類かもしれません。
でも良いのです。だって人間だもの。

お礼日時:2010/06/22 20:38

これは単に、水は低きに流れるの一例ではないですか。

人間は刹那的な享楽では決して幸せにはなれないのに、人間の持っている最も程度の低い動物的な側面を刺激して、手っ取り早く売り上げを伸ばそうと言う商売人やマスコミの売らんかなの宣伝に汚染された結果、そんな享楽だけを求めるような若者達を作り出してしまった結果が、何でもありの、文化的に下品な退化を齎しているのだと思います。別な言い方をすると、崇高とか品という概念が欠落してしまった結果だと思います。

芸人がやっては行けないことに、下ねた、けれん、楽屋落ち、と言うのがあるそうです。何故なら、これらは芸がなくても人を笑わせることができるので芸でもなんでもなく、プロとしての誇りを持てないからだそうです。今の芸人を見ていると、パンツ一丁で出て来たり、チンパンジーのように手を叩いて仲間内だけで喜んだりで、そんなプロ根性はどこに行ってしまったのでしょうね。ま、若者言葉の堕落は、パンツ一丁で出て来て威張っているようなものですね。質問者さんも、パンツ一丁で出てくるようになったことを、まさか表現力が豊かになったとは言わないと思いますが、どうでしょうか。悪い物は悪いとはっきり言う勇気が欲しいですね。
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この回答へのお礼

>パンツ一丁で出てくるようになったことを、まさか表現力が豊かになったとは言わないと思いますが

「小島よしお」や「はっぱ隊」の事でしょうか?
なんか、かつての「ツービート」や「神助,竜介」も、似たような事を言われていましたね。


裸も喧嘩漫才も表現の一つだと思います。そして一時期でもその表現を民衆は受け入れました。
しかし、全ての表現が受け入れられるとも限りませんし、定着するとも限りません。


ただ表現と認めるかどうかは、自分が決めるものです。
あなたが小島よしおもツービートも「あんなもん芸じゃない。表現じゃない」と思えばそれは正しいのかもしれません。

お礼日時:2010/06/22 20:35

専門家ではないので


個人的感覚では、時代の反映だと思います。
表現力が豊かになるというほどではない思います。

気になったのは全然の使い方です。
NHKの「気になる言葉」と言う番組でやっていたんですが

全然大丈夫(全然+肯定文)
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/10/101 …
実は「全然+肯定形」は、明治・大正の小説にも見ることができるのですよ。例えば、森鴎外の「灰燼」の中にも、“~うるさいと云ふと、全然同じ事である~”とあるのです。

http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/12/122 …

全然大丈夫 パートII
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/10/102 …
その後、調べていくと、明治28年に創刊された雑誌「太陽」の中にもあったのです。明治34年から大正14年の間で、“全然休息しろ” “全然誤解なり”、など肯定にも使われていたのです。「全然」とは“全く然り”と書き、「すっかり・ことごとく」「すべてにわたって」という意味で、実は元々は肯定にも否定にも使うことのできる言葉です。しかし、その後なぜか否定表現との結びつきが強く考えられるようになりました。学校教育でも、否定形で教えられているため、違和感を覚える人が多いのでしょう。実は、「全然」と同じような歴史を持ったことばがあります。今では「とてもきれいだ」「とてもおいしい」という表現は当たり前のように使われていますが、この「とても」も一時期“否定形”を伴ってのみ使われると信じられていたのです。言葉の使い方もその時代によって、色々変化をしているようです。

以上引用ですが常識が覆るほと考えさせられるものです。
明治以降義務教育が広がり文法も多くの人が接する様になったかもしれません。
それ以前の武家や公家と平民の言葉は違っていたかも知れないですし何が正しいものか判らない気がしてきました。
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この回答へのお礼

>明治28年に創刊された雑誌「太陽」の中にもあったのです。・・・実は元々は肯定にも否定にも使うことのできる言葉です。

これは貴重な知識有難うございます。
言葉狩りされた時の、反撃用の武器に使えそうです。

>「とても」も一時期“否定形”を伴ってのみ使われると信じられていたのです。

そうなのです。今は肯定の方も両方使うのが「正しく」なりましたが。


どうでも良い話ですが、漢字の書き順も文部省が勝手に決めただけで、本来はその通りの順序で書かれていたか分からないらしいですね。

お礼日時:2010/06/22 20:10

専門家ではないので


個人的感覚では、時代の反映だと思います。
表現力が豊かになるというほどではない思います。

気になったのは全然の使い方です。
NHKの「気になる言葉」と言う番組でやっていたんですが

全然大丈夫(全然+肯定文)
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/10/101 …
実は「全然+肯定形」は、明治・大正の小説にも見ることができるのですよ。例えば、森鴎外の「灰燼」の中にも、“~うるさいと云ふと、全然同じ事である~”とあるのです。

http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/12/122 …

全然大丈夫 パートII
http://www.nhk.or.jp/a-room/kininaru/2003/10/102 …
その後、調べていくと、明治28年に創刊された雑誌「太陽」の中にもあったのです。明治34年から大正14年の間で、“全然休息しろ” “全然誤解なり”、など肯定にも使われていたのです。「全然」とは“全く然り”と書き、「すっかり・ことごとく」「すべてにわたって」という意味で、実は元々は肯定にも否定にも使うことのできる言葉です。しかし、その後なぜか否定表現との結びつきが強く考えられるようになりました。学校教育でも、否定形で教えられているため、違和感を覚える人が多いのでしょう。実は、「全然」と同じような歴史を持ったことばがあります。今では「とてもきれいだ」「とてもおいしい」という表現は当たり前のように使われていますが、この「とても」も一時期“否定形”を伴ってのみ使われると信じられていたのです。言葉の使い方もその時代によって、色々変化をしているようです。

以上引用ですが常識が覆るほと考えさせられるものです。
明治以降義務教育が広がり文法も多くの人が接する様になったかもしれません。
それ以前の武家や公家と平民の言葉は違っていたかも知れないですし何が正しいものか判らない気がしてきました。
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この回答へのお礼

回答有難うございます。

お礼日時:2010/06/22 20:11

それぞれの言葉それぞれに理由があるから、全部を一括りにするのは難しいですね。



「普通に美味しい」などは日本の生活水準が上がり、美味しいものが当たり前にあるからそういう表現になったところも有ります。

美味しいものを「ヤバい」と表現するのも、やはり豊になった為においしいものを頻繁に食べようと思えば頻繁に食べられてしまう為に、こんなおいしいものだと際限なく食べてしまいそうだ。という考えから「ヤバい」と使い出したのが始まりです。

このように豊になった為に感覚が違って、表現が豊になったというよりは表現が変わったために、昔の表現から見たら乱れているように思えているものもあります。

他にも隠語をテレビなどが使いすぎている問題もあります。
過剰なサービスから、表現も過剰にした方が良いという考えから乱れている言葉もあります。

それぞれ変化していくことが仕方ない言葉、隠語が表に出てきて問題ある言葉、知識レベルが落ちていて困る言葉、新しい表現として生み出されて言葉、さまざまあるので、すべてを「日本語の乱れ」とみるのが間違いだと思っていますね。
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この回答へのお礼

>すべてを「日本語の乱れ」とみるのが間違いだと思っていますね。

全くその通りだと思います。
それに、乱れているのかどうかを判断するのは、意外と難しいかもしれませんね。

お礼日時:2010/06/22 20:04

>表現力が豊かになったと言えるか



言えません。

洗練されてきているか? いいえ。

ダメニーチャンやチンコロネーチャンたちが、文法無視の日本語を使うものですから、日本語がどんどん汚くなっています。

それはいつの時代でも起こっています。

平安⇒鎌倉⇒室町⇒戦国⇒桃山⇒江戸⇒明治大正⇒戦後⇒今
時代とともにどんどんお粗末になっていきました。今が一番お粗末です。

ヘンな用法が増えました・・・これは表現力が増えたのではありません。
平安時代の美しい言葉について、ダメニーチャンやチンコロネーチャンは古語辞典で調べても理解できませんでした。

◎美しい表現の仕方がどこかへ行ってしまいました。
◎汚い表現方法が増えました。垢のようなものです。こんなものが身について豊かと言えるのか?
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この回答へのお礼

大先生ですね。回答有難うございました。

お礼日時:2010/06/22 19:59

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