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最後の瞬間に祈るものとは

絶対絶命の瞬間、もはやこれまでと悟った最後の数秒間に祈ることがあるとすればそれは何に祈るのでしょう。
キリスト教徒は神に祈り、仏教徒は仏に祈ると言われていますがはたしてそうでしょうか。
自分を育てた親に祈るというのが一つ考えられます。
あるいはここまで生きてきた自分自身に祈るというのも考えられます。
あるいはこのような状況では祈ることはないというのも考えられます。
しかし最も考えられるのはおそらく人の本能として手を合わせて祈ると思いますが、そのとき祈る相手というのは特に無く、ただ単に祈るというのが本当のところではないでしょうか。
これは誰も分からないこと、本人でさえ知り得ないことだと思います。
皆さんはどう思いますか。
 

A 回答 (11件中1~10件)

サハラ砂漠を1600km、17日間サイクリングしている真っ只中で、


夜明けにリカオンの群れに襲われ、夕闇の中で数人の強盗にボカスカ
殴られて身ぐるみはがれ、無一文になってたどり着いたオアシスで、
翌朝また、その日たどり着けるとも分からない(オアシス間は100km
前後で4駆ならこえられるが、自転車が通れるか聞いても誰も知らず、
また、砂が厚いと1日では越えられず、2日分の水はない僕はOUT)
次のオアシスに向かおうとして、かなり確実に死ぬと思ったけど、
戻るにも同じ距離だし、もう行くしかないと腹を決めてペダルを
踏み出す瞬間、自分の全身の細胞が感じられた―――自分であった喜び、
楽しかった人生への感謝に満たされました。
(人生の終わる時もまた、そのようにありたいと思いながら生きてます)
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この回答へのお礼

なるほどそうでありましたか。
死を覚悟した瞬間、全身の細胞が震え喜びと満足を感じたと。
以前よりpsytexさんはただ者ではなく、哲学があるに違いないと思っておりました。
貴重な体験をされたと思います。
私は人生の中で真に祈ることのできるのはほんの一瞬ではないかと考えるのです。
 

お礼日時:2010/07/08 22:28

祈らない。

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最後の数秒なら祈るも何もないと思います。


祈りも悔いも怨みも忘却の彼方に放り投げ、
迫りくる死をただただ呆然と眺めるだけ。
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誰も分からないこと、本人でさえ知り得ないことだと思います。


最期の時というのをいつだとお考えでしょうか?死ぬ寸前?
死ぬ寸前というのは誰が感じるのでしょう? 医者?
それが死の間際だったというのは後で知ることですが、最後の時を感じるのは自分自身です。
つまり、最期の時を自覚して生き残る人は結構多いのです。それが本当に死の間際であってもです。
日頃祈ったことも無い人に祈るという行為ができるかは判りません。

私の場合、心筋梗塞で死を覚悟しました。
私はカトリックですが、正直祈っては居ません。なぜなら平素祈っている者に死の間際に祈る必要がないからです。
カトリックはカトリックの神に祈るという表現は正確ではありません。
神は神であり、神以外に神は居ません。八百万だろうとなんだろうと、根源は一つです。

日常から常に神に感謝の祈りを捧げているものがいきなり死の縁に立たされて、ワザワザ祈る必要は無いのです。もはや準備は整っているのだから、黙って任せればよいだけです。
死の縁に立ってさえ祈らなければばならないという事は準備を整えていなかったという事であり、祈らなければ不安という事は神を信じきっていない(不信)という事になります。
死の間際に立ったと感じたなら、準備が整ったと考えて任せればいいのです。

で、私はといえば唯一の興味は「自分の心臓の止まる瞬間を見たい」タダそれだけでした。
頭上のモニターを見たい一心で身をよじり、医者に叱られたほどです。今の手術は局所麻酔なんですね。
無事に手術は成功、
後で医者から、もし手術が終わるまでの間に意識を失っていたら、確実にダメでした。と言われました。
結果的に、私は私の興味によって救われました。
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この回答へのお礼

日頃から毎日祈っている人は、死の間際には祈る必要もなく実際祈らないものということですね。
また祈るときは神に対して祈ると。
私は死の間際に祈るかどうかが重要であると考えます。
なぜなら死の瞬間において人は最も宗教的なものになると考えるからです。
そのとき人はあらゆる現世の利害から解放され、完全に自身の本能にまかせて行動するはずなのです。
その本能の導くものが究極の宗教であると思います。
そして全ての祈りはその瞬間に集約されていると考えます。
 

お礼日時:2010/07/10 19:53

再びこんにちは、



会ったこともない人の言葉を信じて、彼とめぐり合うために、
満ち足りて死に臨むむために
私は毎日生きているのですよ。

あなたに水を差されたぐらいで信念が揺らぐものではありません。
あなたの理解を超えた世界がこの世にあることを
知っていただきたくてもう一度敢えて回答いたしました。
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この回答へのお礼

>あなたに水を差されたぐらいで信念が揺らぐものではありません。

そうですか、それを聞いて安心しました。
私とて水を差そうと思って水を差したわけではないのです。
嘘偽りなく正直に自分の心の内を語ったまでです。
私とて心ある人の一人ですから。
 

お礼日時:2010/07/09 22:16

こんにちは、



とても考え深い質問ですね。


マザーテレサの最後の言葉は"I love you, Jesus. I love you, Jesus. I love you, Jesus. "


もしも私が畳の上で死ねるのなら、これは最上の祈りの言葉になるでしょう。
この言葉にたどり着くために今まで私は苦難を乗り越えて生きてきたのでしょう。

望ましい姿勢で死に向かい合うために、宗教があるのだと信じています。
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この回答へのお礼

Jesusとはイエスキリストのこと。 
見たこともなく、話したこともなく、本当のところその姿かたちさえ定かでなく、ただ書物に書かれているという約2000年前の人物に対し祈りを捧げるということがはたして可能なのであろうかと考えてしまいます。
水を差すようですみませんでした。
 
 

 

お礼日時:2010/07/09 20:11

おはようございます。



高所から足を滑らせて「死ぬな」と思った瞬間、勝手に体が受身をとり無傷だったという経験があります。
そして、その時の印象は祈る暇もないというものでした。
祈りに近い衝動が起きたのはその後ですね。

また、祈りの対象ですが、特定の対象ではなく「私」というもの以外の全てのものだと感じます。
ただそれはアニミズムという意味ではないのですが、うまく説明できません。
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この回答へのお礼

なるほど、「死ぬな」と思ったら祈る暇もないですか。
私が思うにこの世で一番いい死に方は隕石が当たって死ぬ、あるいは雷が命中して死ぬことではないかと思います。
これなら祈る暇もなく、きれいさっぱり跡形もなく死ねるでしょう。
ギリシャ時代のある哲学者の話を思い出します。
彼は「この世で一番よい死にかたはレスビオ火山が噴火し、その真っ赤に焼けた巨大岩石に当り一瞬のうちに死ぬことだ」と言っています。
 

お礼日時:2010/07/09 19:57

全てを諦めた状態になった時は、悟りを開く筈です。

その証拠が『臨死体験』をした人です。死の淵で一旦覚悟を決めた時はもう『死を受け入れています」是が大死一番の心の状態です。死を受け入れた時が『生死の問題が解決した姿です』

どうしょうも無い悪党が、臨死体験の後に、生き返って『悪い事が出来なくなってしまう事は』そういう本の中に書かれています。

多分、全てに対する感謝の祈りと思います。良い事も悪い事も分け隔てをしないで、只有り難く頂戴する心境と思います。
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勿論想像ですが・・・



恐らく悟りに近い状態になり、「祈る」という状態を超えられるのではないでしょうか?
しいて言えば、今までの全てにありがとう などでしょう

しかしこの世に未練や恨みがあれば、それらを祈ったり呪ったりするのでしょうね
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この回答へのお礼

 
ここで一つ考えるべきは、信仰を持とうが持つまいが、神や仏を信じようが信じまいが、このような瞬間には人は皆同じになるのではないかということです。
もちろん死者に対し、死ぬ直前に何を思ったかと問う事はできないので答えは誰にも分からないのですが。
 

 

お礼日時:2010/07/08 22:45

太平洋戦争中


特別特攻隊として散っていった若き者達の無線から聞こえる最後の言葉は
「お母ーさーん」
もしくは好きな人の名前だったそうです。

OH MY GOD
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この回答へのお礼

 
母に祈るですか。
まったく泣ける話を聞かせて頂きました。
まあこれから言えることは少なくとも神に祈る、仏に祈るなどは最も有りそうにない話であるということでしょう。
分かりました。有難う御座いました。

お礼日時:2010/07/08 22:02

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