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死の概念は業を境に二分して解釈できる。

死後があり、誰もが彼岸に行き着くならば、そこでは誰もが業因がないことを悟り苦もないであろうと考えます。このように彼岸に置いて非業が判るゆえに予め安らかな死を迎えるならば、それが非業の死です。
ところが未だ現代にでも業の観念というか噂の類が、まかり通っているゆえに、(これは信仰ゆえでしょうか?)苦痛に満ちた死を想起して実際にそのように見える死を迎える人もいます。
そして冒頭に戻り死後があるならば彼岸は非業です。

非業の死に苦の響きがあるのは業があるとする者が良性の業、(功徳とも言う)を失う事を恐れる「苦」です。
現代の死の(観念でなく)イメージでは、死のイメージがそのように業の痛みに覆い隠されて判らなくなり、何が苦痛であるかについて、死ぬ事に勘違いというか濡れ衣のような間違った解釈がなされています。そして本来の死は宗教的な言葉で「往生」と表現されています。
本来の死がないがしろにされ違う解釈がなされていることになります。

そうであれば、業とは、その論は無であり虚構であると、理解しない業の信奉者が想起する苦痛に満ちた死にざまであり「死」を知らぬ妄想でありましょう。
社会を見聞した限り死を知らぬものは生をも知りません。
その姿は屍であり、死を知らぬゆえに屍のまま地獄のごとき娑婆を徘徊するのです。
まさにそうであり娑婆世界観を徘徊するものは屍をさらしその自らの姿を悲しむのみです。
そうしてお釈迦様がその悲しみを理解する慈悲を発露して救ってくださるのを待ちます。
ところがお釈迦様はすでに入滅していると伝承されています。
ますます屍のままの生きざまを体現するのが仏教の祈りでしょう。
信仰のうち訳は無いものすがりのとりすがり教団以外ではありません。
生きながらに入滅し、娑婆とおさらばする事をお勧めします。
業を「そんなもんありゃしねー」と理解できないものの死のイメージとは苦が付きまとったまま屍のごとく生きる事です。
死の概念とはそれとは別の喜び。
そして、業を信奉する者は死を知らず屍の概念をもって死を汚す。

以上に、伝統的概念をもって論説してください。
哲学的思索の助けを募集する質問です。

A 回答 (1件)

簡略に。

必要があれば後日捕捉します。

まず、業を語るには彼岸ではなく「輪廻」を考えなければなりません。
この「輪廻」による救いを娑婆に求めるか余所に求めるかというところで出てくるのが「極楽往生思想」です。

さて、この往生思想というのはそもそも釈尊入滅後「無仏悪世」の娑婆では救ってくれる者がいないので、その救いを余所の仏国土の仏に求めようとしたことによるものなのですが、本当に釈尊は入滅されてしまったのでしょうか?

というのも「法華経」によれば涅槃に非ずと雖も涅槃を現ずと説かれているからです。

このあたりのことについては長くなりそうなので現段階では割愛しますが、要するに我々にその姿が見えていない(見ようとしていない)だけであって、この娑婆世界に於ける釈尊による救済はいまだ続いていると考えるべきでしょう。

質問者様が具体的にどのようなことをお知りになりたいのかが把握できないので、申し訳ありませんがひとまずはこれまでに。

この回答への補足

補足の議題です。
慈悲を救いと見なしますか?
慈悲とはともがらに手向ける悲しみです。
強く生きようとするヤクザ者の姿に悲しみを抱いたとしましょう。
そうすると強く生きていたヤクザ者は、悲しみと言う同情に感化され自らの屍のごとき生き様し、訳も無く悲しみを抱きます。
そして悲しみを手向けた者には、悲しみが伝わったことにより憐れみと変わります。

これが慈悲の成り行きです。

自らの姿が悲しみを招く事を知ったヤクザ者は自らを正そうとする自助を発揮する余地があり自力更生します。
そうすると慈悲には「我が救った」が関係において成立しません。
ヤクザ者の自己の救済を誘発したのみです。
要するに救いは他者に期待する事が出来ない。
他者に期待するうちはとりすがりであり、それこそが仏教の伝統です。

補足日時:2010/07/11 21:14
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
宗教的で伝統的な考え方としてまとまっていて判り易かったです。
私は生きることに苦が付いて回るとは考えませんので娑婆世界観をもち合わせておりません。

お礼日時:2010/07/10 05:32

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