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このカテゴリでいいのか分かりませんが、
一人でいたり、夜中にふと死について考え出すと
怖くて一週間も、長いともっと頭から離れなくなります。とてつもない恐怖心が生まれます。
死ぬとどうなってしまうのだろうか、時間は確実に
過ぎていって死に近づいている。今すぐでなくても、
いつか死ぬ日が絶対に来てしまう。その日が今から
怖くてたまらない。今まで生きてきた時間をあと何度か
繰り返したら、もう死が目前になってしまう、など。
自分の意識がなくなってしまう、考えることもできない
そんな状態を想像すると本当に怖いです。
思い出さないようにしても、ふと頭によぎるんです。
どうしたらいいでしょうか??
どんな考え方をしたら少しは楽になるでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

> このカテゴリでいいのか分かりませんが、


正に「このカテゴリーにピッタリの質問」だと思いましたですね。ですから、そのようなご心配は全く不要です。

> 一人でいたり、夜中にふと死について考え出すと怖くて一週間も、
「恐怖」と言うのは、それが< 良く判らないから出てくる >ものなのであって、原理が判れば消え去ります。

> 死ぬとどうなってしまうのだろうか、時間は確実に過ぎていって死に近づいている。
正にこの問題は、「仏教」でも最初から存在した重要なテーマだったので、いろいろと研究されて来たようです。

> 今まで生きてきた時間をあと何度か繰り返したら、もう死が目前になってしまう、など。
なぜ人間や命あるものは、「必ず死ぬ仕組みになっているのだろう?」と言うのも、仏教の重要なテーマでした。

> 自分の意識がなくなってしまう、考えることもできないそんな状態を想像すると本当に怖いです。
そんなことは全く有りませんよ!。状態は少し異なりますが、「寝ている時」には明確な意識は有りませんよね。

> どうしたらいいでしょうか?? どんな考え方をしたら少しは楽になるでしょうか?
「死とは何か」「死とはどう言う状態になること」かを、自分なりに理解できれば、恐怖は完璧に無くなります。

-----------------------------------------------------
「 ユリーカ!~仏陀の悟りに到る道~: 苦の解脱8 ... 」
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&c2co …

  「生」とは、幸福な精神世界から、苦に満ちたこの世に生まれる苦しみ。
  「老」とは、衰弱し、醜くなり、心身が不自由になっていく苦しみ。
  「病」とは、心身が痛み、傷つき、機能が失われていく苦しみ。
  「死」とは、死を怖れ、嘆き、家族や友人と永遠に別れる苦しみ。 ←(★今回の質問はコレのことですね)
 
   しかし、釈迦は、この「四苦」をも解脱せよと説く。

  「生・老・病・死」は、客観的に見れば、物理化学的自然現象であり、
   苦でも、楽でもない、「無常変化」の事実に過ぎない。

「 生老病死 四苦 」
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&c2co …
-----------------------------------------------------

詳しい説明は、↑上のウエブページなどで勉強して頂くとして、仏教では古来よりこれらの問題を、< 四苦 >
と言う言葉で、表現してして来たようですね。

今回ご質問の【 死 】の問題に限って言えば、純粋に科学的に答えると「脳の活動が停止すること」と言えますし、
もっと分り易く説明すれば、【 意識が無くなった状態になること 】と言えますので、最初にも書きましたように、
【 眠ってしまった状態と、ほぼ同じこと 】と、言えるのでしょうか。

(ほぼ同じ)と言う意味は、眠ている場合は「夢」などを見ますし、朝になれば意識が戻り眠りから覚めますが、
【 死 】には、!それが無い!、と言うだけの違いと言えるでしょうね。

これらのことを繰り返し考え、自分自身に言い聞かす練習をすれば、死とは【 単なる、長ーい眠りに入るだけだ 】
と良く理解でき、仏教で言うところの「悟り」に一歩近づくことが出来ますし、それに伴い「恐怖心」などからも、
完璧に、逃れられるようになります。

そうなると、「死ねば、自分と言うものはこの世の中から、完全に無くなってしまうのか?」と言うような疑問や、
なぜ、【 人間や命あるものは、必ず死ぬ仕組みになっているのだろう? 】と言う疑問なども、
次々と出て来るとは思いますが、今回ご質問のテーマより、少し難しい問題となりますので、
またそれらの疑問がわいてきた時にでも、改めて答えることにしましょう。
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この回答へのお礼

仏教にはこのような考えがあるのですね。
今まであまり仏教に関心がありませんでしたが
少し興味が出てきました。
確かにそのような疑問も
出てきますね。

お礼日時:2004/12/11 04:15

わ~、うらやましい!!とさえ思いました。

人生を、周囲の人々を、こよなく愛しておられるのですね!
まず、お気持ちが楽になることを祈って、私の体験から話をひとつ。
何年か前に手術を受けるため全身麻酔を施されました。そこから覚醒まで、あきらかに眠っているのとは違います。夢をみるわけでもない、完全に意識がない世界でした。ですからこそ体にメスが入る痛みも自覚しない、何も感じない。苦しみや悲しみも感じません。したがって死の間際の恐怖というのは案外に心配するほどのことでもないと思います。でも貴方は多分その無意識状態こそを恐れていらっしゃるのだろうと思います。
上記のような無意識状態というのは、むしろ自然の摂理から与えられた恩恵と言うべきものだと思いますが、貴方は今与えられている御自分の全生活に非常に執着しておられる。これこそが貴方の恐怖の原因でしょう。
私も小学2年生頃まで貴方と同じような気持ちを抱いて眠りにつく前、悶々とした記憶があります。しかしながら時が、いろいろな時が流れました!
今は生きているほうが死ぬことよりも恐ろしいと感じることが多い。自殺する人の心境の一端でしょう。死んでもチャラにならないとしたら、それもまた恐ろしい。私の周囲の人間たちに会えなくなるのが辛い?寂しい?逆です。
貴方は幸せなのですよ!!
恐怖に打ち勝つ良い方策を皆さんがアドバイスしてくださってますが、私から申し上げられることは、ただ一つ。これからも周囲の人たちを愛し、また愛されるように精一杯の努力をしてください。貴方の人生に有意義な時間がひとつ、またひとつ積み重なっていくにつれて、いつか現在のような恐怖が薄れていくことでしょう。そのことに、ある日貴方は気づかれることでしょう。
思い詰めずに・・・ねっ!
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この回答へのお礼

たくさんのご意見ありがとうございました。
まだ怖いのは怖いですが、質問する前より
少し楽な気持ちになった気がします。
色々なアドバイスがあったので、
考え方を変えてみたり、参考にしていきたいと
思います。

お礼日時:2004/12/11 03:50

死ぬことが怖いとか怖くないとか、それは捉え方次第だと思います。

意識がなくなるのが怖いのなら、貴方はもうそれを経験してるはずです。

例えば睡眠。
コレは誰しも行なう生理的な意識のカットですよね。それまでの事もどうでもいいですし、起きればまた動けます。
他にも、気絶。
気絶したことに気付ける人なんか居ませんし、居たとすればそれは気絶なんかじゃないです。
ほら、結局意識なんて生きていても保てる時間は限られているんです。
自分のしてきたことが無くなるのがイヤだ、というのなら、死んだら関係ないし。と切り替えればいいんです。
死後の世界があろうと無かろうと関係ありません。だって、SFみたいな化け物が居たところで、そもそも生きてないその身じゃ恐怖する意味も無いんですから。
そんな先のことを事を考えるのなら、今生きてる自分に連なる、今の狂おしい世界と向き合うことの方が楽しくて悲しくて愛しい事だと思います。
自分の死よりも、身を切り裂きたくなるくらい悲しくて悔しいことはニュースで幾らでもやっていますから…。
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この回答へのお礼

気絶はしたことないですが
睡眠は意識がない感じですね。
今を生きていきたいですね。

お礼日時:2004/12/11 04:00

こんにちは!


おそらく、ほぼすべての人の悩みだと思いますよ。人類の定めというか、
逃れることのできない問題です。そして、その問題に真摯取り組む人、
それから逃れようと無視する人、人それぞれですね。
そして僕は、この問題を乗り切るために人生を賭けました。(笑)

科学実証主義のこの時代でも宗教があり、宗教観に乏しい日本でも、
新興宗教が流行しています。
人間の身体は、細胞の集まりでできています。その細胞は原子から
成り立っています。その原子は、5年ほどで全て交換されるといわれて
います。新陳代謝、垢などですね。
そう考えたら、今、手にしているリンゴを食べたら、それは吸収され
僕の身体の一部になるのだろうけど、だったら、どこからが僕で、
どこからが僕じゃないんだろう?そういう疑問もわいてきます。
結局、科学でつきつめていってもミクロの世界は、構成するその粒子を、
さらにそれは何で構成されているの?の繰り返しです。絶対的な答えは
永遠に出ないでしょう。
なので、ホンモノの科学者であればあるほど、宗教的であると思います。

宗教を論理的に考えれば、その多くは、死やこの世界の不幸な出来事、
また生きることに対しての意味や目的を見出す難しさなどに伴う意識の
分裂、不条理感を無害化するためにあると思います。
それを論理的に解釈するために、その主軸を人知を超えた外の世界に
置くのです。そうすることにより、
理屈だけでは捉えることのできないこの世界を捉えることができるのです。
そうやって、人類は何千年も救済?されてきたのです。

しかし僕は、実際に経験したことしか心の底から信用は出来ない性質なので、
宗教に興味があっても、宗教家ではありません。
僕が克服した方法は、とにかく、納得するまで考え、実行することです。
それは、誰がやるのでなく、自分がやるのです。自分でやらないと意味がない。

まず、死について考えてみました。それは、生きるとは何かと同義です。
そこで僕はこう考えました。
「今、僕は生きているけど、地球に隕石が降ってきたり、また地球が
爆発したり、太陽がなくなる可能性は常にあるなぁ」また、「今、僕は
生きているけど、いきなり心臓が止まったり、大地震に襲われたり、
ミサイルが飛んできたり、未知のウイルスに襲われたりする可能性は、
常にありえるよなぁ」と考えました。
つまり、自分が死ぬ可能性は、瞬間瞬間、今ここにあるわけで、それは、
人間がどうこうできるレベルじゃない。(宗教的に言えば神様、オカルト的に
言えば宇宙人?、常識から言えば災害や人災)

いつポックリ逝くかわからないのに「死について悩んでいてもしょうがいないじゃん!」
と思うようになりました。(笑)
それで納得されるか、かなり微妙ですが、(繰り返しますが、誰がやるのでなく、自分がやるのです)
死は誰にでもおとずれることだし、死は未知だから怖いわけで、
逆に考えたら、未知だからこそ、興味を持つわけです。
知的好奇心が旺盛な方なら、死んだあとの世界を体験したいと楽しみにしているかもしれません。

結局、死は誰もが経験することなのに、ネガティブに受け取るか、またはポジティブに
受け取るかはあなた様次第です。

余談:幽霊について考えてみました。
幽霊は、未練や恨みなどを残して死んでしまい、それを達成するために出てくると言われています。
その精神主義者は、あの世にいるはずなのに、この世にでてきます。
そして、未練や恨みを達成しようとするのですが、考えていてフとおかしくなります。
逆を考えてしまったのです。
自分は、この世に生きているのに、頭の中は、死んだ先のあの世にいます。
死について悩み、今に生きていない。
なんだか、幽霊の逆バージョンみたいだなと僕は思い、そんな自分がおかしくなりました。

「今、生きていないから死を悩む」のです。

正直に見て下さい。今の日本は、死の危険と程遠い生活を送っています。
そこで、経済をまわすために働いています。道路もアスファルトで固めています。
安全第一でいいのですが、少し、過保護すぎると思います。
まわりを見渡しても、人生を振り返ってみても、ほとんど常に枠の中で生活しています。
レジャーにしたって、遊園地にしたって、心の底からスカッと楽しむことがない。
枠の中だとどうしても虚しいのです。だから僕は、海でサーフィンをやり、冬はスキー場に行きます。
他にもここに書けないようなこと(枠からはみ出すという意味)をやったり、
バイクにも乗るし、そうやって、危険に身をさらすことで、生きている実感を得ているのでしょう。
アスファルトで固めた地面よりも、夏の砂浜を裸足で駆け回るほうが気持ちいい。
また、秋に紅葉を楽しみに山に登るのもいい経験です。そうやって、自然の中に
自分を投げ入れて、またそこで生きている実感があるのです。
何もかも合理的に作られた、安全な環境だけだと虚しくなります。
自然など未知とぶつかることに生きがいを感じます。

話がズレてきたし、長くなったので、また機会があれば書きたいと思います。
結局は、あなた様が「ご自分で考え実行して」みないと納得できないと思います。
僕の意見は、あくまで参考にしていただけたら幸いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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この回答へのお礼

参考になりました。
いろいろ考えさせられますね。
最後の方の、危険に身をさらす事で生きている
実感をするというのは確かに
そんな感じがします。

お礼日時:2004/12/11 04:02

如何に死ぬかだと思います。


死に花を咲かせるのです。
人間誰しも死ぬので、どうせ死ぬのなら天下国家人民の為に、かっこうよく死にたい。
戦でもあれば立派に討ち死にできそうなものですが、今の自衛隊派遣とかは義がないのでちょっと…

警察官にでもなって、市民の盾となり殉職するのがベストだと思います。美しく立派に散りましょう。
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この回答へのお礼

そうなれれば素敵ですよね。

お礼日時:2004/12/11 04:03

 実は私もありました。

小さい時、(小学校の時)突然『死の恐怖』が襲ってくることが。ー今生きているということは死は必ずやって来る。いつ、どんな形かは分からなくてもー質問者さんはたぶん人よりも感受性が鋭いのでしょう。開高健文豪や良行淳之介文豪もそういう時があったと言っていたので、もしかしたら作家に向いているのかも。でもそういう感性って成長するに従って生活も忙しくなり、無くなっていくものです。残念なことに。(私にとっては懐かしい感覚です)

 死ぬことを考えるのは悪いことじゃないと思います。それは、積極的に『死』を考えることにより消極的に『生』を考えることに連がるからです。でも、死を考えることに取り付かれて実際に死んじゃったりしないようにして下さい。死を考えることと実際に死ぬこととは、紙一重ですが大きな差があります。

 死ぬとどうなるか、フランス人の言葉を借りれば、フランス人はセックスの後に訪れる深い、短い、完璧な眠りのことを『小さな死』と呼んでいます。この言葉で『死』と
『眠り』の相関関係は言いつくされていると思いますが、、いっぺん、あなたもセックスした後寝てみてそれから考えてみたらどうでしょう。人生観がかわるかもしれないヨ。

 あなたに民話を1つプレゼントしましょう。これは、『テヘランの死』と言って中東ではすごく有名な話です。
死神が砂漠のオアシスの旅館の中庭に入って行くと、その姿を見た旅館の下男が怯えすくみ、荷物をたたんでたちまち逃げ出してしまった。そこで、死神は旅館の主人にあの男はいったいどうしたんだネ、とこう訊いた。主人が、彼はあなたの顔を見て驚いたので、テヘランまで逃げてしまったのですと答えると、死神が不思議そうに、おかしいな、今日の夕方オレはあの男とテヘランで会うことになているんだが、なんであんなに慌ててんだろうーと呟(つぶや)いた。つまり、人間は一寸先のことも分からないのにジタバタするもんじゃないと言う意味の教訓なのです。あなたも、これから先、いつ、どこで、どういうことが起こるか分からないと思って、今晩はよく寝ておいたほうがいいヨ。
 
 ただし、この話は『バクダットの死』とか『ダマスカスの死』とか色々な土地のバリエーションがあるらしいです。
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この回答へのお礼

こんな民話あるんですね。
なるほどなぁ、という感じです。
死を考えることと実際死ぬのは
確かに違いますね。
間違っても死んだりはしませんよ。

お礼日時:2004/12/11 04:06

死とはいつ、どんなかたちで現れるか、わかりませんね。

交通事故、犯罪に巻き込まれる、自然災害、病気、戦争など。最後まで生き抜いて、いざ、その時になれば、それなりに観念のイメージが湧いて死を受け入れることができるというのが、僕の考えです。だから、最後の最後まで生を見抜いて下さい。死が見えたときでも生をさがして下さい。
人間生まれて、首がまず、据わります。死を見抜いて肚が据わります。
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この回答へのお礼

確かにそのときがくれば
覚悟ができたりするのかもしれませんね。
きっと受け入れられるんでしょうかね。

お礼日時:2004/12/11 04:08

恐怖にとりつかれている状態の時、著しい免疫力の低下が起こります。


日常的に体内には多数の癌細胞が発生していて、それを免疫力で抑制していますから、
いまのあなたはまさに「死にとりつかれている」状態だと言えます。

したがいまして、精神と肉体が絡み合い、
「死ぬのが怖くて自殺する」という典型的な例です。

この場合、心理療法や宗教へと巧みに導かれてしまいがちですが、
カッコウのいい餌食になってしまう危険が高いですね。

この場合にいいのは、哲学、心理学などの形而上学ではなく、
(もちろん心理学=形而上学だとも言い切れませんが)
もっと客観的に自分や生命を考察できる生物学的考察をお勧めします。


精神や肉体は「表現体」もしくは「発現体」であり、
生命の主体はあくまでもDNAであり、
「その触媒効果による連鎖的な化学反応=生命」とされています。

あなたが死んでもあなたのDNAを受け継ぐDNAたちが少しずつ環境適合し、
あなたが永遠に生きるよりはるかにその継続的存在の確実性を得られるのです。


簡単な生物学の入門書か、
なんならそういった類のSFでもいいですから、
そういった情報を楽しみながら手にしてください。

大きな視点から自分を客観視したほうが、
気が楽になって長生きできますよ。 (^ー^)
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この回答へのお礼

体の中でそんなことが起こっているのですか!
あまり恐怖を感じるのはよくないですね。
DNAの為に生きているのはちょっと
悲しい感じもしますが、生物学は
全く知識になかったです。

お礼日時:2004/12/11 04:11

かつてワタシも死の恐怖に取り付かれたことがありました。


死んだらどうなるんだろう。
死んでしまったら、今までのはみんなチャラなのだろうか。
死んでしまったら家族友人と永遠に会えなくなるのか。
夜寝るとき、このまま目が覚めなくなるんじゃないか。
道を歩いているとき、通り魔や暴走車にやられたらどうしよう。
怪我したとき、血が止まらず死んだらどうしよう。

これは強迫神経症の一種だそうです。
当時はそんな言葉も知りませんでしたが。
死を怖がるのは、死んだらどうなるかという未知の恐怖と、
死んでしまえば皆に忘れられていくという恐怖があると思います。
で、克服する手段として死について勉強しました。
宗教、哲学、科学、SFに至るまで本を読み、映画をみたり。

結果、「死ねば無。何もない。天国も地獄もない」と結論を得ました。
救いがない考えかな~と自分でも思いますが、死の恐怖は薄れました。
死んだ後、本人は消滅しますが歴史は残ります。
いつか来るその日のために、何かを残したい。
歴史書に残るような英雄的事業は無理ですが、「ここに居た証」を残したくて日々生きることにしました。

薬では治せません。
自分で結論を得ない限り、恐怖は克服できないと思います。
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この回答へのお礼

強迫神経症ですか。
本当に考え出すと怖くなりますよね。
答えがないのでさらに難しいですね。
生きているうちに証を残せるといいですね。

お礼日時:2004/12/11 04:13

「No.11」での、紹介ページが間違っておりました。

すみません。

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「 ユリーカ!~仏陀の悟りに到る道~: 苦の解脱8 ... 」
http://mind.moo.jp/cgi/mt/archives/2004/09/post_ …
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