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「東京キッド」の歌詞について(昭和25年の世相)
歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マン・ホール
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND13824/index. …

昭和25年発売の「東京キッド」ですが、
1.当時東京っ子のことを東京キッドと呼んでいたのか。
2.東京キッドは浮浪者の子ですか。
3.金がないのにフランス香水、チョコレート?
4.この頃、子供がジャズの歌をうたっていたのですか?
 たとえばどんな歌でしょうか。

A 回答 (2件)

昭和25年には世の中大分落ち着いていた時代です。



でも昭和27年、東京の立*高校とのバスケットボール定期戦で歓迎会をしてくれた池袋、**家の辺りには爆撃跡の空き地もたくさんありました。

1.東京の子供たちを東京キッドとは言いません。当時映画は西部劇がはやりだした初期、主人公に**キッド(名作、駅馬車の主人公ジョン・ウエインはリンゴー・キッド)などと言う名前が多かったので、作詞時イメージ的に書いた名前でしょうね。

2.浮浪者は戦前からいました。ルンペンと言うほうが一般的でした。終戦当時、子供が疎開していて生き残り、東京へ帰ったら両親も家もなく已む無く浮浪児として生きなくてはいけない子供たちが沢山いました。国は知らんふりで(余裕もなく神戸の大震災どころの話じゃない程酷かった)浮浪時狩りを行い収容していました。

浮浪者の子供ではありません。運の良い浮浪児は進駐軍の将校などに拾われ養育された例は沢山あります。

3.フランス香水やチョコレートは当時の街頭の女性(今で言うストリートガールですが生活のため、家のため已む無く身を投じた女性も多かったし、進駐軍相手のお仕事と称して若い女性を集め、仕事の内容から身を持ち崩した気の毒な女性もいました)の憧れ、子供にはチョコレートです。

そのチョコレートは軍隊用の硬くて塊が連なったようなもので、今のような板チョコのイメージとは程遠いものです。
ただしお金があれば闇(横流し)で何でも買えた時代です。

4.ジャズを歌うと言うことは、進駐軍相手の店やキャンプで歌手が歌う以外にはありません。
戦後の大人も子供も口ずさんだ「りんごの歌」や「青い山脈」に始まり、正当な歌謡曲(演歌はありません)を歌うのが常でした。

25年当時、世の中も相当落ち着き、レコードも洋楽が出だした時代で昭和29年にかけてアメリカのジャズ界の大物が続々来日。ベニーグッドマン、サッチモ、ジーンクルーパー、JATP、ハリー・ジエームス等々、私も夜汽車で東京へ出かけ空き腹を抱えてジャズに酔いしれた口です。

25年当時、最初流行ったレコードはハーレム・ノクターン、クラシックじゃハイフエッツやメニューインの来日で一気に。

エル・マンボがはやり、ザビア・クガートの来日などでラテンも。

その後、アメリカンPOP全盛で、パティ・ページをはじめレコードが続々。

言い換えれば、27年頃からアメリカンPOPソングが次々発売され、。中学生、高校生は英語の歌詞を覚え口ずさむことが常でした。

ただし全国すべてがそうであった訳ではありません、主に都市部のみです。

流行ったのは「涙のワルツ」「テネシーワルツ」「ワンワンワルツ」「リトルシューメーカー」「星を見つめないで」などなど順次多数。

26年の映画「白昼の決闘」その後は暴力教室の主題歌「ロックアラウンドクロック」には衝撃を受けました。

今でも歌詞を覚えているせいか色々歌えますけれどね。(^^)

取り留めなくなってすみません。
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 私もまだ生まれていませんが・・・



 「東京キッド」は同名の映画の主題歌です。

 終戦直後の東京。病気の母と二人で暮していた12歳のマリ子(美空ひばり)のもとを、10年前に家を出た谷本(花菱アチャコ)が、実業家として成功をおさめて訪ねて来た。しかし、もう一度3人で暮そうという谷本の申し出を、マリ子の母は断り息を引きとってしまうのだった。母の遺言を守りマリ子は谷本のもとから姿を消してしまう。賞金を付け娘を探す谷本。そんな事情を知ったホステスのトミ子(高杉妙子)は、マリ子を男の子に変装させてかくまうことにした。そんな時、トミ子は流しの歌手サンちゃん(川田晴久)と似顔絵画きのシンちゃん(堺駿二)の二人からプロポーズされる。

http://cinema.intercritique.com/movie.cgi?mid=10 … こちらを参照しました。

 まず、こういう映画の劇中歌ってことを把握していないと、まったく歌だけでは分かりませんね。
私も、このあらすじを読むまでは、当時空襲で両親を亡くしたり、住む家が無くなって街の中をねぐらにしてた「浮浪児」と呼ばれた子ども達の話だと思っていました。なので、チョコレートなどはGIから「ギブミーチョコレート!」なんて言ってもらったんだと思いました。

 終戦直後から1960年代中ごろまで、洋楽のカバーをいろいろな歌手が行ってました。
美空ひばりや江利チエミ、雪村いづみあたりは、昭和11年12年ごろの生まれで、この「東京キッズ」が映画化された1950年には13歳くらいでしょうか。その一世代後のナベプロ三人娘と呼ばれた、伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりあたりまでは10代でアメリカンポップスのカバーをしていたようです。
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