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思想としてのゴロツキやチンピラは、ふつうにまともな人たちに支持されているのか。
または普通人の思考能力はゴロツキの跋扈を防げないほど脆弱なのか。
実を言うと普通人がまともかどうかも私は懐疑的です。
おかげでゴロツキは自分こそが常識を代表していると言わんばかりでした。

A 回答 (9件)

 誰に対してゴロツキ と言っているのかはともかくとして、私が普段言っていることはどういったことでしょうか。



○組織が悪、多数は悪、法律で第三者が当事者を裁くことはできない、種の維持・存続が人間の目的ではない、「善悪」というものは本来ない。善と悪は一対のもの。幽霊や精霊は見る人にとっては在る。

 支持されるのが目的では常識とはかけ離れた、こんなことは言えません。

>おかげでゴロツキは自分こそが常識を代表していると言わんばかりでした。

 「幽霊なんてありゃしねー」これも、社会の常識です。
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この回答へのお礼

お礼日時:2010/08/10 06:45

#3


  お礼
  罪状について否認するのですね。野次馬行為と言う表現もできる。

  そうでしたか、このコメントで分りました。凡そのことは察していましたが。
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時流の風に乗って手を替え品を替え、利得へ走るのが、ゴロツキ思想ではないでしょうか。


ボードリヤールという思想家は、こういう問題を扱ってきましたが、
神父や坊主が、賃金労働者にも金利生活者にも雇用者にも政治家にも好かれようとしてきたのは明白で、
大衆(マス)受けをねらって右往左往する宗教はゴロツキ思想化をまぬがれないといえます。

現代の人々は情報の海に浮かび、他者の言葉の受け売り・口寄せ・憑依が身につきやすい環境に晒されています。
これほどの言葉と思念の海の中で、思想の「原理主義」に徹する人々というのは、それもまた強烈な刷り込みか集団催眠が疑わしいと言えます。
大衆における思想は泡沫のごときです。亜流に亜流を重ね、書物で言えば編集技法、音楽で言えばリミックス技術を使って、キノコやタケノコのように生え、
思想の潮流は、マンガやアニメ、本や映画、音楽やファッションのベストセラーが作るシーンの中に忍び込んでいくのだろうと思います。
選択肢が多く、雑駁であり、ゴロツキにあふれていますが、一極集中を免れているのは消費経済とリンクしているがための美質といえるかと思います。
しかしそのぶん、人々は、消費者やユーザーとしてモノと向き合う性質が近眼視的に身についているため、「わからないもの」についての思考が脆弱です。
「われわれはもう思想を必要としていない」という心性で思想の残滓にまみれている社会であると思いますが、ここには、幽霊を信じないけれども幽霊が出没するというような妙味があります。
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この回答へのお礼

そうですか。
有難う。

お礼日時:2010/08/11 11:01

>そんな正体不明状態の病人の常識は暴力である。


>正体不明が認知可能なので法的には無罪だが、そのままのゴロツキの姿でのさばっている。

>そんな私の活躍の場が家畜人ヤプーによって、アメリカ大統領と宇宙人の関係に関して>うんちくを傾けることに費やされる。そんなヤプーの常識とは何ぞや?

家畜人ヤプーも質問者さんも「ゴロツキ」「ピラの方々」「ヤクザ」「本筋」「格」という言葉を「観念」あるいは「概念」として捉えています。分析哲学では概念という存在は認めませんから、これらの語はすべて記号として扱われ、記号がある具体的対象、つまり存在する対象を、指示しているとき「名」として扱います。


家畜人ヤプーの発している言葉をこういう視点で見ると、「正体不明状態の病人の常識は暴力である。正体不明が認知可能なので法的には無罪だが、そのままのゴロツキの姿でのさばっている。」とは到底いうことは出来ず、家畜人ヤプーの発している言葉は単なる「ナンセンス」でしかあり得ないのです。
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この回答へのお礼

お礼日時:2010/08/11 10:58

再びmoonliver2005です


>その何とかという昔の哲学者を弁護人にしたいんですか。
いえ、違います。私が述べているのは:
1思想としてのゴロツキやチンピラとは観念論者のことである。同じようなことを、論理学の手法を用いて考えた20世紀の天才哲学者がいる。
2観念論者はふつうにまともな人たちに支持されている。
3おかげで観念論者は自分こそが常識を代表していると言わんばかりです。
4具体的には、質問者さん自身は観念論者になっているから、思想としてのゴロツキやチンピラの一人であり、言っていることがナンセンスになっている。

ということです。(多分、質問者さんは「自分こそが常識を代表している」と考えておられるはずです。そうでなければ「その何とかという昔の哲学者を弁護人にしたいんですか。」という発想は出てこないでしょう。ただし、これは私の勝手な推定で、もし「自分こそが常識を代表している」とは考えておられないのでしたらお許しください。)

要するに観念論に立つ限り、何も解決しないし、何も変わらないということを述べています。要するに質問者さん自身が観念論から脱出しないと、どのような自分の疑問について、満足する答は見つからないということを述べています。(「観念論を純粋に突き詰めてゆくと結局「懐疑論」に行き着かざるを得ないことが知られています。」ということです。)

この回答への補足

君に対する礼節は尽くしたよ。
それは決して懐疑では無いよ。

補足日時:2010/08/10 22:57
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この回答へのお礼

まあ百歩譲って歩調を合わせるよ。
観念が出来るなら常識にも詳しい。
なんたって言葉の使い方を心得ている。
私はより常識的である。
そんな私の活躍の場が家畜人ヤプーによって、アメリカ大統領と宇宙人の関係に関してうんちくを傾けることに費やされる。
そんなヤプーの常識とは何ぞや?

観念を理解しない。
要するに私が私であるに至っていない。
そんな正体不明状態の病人の常識は暴力である。
正体不明が認知可能なので法的には無罪だが、そのままのゴロツキの姿でのさばっている。

お礼日時:2010/08/10 22:24

ゴロツキやピラの方々は、ご自分の世界しか見ておりません。



これに対し、ヤクザと呼ばれる本筋の方はご自分の生きる世界(羅刹)と娑婆とを確実に理解されております。

つまり、格の違いです。

プリ様も、素敵なヤクザの方と交流を持たれるべきです。

…私ですか?

私はただのメスブタです。
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この回答へのお礼

罪状について否認するのですね。
野次馬行為と言う表現もできる。

お礼日時:2010/08/10 20:27

質問者さんのような疑問は「観念論哲学」という立場で発生する一般的な疑問です。

観念論を純粋に突き詰めてゆくと結局「懐疑論」に行き着かざるを得ないことが知られています。

質問者さんと同じようなことを、もっと上品な言語を使って(笑)論理学の手法を用いて考えた20世紀の天才哲学者がいて、1918年、29才のときに書いた本につぎのように書いています。

4.003哲学的な著作物の中で見い出される、ほとんどの命題や問いは、誤っているのではなくナンセンス的である。
その結果、われわれがこの種の問いに答えることは出来ず、ただ出来ることは、それらがナンセンス的であると指摘することである。哲学者達の問いと命題のほとんどは、われわれが使用している言語の論理を理解していないことから生じている。

4.003そして(観念論哲学者達が提起する)もっとも深遠な問題が実は何の問題ではない、としても驚くべきことではない。

「哲学者達の問いと命題のほとんどは、われわれが使用している言語の論理を理解していないことから生じている。」という考えが本質でこういう立場を「分析哲学」と呼んでいます。言語の論理を理解していないことから、哲学することと言葉の遊びをすることの区別がつかなくなっているというわけです。(質問者さんが同様の誤りを犯していないことを、私は祈ります。)

これはウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」という本の引用ですが、岩波文庫に入っていて、500とか600円で買えますから是非読んでみることをお勧めします。分量はとても少ないですから、ただ読むだけなら1日で読めますが、理解するのは大変です。

B.ラッセルがこの本の解説を書いていてやはり岩波文庫に収容されていますが、日本語訳者の注では、ラッセルもこの本を理解できないで解説していると書かれています。そうして、インターネットによると岩波文庫の日本語訳は間違っている箇所が相当あるそうです。
プロの哲学者でも全体を完全に理解した哲学者はいない??ということのようです。

この回答への補足

回答内容は評価できるので一応補足しておくよ。
その通り。
私がしているのは哲学と言うより観念研究です。
ところがこのカテでその成果について話そうとするとゴロツキが表れ、主題が幽霊の話とかアメリカ大統領と宇宙人の関係とかそっち方面に流れる。
ゴロツキの因縁に涼しい顔ばかりもしていられないよ。

補足日時:2010/08/10 21:27
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この回答へのお礼

罪状について否認するのですね。
野次馬行為と言う表現もできる。
その何とかという昔の哲学者を弁護人にしたいんですか。

お礼日時:2010/08/10 20:28

 【思想としての“ゴロツキ”や“チンピラ”】ということばで、他の方がご質問されていました。


 そのときもすごい表現でしたので、私としてはあまり冷静性を持するのに困難を感じました。
 冷静に文章を読み進むことが困難でした。

 “ゴロツキ”や“チンピラ”というのは、普通は以下の意味で使われていて、以前の質問やこの質問でもその意味を転用した表現で使われている事は理解できます。

 “ゴロツキ”:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/82997/m0u/% …
 “チンピラ”:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/145864/m0u/ …

 こういう表現ではこの思想がそうだとは、私も即座に思い浮かばないことをお許しください。
 そして哲学カテでの“ふつうに”も“まともな人”も、先へいく歩調が乱れるものです。
 “ゴロツキ”や“チンピラ”の思想に嵌っていると、質問者が判断されるにとっては、その思想が決して“ゴロツキ”や“チンピラ”の思想ではないと思っているのでしょうね。
 私みたいな、あまり思想性も緻密な論理思考も不得意な人間がそれなりに勉強している思想は質問者から見ると、或いは“ゴロツキ”や“チンピラ”の思想なのかもしれません。
 そして普通人でもない、いや、普通人であるからこそ、であっても、まともでない。質問者からはそういうお叱りを受けそうな気がします。
 そういう者でして、質問者のいう“ゴロツキ”かもしれませんが、実はこの“ゴロツキ”野郎も自分が常識を代表しているとは、少しも思っていません。
 実は幼児からこの傘寿になろうとする年齢まで、自分は常識がわからない人間だとおもってきております。 熱く、痛い目を何度も経験して、世間様や社会では普通はこうするのかな、思いながらあまりずれないように気くばりするようになりました。

 自分が出会う思想などで、それが“ゴロツキ”や“チンピラ”ではないと思っても、その判断にどの程度客観性があるかは、難しいですね。
 そういう意味では人間の思考能力とは脆弱で相対的であるので、歴史を完結させるまでには到らずにみんなで争い、検討し経験しながら歩み続けてきているのかもしれませんね。

 【おかげでゴロツキは自分こそが常識を代表していると言わんばかりでした。 】というおことばばでてきましたが、いつ、どこで【いわんばかり】であったのかも、訪問させていただいたものが理解解釈するのが当たり前なんでしょうね。
 
 出隆さんも普通や常識ということを論述されていますし、多くの思想が扱ってきていますが、難しい概念ですね。
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この回答へのお礼

罪状について否認するのですね。
野次馬行為と言う表現もできる。

お礼日時:2010/08/10 20:27

「思想としてのゴロツキやチンピラは、ふつうにまともな人たちに支持されているのか」


いません。
思想が違うという意味をあなたが書いてますからそれが答です。

「または普通人の思考能力はゴロツキの跋扈を」
ゴロツキはそんなに跋扈していませんよ。

「防げないほど脆弱」
ゴロツキの跋扈を防ぐのは思考ではなく実行です。

「実を言うと普通人がまともかどうかも私は懐疑的」
具体性も根拠もありません。

結局質問の実質がありません。
懐疑の申告は質問ではなく意見です。
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この回答へのお礼

罪状について否認するのですね。
野次馬行為と言う表現もできる。

お礼日時:2010/08/10 20:26

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