dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

マナー違反になってしまうかも。

誰かに聞きたいと常々思っていました。ここで聞いたらマナー違反かなと悩んでいましたがお聞きします。

ある宗教の件です。
神(私)を信じるならば息子を殺せ
というくだりがあったと思います。

何て怖い神様なんだろうと思ってしまいました。
人を試したり、俺(神)以外の神を信じるななんて
神様にしては心が小さすぎませんか。

私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

A 回答 (29件中21~29件)

>やっぱり、神は人間を信じていないんだ。



不勉強にして聖書のどこでこの点の回答を与えているかわかりませんが、神はイエスキリストを通して、またイエスを信じる人たちを通して何かをなそうとしていますので、やはり人間を信頼していると思います。

>ここの神様は、人間に限りない可能性と能力を人間に与えていないんだ。

同様に不勉強で聖書のどの個所でご意見に対する回答を与えているかわかりませんが、聖書では人一人の命は全世界のすべての財宝を集めたよりさらに重要であると述べています。従って神様と同じような「全能」は与えられておりませんが、世界は神様を信じる人々によりかなり改善され発展した来たように思います。少なくとも平等、自由、民主主義などの発想は聖書から出ていると思います。(と勝手に感じています。)少なくとも思想面で人間は他の動物と比べて可能性と能力を大いに与えられてきたと思います。

>ところで、ここに回答されている方々は信者なのでしょうか。
いくつかの回答を読ませていただきましたが、小生と同じ聖書を読んでいることは確かですが、クリスチャンか否かはご表明がないので判然としません。ちなみに小生はプロテスタントのクリスチャンです。モルモン教やエホバの証人、あるいは統一教会とは無縁です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>神はイエスキリストを通して、またイエスを信じる人たちを通して何かをなそうとしていますので
神様は何をしてくれようとしたんですかね。まだ実行されていないのでしょうか。
2000年近くたつのに。

>聖書では人一人の命は全世界のすべての財宝を集めたよりさらに重要
間違いなくご尤もですが、可能性・能力は与えてくれていないんですね。

>世界は神様を信じる人々によりかなり改善され発展した来たように思います。少なくとも平等、自由、
>民主主義などの発想は聖書から出ていると思います。(と勝手に感じています。)少なくとも思想面で
>人間は他の動物と比べて可能性と能力を大いに与えられてきたと思います。
ここは否定しません。哲学、宗教が確かに関与していると思っています。一時期科学の足を引っ張ったりしましたけどね。
でも結局神様は何も手を下していないのではないですか。

私の信念として、神様は人間が独り立ちできるように作ってくれたと信じています。
それで、心の中の神さまに色々お願いして、希望を本当に叶えて貰っています。
これも、その一つ貴方と話したかった。
この意味分かるかな。

お礼日時:2010/08/18 11:07

 No.6です。



 ★ (No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
  >神は ほんとうは人間にとって 非思考の場なのです。

 所謂宗教の神様のことでしょうか。
 それとも宇宙を支配しているエネルギーをさすのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ《宗教》は扱いません。扱うに足るものと思いません。
 簡単にいえば 個人の信仰(つまり 非思考の場)から 人間の言葉で何らかの命題――たとえば 《ころすなかれ・むさぼるなかれ》などの規範――を得て来て これを組織において教義としその運営にあたっては いわゆる神の代理が 教義にもとづき人びとそれぞれの信仰について指導するという体制。これは 信仰の自殺行為であると認定しますので 無用のものと見ます。(信教・良心の自由の侵害という行為)。

 ですから 《非思考の場》とは われわれ人間の心のまどのことです。その窓を たしかに或る日 神がたたく音がする。これを受け容れるという行為までが 信仰です。という意味は この神を 無神としても構わないわけです。《思考に非ず》なので 神は 有か無かたぶん人間には分からないからです。
 有神論の場合は その神は全知全能だと見るでしょうね。したがって
 ★ 宇宙を支配しているエネルギー
 ☆ をもその神は含み持っていると見なすでしょうね。
 ただし 無神論の場合にも その無神のことを《宇宙の法則》と見なすことまでは しばしば見られるのではないでしょうか。

 言いかえると 神(ないし無神)は その存在(ないし非存在)のありようは変わらないわけです。それに相い対する人間が その神(ないし無神)との関係を いろんなふうに人さまざまに表現している。そういうことだと考えます。
 ただもし言うとすれば いま話題になっているアブラハムの神 この神との関係としての非思考の場(つまりその信仰)に立ってこそ そのみづからの有神論とそして無神論との対等性が分かるでしょうし あるいは 神を ヤハヱーと呼ぼうが キリストあるいはアッラーフと呼ぼうが あるいは ブラフマンもしくはアミターユス(阿弥陀如来)と呼ぼうが やはりそれぞれ互いに同じことです。名前の違いだけです。ということが分かると考えます。ほかの信仰では なかなかむつかしいと思われます。

 かくして 個人の信仰は すべて非思考の場として同じ類型である。そこから わざわざ教義を繰り出し組織をつくってその規範を守ろうとするさかしまでよこしまな営為が なぜか じんるい史上に現われ こんにちに到っている。こうではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>《非思考の場》とは われわれ人間の心のまどのことです。その窓を たしかに或る日 神がたたく音
>がする。これを受け容れるという行為までが 信仰です。
信者は何処までこのように噛み砕いて理解しいるのでしょうかね。
少し分かりました。

私は私の神様を揺り動かして助けて貰っています。
時々寝ちゃうのが私の神様の欠点、たたき起こせばなんでもやってくれます。
他人に出来ることでやりたいと神様に伝えれば。
従って《非思考の場》はないみたいです。

貴方の心の中にも居るんですけど、やっぱり《非思考の場》ですか。

貴方は、何かの信者又は神学者なのでしょうか。

お礼日時:2010/08/18 10:53

これ↓ですか?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5% …
神がアブラハムを試した話ですよね
結果的には息子のイサクは死んでません

心が小さいって
例えば株を買っても
いい時があれば悪い時もあるように
神を信じたからと言って
いい時ばっかりではなく
悪い時でも神に祈れる事は重要です!

と言うか質問者がどんな宗教に属しているかは
知りませんせんが
質問者にとって都合の良い神様は
本当の意味でどうなんだろうなあ?
って思いますね、、、、、。

個人的ではありますが何でもかんでも
神にすがるのはちょっと問題ありすぎかな
と思ってしまいます。

自分も色々と足りてませんが
「神」と言うと抽象的ですが
「われらの主、イエス、聖隷」など
もっと具体的に発言して神を考えてみては
いかがでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私にとっての神様は、非常に都合に良い大切なものです。
神様にお願いの仕方が(とっても簡単なことです)あって、これを使うと
人生を生き抜く信念を与えてくれます。
私はこの信念のお陰でレールの上を黙ってスーと走ってきました。幸せでした。
勿論今でも幸せです。
宗教には属していません。自分の心だけが頼りです。

ところで、ここに回答されている方々は何かの信者なのでしょうか。

>「神」と言うと抽象的ですが「われらの主、イエス、聖隷」などもっと具体的に発言して神を考えてみ
>てはいかがでしょうか?
特定宗教だけの問題でもないと思いましたので、漠然とした神だけにしておきます。

お礼日時:2010/08/18 02:51

 こんにちは。



 アブラハムとその息子イサクの話は いわゆる旧約聖書に出て来ます。
 旧約聖書の神と言えば 
 ○ ねたむ神 怒る神
 ☆ と呼ばれています。(神みづからがそう名乗るかたちで 記されています)。

 一方で 《怒る神は ただしくないのでしょうか?》という見方もあるはずですが 他方でそして基本的には 《ねたむ・怒る》のは 人びとのほうだと考えられます。
 よく引き合いに出すたとえは 《狭いながらもたのしい我が家》という言い回しです。この表現で《たのしい》のは ほんとうには《家》ではなくてそこに暮らす人びとです。《雪の降る夜はたのしいペチカ》でも 同じですね。
 ちょうどそのように 《ねたむ神》という表現は 《神のもとにつどう人びとが ねたむ》というのが 実態です。

 そう考えるならば 一般に神がアブラハム(そのときは アブラム)を試したと解釈されているこの話についても――ただし この《試した》という解釈でもわるくないと考えるのですが―― アブラムを含めた人びと一般が なぞの何ものかとしての神を試そうとした。つまり ほんの少しの思いとしてでも この神は 信じて従って来たが まだ分からない 試してやろうかという心の動きが残っていた。ということを現わしているのではないか。こう考えます。
 わたしは 自分の人間としての思いによって 神を測っていた。というその心に省みることがあったことを 息子をいけにえにささげよといった極限の場面をえがく話になって表現された。

 ですから
 ★ 神様にしては心が小さすぎませんか / 神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。
 ☆ というように《神》のことを語ってみるところの評言のすべては 人間の側から発せられたものだということです。人間としての思いを そのまま物指しにして 世界を測るのはそれとしてそのほかに 神をも測ろうとしているということです。
 神は ほんとうは人間にとって 非思考の場なのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>神は ほんとうは人間にとって 非思考の場なのです。
所謂宗教の神様のことでしょうか。
それとも宇宙を支配しているエネルギーをさすのでしょうか。

お礼日時:2010/08/18 02:43

聖書の読み方にはいろいろあってよいと思いますが、聖書は一つだけ非常に重要なことを語っています。

つまり、聖書は2000年前に大工のイエスという男が、十字架で死んだということを歴史的事実としても述べています。かれは死ぬ前に「私は罪人です」という告白に対して、あなたは私とともにパラダイスにいるであろうと宣言されました。その後の私の人生はこの地上にあって、平安と歓喜のある人生に変えられました。実は同じ刑罰を受けている男にいった言葉なのですが、それは私の内的な真実となりました。

聖書に議論を吹きかけても神様の声は聞こえてきません。イエスのように命がけて生きようと決断することが聖書を全部丸暗記するよりも重要です。また聖書は神様の人間に対する手紙ですが、神様も波長に合わせなければその神様の言葉は解りません。波長があわなければ聖書はおとぎ話以上のものになりません。

「私に従ってきたいと思うものは自分の十字架を背負って私に従ってきなさい。自分の命を救おうと思うものはその命をうしない。私のために命を捨てるものは永遠の命を得るのです。」永遠の命などという言葉もおとぎ話に聞こえてしまうことを十分了解した上で、他の言葉を用いると長くなるので、使用しました。ただ決断をすることにより解る世界です。

最後に「神は愛である」という言葉を贈ります。なぜかはプロテスタントの教会の牧師かご自身で聖書をおしらべください。

この回答への補足

cincinnati様

まだ、この掲示板をお読みでしょうか。
本日夕方にも新たな回答者が現れ、ずっと読んでいてくれたそうです。
私は、これが嬉しかった。
皆様の回答を覗かれて、それは違うよというのがありましたら回答いただければ幸いです。

補足日時:2010/08/19 18:36
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>自分の命を救おうと思うものはその命をうしない。
やっぱり、神は人間を信じていないんだ。
ここの神様は、人間に限りない可能性と能力を人間に与えていないんだ。

ところで、ここに回答されている方々は信者なのでしょうか。

お礼日時:2010/08/18 02:38

No.2様が解釈の一例をあげられたように



一文は文脈と一緒に読まなければ意味を誤ります。

「神(私)を信じるならば息子を殺せ」の部分だけ取り出して批判の対象にすべきではありません。そのような行為はゴシップ紙がよく使う手法です。

>私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

寛大だからよいわけでも厳しいからよいわけでもありません。
質問者様には寛大な神が性格上あっているということだけです。

ちなみに旧約と新約の神は同一、つまり、厳しい神と寛大な神は同一です。
ユダヤ教徒に対しては厳格な面をだす方が適していたので厳しくし
世界宗教であるキリスト教の教徒に対しては寛大な面を表しただけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実際に何度も助けて貰いましたので私の神を信じています。
何のことは無い、自分の心なんですけどね。
色々好きなことをさせて貰いましたので、感謝、感謝なんです。
その内罰が当たるかなと思うくらいです。

お礼日時:2010/08/17 20:44

何て怖い神様なんだろうと思ってしまいました。


人を試したり、俺(神)以外の神を信じるななんて
神様にしては心が小さすぎませんか。
私の信じている神様は寛大で、いつも私の心の中に居て、見守ってくれ時には助けてくれます。

○神様にもいろいろ個性があってね。理由は簡単ですよ。神様は全て全知全能の神から分かれた個性霊なんですね。天地創造の神、愛の神もいれば知恵の神、進化の神、美の神いろいろいるわけです。それぞれの神が独立に創った人間もいるわけです。それが人種や宗教を分けているのですね。
神様から観れば地上の肉体生命などどうでも良いと考える神もいるわけですね。何故なら人間は本来、不死の霊だからですね。 肉体生命など何度でも作れるし、人霊は何度でも生まれ変わることもできますからね。
神様の中には霊的生命も肉体生命も大切に考える神様もいます。特に仏陀と呼ばれる神はそうですね。理由は転生輪廻のシステムを導入された神だからですね。
また、進化に重きをおく神様は戦争を通じて進化の速度を速めたりするのですね。
そのように様々な神がいるということ、人間は本来霊であり肉体生命は経験を積むだけの存在ということが理解されれば、いろんな宗教があるということも理解できるでしょう。
質問に戻って、子供を生贄に出せという神もいれば、それはだめという神もいるのですね。
神にも個性があるということを知って欲しいですね。また神の論理がいつも人間の論理より優先するのですね。これは作った者と作られた者の定めですから反論しようがないのですね。
ただ救いはありますよ。各人が神を選ぶ権利はあるのですね。仏陀に帰依するかイエスに帰依するかが一番無難なところでしょうかね。これらの神々は生贄は嫌いですからね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
神論有り難く受け賜りました。

お礼日時:2010/08/17 20:01

イサクの話ですよね。



あれはこう解釈されています。

神はアブラハムの信仰を試した と。

アブラハムが神を第一と考えておらず、自分のことを中心と考えるなら息子は殺さないはず。
神はアブラハムの真意がわからなかったので、試したというわけです。

これは古代に、神の息子とされた人が勢力が衰えたら殺され、若い勢力のあるものが王になるという風習があったとされていたからみたいです。
殺されたくなければ、自分の身代わりとして息子を殺させる、これによって在位は保てるとしたとか。


実際はバビロンでそのような儀式が行われていたという証拠は無いようです。
バビロンから分離した宗教を作ろうとする意図があったからこそ、作られた寓話だと思います。
なんせ 創世記の箇所当たりは、バビロン捕囚以降に作られたという説が有力ですし、天地創造の箇所はバビロンに伝わっていた神話をそのままパクった内容ですから。

バビロンから独立するためには、多少なりとも違うようにする必用があり、自分たちの方がいい宗教だとするために、バビロンに伝わっていた神話みたいな内容を実際にバビロンがやっていたとして、うちの宗教はそんなことしないと、イサク物語を作ったんじゃないか と。


キリスト教になったとき、その概念だけが復活して神話として残ってますけどね。
神が1人子であるイエスを身代わりとして殺させたことで、神は勢力を復活させた とか。

実際イエスは実在の人物じゃありませんので、神が1人子であるイエスを殺して勢力を復活させたというのは、あくまで神話で事実じゃあないです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
詳しく分かりました。

>神はアブラハムの真意がわからなかったので、試したというわけです。
人間の心を察することが出来ないなんて神様がいるんですね。
こんな神様を信じる人の心が理解できません。

お礼日時:2010/08/17 19:05

聖書の神はアブラムに息子を犠牲に捧げるように言いました、そして神の指示通り短剣を胸に突き立てる寸前に中止の指示を出しました。


神はその忠誠心を試したということですが、その忠誠心に従って神ご自身の息子イエスを人間のために犠牲として与えたそうです。

しかし、別の神々は実際に多くの子供たちをいけにえとして要求し、実際に数え切れない命が葬られたのも事実です。

それは、どの神を認めるかという問題だと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
どの神もそんなもんなんですね。

ある神様いわく、他の神は私が作った偽者だ、だからお前達はだまされた者どもを連れて来い。

何で神様がわざわざ偽者の神様を作るんですかね。

お礼日時:2010/08/17 18:47

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!