都道府県穴埋めゲーム

武術を学んでいる人に質問します。
200年以上続いている武術で色々と先達の人がいるわけですが、3~4世代前の先人が歴史的に学んでいないと思われる動作を現在教えている(もしくは学んだっと言ってる)人がいます。(最近あまりにもその事をしらなすぎる人が多いので、私が間違って覚えてしまったのか?と思う始末)

貴殿ならどうしますか?
できましたらどのくらい続いている武術(何百年前とか)というのを記載していただければ幸いです。

ちなみにその先人映画になっていてその映画用にその動作の使い手にされただけなんですがね。(実は映画『酔拳』だったりする

A 回答 (2件)

Gです。



誰も着てくれないですね. <g>

日本には武道に関して、武士道に関して、史実を全く無視した、二つの非常に有名は映画があります.

それは、宮本武蔵であり、忠臣蔵であるわけです.

武蔵にお通と言う女性がいた、というし術はありません. 遺言エッセイである、五輪書でも、ぶどうについての「悔い」はかかれていても、彼女についての「悔い」は一言も書いてありませんね. <g>

しかし、日本の「武蔵像」にお通がいなくては語れないほどになっています. 女を振り切ることが清い武士の心構えだ、とするわけですね. (もてない私のような武道家にとっては100点満点をあげたい言葉です<g>)

よって、この業界<g>では、吉川武蔵、として区別をつけています.

武蔵は強かったのか、と外人が聞けば、多分、剣聖とまで言われたすごい剣術家だよ、生涯で60人以上と戦って一度も負けた事がないんだから、という回答が来ますね. 

しかしながら、史実としてその証拠はどこにもありません. その事が書いてあるのは、かれのエッセイの五輪の書だけなんですね.

宍戸梅軒なんて「嫁はん」とぐるになって武蔵を殺そうとする. この鎖がまの達人、日本人、武蔵を知っている人はみんな知っていますね. 残念でした. 梅軒という名前はどこにも出てきません、ただ、宍戸某としか出てきません.

どこで生まれたのか、いつ生まれたのかもはっきりしません. 吉岡との戦いこそ史実にはあったようですが、結果については、あやふやな状況なわけですね.

忠臣蔵もそうですね.

浅野内匠守が吉良上野介にいじめられたからとか、いろいろな理由で劇場内匠守が吉良を切った、ということになっているけど、これ全て、劇場での話なんですね. もっともらしい「武士道」の教えをこの事件(吉良を切りつけたことと吉良を殺した事)の理由として、もってきています.

考えられない事なんですね. つまり忠臣蔵の感情を訴えるところは、全く根拠のないところなんですね. すなわち、武蔵と同じように、忠臣蔵と言うドラマに洗脳されすぎたわけです.

水戸黄門ドラマも同じですね. 面白い事に「副将軍(そんな役職はなかったですけど)」が葵の紋がついた印籠を見せただけで、「ははぁ」となるにもかかわらず、「暴れん坊将軍」の場合は、独裁者にもかかわらず、「やっちまえ!」と悪玉の根性があるところを見せる. でも、やられちゃう.<g>

私の知っている「自称師範/宗家」の人たちも、やらったははずがないにもかかわらず、ある先生から直接習った、といっていますね. 私が来てからは言わなくなりましたけど. 来る前は、まさか、その先生を知っている人が来るとは夢にも見ていなかったのでしょう. <g>

ではまた。
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この回答へのお礼

Gさん再度の書き込みありがとうございます。
>私の知っている「自称師範/宗家」~
それいいですねー、自分から言わなくなったんですか?お国柄の違いかな~?日本人って正統かどうかを気にする割にそれ以外の事きにして無いからな~。
今回の私の騒動?も『その人正統な流れを学んできたから』で、話にもならない。私が『だからその正統な流れがやってな言っていってるし、映画関係者だってやって無かったっていってんじゃん』って言っても『(酔拳をやっていた事が事実)だから伝えてる解る?』ってもう水掛け論。
もう私の実害にならないから諦めようかと考えています。
しかしなー正統かどうかこだわってる割にはこういう所こだわらないんだなー。

お礼日時:2003/08/14 08:56

Gです。



私なりに書かせてくださいね。

私の日本語の理解力がないのでしょうが、意味が良く分からないのですが、一応このように理解いたしました.

ある人が、200年以上続いているAという武術を教えているのだが、その武術としては、知らないと思われえる技(例えば後ろ回し蹴りとか腕ひしぎ十字固め<g>)のような1-2世紀前の技を教わったと言っている. そのように言われた時、あなたならどうしますか?と言う事ですか?

私が教える時に、Ask, Doubt, Challengeの3要素を基本としています. つまり、私に言った事が分からない、理解できない、信じられない、というときは、私に直接言いなさい、ということです. 分かるまで説明しなくてはいけないのが私の責任ですし、説明できなければ、教える立場にはなれないと認識しています.

つまり、その場限りの言い分けじみた説明や、先生に聞くことは作法にあっていない、先生の言葉を信じられないものはやめなさい、とかいうことは私の道場では許されていません. アメリカ人のことですから、とことんまで、challengeしてきます. 

よって、もし私がその事を言って、voicesさんのもった疑問/疑惑を私の弟子が持ったとしたら、その弟子から、とことんまで、なぜ、知るはずもない技をこの武術で教えているはずがない、説明してください、といわれます. もし、それが、この武術/流派の発展途上において、違うルートから入ってきたものであれば、そのように教えますし、指導員の世代が変わるたびに、その指導員の別の技を取り込んだと言うのであれば、そのとおりに説明します. 私の先生が沿ういってたでは説明になりません. (もちろん文化的に説明できない物はあります、例えば、私の流派でのお辞儀の仕方、帯の締め方、正座での手の置き方など)

また、インターネットで見たら、xxxと言っていますが、ここで習った事と違うけど、どうなんでしょう、というような質問も結構あります. 訓練の中で、30分はこのQ&A(質問と答え)の時間を必ず取っています.

また、それについて、疑問/疑惑があれば、また、突っ込んで来ればいい事です. 指導とはコミュニケーションです. つまり、コミュニケーションである限り、言う側と受け取る側の波長があっていなければ、受け取る側に何らかの誤解が生まれます.

疑問/疑惑を取り除かなくては、次の世代の指導員は誕生しません. これを、私はAcademica Knowledge, Physical Abilities, Mental Abilitiesの3点を深める事が武道の訓練であるとします.

疑問/疑惑を重要視しないで行われてきた訓練の結果は、今本屋に並ぶ武術指導書のいたるところに見られます.

言われた事をその言葉どおり覚えているだけ、それを本にして出す. 読んでも、奥の深さを感じる事が出来ない、ということになるわけです. 序のページで、きれい事を書いているにもかかわらず、その後の残りのページには、それを支える指導はしていない、ということも、その例でしょうね.

例えば、武道とは自分を磨く物.などとすばらしい表現をしています. しかしながら、じゃ、どうやったら自分を磨く事ができるのか、というと、その本には全く書いていない、ということですね.

突き/打ち/蹴りは他の人間にダメージを与えるものでしかないはずなのに、うまくできるようにしか教えない. なぜ、うまくできるようにならないといけないのか、うまくなってそうするのか、全く教えていないように思えます. 人にダメージを与えると言うことと武道との関連性は? 一撃必殺ができるレベルとはどういうこと? 斬新がなぜ必要とする必要性があるの? なぜ、城内の狭いところ(廊下など)で、槍は使わないのに薙刀は使うの? などなどきりがないですね. もしその答えがあった場合、その答えの信憑性はどうだろう?

居合道においても同じです.

刀で人を切る動作しか教えません. キチンで指をチョット包丁で切っても大変なのに、刀で人間の体を切り裂く事の残忍さを見せる事は極力避けていますね. きられた方はたまったもんじゃないはずですよね. (もちろん時代劇で、ばっさばっさと人を切っても、切られた方は、「うぅっ」と言ってばたりと倒れるだけ! 悪玉の大将だけ、この「うぅっ」が長いですけど. 首をはねられるか、心臓を突かれたときだけですね、即死するのは. 私だったら、「いてぇえ、助けてくれ!119呼んでくれ!!!」って、叫んでいる事でしょう<g>)

また同じ流派でも、また、直系といっても、200年も前の物と、今とでは、どうしても、その200年にはいろいろと外からの影響を受けます. よって、今教えている事が100%200年前の物と同じということにはならないし、外からの影響の中に、別のルートから400年前の技が入ってくる可能性はあります.

しかし、指導員、またはその教える事に対して疑惑/疑問をもつことを極端に避けてきた日本での武術・武道界では、はっきり言って、何が正しいのかわからなくなります. 習うものにとって、知識/実力がついてくればついてくるほど、いろいろな疑問/疑惑が出てくるものです. 当然な事です. それを体で覚えろと言っても無理な事です. 推測では知識を深める事は出来ませんね.

例えば、今の空手と呼ばれるスポーツ空手でいくら技を習っても、その技が試合に出てこないわけです. 空手のお家芸の「手刀うち」「ナイファンチ・騎馬立ち」を使う試合参加者はいませんね. それに対しての疑惑と言う物を持たないはずがないのです. 持たないほうがおかしいのです. 何で、手刀うちを習わなくてはいけないの?って。

かなり、横道にそれてしまいましたが、もしかしたら、映画をより楽しめるように、その動作を取り入れちゃったのではないでしょうか. また、それを言う人も、疑問を持ったけど、結局聞く機会を与えられなかったのでしょうね. 残念としかいえませんが.

これでいいでしょうか。 分からない点がありましたら、補足質問してください。
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この回答へのお礼

Gさん解答ありがとうございます。

>私の日本語の理解力がないのでしょうが~

すいません・・・私自身どこまで書いていいのか解らなくて・・・。
単純に言います。『水戸黄門』って連ドラあるじゃないですか?このドラマ光国が全国漫遊していますよね?でも日本人なら光国がドラマみたいな事していないって事知っていますよね?それを『全国漫遊していて各藩の不正をただしていた!!』って言っている人がいたとしたら貴殿ならどうしますかって事なんです。

私が学んでいる武術の先人黄飛鴻が光国みたいによく映画やドラマになっていて、その先人が映画では『酔拳』っと言う拳法を使っています。実はこれ映画用におもしろければって事で使われているだけなんですが(これはパンフ等にも書かれていますが実際は使っていません)、何を勘違いしたのか『私の酔拳は黄飛鴻が学んだ物です』って言う人がいるのです。
私は色々物言いを言ってるのですが(その人と私は顔見知り)、どうにもならず、それだけならばまだしも周りの人たちまで、『黄飛鴻は酔拳やってたと思うよ』って言うようになり、私自身はたして正しい事をしているのかどうかわからなくなりまして・・・。

実際一子相伝でも無い限り系統は色々できるわけで、系統同士交流が無いと全て一緒ではないはずです。だから『あの技が無いから同門では無い』とは私は思っていません。でもねーだからといって映画を信じる事自体信じられなくて・・・。身内(この場合師・弟分)だったらもっと簡単だったのに・・・。

お礼日時:2003/08/11 17:18

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