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・きっかけ
ある友人との会話です
「dissapoint、ニュース見てる?」
「いや全く。googleとかで軽く見るけど」
「せめてNHKのニュースは見たほうがいい」
「そう」
このような感じの会話でしたが、私はニュースを見ないのは単に興味がないからです。政治も興味無い。これから「常識とは何か」と考えるということは、政治などニュースで取り上げられることは少なくとも常識、知っておかなければならないのでは?と私が考えているからだと思います。


しかし例えば私は政治に疎い。しかしこのように生きていられる。
なんら問題は起こっていないように思えます。
まず常識とは何か、手元にある辞書で調べてみると
「健全な社会人が共通に持つ(べき)普通の知識・判断力」とあります。
(新明解国語辞典、第二版)
さらに分からなくなりました。「普通の知識・判断力」とは具体的に何なのか。
経済?法?なるほど知っておくといいかもしれません。
しかし知らなくても、(極端ですが)生きていける。もっと言えば、知らなくても私たちは政治や法などによって生かされている。実は知らないところで変化は起こっていると思います。


常識とは生きる上で必要なことだと思います。無ければみな自分のしたい放題に生きてしまうのではと。他人を鑑みなくなる。例えば人は往来する道で寝転がってねる、電車の中で爆音で音楽を聞く……
こういうのは倫理のような感じがしてきました。倫理は常識に近しい感じがします。
倫理を辞書を引きます。
「行動の規範としての道徳観や善悪の基準」(同上)
……これも抽象的です。それに宗教や生きる国によって変ってしまう。
そういったら常識も場所や思想によって変ってしまう。
となると常識はいつも移ろい変るもので定まりがないのでしょうか。


文章が纏まっていませんが、結局お聞きしたいのは「常識とは何か?常識を構成しているものは何か?」ということです。
よろしくお願いします。

A 回答 (14件中1~10件)

常識とは自分の意見を押し付けるのに最も適切な言葉です。


自分を常識のある人間、相手を常識の無い人間。
その前提で話を進めれば説得しやすいのです。
伝説の教師、南波先生が常識という言葉を嫌うわけですね。
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多数を占める人達の価値観

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1.


「常識の本質って何? 」という設問に対し、前回の回答に記載した「世間の相場情報です。」という私の考えは変わらないのですが、面白い文章が見つかったので紹介しておきます。倫理などでもっと記載したい事があるのですが、今回はかいつまんで書きたいと思います。


日本イデオロギー論
http://www.amazon.co.jp/dp/4003314212

この本は唯物論からの日本における思想批判であり、難解かつ「それって本当かな」と懐疑の視点で眉に唾を塗りたくって読んでいるのですが、色々と示唆に富んだ表現に刺激を受ける事ができます。

以下同著86ページから引用。

だが実は常識水準そのものが、政治的な性質のものだということを注意しなければならぬ。我々は既に之を単なる知識(やがて学術・文化)から区別された意味に於て見識と読んで来たが、社会人の見識とは、単に個人の知的意志の統一を意味するばかりではなく、その各個人が社会に於て(物質的生産を媒介として)相互の関係に這入ることからくる社会を通った知的意思の統一を意味している。

しかし、この後に常識は数量的な平均性や多数性で決まるのではなく、一概に見識と言っても、凡庸な見識と卓越した見識の二種類があり、常識もそれに応じて上下する、と続きます。それを次のようにまとめています。

こうした数量的な平均性や多数性の規定を脱して常識の規定はどこへ行くのかと云うと、それは最初に触れた日常性の原理と呼ばれてよいものに帰着するのである。


日常により有用な情報が生み出されれば、それはより卓越した見識として社会的に認識され、それが常識へと着陸するのが社会における有用情報と常識の関係です、と著者は言っています。ですが、私は大体において同意するものの、一部若干懐疑的です。

この前後の文章では、常識をグレードアップすればするほど、世界の真理のような社会が求めうる一つの答えに収斂する、という大意を読み取れるのですが、現時点では自分はそうは考えません(将来的に変わるかもしれませんが)。
自分は、常識をグレードアップすればするほど、選択できる良選択肢が増えると考えています(そうした方向性に向かう事を著者は一つの答え、としているのかもしれませんが)。

話しはそれましたが、常識にも共通認識として「良い選択肢」「より良い選択肢」と程度の差があって、常識とは人間の集団意識に帰属するがまだら模様なんだよ、という事が言えると思います。

2.
質問の最初に立ち返って、「常識とは何か?常識を構成しているものは何か?」を考えると、「社会性動物である人間が、価値を決めるのに必要な相場情報である」となります。
常識が足りない、と言われるのは、社会を生きていく為に必要最低限な情報はあるけれども、高度な社会を構成していくのにもっと色々な事を知らなければならず、それが不足しているんだよ、と「高度な常識」の観点から指摘を受けているんですね。

「生きていく為に必要な常識はこれでいいんじゃね? 」という必要最低限の常識と、「高度社会を維持・発展していくのに必要だ」とされる常識の二種類を考えた場合、後者を知らなければ必ず手痛いしっぺ返しが前者にも降りかかってきます。

余談ですが、それが理解できないと、政府が悪い、お上が悪いとなるのです。というより一番悪いのは不勉強ながら情に流されて投票した自分自身じゃないかと思うのですが、そんな事は投票した本人も、マスコミもプライドや責任感なく時勢に合わせて都合よく忘れるようです。世論や常識を生み出すマスコミは日本の大きな根幹を動かしていると思われますが、「大局を動かすが、失敗してもその責任を取る事は一切無い」という点において、日本のマスコミはソ連の共産党とよく似ているように思われます。

3.

一人を殺せば殺人者、
人類の半分を殺せば英雄、
自分以外を殺せば神になる。

という言葉は、人を殺してはいけないという倫理や常識そのものが結構あやふやなものだという事を示しています(無論そんな選択肢を取ってはいけないし、私自身もそうした「常識」「倫理」に囚われていますが)。

繰り返しになりますが、常識とは移ろいゆくものであり、絶対不変、全世界に普遍的な意識ではありません。もう少し言うと常識とは物理法則などに代表されるような真理ではありません。
真理とは何か、という点について少し補足すると、その法則から導きだされる公式から多くが完全に再現可能なものと規定した場合、人の意識は韻を踏むとは言え、完全な再現は不可能です(ですので常識は真理ではない)。
人間の社会集団が持つ集合意識とその傾向をうつろいゆく常識と認識するのは良いのですが、それを絶対視してはダメだという事ですね。
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そのときは多くの人が正しいと信じている事柄が常識です


常識が正しいとは限りません
地動説が認められるまでは天動説が常識でした
大陸移動説が認められた今陸地が動くというのは常識です
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 根本ですね。


『共通認識」です

 最近の内閣の答弁では、この共通認識をわざとずらして、詭弁を使ってますが、いきすぎると嘘。
 心に嘘をつくのを自己欺瞞といいます。
 そこをおかしく認識したりする手法を、わざと使ってるのが、現政権です。
 結局、無責任を隠したり、覚悟がなかったりを隠してますが、
 こういう事態になるということを知りましょう。

 悪いことをやったら、謝りましょう。
 責任者は責任を取りましょう。
 そういう常識を覆す手法をとってると、支持率が下がり、国民が怒るという結果になることをしりましょう。
 というように、常識という規範は大事ですね。という結論です。

 まぁ意識が低いと、遠くまで見えないでしょうが、政治と自分はつながって影響してます。そのいい例が、消費税を払う行為です。
 また、遠くてつながってないように見える政治という認識を利用して、税金で私服を肥やす悪徳政治家がいたり、官僚がいます。
 彼らにお金を税金という名前であげてるのと一緒です。そのつながりが遠くて見えない人たちがいるため、選挙に行かない人がいっぱいいて、その因果応報で、政治腐敗は進み、具体的には、消費税10%とか言い出して、お酒も値上がりするらしい。
 民主主義なら、国民主体でこれを変えることが出来るにもかかわらず、選挙に行かないと変わらない。
 この常識と認識。
 つまり、現実感は自分の周りの小さなところだけ。というなら、意識が狭い範囲しかないということです。
 意識を光にたとえると、高い人は広く見えて、低い人は狭い範囲しか見えないということでしょう。
 広く見ると、まわりまわって自分に帰ってきてることがわかります。すべてがつながりあってることにもきずくでしょう。
 駐車場で泥棒してる人とそれを高層マンションから発見し通報する人の違いでいえば、意識の低い人は、この場合、泥棒で周囲に見張りをおいて車上狙いをしてる人の意識と同じで上まで目がいかない。
 その一部始終を見ながら通報する人が、意識が高い人と例えられますね。
 実際にあった事件です。間抜けな話です。
 間抜けな人にならないようにしましょうね。
>>しかし知らなくても、(極端ですが)生きていける
 知らないとだまされますよ。

 政治を操作する場合、国民を愚鈍にして、教育せず、情報を与えないことが一番だそうです。
 知らない人を多く作れば、愚鈍を作れば、自分たちのやりたいように政治が出来るという考えがあるそうです。
 その結果、議員は年収1億円(各手当て含)
 そのお金を我々庶民が払う。
 知らないなら、もっとわからないように税金を上げて、自分たちの給料を増やそう
 ということになりますし、なってます。
 知らない人は、がんばって働いて、何もせずに儲けてる議員さんや役所にお金を払いましょう
 という愚鈍になるでしょう。
 変える権利があるのにしないというのは、おろかといいます。
 馬鹿馬鹿しいですね。
 何でもそうですが、積極的に動かす人30%、どちらでもする人30%、やらない無能な人30%
 というのが、政治でも、会社でも、友人の中でも、だいたいこの割合です。
 自分がどのレベルに属するかを見極めるといいでしょうね
 関心がないというのは、必要ない30%の部類だと思います。
 そういうレベルでは、共通認識も通じないでしょうね。
 
 今後の成長に期待します。
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常識とは判断基準の事です。



スーパーで同じ魚がA店で300円、B店で320円、C店で4000円で売られていました。
それぞれ鮮度は同じ事が主婦の間では分かっているので、皆A店へ行きます。
A店で売り切れだったらB店に行きます。
A店でもB店でも売り切れであれば、魚を買うのをやめます。
間違ってもC店には行きません。

そこへ普段買い物をしたことのない旦那さんが、たまの休みに料理でもと言って魚の相場も分からずC店に言って魚を買って来てしまいました。
奥さんからは非難轟々です。
とした時に、旦那さんがミスをしたのは価格の相場の情報を知らなかったから、となるのですが、このような事が続けば、この家庭は不利な生活を強いられます。

常識とは、一般的な生活を不利なく過ごす為の相場情報とも言えます。
魚の値段は季節によって変わりますし、食生活も変わるかもしれないので、常識とは移り行くもの、として良いと思います。

また、dissapointさんがNHKを見ていないのが問題視されたのは、有権者だからではないでしょうか。
我々の生活は政治によって左右される部分が多くあります。自分が投じた一票に周囲の人間もその立場を左右される為、責任がその分だけ降りかかります。そうした時に、内政、経済、果ては外交などの相場情報を知っておく必要があるのです。
無責任になんとなくで投票すると、あとでとばっちりを受けるのです。
ただ、そうした情報はテレビだけでなく、いろいろなところから集めなければなりません。

現在、中国のミサイル300基が日本にむいているとの情報があります。
適当な記事が見つからなかったので下記を参照して下さい。
http://oiradesu.blog7.fc2.com/blog-entry-1390.html
http://hakkiri-ie.iza.ne.jp/blog/entry/29169/

これらを否定する情報はまだ私の方には入ってきていません。

また、中国は日本に対して強硬姿勢を打ち出しています。こうした国に投資し、譲歩しているのが今の日本で、そうした政策を進める党に投票したのが今の日本人です。

本来は日本人が努力して培ってきた技術の結晶は、その努力に対して対価が支払われるべきですし、有人宇宙飛行をしている国にタダで提供などできません。
日本は中国で虐殺をしたじゃないかと言われるかもしれませんが、大躍進政策で3000万人の餓死者を出した中国はそこら辺に頭蓋骨が転がっているのだそうです。
(逆検定中国国定教科書に記載されていたと思います)。
それらを集めて南京の資料館に展示している訳で、仮に30万人が日本のせいで死んだとしても、仮に100個頭蓋骨があれば、嫌な言い方ですが、その不幸な原因のうちわけとしてはその1%しか日本に責任がありません。そもそも南京でも30万人虐殺というのは疑わしく(私自身は秦 郁彦さん辺りで3万人前後を支持。まだ揺れていますが)、仮に3万人であればその0.1%しか責任が無いのです。残りの99.9%の悪事は中国本体によってなされているのですが、それを日本のせいに押し付けられているのです。そしてそれを知らずにただただ日本人はその償いの心情を利用され続けているのです。ただ、私としては死者を数値で表すのは嫌いなので、3万人死んだとあれば、きっちり反省し、返すべきものは返すべきだと思います。
死者に対して金でどうこうする事もできないのですが、せめてもの償いとして、中国に対して低金利の有償円借款とODAをやっていたのです。
こちらも嫌な言い方ですが、やれるべき事はやりました。償いはされているものだと思うのです。もしこれ以上行動を起こすのであれば、日本で十数年前より発生している年間3万人の自殺者を救うべきなのだと思うのです。

そして今、現在も中国に対して政府の譲歩が続けられています。
こうした中国へ向かっている賠償などのお金は、努力をして技術を確立する、あるいはその技術をサポートする家族やその周辺を支える社会など、本来還元されるべき日本の我々の生活に対価として入ってきません。考えにくいかもしれませんが、最悪こんなことをやっていたら、我々も年間3万人の自殺者のうちの一人になってしまうかもしれません。

こうした情報の相場はNHKを見るだけでは入ってこないのですが、そうした知識を得る為に、「NHKを見るだけでは全然足りないけれども、最低限NHKは見た方が良い」となるのです。
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 >そういったら常識も場所や思想によって変ってしまう。

となると常識はいつも移ろい変るもので定まりがないのでしょうか。

昔から、日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識、と言いますから、常識は場所や時代で変わっている物ですね。

>倫理は常識に近しい感じがします。

常識は倫理の入り口だと思います。常識は皆の多数決でそれとなく出来上がった物ですから、トコトン考えて行くと、常識を錦の御旗におっ立てて相手や自分を説得することは出来ないと思います。私は老人と呼ばれる歳になっていますが、この歳になって、皆の言うことの反対が常に正しい、というとんでもない真理を発見してしまいました。一方倫理はトコトン考えて行くと底が深く、やはり学と呼べるにふさわしい学問ですね。そう言えば、倫理学は有っても、常識学と言う学問はありませんね。


まあ、常識とは処世術の一種だと思います。心底それを信じる必要はありませんが、皆の前ではそれを理解しているような顔をして置けば、要らぬ摩擦に巻き込まれずに済む。その結果その分だけ自分の時間にゆとりができ、その余裕の時間を使って幾らでも非常識なことを考えることができる。だから、常識に従っていた方が幾らでも個性的な人間になれて、人生が楽しくなれるんじゃないですか。

常識も所謂規則と同じようなもので、どうでも良いことはみんな規則にしてしまって、何も考えずにそれに従って行けるようになれば、一々無駄なことを考えずに済むようになれる。だから規則に従っていさえすれば、大切なことや規則破りなことを考える時間と自由を手に入れることができる。だから規則に従っていた方が良いんですね。常識も、そんなような物だと思います。
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>「普通の知識・判断力」とは具体的に何なのか。



 逆です。ここに具体性なんかありません。
 具体的な物事を常識なのか非常識であるのか自分が感じ取って、他の人もそうであるに違いないと感じることが常識であるということです。それらの全体を集めたいわゆる「常識」なんてどこにも存在しない幻想です。強いて言えば法律でしょうけど・・・

常識という幻想ほど役に立つ物はなく、これほど醜い怪物はないでしょう。
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結局お聞きしたいのは「常識とは何か?常識を構成しているものは何か?」ということです。



○ 「常識」とはある社会で多くの者が信じていることですね。それを「常識」といいます。正しいとか正しくないということではありません。
例えば、面白い例で言えば、昔アメリカ人の友人を神社に連れて行ったのですが、賽銭箱を見て彼は靴の紐を結ぶ台だと勘違いしましたね。彼の故郷、ミネソタでは店の玄関に馬の水桶がありそこに足をかけて靴紐を結ぶことをしていたようですね。彼らの常識だったのでしょう。
かくのように常識とは人・時・所によって違うものです。
日本で言えば、葬式の後の塩ですか。家に入るときに塩をまきますよね。これ誰がはじめたかわかりませんが葬式の常識ですよね。でも霊的効果ははっきり言って全くないのですよ。ヨーロッパのドラキュラ対策のにんにくと同じですね。人の恐怖や不安に入り込んだいい加減な常識ですね。でも皆が信じると立派な常識になるのですね。
倫理も常識と同じかといえばそうでもないのですね。倫理観念も人・時・所で全く違うのですね。
孔子流に述べれば、北極星(北星)を中心に無数の星々がぐるぐる回っていますが、全ての星が常識であり、みな常識では秩序が保たれない、そこで、正しい常識を北星に求めるということなのです。この北星を絶対真理や純粋理性などと呼んだのが西洋の近代哲学者たちですね。
仏教やキリスト教などの世界宗教の教義はこの「北星」のありようを述べているのですね。
・・ということで常識も深いですね。
参考に
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人間が家族を構成し、社会生活を営んでいく上で必要な知識が常識で、そういった社会を維持していく上で必要な個々の常識に基づいた判断力を良識というのではないでしょうか。


常識には家庭内でのしつけ、学校教育で得られる学力、教養的なものと、社会で得られるもの、特に社会事象や政治的なことも含まれると思います。もちろん、常識の範囲は文明の進化により、時代とともに変わっていくものではないでしょうか。
私は新聞は見ますがTVは殆ど見ませんので、ある意味フツウの社会人よりも常識的に偏っているところがあるかもしれません。しかし、私見によれば、芸能人の名前を多少知らなくても、健全な社会生活は出来るような気がします。ただ、時折り実施される選挙などでの権利行使のためには、やはり社会に起こっている政治的な動きもある程度わきまえておく必要があるのでは、と思っています。
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