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ドイツ連邦について教えてください。

ドイツ連邦は、自由主義を弾圧する一方で、ドイツ統一を抑圧する機関でもあった、
という説明がいくつかの書籍に書かれていました。

しかし、統一をしないのであれば、単にオーストリアもプロイセンも、そのまま独立
国家として存在するのがいちばん手っ取り早いような気がします。

もともとは、大国の勢力均衡を現出するために作ったのが、たまたま後付けで、
ドイツ統一を抑圧する機能をもったということなのでしょうか?

また、後の経緯からもわかるように、プロイセンもオーストリアも一国にまとまった
ほうがドイツ民族としては有利な状況を作れたはずです。他国が反対するのは
わかりますが、なぜこの両国は自ら統一に反対したのでしょうか?

おわかりの方、ご教示ください。

A 回答 (4件)

1815年6月8日に成立したドイツ連邦規約では


連邦の権限はドイツ内外における安全保障にかかわる措置のみに限定され
他の全ての権限は各領邦国の主権に委ねられました
フランクフルトに連邦議会、ウィーンに仲裁裁判所は設置されたものの
連邦自体に立法権も行政権もありません
しいていえば連邦規約第13条で各領邦国で議会制を施行するべしとしたところが進歩的であっただけでしょうか
ある歴史家によるとドイツ連邦は「対外的に弱小で対内的に半身不随」と述べています

多民族国家であるオーストリアはネイション的な国民国家の成立を恐れていましたが
19世紀前半のドイツ人が大多数のプロイセンの場合は国民国家成立よりは
ジャコバン的急進的革命国家の成立を王族やユンカーが恐れていたのが実情ではないでしょうか

ただここで間違ってはいけないのはあくまで政治上の話だけです
経済的には
プロイセン中心のプロイセン・ヘッセン関税同盟、ザクセン中心の中部ドイツ関税同盟、バイエルン中心の南ドイツ関税同盟が
オーストリアのメッテルニヒの反対を押し切り
1834年プロイセンが主導しドイツ関税同盟を成立させ域内関税、市場統合、労働力原材料の自由移動という
後のEECを先取ったような共同市場を成立させドイツ産業革命の基礎を作りました
安価な英国製品の入るメクレンブルクなど海岸地帯領邦国、都市や
統一的な中央行政組織による指導を望まないフランス国境のバーデン大公国を除き全ドイツ領邦国がドイツ関税同盟に参加しました
態度を変えこれに参加しようとしたオーストリアを最終的に1854年に排除

つまりこと経済的には既に政治的統一以前の約20年前に小ドイツ主義的統一はなされていたのです
これが統一間もないドイツ帝国の英国を凌ぐ経済的発展をもたらした要因の一つです

長文失礼致しました
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、大変よくわかりました。
有難うございました。

お礼日時:2010/12/18 10:41

下の解答に、若干不満があります。


老大国ハプスブルクvs.挑戦者プロイセンという構図は
おおよそ当てはまりますが、
問題によっては(民主化運動への対策)、両国は一致団結していきます。
また、オーストリアが中小国というのは、
かなり誤った認識のように思います。
遅まきながら、国政改革も進めますし、
工業化も、西部地域では、かなり進展していきます。
19世紀中葉までの段階では、「ハプスブルクはヨーロッパの必要物」であり
19世紀末の「ドイツの必要物」へと変質していく過程と
混同しては、19世紀初頭のウィーン体制の理解としては問題があるように思います。
新旧の対立とは単純化できないところが、この時期の歴史の面白さです。

質問への回答です。
一言では、とても難しいのですが、
今日のドイツ地域は、小国が乱立していました。
これら小国の歴史的権利は、現代人が思っている以上に強く
決して、大国の意のままになるものではなかったことが重要です。
小国の指導層にしてみると、プロイセン主導の吸収合併には抵抗があり
オーストリア中心のゆるい連合体制に魅力を感じたのも当然です。。
ただ、オーストリアは、多民族国家であり
ドイツ人は人口の1/4ほど。ドイツ国家と言えるか、難しいところです。
オーストリアとしては、ドイツ国家の統一なんてことになれば
国内の諸民族(特にハンガリー)の反発は必至ですから
従来のドイツ地域での主導権が握れることだけが重視されたわけです。

今日的な見方で、国民の統合が目標とされるのは、
19世紀後半以降のように思います。
ウィーン体制を作った、政治指導層からすると、
ドイツ統一なんていうのは、忌避すべきことだったわけです。
1848年革命で、ドイツ統一を叫ぶのは、革命側の主張でした。
つまり、お読みになったテキストをまとめれば
この時点では、ドイツ統一≒自由主義勢力と言えます。
まだ、脆弱な自由主義勢力としては、数の力に頼みたいわけです。

ドイツ統一については、支配層と被支配層の対立という側面が
重要のように思います。
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違います。



簡単に説明しますが、考え方としては現在のEUと同じです。
ドイツ諸国がバラバラのままではそれぞれが小国ですが、
ドイツ連邦として集団となると大国になれたからです。
これは軍事力と言うよりもまず、経済面で顕著であり、
産業革命の進む当時の世界において、市場規模の拡大や関税同盟は、
自国の産業を守り育成するのに不可欠でした。

ドイツとオーストリアでは、統一国家を作るときの考え方が違ったわけです。
小ドイツ主義と大ドイツ主義はそういういうことです。
ドイツが中央集権的な国家を目指したのに対して、
オーストリアは従来の緩やかな連合を望みました。
これの理由は、統一国家ならベルリンを首都とするプロシアが中心になるのは明らかで、
緩やかな連合ならば、小国オーストリアも主導権をとれたからです。
オーストリアは由緒ある帝国を率いてきましたが、産業がなく、
工業が発展してませんでしたから、すでに下り坂の斜陽の国家で、中小国でした。
合従連合は弱国の戦略的定石です。
一方で、プロシア→ドイツは、新興工業国となっていきます。
統一して資源と有効活用したかったのはプロシアです。
両国の直接の利害対立、あるいは主導権争いというのが、背景にあるわけで、
だからこそ、普墺戦争という直接対決で優劣をつけて決着するわけです。
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国民国家を作りましょう!


というのは、ナポレオン戦争を通じて生まれ(たばかり)で、19世紀を通じてのヨーロッパのテーマ。

ドイツというか中欧においては、神聖ローマ帝国がある!というのが1806年にハプスブルグ家がギブアップするまで1000年間の常識でした。

プロイセンなりオーストリアという国民国家(?)としてまとまるのが手っ取り早いというのは、200年後の私たちの常識から言えることであって、当時では常識ではなかった。

神聖ローマ帝国がなくなったあとで、正統主義に基づくヨーロッパの安定を考えたときの回答がドイツ連邦という形です。
旧神聖ローマ帝国皇帝としてのオーストリアの発言力を残しつつ、現実に対ナポレオン戦争を通じて強国化したプロイセンの発言力もそれなりに確保するという体制。
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