公家の生活ってどのようなものだったのでしょうか。
平安時代あたりは多くの物語など(源氏物語など)で想像つくのですが、
政治の主導権が公家、貴族から武士に移ってから政治をすることもなく、
毎日どのように過ごしていたのでしょうか。もちろん各宮家などの世襲のまつりごとがありそれに終始していたでしょうが。
経済的にも苦しかっただろうと想像できるのですが。
鎌倉時代、室町、戦国時代あたりを特に知りたいです。

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A 回答 (3件)

お礼がつきましたので再度登場いたします。


ただ、申し訳ありませんが、お求めには応じかねます。

>「源氏物語」や「とはずがたり」のほかに貴族生活の想像できる物語や随筆などあ>りますか?
平安期のものであれば、国語の教科書にも載るようなものがたくさんありますが、
鎌倉・室町・戦国期ではお求めのようなものは、ちょっと調べた限りではないよ
うです。この時期の貴族たちは多くの日記を残しており、これを読みこめば、お
求めの答えがでるかもしれません。(多分に有職故実を書きとめたものが多い)

また、いわゆる貴族(五位以上)の数は意外に少なくて100名程度しかおりま
せん。この数の少なさが原因で貴族以外で貴族の生態を知るひとがおらず、他者
による記録がないわけです。で、貴族たちは自分の生活は当たり前のものと思っ
ていますから、わざわざ書きとめたりしない、ということです。

社会的条件が変化する中で、生活がどのように変化したかを私も確認したい、
とは思いますが・・
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
そうですね、平安期以降の貴族の文学ってあんまり聞きませんね。
日記など読んでみたいと思います。

お礼日時:2001/04/19 20:42

>政治の主導権が公家、貴族から武士に移ってから


とdekkiさんは書かれていますが、それはいつごろだとお思いでしょうか。

荘園制度という言葉は聞いたことがあると思いますが、これが崩れたのは
いつごろだと考えますか?

実は、いわゆる鎌倉幕府というのは「武士」に対してだけの政治権力です。
で、日本のほとんどは荘園あるいは国衙領という形で京都の天皇家や公家
に対して税を払う立場でした。政治というのはある意味で税の分配機能で
すから、公家にも政治があったわけで、公武二重政治体制ともいえます。

後醍醐天皇の「建武の新政」もそのおおもとは、二つに分かれた天皇家系
のうちどちらがどのように天皇家領と天皇位を受け継ぐかというのが原因
です。これに、御家人の間の北条氏独裁に対する不満がからまって南北朝
騒乱がおこりました。これも公武二重体制の現われですし、後醍醐天皇の
皇子である護良親王は足利氏に対抗するため征夷大将軍になって武士を牛
耳ろうとしています。(失敗に終わった天皇による政治一体化の試み)

この騒乱で武家側が結局は勝利し、公家権力は弱くなりますが、まだ荘園
は残っており、公家のもとにそこから税が届かなくなったのは、室町後期
というか戦国時代になりかけるころであり、室町幕府の権威自体が衰えて
からです。そこで始めて経済的困窮に陥った公家たちは、その教養などを
いかしたアルバイトを始めるわけで、その内容が下でgazeruさんの紹介し
た本などに書かれています。

本当の意味で公家の生活が苦しくなるのは、荘園が完全に否定されてしま
った江戸期であり、徳川家によって認められたわずかな公家領からの収入
で暮らさざるを得ず、身につけた芸を教えるか、武士に対して治外法権で
あった屋敷で賭博をやらせてテラ銭をもらうとかして暮らしたようです。
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この回答へのお礼

詳しくありがとうございました。
荘園制度という観点からみてもいろいろ公家の立場が考えられるのですね。
私としては日常生活について(天皇や公家たちの)もう少し詳しく知りたいと思っています。「源氏物語」や「とはずがたり」のほかに貴族生活の想像できる物語や随筆などありますか?

お礼日時:2001/04/17 11:15

直接の回答ではありませんが、↓のような本が参考になるかと思います。


また、冷泉家関連の書籍では、代々伝えられた年中行事などが紹介されていたと思います。


戦国期公家社会の諸様相  中世公家日記研究会∥編
出版地 :大阪
出版者 :和泉書院
出版年月:1992.11
資料形態:394p  22cm  8240円
シリーズ名: 日本史研究叢刊  2  
ISBN:4870885395


中世公家の経済と文化  菅原正子∥著
出版地 :東京
出版者 :吉川弘文館
出版年月:1998.1
資料形態:378,17p  22cm  6900円
ISBN:4642027629
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
探す事が出来ましたら、是非読んでみたいと思います。
以前、美術館で冷泉家の秘宝とかいうのを見たのを思い出しました。
これからも興味を持って調べてみようと思っています。

お礼日時:2001/04/17 11:18

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Aベストアンサー

江戸時代に苗字御免の人や武家以外の人は名字を公称できませんでした。持っていなかったのではなく公的な場(あるいは文書)で使ってはいけなかったのです。私的な範囲ではどこまで使われていたか正確にはわかりませんが小生のまわりで言えばまず墓があります。「俗名 竹蔵」の脇にやや小さめの字で「田中姓」のように書いてある墓がいくつもあります。「田中竹蔵」と一行に書くと苗字を唱えたことになり御法度だつたのでしょうね。
日記帳などの私的な帳面でも使われています。持ち主を示すためと思いますが裏表紙に「田中氏」のように書いてあることが多いです。
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Q平安時代の貴族の結婚

平安時代、結婚を考えた貴族は(もう通う姫がいる場合)、自分の両親や姫の両親にそれを伝えるのでしょうか?

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全部で30ページくらいあります。下部の「つづく」をクリックしてお進みくださいませ。

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QAccess2002の関数で苗字と名前の間の空白を詰める方法

Access2002の関数で苗字と名前の間の空白を詰める方法
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空白がある場合は、その空白と詰めて表示させたいと思いますが、どのようにしたら宜しいでしょうか?
ご教授願います。

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【要旨】
Replace関数を使用して、空白(Space)を空文字に変換します。


【詳細】
先頭/中間/末尾といった位置に関係なく、とにかく空白
(Space)は全て削除、ということでよろしければ、Replace
関数を使用することで目的は達せられます。

例えば、「生徒T」テーブルの「氏名」フィールドについて、
空白を削除した結果をクエリで表示する場合は、クエリの
デザインビューで『フィールド』欄に以下のような式を入力
します(空白削除後のデータを「変換後」フィールドとして
表示する場合):

<半角/全角とも削除する場合>
変換後: Replace([生徒T].[氏名], " ", "")
※Replace関数の第2引数には「"」で括ったSpaceを指定。
  (Spaceは半角/全角どちらでも可)

<半角Spaceのみ削除する場合>
変換後: Replace([生徒T].[氏名], " ", "", 1, -1, 0)
※Replace関数の第2引数には「"」で括った半角Spaceを指定。

<全角Spaceのみ削除する場合>
変換後: Replace([生徒T].[氏名], " ", "", 1, -1, 0)
※Replace関数の第2引数には「"」で括った全角Spaceを指定。


なお、空白がSpace以外(例えばアンダースコア「_」など)の
場合は、その文字を「"」で括ったものを第2引数に指定すれば
OKです。
また、複数の文字が混在する場合は、

 Replace(Replace([生徒T].[氏名], " ",""), "_", "")

といったように重ねて掛けることで対応できます。
(内側のReplace関数の結果を、外側のReplace関数の第1引数
 に指定)


※Replace関数の引数の詳細については、ヘルプで「Replace」を
 検索してみてください。

【要旨】
Replace関数を使用して、空白(Space)を空文字に変換します。


【詳細】
先頭/中間/末尾といった位置に関係なく、とにかく空白
(Space)は全て削除、ということでよろしければ、Replace
関数を使用することで目的は達せられます。

例えば、「生徒T」テーブルの「氏名」フィールドについて、
空白を削除した結果をクエリで表示する場合は、クエリの
デザインビューで『フィールド』欄に以下のような式を入力
します(空白削除後のデータを「変換後」フィールドとして
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武家女性の一人称というと「妾(わらわ)」が一般的だったと思うのですが、
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Q大名と公家の結婚

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 あんまり知らんですが、お答えがほかにないようなので、たたき台として一言。
 武家諸法度に次の一項がありますように、幕府は大名間の勝手な婚姻による反幕府勢力の増大を警戒していますね。幕府は武家間の婚姻を、積極的に大名統制に利用していたと思います。
「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」
 神君家康公は豊臣時代に、同様の禁止令を勝手に破ったくせに、おかしいですね。
 公家は身分が高いだけで力もなく、無色透明に近いですから、公家の姫をもらうことについては、それほど警戒されないでしょう。
 由緒正しき家柄の大名は、その血統のよさを維持するためにも高位の公家から、そして出自の定かではない大名は当然貴種を好みますから、公家の血を入れたいということはあったと思います。
 江戸時代の大名の婚姻について、どんなルートでどうやって話が進んでいったのか詳しくは知りません。
 大名としては、自分で勝手に伝手を頼って話を進め、幕府に承認を求めてもダメと言われたら沽券にかかわる、また幕府にヘンな疑いをかけられても困るということで、頭から幕閣有力者にお願いした例が多いのじゃないでしょうか。それの方が後腐れがなく、地位保全のためにはよろしいかと存じます。
 以下は当方の勝手な想像ですが、頼まれた幕閣有力者は、この大名には大名統制上からいって、特にどこかの大名の姫をあてがう必要がないと判断した場合は、自分の家来に対し「適当な公家の姫を探せ」と命じます。
 命ぜられた家来はその大名家の家来を通じて、公家の姫でいいかと大名の内意を伺い、そして朝廷と付き合いのある高家などに周旋を依頼します。そして高家は朝廷の武家伝奏に適当な公家の姫君の紹介を頼む・・・・と、こんなように話が進んで行ったんじゃないかと想像してみましたが、どうでしょうか。
 

 あんまり知らんですが、お答えがほかにないようなので、たたき台として一言。
 武家諸法度に次の一項がありますように、幕府は大名間の勝手な婚姻による反幕府勢力の増大を警戒していますね。幕府は武家間の婚姻を、積極的に大名統制に利用していたと思います。
「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」
 神君家康公は豊臣時代に、同様の禁止令を勝手に破ったくせに、おかしいですね。
 公家は身分が高いだけで力もなく、無色透明に近いですから、公家の姫をもらう...続きを読む

Q平安時代の武士の時代が始まるころの勢力分布

平安時代の源氏、平氏、藤原氏の勢力分布について教えてください。

分布図などもあると嬉しいです。

お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

(1)大宝元年(701)に制定された「大宝律令」のもとでの朝廷を支える役目として「貴族」が生まれましたが、三位以上を「貴」と呼び、四、五位を「通貴」と呼びました。「貴」は上流貴族として、「通貴」は中流、下流貴族に位置づけられました。
この頃の大和政権下で国政審議に参与する貴族たちを「議政官(公卿)」といい、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢(こせ)氏、石川氏で、各氏(うじ)からは1人代表として出ることになっていましたが、やがては、藤原氏の勢力分布の拡大と他の氏の没落などもあり、藤原氏から何人も議政官を出すようになり、藤原氏が栄華を極めるようになりました。

(2)やがて、地方豪族が「国司」に任命され、私的に富を蓄財し、有力貴族に貢納することにより中央への進出を果たしました。そして、藤原氏、源氏、橘氏、清原氏、菅原氏などが台頭してきました。彼らの所領地として代表的なのは、
藤原氏・・・大和地方一帯(京都、奈良などの一部)、伊勢、加賀、備後、近江、佐野、佐渡など。
源氏・・・・畿内、摂津、河内、甲斐、常陸、下野、上野、信濃など。
橘氏・・・・筑後など。
清原氏・・・出羽など。
菅原氏・・・大和国菅原邑(むら)など。

(3)この内、清原氏と菅原氏は衰退をし、代わって登場したのが平氏でした。桓武天皇の頃より「源」「平」「藤(藤原)」「橘」が有力貴族となり、政治に関与しました。と今なお有力貴族として語られていますよね。
平氏・・・・東山、東海、山陽、南海道付近など。

(4)こうした人々は「平安貴族」と呼ばれ、収入源は必ずしも荘園だけではなく、むしろ、官職に応じて朝廷から給付される田地や禄などが主要収入で、この給与は莫大なものであったと言われています。記録としては、藤原北家(藤原良房)は、職田、位田、職封、位封、資人、季禄などで、現在の貨幣価値に換算しても3~5億円の収入があったとされています。

(5)その他としては、
弓削道鏡・・・・河内。
大伴国造・・・・武蔵国。

(6)なお、鎌倉幕府以前は、土地は全て「天皇(朝廷)の物」で、民は「貸し与えられた者」と位置付けられていたため(荘園制度)、朝廷内で功績のあった者への褒美などとして、次々と切り取られたりしましたので、いわゆる、国としての国境などもはっきりせず、また、国司もその時々の勢力によりコロコロと代わっており、鎌倉時代以降のように国の境目がありませんでした。足利幕府後期~戦国時代になり、荘園制度の崩壊とあいまって、初めて国境(くにざかい)が取り沙汰されるようになりました。

(7)従って、平安時代(それ以前も)の勢力図は定まった国司が定まった国を支配していたわけではありませんので、おそらく、勢力分布図などは皆無に等しいと思います。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

(1)大宝元年(701)に制定された「大宝律令」のもとでの朝廷を支える役目として「貴族」が生まれましたが、三位以上を「貴」と呼び、四、五位を「通貴」と呼びました。「貴」は上流貴族として、「通貴」は中流、下流貴族に位置づけられました。
この頃の大和政権下で国政審議に参与する貴族たちを「議政官(公卿)」といい、安倍氏、大伴氏、藤原氏、多治比氏、紀氏、巨勢(こせ)氏、石川氏で、各氏(うじ)からは1人代表として出ることになっていました...続きを読む

Q公家衆法度と禁中並公家諸法度

公家衆法度と禁中並公家諸法度
の内容と作った理由を一言か二言のような短文で教えて下さい。


公家衆法度
内容 武士の統制
理由 武士が荒れてたから

禁中並公家諸法度
内容 農民のルール決め
理由 農民のルールがなかったから

的な感じでお願いします。
私は理解してないので2つともの説明はあってないですが、書式としては上の例でお願いします!

Aベストアンサー

Erdbeerkegels さん、こんばんわ。


公家衆法度
内容 朝廷内の廷臣や女官の進退について一定の
幕府の干渉が可能になった。
理由 猪熊事件において女官と廷臣の風儀が乱れていたためその矯正のため。



禁中並公家諸法度
内容 天皇や朝廷に対する行動の制約
理由 朝廷や天皇の公家の行動に対する干渉、内部統制を強めるため。

詳細は下記のURLを参照ください。
禁中並公家諸法度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6

公家衆法度五ヵ条
http://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%A1%86%E6%B3%95%E5%BA%A6%E4%BA%94%E3%83%B5%E6%9D%A1



猪熊事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

Q平安貴族の一日って・・・

いま、小学校の総合学習で、平安貴族の一日を
調べているのですが、参考になるのがほとんどなく
(B3用紙半分くらいしかかけない)、投稿しました。

どんな事をして過ごしたのか、どんな仕事をしていたのか
などをできるだけ優しく教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

宮中でお役目のある貴族は、夜明けにご出勤(参内・さんだいといいました)します。
午前中いっぱい、会議や事務などをして、だいたいお昼でおわり。
あとはフリータイムです。
といっても、宮中で催し物や宴会のある日もあります。
また昔は今より占いを大事にしていたので、
運の悪い日や方角があって、仕事に行くなどの外出や髪を洗うことなども、
これに左右されていました。
男の人は宮中で仕事をしたり、人付き合いをしたり、遊びに行ったりしましたが、
貴族の女性は、あまり家の外に出ることは無く、
だいたい自分の家の敷地内で過ごしました。
結婚も、相手の家にお嫁にいくことはあまりなく、
旦那さんが会いにきてくれるのを待つ形でした。

ちょっと難しいかもしれませんが、下の質問もよかったら見てみてください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1165583.html

Q江戸時代の公家の女性

江戸時代の公家というのはあまりドラマなどでも題材に取り上げられないのですが、特に女性はどのような姿をしていたかが気になります。
以前テレビドラマ「大奥」では、和宮や和宮の侍女たちは平安時代のままの十二単のような服装でしたが、結髪が普通になった時代でも公家の女性は垂髪だったのでしょうか。
また、小袖は公家の女性には着られなかったのでしょうか。そして袴ははいていたのでしょうか。
ちなみに↓のようなサイトも見つけました。
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/21.htm
若い公家の女性の服装は、大名の姫君とあまり変わらなかったのでしょうかね?

Aベストアンサー

お礼をありがとうございます。

> 時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
うーん。
「間違い」と言われてしまうと悩んでしまうのですが…。
自分が書いた回答を後から読み直して、「『農民』とひとくちに言っても、名字帯刀を許された大名主や庄屋みたいな農民もいれば、水呑百姓のような農民もいるなぁ。」と考えました。
裕福な、農民といっても小作人に農作業をさせて、自ら農作業をしない(現代の)経営者のような農民の奥方ならば、髪を結う余裕もあっただろうし、その日の食べ物にも困るような百姓ならば、髪を結うような余裕は、時間的にもなかったのではないかな-と。

いろいろ調べているうちに、
> 農民等は「束髪」が「普通」
とも言い切れないのかなぁ、と感じました。
私は、「労働の邪魔になる髪を1まとめにして束ねる」ことの意味で「束髪」と書きましたが、それを「結髪」と説明してある文献やサイトもあったものですから。
maddy-kz23さんがおっしゃっている「結髪」が、特に『江戸時代の中期から後期に一種の芸術の域にまで達した結髪』のことではなくて、『働く時に邪魔な髪の毛を束ねておくという自然な形での結髪(この中には束髪も含まれる)』のことを言われているのでしたら、確かに「結髪が普通」ということになりますが、これは江戸時代に始まったことではないし…。

調べれば調べるほど、資料の少なさに驚かされます。
江戸時代って、現代から近いので衣装等は現存していても、写真がない時代ですから「どんな格好をしていたか。」は見ることができないんですよね。
「絵」などは、特定の地域の特定の階層の人間しか描かれていませんし。

> 公家の女性はやはり江戸時代を通じて下げ髪だったんでしょうか。
> つぶいち頭などは特別な例だったのでしょうかね。

こちらも、普段は下げ髪にしていて、行事ごとの時に「つぶいち(葵髱島田)」に結った-という可能性もありますし…。
京でも町方ですと、若い女性は島田髷を結っていたようですしね。
私自身、次から次へと疑問が沸いてきてしまいました(今度まとめて質問を出してみようかしら)。

いろいろ調べている間に、またまた、こんなサイトも見つけましたので、ご参考までに。
http://kouseimir.s97.xrea.com/yokocho/mc358/mc358.html
http://hana.merseine.nu/j/kamigata/kami_frame.htm
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/edokesyou03.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/nendaikesyou.html

お礼をありがとうございます。

> 時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
うーん。
「間違い」と言われてしまうと悩んでしまうのですが…。
自分が書いた回答を後から読み直して、「『農民』とひとくちに言っても、名字帯刀を許された大名主や庄屋みたいな農民もいれば、水呑百姓のような農民もいるなぁ。」と考えました。
裕福な、農民といっても小作人に農作業をさせて、自ら農作業をしない(現代の)経営者のような農民の奥方ならば、髪を結う余裕もあっただろうし、その日の食べ物...続きを読む

Q江戸時代の公家

江戸時代の公家の次男三男は、旗本の子弟と同様に他家の養子となる事でしか身を立てる術がなかったのでしょうか?

中堅以下の堂上あたりは家禄が微禄だったと思うのですが、どうやって次男三男は食べていたのでしょうか?当主の厄介になるといったケースは多いのでしょうか。

Aベストアンサー

こちらは武士とは異なって仏門に入ると言う例が多いというか普通です。
特に摂家・清華などの上級公家なら門跡寺院に入って門跡になり、それ以下のクラスはそういう門跡寺院に付属する塔頭や子院の住職になりました。
こういう寺院は京都奈良にたくさんありました。


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