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改めて考えるとなかなか難しい。

A 回答 (7件)

僕が思うに、言葉ってただ意思を伝え合うのに便利だから


使われているのであって、絶対的なものではないと思います。
だから、言葉の定義って人によって違うと思います。
辞書とかに載っているのは多くの人が納得するであろう定義
だと思います。

あなたにとっての無意識の定義がどうであってほしいのか、
どうであるのが自然だと感じるか、僕にはわかりませんが、
僕は「無意識」とは脳が命令せずに行われた行動、つまり
脊髄反射(熱いものに触ってつい手を引っ込めてしまう、など)
とか、原始反射(赤ちゃんにみられる反射の運動)とかでしょうか。

他にも、深く考えずに(これをやったらどんな結果が得られるか、
とか相手がどう思うかとかを考えずに)行う行動もよく「無意識に
やった」と言いますから、これも「無意識」の定義のひとつといえる
かもしれません。
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この回答へのお礼

すごい!

ありがとう

お礼日時:2011/01/09 21:19

単語で考えているから意味が分からないのでは?



そもそも無意識、意識とはある対象とセットで使うことで初めて意味の通る言葉です。

例えば無意識のうちに起き上がった。など

これなら起きろという命令を筋肉に発した覚えは無いということ

筋肉に電気当てて動かすのも脳は関与していないので無意識ですよね。

なので無理やり単語で考察すると

○○をするという命令を脳が発していない状態

とでも言えましょうか
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 “何とは何”は思索し思考する事はで来ても、ここで“定義”なる人為のカテゴリを使われると、思考するこをを差し止められます。


 恰も、定義に適さない場面における、自己や神を定義するようなものです。
 
 「無意識」
 「無」の対義語は「有」ですか?
 「非」ですか?「反」ですか?「不」ですか?

 意識とは動作ですか?誰の動作ですか?どういう動作ですか?
 意識の主体や主格とは何物ですか?

 無意識という現象はありません。有意識という現象もありません。
 意識の結果や内容を見ているという情況しかないのです。
 人や意識主体は存在していない。

 お玉さんそういうことだとお気づきになっておられるから質問をしているのでしょう?違いますか?
 私はお玉さんのこういう質問の仕方につらい思いをしますので、ブロックしました。
 しかしいつかはこのブロックと解除したいと存じます。申し訳ありません。
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己を捨てること。


生物としての本能、ですか・・・。
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No.2です。

誤字ったので訂正します。

「氷山の一角の下、潜在能力です」。
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氷山の一角、潜在能力です。

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『意識してする事』との対かもしれません。

意識してする時『メンタル面が弱い』と云う言い方も出来るかも知れません。それは『自我意識』が出て、自我意識がする事を意味しているからです。

人間が行う行為、或は考えると云う行為に付いても言えます。

人間には、(1)『自我意識』がする場合と、(2)『自我意識が引っ込んだ場合=無意識』がする場合と(3)『自我意識と無意識が手を組んで』する場合の3通りあると感じています。

(1)の場合を『心を病み如何したら良いかが分からなくなってします、或は神経症になって苦しむ、或は自律神経失調症になって出口が見つけられない』と云うように、生きること自体を障害して感じています。

(2)の場合にオリンピック等で、活躍したり、後一打と云う場面で『メンタル面が強い』事を証明したりします。

(3)の場合が健常者の毎日の生活の流れと云うことになると思います。

誰も居ない野原等で、一人で或は仲間とリラックスして歩きながら話をしている場面で言うなら、歩く事には(2)が働いています。足や腰には自我意識が使われていないからです。この場合には、足腰は疲れないようになっています、何故なら『意識は歩いていないからです』

車の運転をしています。携帯電話が掛かってきました、電話に出て話が始まりました。意識は運転にも携帯にも両方に使われていますが、『心』は一つしか在りません。この場合が(3)の状態です。『心』が上手く二つ在る事を証明しています。

地面に、約90センチメートルの畳が引いてあります。その長さが1,000メートル有るとします。その上を歩くように言われました。その場合に(3)の状態で歩くことが出来ます。踏み外しそうな時だけ、自意識が調節をして、後は無意識の状態が歩く事を主導しています。疲れません。何処までも歩くことが出来ます。

地上から、100メートルの高さに畳をセットしました、幅は地上と同じ90センチメートルです。この場合には(1)の状態になっています。自我意識が自我意識のみで歩く事を脚や腰に命令を出しています。歩く事が出来ません。歩かないうちから『身体も心も』疲れを感じています。何故なら自我意識のみでは歩くことさえ自由に出来ない事を人間は知っているからです。


心を病むと云う場合でも、神経症の中の吃音にしても、書けいにしても、脅迫行為にしても、対人恐怖にしても、不安恐怖症にしても、自律神経失調症にしても、(1)の状態の心持で人生全般をわたってゆこうとしていることになっています。

何もしなくとも『心と体に』疲れが生じています。それは出来ない事をしようとしているからです。

眠る時には『自我意識は引っ込んで、無意識の自分と入れ替わっています。入れ替わった無意識が心地良い眠りに入っています。』自我意識のままでは眠りには、入れないように人間の身体も心も出来ているからです。

(1)と(2)と(3)の状態を説明してくれる先生が良い先生です。只薬のみの処方では、薬付けになって、薬害の処方が又必要となるばかりです。
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