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今朝のテレビで中村桂子さん(遺伝学者でJT生命誌研究館館長)が、東日本を襲った今回の大津波について「人間には想定はあるが、自然には想定はありません」と語られたのを聞いてギクッとしました。

それでこの質問が思い浮かびました。ひょっとして、自然に挑んでいる人間なら、自然の恐さを知っているから、そうは簡単に「想定外」なんて言葉を吐かないだろうと思うのです。

私自身は山ではありませんが、海で遭難しかかった経験があります。九死に一生というほど深刻な経験ではありませんが、嵐で沖合いに流されかけたことがあります。
他にもちょっと危なかった経験が2度ありました。

海では釣りや水遊びで楽しむこともしますが、海には一種の不気味さも感じています。そのせいでしょうか、簡単に「想定外」と言ってのける人たちに非常な違和感を感じます。

気軽に自然を楽しんでいる方にはこの質問は合わないのかも知れませんが、自然の恐さを十分知っておられる方、東日本の大地震と大津波を「想定外」と言ってのける気持ちが起こるものでしょうか?

宜しくお願いします。

A 回答 (8件)

山で想定外って言う人はいつか死にます。


計画を立てるときは遭難したときの計画まで立てますし、実際に想定外のことが起こったことはありません。
遭難したことはありますが、、、
山では想定内のことでも死にますし、死ぬ程度のことが覚悟できない人は山にくるべきではないでしょう。
想像力が欠けている人は都会にいるべきでしょうね。
山に行くときには遺書を書いていくこともあります。
想定外って言う事は’私はあほです’といっているのと同じです。
まあ、ギャグならいいますけどね?

参考になりましたでしょうか?
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
やっぱり厳しい意見が返って来ましたね。

>山で想定外って言う人はいつか死にます。
想定外って言う人は想定しない人なんですね。だから沢山の人が巻き添えを食って死んでしまったんですね。

お礼日時:2011/04/03 19:40

私レベルでは「おくがましい」と思って書き込みを遠慮してたのですが。

ちょっと一言。
回答:簡単に「想定外」と言ってほしく無い。けど実際「想定外」だったのだろう。

いくら適切な「想定」が出来ても そのための準備が「不充分」なら何も出来ない。
山に行く時(特に単独行の場合)、自分の運べる(背負える)モノ=(想定に対して)準備出来るモノです。
今回の「地震」に対して「想定外」なのか「準備不足」なのか?
例えば(後になって言えるコトですが)「自家発電設備」を「高台」に造るといった配慮は出来なかったのか?とか。
「原子力発電をしない」と言う「選択」が出来ない以上「何を準備するか?」「財源(体力?)をどうするか?」などの問題。
電力会社も「営利団体」ですので「太陽光発電」「風力発電」などがペイしなければ「積極的に」開発をしないでしょう。
「原子力発電」は大量の水を使用するため、「海沿い」が常識でしたが、「津波対策」の費用がかさむようなら「山に」造るのが「常識」になるのでしょうか?
自然を必要以上に恐れるのもどうかなぁ。山で(一人で)寝れない「子供」でもあるまいし。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
記者会見に出て来る面々を見ると、皆、ヌボーとした締まりのない顔。メタボの肥った顔と体。喋り方もフニャフニャでしゃきっとしていない。こういう連中は自然に挑んだ経験が全くないんだろうなあと思いました。自然に挑んでいる顔は、もっと精悍で引き締まっている。
自然との関連で知ってみたくなって質問したのですが、ついでに原子力発電についてもちょっと書かせて下さい。
原子力発電は政官と電力業界、学界、マスコミ、アメリカが癒着一体化してブルドーザーのように突き進んで来ましたから、こういう大事故が起こったからといって原発をやめるということはしないでしょう。

国策として原発をやらない国はあります。アイスランド、ノルウェー、デンマーク、イタリア。日本人の英知を結集すれば脱原発は可能だと思います。地熱、風、波に恵まれた風土ですからやろうと思えば可能ですが、原発は既に癒着構造が確立してしまっているし、非常に利益幅の大きい事業ですから、彼らがそれを簡単に手放すとは到底考えられません。昔から国民の安全よりも利益第一の国ですから。

補足日時:2011/04/09 18:50
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他の方とちょっと見方は違うかもしれませんが、意見は同じです。




多くの山や海で自然の脅威の経験を積んでいる方程知識をもち、それに対して命を守る術を知ってらっしゃる方が、それ以上のものを体験すれば、それは当然『想定外』でしょう。

ゼロの人の想定は無いに等しいでしょうが、過去の経験から海に10mや15mの壁を三陸の方々は作ってたんです。それらは海外からも視察に来られる程のものです。これは日本で一番津波の経験のある三陸だからこそ作れたものでしょう。これはそれ程の津波を想定してたわけで、それを超えれば想定外ですよ。
経験がなければ想定は出来ないし、その想定を覆されると想定外です。




私からすれば
台風が来るのにサーフィンや釣りに行く人間や、山で大雨が降り、いつ鉄砲水がくるかわからないのに川で遊んだり、中洲でキャンプする人間が言う《想定外》とは全く意味が違うと思います。


自然の恐ろしさを知らない無知(注意されても他人事だと思ってる)だから出来ることで、自然の恐ろしさを知ってる人は簡単に想定出来るからまずやらない。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>それ以上のものを体験すれば、それは当然『想定外』でしょう
皆さんそう簡単に仰るのですが、もうちょっと正確に考えてみましょう。
たとえば登攀中に地震が起こる。地震で雪崩が起こる。極めて低い確率ではあるでしょうが、それらは起こり得ることでしょう。想定できることですが、もし、自分の身に起こり得ると考えたら山に行けなくなってしまいます。山登りが生き甲斐になっている人は、山へ行くことが前提条件になっています。危険が想定されるから山へは行かないという選択は最初からないわけです。

山がそれほど好きでない人は、低い確率でも死ぬような危険があれば、山へ行くことはしないでしょう。
山登りが生き甲斐になっている人は、たとえ運悪く死ぬようなことが予想されるとしても、どうしても山に登ることは辞められないでしょう。そして、死んだ時の言い訳のために「想定外」という言葉を用意しているように思われます。

私は質問する前は、大自然に謙虚な答えが返って来るのかなと予想していたのですが、むしろその反対であったので、その理由を考えることになりました。

津波のことですが、三陸地方は有史以来津波を繰り返していて、その度に夥しい人が死んでいます。最近では100年ほど前に38.5メートルの津波に襲われています。東電も知っていたのですが、つまり、想定できたのですが、どうしても利益追求が生き甲斐になっていますから、敢えて山登りを敢行し、遭難したから、あれは想定外だったと言い張って責任逃れを企てているわけです。

自然に挑んでいるから自然に大して謙虚だろうという私の予想は外れ、むしろ欲望を正当化するための回答ばかりが来たことにびっくりしています。

補足日時:2011/04/09 18:25
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 No.2のJagar39です。


 No.2~5までは大筋で同じ意見のようですね。

 山と災害は違うというのはもちろんなのですが、相手が自然という意味では「危機管理」の考え方として本質的に同じ問題です。何を想定してどう備えるか、という問題だからです。

 備えは「想定の範囲内」ならば破綻を招かないように立てるわけですよね。だから「想定外のことが起きたことはないけれど遭難したことはある」という人は、「想定」という言葉の意味を知らない人です。
 「想定」と「想像」は違いますよ。想定というのは、それに対する備えがあって初めて成立する言葉ですから。

 テレビで責任者が「10mの津波は想定していましたが、その件については特に何も対策を立てていませんでした」と言ったらどう思います?
 テレビを見ている人は一斉に「それって想定したことにならないじゃん!」とツッコミを入れるのではないでしょうか?

 単純に10mの津波は想定できていても全停電したために破綻すれば、それはどこかで「想定外」のことが起きたから破綻したわけです。
 ですから「想定外」という言葉は、何も考えていなかった人が使うこともできますが、きちんと想定して対策を取っていても「想定外」の事態は起き得る、というのが、まあNo.2~5で出された意見というわけですよね?
 もちろんその場合は、その「想定」が適切だったのか甘かったのか、という議論になるわけです。

 破綻したわけですから「甘かった」というのは簡単ですし、事実甘かった例も枚挙に暇はないでしょう。

 でも、危機管理が難しいのは、単に重い事態を想定すれば良い、というものではない点にあります。

 回答にもあったように、登山で30日続く荒天、巨大落石、登山中の地震を「想定」すべですか?
 もう少し「頻繁に起き得る」事象でも、鉄砲水なんてのも想定できません。
 私は学生時代に沢沿いの山小屋でバイトしていて、今でも年に数回遊びに行きます。この20年間で鉄砲水を3回見たのですが、1分も経たないうちに水位が数m上昇するという凄まじいものでした。けっこう広い河原がある小屋近辺で数mですから、廊下帯では1分間に20-30mは水位が上がるでしょう。こんなの、その時に廊下帯にいたらできることは何もありません。

 20年ほど前に黒部川の下廊下でビバーク中に流されて8人パーティーが全滅しましたが(1人は結局遺体も発見されずじまいだったと記憶してます)、この時のパーティーは河床から80m上でビバークしていて流されました。彼らは全員、ヒマラヤ経験もあるベテランだったのですが、これほどの増水は「想定外」だったということです。
 80mの増水を「想定」すべきだったのでしょうか?

 これら全てを「想定」すれば、山どころか街も歩けません。

 ちょっと前に新型インフルエンザが流行し、国の「過剰反応」が批判されましたが、あれは元々アジアで鶏から人への感染が頻発していたH5N1亜型のインフルエンザが「新型」になることを「想定」して策定された行動計画に基づいて防疫対策が行われ、それに対して「過剰だ」と批判を受けたわけです。
 そのH5N1の新型については、日本は死亡者64万人という病原性を「想定」していたわけですが、その想定も国内外から「甘すぎる」と批判されていたのでした。
 いざ起きてみるとH1N1で病原性も非常に低かったので、強毒のH5N1を想定して策定された防疫活動が過剰だと批判されるのは当然でしょう。
 「重すぎる想定」もまた社会に「被害」をもたらすのです。

 今回の地震や津波に対する「想定」と対応が甘かったのか否かという点については、私は専門外なので判りませんし軽はずみに判断もしたくありません。

 ですが、「人間には想定はあるが、自然には想定はありません」というコメントは、当たり前のことを言っているだけで何の解決策も示しておらず(じゃあどうすればいいんだ、ということに何も答えていない)、「危機管理」を知らない人間の無責任な戯れ言、と感じます。

この回答への補足

再度の回答ありがとうございます。
>80mの増水を「想定」すべきだったのでしょうか?
  これら全てを「想定」すれば、山どころか街も歩けません。

東電の理屈の1つに、「隕石が原発に衝突することまでは想定できない」というものです。これも目くらましの論法の1つで、極端なものを持って来てその他のものの免責を企てる意図があります。
貴殿の上記の論法もそれに類するものです。

実際は想定すべきものなのに、想定しようとしない。それをさせる力は、東電の場合は「利益追求」という動機であり、登山では「山に登りたい」という欲望の強さでしょう。


>「重すぎる想定」もまた社会に「被害」をもたらすのです。
人間の命を取るか、経済活動をとるか、世界の各民族によって多少の違いがあるように思います。
実利を優先する日本人は、命よりも経済性を重視する傾向があるように思います。

No1さんもその他の方も、どちらも数十年の山との付き合いがある方たちだと思います。現実にされている危機管理は同じものだと思いますが、表明されている意見は丸で正反対のように見えます。
同じものを表から見ているか裏から見ているかの違いではないかと思うのです。
総じて、自然に対する謙虚さというものを余り感じることが出来ません。矢張り自然を機械的に測定しているからでしょうか?

補足日時:2011/04/09 17:53
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あなたが想定外、想定内の例に挙げている海での経験はちゃちすぎます。


明らかに想定内としなければいけないことです。
「嵐で・・・」と書かれています。
天気が悪くなることを承知の上で出かけたのでしょう。
その程度の経験をいきなり今回の地震や津波に結び付けようとするのは飛躍です。
もし比べれたいのであれば、あなたが海に出ていて今回のような津波に遭うことが想定できるかどうかです。


#2様が「冬の山に予備日を10日見込んで出かける」というのは出発の時に晴れていても途中で天候が変わることは普通に起こることだからという判断からです。出かける時から嵐になっていれば行動を中止しているだろうと思います。

個人のレベルの経験を例に出して「想定内」「想定外」と言うことはおかしいと思います。
行政や、防災関係者、原子力発電所の設置者と個人では基準が異なります。

「地震は自然現象だから自然を相手に行動している登山と関係する」という前提自体もおかしいものです。どういう行動をとっていたかなんて関係ありません。死者・行方不明者が3万人という大きな災害です。
家ごと流されて亡くなった方に想定外、想定内なんてことを言うつもりですか。普段山に行ってて自然の怖さを知っている人は津波から逃げることができたと言うつもりですか。

あなたは毎日仕事に出かける時に自分の乗った電車が脱線転覆事故を起こして死ぬかも分からないということを想定していますか。遺書を書いて身辺整理をして出かけていますか。
そんなこと誰もしていないでしょう。
毎日寝る時には居眠り運転の大型トラックがあなたの家に突っ込んできて下敷きになって死ぬかもしれないということを想定しているなんて言いますか。

今回の地震でもすぐ後で起こった北信濃地方の地震で登山者の被害が出ています。
スキーのツアー中に雪崩にあって亡くなられています。ガイド、客の両方です。
雪崩があるかもしれないというのは常に想定しているはずです。
天候が原因であるもの、人の行動が原因であるものは想定して避けることができるでしょう。
でも地震が原因で起こる雪崩は想定していなかったでしょう。
こういうことまで想定して行動できる人はいません。
出来るように書いている人がいるのであれば、調子が良すぎます。

白山の鳩が湯ルートのそばに古い遭難碑があります。濃尾地震で亡くなられた方です。
一般登山道です。チャレンジルートではありません。
この人に対して「地震を想定できていないというのは甘すぎる」なんて言いますか。

登山で起こる通常の事故と今回の地震を結び付けようとする事は意味がありません。
別の次元の話です。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
>登山で起こる通常の事故と今回の地震を結び付けようとする事は意味がありません。
何もかも否定されていますが、それでは今回の悲惨な体験が生かせないと思います。

>行政や、防災関係者、原子力発電所の設置者と個人では基準が異なります。
原発設計者の谷口雅春という人は想定して何十年も前から警告を発しております。

モノゴトはもう少しキメ細かに考えて行かないと正しい結論を出せないと思います。

私の体験がチャチとのことですが、何も危ない目に会うことだけが自然の力を感じることではないと思います。オーロラを見ること、ヒマラヤの麓でヒマラヤ山脈を見上げることも、自然に対する畏敬の念を換気するものと思います。要するに自然の偉大さをどのようにして感じるかです。経験がチャチかどうかではないのです。

補足日時:2011/04/09 13:30
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>自然に挑んでいる人間なら、自然の恐さを知っているから、


そうは簡単に「想定外」なんて言葉を吐かないだろうと思うのです。

それはないでしょう?というか逆では。

自然の怖さをしっているからこそ、
ありとあらゆる危険を想定して、訓練もし準備もして
でかけるからこそ、それでも対処できない
想定外の自然の猛威があることを知っているわけで、

すでに回答がいくつかでていますが、
自然の恐ろしさを知っているだけに、
想定外の出来事には対処不能なんです。

ただ、準備として対処できることに対しては、
ありとあらゆる想定をして出かける
ということに過ぎません。

今回の震災に関して言えば、
地震の規模は想定外、津波のでかさも想定外ですが、
原発の事故に関しては、諸事情にひきずられて
甘い甘い想定のもとに稼働してきたという事実が
報道などでたくさんでてきましたね。

三陸で防災のアドバイザーをされてきた方のコメントを
テレビでみましたが、巨大な防潮堤だったか防波堤だったかが、
今回は物の役にもたたなかったが、
それでも、今までは大小さまざまな津波には効果を発揮して
きたのだから、無駄だとは思っていない。
ただ、今回のような津波を想定しての今後も対策はできないだろう。
と言っていたのが印象に残りました。

言えることは想定することとそれに対策を施せるかどうかは
これまた別問題なのかと。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
別の方が「想定内でも遭難する」と書かれていましたが、遭難したから全てが想定外の原因とは限らないと思います。

昔から「山で死んで本望」という言葉があり、皆さんも多かれ少なかれこの言葉に共感を抱かれているのではないでしょうか? 山が好きでない人は、遭難して死ぬかもしれない怖い所には行こうとしないでしょう。皆さんがそれを押して行くのは、山登りに対する欲望が平均以上に強いからでしょう。

だから、もし遭難した場合「想定外」という言葉で自己弁護したがる傾向があると思います。
東電の幹部が「想定外」を連発するのと同じ傾向を感じます。

補足日時:2011/04/09 13:09
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山ヤ16年です。


自然の恐ろしさを知っている事と、想定外という言葉を吐かないという事の関係が分かりません。
自然の恐ろしさを知っていても、想定外の事は起きるのではないでしょうか?

自分も登山愛好家の端くれですので、例えば基本中の基本では「晴れでも雨具を持参」という事は
実行しています。天気の急変を「想定」している事の表れです。

でも、例えば大きな岩が降ってきても全然平気なように、頑丈な「鎧」を着て行く事はしません。
そういう所では、ヘルメットはかぶってますが、ヘルメットで守れる以上の巨大な落石は想定外です。
それでも、巨大な落石は起き、避けられないかもしれません。

ちなみに、ボクは自然に挑んではいません。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
皆さん、言葉の遊びをしているように感じます。
例えば、「ヘルメットで守れる以上の巨大な落石は想定外」と言われますが、
じゃあ、巨大な落石はあり得ないのかというと確率は低くてもあり得ることです。
想定外ではなくて、想定は出来ても、鎧など装着することは不可能だが、それでも山に行きたいという己の欲望の強さのために妥協しているというのが実情だと思います。

補足日時:2011/04/09 12:54
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 登山歴30年です。

仕事も伝染病の防疫業務ですから、どちらも自然を相手にしています。

 想定、しますよ。むしろ「想定」なしには何もできない、と言った方が良いでしょう。
 何をどこまで「想定」するか、が勝負なのです。

 登山で悪天候や道迷い等によって予定通り下山できない場合があることを「想定」して非常用の装備(ゾンデやビバーク用具、レスキュー用具等)や非常食を持っていきます。
 でも、現実問題として悪天候で30日閉じこめられた場合、そこまでを「想定」して30日分の食料を持っていくことはしません。冬山で10日間の行程で予備日はせいぜい10~14日というところでしょう(もちろん場所による)。

 登山経験の中で想定外のこと、起きますよ。
 私はクライミング中に大きな地震が来て、人間ほどもある落石の雨に降られたことがあります。当たらなかったのは運が良かったからに過ぎませんし、そのときの地震では穂高の滝谷では壁ごと崩落しています。その壁に取り付いていれば120%助かりません。
 でも、今後も登攀中に地震が来るかも、なんてことは「想定」しないでしょう。
 自然が相手ですから、何をどれだけ「想定」しても、想定外の事態は必ずあり得ます。

 要は何をどこまで想定するか、だけなんです。
 リスクの起こり得る確率、それが起きたときの深刻さ、そのリスクに対処するためのコスト、これを総合して「どこまでを想定してどういう対策をするか」が決まるわけです。

 伝染病の感染経路を全て「想定」すれば、半径30kmの範囲で全ての人と物の動きを止める、すなわち経済活動を全面停止させるしかないのですが、コストと確率、ダメージを考慮すればそんなことをやるわけにはいかないでしょう。
 だからいくつかの感染要因については敢えて「想定外とする」ことによって、事前の対策が立てられるものです。

 実際災害が起きてから「想定が甘かった」というのは簡単なことです。事実そのとおりでもありますし。
 でも、例えば今回街全てが津波に飲み込まれたところもありますが、2年前に「30mの津波を想定すれば市街ごと全て山上に移転すべきだ」と言ったところで、それが通ったと思います?

 自然には想定はない、というのは実際に危機管理をしたことがない傍観者の意見です。
 当たり前のことですが、危機管理をする上では何かを「想定」しなければ何もできませんから。
 要はその想定が適切だったか否か、に尽きるのですが、それも事が起きてから批判するのは簡単です。事実起きたことに対して、この事態を想定しなかったのは甘かったと。

 で、私は登山や伝染病についてでしたら専門知識も経験もあるので、どこまでが妥当か、実際起きた事例に対してどうだったのかはある程度考察できますが、地震や原発の危機管理については判りません。

 ただ、何をどこまで想定しても「想定外」のことは起きる可能性がある、ということだけです。

この回答への補足

 回答ありがとうございます。
私はテレビで彼女の短いコメントを聞いただけだったのですが、彼女の考えを示すもう少し長い文章を見つけましたので転載します。

彼女は危機管理を専門にしている人ではありませんから、危機管理を日常的にしている人からみれば「何を解った様なことを言ってるんだ!」と反論したくなるかも知れません。

あと、宗教者の瀬戸内寂聴さんもコメントしていましたが、彼女達の視点が我々とは違うのでしょう。
俗人は人間として自然に対していますが、この人たちは自然の側から人間を見ているのだと思います。
人間は自然を計器で計って理解したと思っていますが、それは人間の驕りだと言いたいのだと思います。

以下転載

「現代文明は機械論的世界観で動いているけれど、これを生命論的世界観に基づく文明に変えよう」というのが生命誌で考えていることです。

 技術は、ある想定の下に進める他ない一方、自然には想定はありません。想定外は言い訳にならないのです。

でも現代文明は、自分たちの想定の中で埋立地に高層ビルを建て、一見華やかな生活を作ってきました。そこが夜中までキラキラ輝いているのをすばらしい生活としてきたのです。

高槻から東京へ。

夕方出て夜遅くに着き、渋谷を通って帰宅する時、いつもその異常な明るさを嫌だと思っていました。

今、そこは適度な暗さです。空には星が見えます。ホッとしながらその裏にある大きな事故を思うと辛いのです。

しかも、もし東北地方が大きな地震と津波で潰滅状態になっても、もし電気が供給されていれば東京では今まで通りの生活をしていたのではないかと思うと気持の整理がなかなかつきません。

 科学技術立国と言いながら、結局は人に頼るしかなく、しかもそこで「線量計が足りなかった」と言うのが科学技術のありようだとしたら、あまりにもひどすぎます。

一度ゼロから考え直す必要があるのではないでしょうか。すぐにでも持って来られるでしょうに。

緊急事態で大変だろうと、応援の気持でいましたが、これはそれこそ想定外、まさかです。

自然・生命・人間という方向から考えましょう。

補足日時:2011/04/09 12:43
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