これが怖いの自分だけ?というものありますか?

僕は芸術と哲学は本質的に相いれないような気がします。
ここは哲学のカテですが、哲学好きたる皆さんは芸術についてどう考えるのでしょう
それなのになぜ哲学者はやたら芸術の話をしたがるのでしょう

A 回答 (15件中1~10件)

芸術を構成する要素の一つに美の認識がありますが、これを行うのは人間そのもので、その価値も時代に酔って変わっており、こういった研究も哲学が行う主要命題の一つです。

(ですが、ちょっとこの質問の感じだと他の方の回答そのものを理解するのが難しいかもしれませんね…)
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芸術と哲学が融合したものに文学がありますよ。


鑑賞できる哲学だと思います。

哲学は体系化されませんから学問一般と違うところは芸術に相容れられます。
固定してはならない試み、態度、存在です。
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哲学をどう捉えるか、の問題ですよね。


芸術と哲学は相入れないような気がする。とは、あなたが考え、思い描く
哲学、は、芸術、とか、心の機微、好き嫌い、美醜、愛憎、などとは、関係ない、
在るものを在るがままに見る、知恵、=考え方 の探求、なのではないのか。
というような、ニュアンス、ではないでしょうか。
哲学とは何かという観点からは、それが正解です。
正解としなければ、あなたが、知恵者、哲学者として成長することはないでしょう。

「在るものを在るがままに見る者は、思惑愛好家ではなく愛知者(哲学者)と呼ぶべき者、
ではないかね。」とソクラテスが言った。とプラトンが伝えていますが。
哲学者とは、神だの、愛だの、幸せだの、損得だのと言っている、思惑愛好家、に対する
哲学者、(学者、ではなく、哲学もの、ですが)なのです。
しかし、心、思惑、を脱し得ない者を。詩人にすぎない、阿呆、にすぎない。
と評する、ニーチェが
世界には人間同様、尻、がある。というのは本当である。しかし、尻、が世界ではない。
と言っていますが。
逆の意味で、世界は人間同様、知恵、哲学を求める、というのは本当である。
しかし、哲学が、世界、ではない。
女?子供に、心と反対のもの、の意味がある、知恵、哲学、は無理であり。
思春期、青年期の人間に、内側から駆り立てる、性欲、を滅せ、恋愛をするな、
「恋愛は実に時を要し、禍が甚だしい」(釈迦)は、過ぎ去ってから、解る事。であり
渦中にある者に言っても。理解は無理なのです。
心、思惑、が導く、答え評価、と知恵(理法に照らして考える)により手見る(釈迦)
答え評価、は殆ど正反対になるのです。
ニーチェの(釈迦の猿まね?)思想は(脳梅でなくとも)発狂につながるのことになるのでしょう。

猿まね、と言えば。以上に突出している、と言われる。古代ギリシャの知恵、哲学、は
古代インド哲学の流入、猿まね、によって起きているようです。
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一見、芸術は媒体として認識されますが


 感性A――芸術(媒体)――感性B

鑑賞者の意識が、作者の意識に吸収された時空間を、
鑑賞者自身が鑑賞するのだと思います。

ロジック&ファンタジックに再現された作者の哲理は
言葉を用いない哲学というほかにないと思うのです。
仮に言葉をもってしても、語りつくせない何かが隠されている。

言葉では表現できない哲理を、感じ取ろうとする哲学。
それが哲学が哲学である由縁ではないかと思うのです。
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No10の方の回答のとおりです。


「美」と「芸術」の何たるかを語る事は、哲学の学問としての使命です。

ご存じかとは思いますが、美学や芸術史は一般的に文学部哲学科の中で学ぶものです。
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 学問としての哲学の間口は広くその中に「美学」という領域があります。

文字どおり「美」を考究する学問です。では「美」とは何か、との問を立てた時に「美」そのものが我々の眼前に存在するか、との問も成り立つ。「美なる物」はあっても「美」そのものが存在するとは言えません。なぜか。そこには「美なる物」の何が「美しい」かと感じられる対象であり、それを判断する基準が必要とされるからです。これらは一般に「審美眼」と呼ばれ呼ばれその根底にある判断基準となる物差しを「美意識」と呼ばれます。
 卑近な例を示すならば「美しい女性」が歩いていたとしても、それは「美」そのもの或いは「美のイデア」が歩いていたわけではありません。容姿の端麗な、或いは美しい衣装を纏っていたかなどの具体的な情報が目の前にあるとの意味です。それも「見る人」によってその評価は異なります。なぜなら、そこには見る人それぞれが持つ価値観により判断が異なるからです。
 この「価値観」を別の言葉で言い表すならば、「認識」ということにもなります。「認識」は「モノをどう見るか」との問いかけに始まる。セザンヌの絵画もモーツァルトの楽曲も彼らが見たモノから得た「インスピレーション」であり、その「モノ」なくしては誕生しなかったとも考えられます。
 「芸術作品」=「作品に題材とするに値する価値のある物を具体化した表象」と考えた時、そこにあるのは「見た者の意識」が介在せざるを得ません。逆に言えば、「具象化されたモノ」から「抽象的概念」を取り出すことで「制作者の意図」を知ることが出来ます。これは「知の学」としての哲学の根本命題の1つでもあります。
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No.1の方の回答と少し重なるところがあるかもしれませんが、ご容赦願います。


「哲学」とか「芸術」とかは、単体として切り離されては存在し得ないでしょう。それらは作り手(創り手)や受け手とは切り離されることはあり得ません。もし、切り離されたならば、それらは「文字列・記号」とか「色の並び・模様」とかいった「もの」となるでしょう。

「哲学・philosophia」の語源は「智を愛する・philos:愛+ sophia:智」であり、作り手(創り手)や受け手の「愛する」に代表される「情」が必須だと思っています。

表象されようとする「もの(作品)」自身、ないし、その「もの」の向こう側(受け手、ないし形而上学的な何か)に情を注ぎ込もうとする思いがあってこそ、生み出されうるものだと思っています。

表象されたものは、人々に出会うことで、その「もの」を通じて逆方向への情(作り手への思い、ないし作り手が求めようとしたことへの思い)が流れることでしょう。

その思いが作り手自身の思索へと向かうとき、それは「哲学」という名で呼ばれるかも知れません。
その思いが作り手自身が作品を通じて求めようとしたところ(たとえば形而上学的な何か)へと向かい、模倣したり、創造したりするなら、それは「芸術」という名で呼ばれるかも知れません。

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哲学者はやたら芸術の話をしたがるのでしょう
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私は哲学者ではないので想像しかできませんが、おそらく、「芸術」を「愛する」ところに、哲学的な意味を見いだす方が多いからではないでしょうか?
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サーロインステーキと江戸前寿司は相いれないような気がするが、両方好きだぜ。

いけねえか?
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芸術は評論(哲学もその一種)ではありません。


感性に発し、感性に帰結するもので、物事のロジカルな
解釈を旨とする哲学とは、そもそも融合も反発もしない、
異なるタームのものです。
もちろん、芸術を対象とした「解釈」というものもあり、
芸術学と呼ばれており、哲学の仲間と言えるでしょう。
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哲学も芸術も、ただ「興味がある」だけの素人です。



哲学と芸術には、大きな共通点があると思います。
どちらも人間が、最低限の生活をする上では必要ないということ。
でも、つらい時ほど、意外と必要性を感じるということ。
太古の昔から、人間は考えると共に、感性に訴えかける音楽や美術を愛してきたということ。
つまり、どちらも人間が単なる「動物」ではなく、思考と感性というものを持ち合わせているからこそ、この世に存在しているわけですよね。

私は素人なので、質問者さんが何を以てして両者が本質的に相いれないと仰るのか理解できていません。なのでトンチンカンな答えかもしれませんが、「なんとなく」相いれると思います。
歌詞が哲学的な歌もありますし、シュールレアリスムなどは哲学的要素が含まれている美術だと思います。それ以外でも、見る側、受け取る側が哲学を感じる芸術はたくさんあると思います。
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