アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

「おはよう ございます」もっと、元気よく!大きな声で!やりなおし!はい!
「おはようございます!」はい、よくできました。
「元気よくあいさつすると、気持がいいですね」と、教師が、言います。
本校の目標は、「あいさつできる子ども」ですとか。
朝、校門の前で並んで、あいさつ運動をしていることを、
りっぱな教育をしていると思っているようです。
「きをつけ!礼!なおれ!」号令をかけて、自分に礼をさせている教師。
あいさつって 気持ちの表現ではないでしょうか?
強要して、言葉を言わせて、形式をさせて、自己満足しているだけで、
本人は、ストレスで傷ついているだけかも知れません。
私がそうでした。内向性が強く、人前に出るのが苦手で、
隠れるようにしていました。また、ある保育園で、「いただきます」を強制されることが苦痛で、不登園になった子どもがいたそうです。
本当の教育は、しゃにむに「言わせる」「唱える」ことでなく、
朝、会ったら、自然に、心からほとばしり出る言葉が出るような相手に自分がなることでしょう。
「いただきます」が、食べ物の命を感じ、心から、食べ物さんのお命をいただいて、自分がその命をだいじに生きさせていただきますという気持ちを表現したものであるよう、感性を導き育てることでしょう。
日本人は、みんながしているからするという、そうではなく、もっと自分を信じたらいいと思います。
ほとんどの家にテレビがあるけど、私の家にはテレビはありません。いりません。
自立できないように育てられているからではないでしょうか?
自販機だって、だれも買わなくなって、水筒を持てば、ドイツやイギリス、いや、インディオやイヌイットのように、自販機のない風景になります。兵庫県のある町は、自販機の1台もない町になったそうです。その本を読んで、感動して涙しました。話がちょっとそれたかも。もっと、自分の気持ちをだいじにということです。

A 回答 (15件中1~10件)

私は多少意地が悪いのか 会社内で挨拶をしない特に新人には目をかけません 迷惑にならない程度に無視します なので自分の子供にはまずは

形から挨拶を教え込みます 親がサボっていてもその分社会がそれを補ってくれるのでありがたいのかなあ さりとて挨拶がすべてではないですが・・
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
会社員、大人のその人は、子どもの頃、あいさつを教え込まれなかったから、挨拶しないのでしょうか?(ずっと、書いてきましたように、我が子は、家庭も、保育園も、教え込む、やらせということをしないで、感性を育て、観察し、人間関係・社会というものを自ら学び、本当の自分を表現していいんだよと認めることをしてきて、どこでもよくあいさつし、人々とよく親しみ、活躍する子になりましたが・・・・・)
強要することによって、逆効果で、ひきこもり、挨拶がいやになるということはないかと考えられたことはないでしょうか?または、良い子が、いつか、非行や犯罪に走るということも。ちょうど、テレビのある家にいました時に、偶然、虐待、「親子連鎖を絶つ会」が放映されていました。
 幼稚園の先生たちの研修会で、「毎日毎日、日本全国の幼稚園、小学校で、子どもたちに、『いただきます』『ごちそうさま』を言わせていますが、何を目的に言わせていますか?」と質問した講師。「感謝のこころを育てるためです」と答え。「子どもたちに感謝の心が育ちましたか?」と再度、質問。
「・・・・・・・・・・」「それはなんとも言えません」「大人になって、どうなのか、様々では?」
さあ、どうでしょう。日本の大人たちは、感謝の心が育っているでしょうか?様々ですか・・・・・・
それは、「いただきます」を唱えさせてきたからでしょうか?
善悪を、厳しく 教えないから、犯罪を犯す、のではないのです。「良い子」でないと生きてこれなかったから、「良い子」をやってきた子が、青年となり、自我が目覚め、自立するには、自分を認めないと、自立できないではありませんか?ロボットでは。
背中を見て育つという言葉は、その通りではないでしょうか?子どもの見ている社会は、鏡なのです。それを、まねぶ→まなぶ(学ぶ)のです。それこそが本物です。純白な子どもには、本物を学ばせたいものです。
そうそう。私は、一回も「あいさつしなさい」も、「勉強しなさい」も 子どもに言ったことがありませんが、自然に、自ら、どんどんあいさつ、勉強する子になりました。担任した子どもたちも。自分で、判断し、自分で考え、やらせられてでなく、自主的にする。
 校門に並んで、たすきをかけて、あいさつ運動をして、何になったのか。
実際、日本全国で、あいさつ運動や、一斉に唱えさせられる「儀式」が行われていますが・・・・・・
(外国でもあります?)
 それが、子どもにとって、何がどうなったのか。
 

お礼日時:2011/05/17 18:40

No.13です。


やはり、うまくお伝えすることができなかったようです。
残念です。

わたしは、sjk さんの仰っていることを否定しません。
むしろ理想だと思います。

さて、
≪「ぼく、名前は?」と聞かれて、お母さんのスカートをつかんで、後ろに隠れる子。
そして、答えられなくて、ちらっと、のぞいている子。
お母さんは、「この子は、どうも・・・・・ねえ」と、困った顔、おばさんも、・・・・・・・・≫
このお母さん、おばさんは、この子のことを困った子と思っているでしょうか?
多分、sjkさんの頭の中では、ふたりともため息をつきたいようなお顔になっているでしょうね?
前後の文章で推測されます。なぜでしょう?なぜか悪意さえ感じます。
これは、よくある風景ですね。
私の想像では、おかあさんは、息子さんの頭をなでながら、もしくは肩に手を添えて…もしくは……
おばさんは、「あらあら、恥ずかしいよのね?おばちゃんのうちの子もそうだったわ」とかなんとか…
決して、困ったわね、という感じではありません。
この男の子とお母さんの間には、信頼関係があります。
もちろん私も子どもの頃を思い出しています。
なにしろ私もこのタイプでしたから。
私は、あいさつをするのが恥ずかしかった、人と話をするのが恥ずかしかった。
でも、あいさつをしたかったし、話をしたかった。いろいろ尋ねてもらいたかった。
幸い皆さん、私の気持ちをわかってか、子供はみんなこんなものと思ってか、
根気よくやさしくいろいろ尋ねてくださいましたが。
こたえられなくても、嬉しかった。それを相手の方も感じ取ってくださっていたと思います。

sjk さん、人はそんなに単純ではありませんよ。
善か悪しかないのでもありません。
個性もあります。
同じ状況でも、放っておいてほしい人もあれば、声をかけてほしい人もいます。
助けてほしいと言える人もいれば、助けを待っているだけの人もいる。
単純ではありません。

今回 sjk さんとやり取りをさせていただいて、いろいろ考えるきっかけをいただきました。
ありがとうございます。
答えも御自分でお出になったようですし
今回をこれをもちまして最後とさせていただきます。
本当にありがとうございました。
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この回答へのお礼

ほんとうにありがとうございました。

困った顔云々のくだりについて。問いかけるための例題として、例えばこんな場面と例示しましたわけであり、私が見たり、経験した場面、(主観も) 書いたものではありません。

「あいさつ運動」あるいは、あいさつの押しつけについて、どんな意義(結果、効果)があるのかという問いであったのですけど、
みなさんからは、社会で生活する人間はあいさつできなければならないのだ。あいさつは大切である。あいさつできる人は良い。あいさつできない人はだめだ。というようなご回答を多くいただきました。

引用文:同じ状況でも、放っておいてほしい人もあれば、声をかけてほしい人もいます。
助けてほしいと言える人もいれば、助けを待っているだけの人もいる。
単純ではありません。
 ・・・ほんと、ほんと、そうですね。
みんなにわかってほしいなあ。
よかったですね。理解者がそばにいてもらえて。
私は、厳しい先生の4年間、針のむしろでした。こわかった。
でも、その後、巡り合えた先生のおかげで、自分を認められ、
心を開いていきました。

「北風と太陽」で、北風ではますます、閉じていくのです。

自問自答ではさびしいような・・・・・

子どもの回答もあったらよかった。

うれしかったら、「うれしい」と喜ぶ。
悲しいと、悲しむ。
感謝の気持ちが「ありがとう」「いただきます」の言葉に表現される。
生き物のごく自然なことでありましょう。

感性さえあれば、です。
「運動」や「やらせ」で、しゃにむに やらせることは、北風で、旅人の帽子を脱がせようとすること。
あいさつの場合は、口では唱えたとしても、それで、やらせて、思い通りの相手の行動に自己満足するのでなく、
本当は、心、感性は、傷ついているかも知れないと気づく人がもっといてほしいのでした。
それは、人権でもあるのではないかと思います。

実は、私にも、身近に、「おはよう」「おかえり」と言っても、何も返ってこない人がいます。
これは、たまたまではなく、いつもです。
大人ですので、お母さんの後ろに隠れて、観察・・・・・云々ではなさそうです。
何かが潜在しているなと思っています。原因があるはず。

お礼日時:2011/05/17 21:36

No.12です。


私の言葉がうまく伝わらなかったようでとても残念です。

前回にも書きましたが、あいさつ運動は行きすぎだと思います。
例えば、親子でいるときに隣の奥さんとあったとします。
その時、sjk さんの仰るように「あいさつをしなさい」と命令するのと、
自分が挨拶をしたうえで、「隣のおばちゃんに御挨拶しようね」と促すのとは、明確な違いがあると思うのです。
sjkさんがお子さんだった頃、とても苦痛だったのは押しつけがあったからではないですか?

相手に心配させないためと、喜ばせるためもまた違いがあります。
お分かりになりませんか?

≪子どもには、いやな時は「いや」、困ったときは「困った」と、表現していいん
だよと、
子どもには、どんな時でも、寄り添い、共感され、愛されて、認められる存在感
を持たせなくちゃ。≫
全く仰るとおりです。

外国のお話をなさっていますが、、私はこれまで数カ国で暮らしてきました。
何しろ人生の半分は外国暮らしです。
そして、どの国でも、あいさつを大切にしていました。
例えばエレベーターで面識のない私に会ったときでも必ず言葉とほほ笑みのあいさつがありました。
どこの国でも、お礼の言葉とあいさつの言葉はキッチリしていました。
かなりのいたずらに鷹揚な方も、放任主義(いい意味で)のかたも
お礼の言葉とあいさつにかんしては厳しかったです。
そして促されて(命令ではありません)挨拶をした子には、褒めてもらえるという御褒美もありました。

どうしてでしょう?
sjk さんの仰るのは、とっても極端な感じがします。

ごめんなさい。今、気づきました。
sjk さんの質問の答えになっていませんね。
あいさつ運動は、意味はありません。一部の大人の自己満足だと思います。
でもあいさつは大切なことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

ひとつ。「あいさつは、しなければならないから、させられる」ものであってほしくない。(世の中の常識,、義務でさせられるものであってほしくない。挨拶という語の意味は、儀式、形式でありますけど、それでも、自主的に、自然に、気持ちの表現として現れたものであってほしい。それが、人間の豊かさと思うから。コンピューターでも、ロボットでも、「いらっしゃいませ」「ありがとう」とあいさつしますが、ね。大きな声で「ご馳走様」と唱えつつ、食べ残して、食べ物のいのちへの思い、感謝が全然ないという状態。
つまり、あいさつが大切なのでなく、感性を育てることが大切で、感性が育てば、おのずから、それが表現され、ほとばしり出る。
「感謝しなさい」と指示なり指導なり、命令なりされて、感謝しますか?感謝できる?あいさつできる、できないと言っておられますが、感謝できる、できないというのと同じでは?
「この花 きれいと思いなさい」「思わなければならない」と言われて、「きれい」と言わせられる。のを、どう感じます?

もうひとつ。「あいさつしようね」と促すことについて。
子どもの心理学。子どもの目線で。

近所のおばさんに会った時、お母さんとおばさんが、「こんにちは」と挨拶している。
その時、子どもの心は、どうしているのか。
子どもの頃を思い出してみましょう。

「ぼく、なんて名前?」とか聞かれて、
「ぼくは、なになにです。年は何歳で、おうちは、何なに市何々町、電話はなん番です。お父さんはなになにの仕事です・・・」とかはきはき言うと、「わあ、ぼく えらいねえ。」と言って、頭をなでてもらって、お母さんもご満悦、笑顔。と、この子のほうが、受けるのですね。どんな子よりかと申しますと・・・・・

「ぼく、名前は?」と聞かれて、お母さんのスカートをつかんで、後ろに隠れる子。
そして、答えられなくて、ちらっと、のぞいている子。
お母さんは、「この子は、どうも・・・・・ねえ」と、困った顔、おばさんも、・・・・・・・・

大人になって、その場で受けた前者は、雑い子になる。
後者は、このおばさんは、どんな人で、お母さんは、どれくらいこの人に心を開いているか。
どのように、接しているか。観察し、見極め、ていねいに学んでいる子なのです。

我が子が、まったく こちらの子でした。
公園へ行っても、パッとすべり台へ走っていかないで、
入口で、じいっと、何十分も観察している子でした。
そして、劇場などへ行っても、電車、図書館の中でも、場を判断する子でした。

12,13才になると、
この子は、ものすごく観察眼のある子で、
人なつっこい、いろんな人と仲良くなるのですが、
(あれも書きたいこれも書きたいと支離滅裂な文になりました)
一目会っただけで、どういう人だったか、どう言ったか、頭をさわった、手がどうだった・・・・
よく覚えているのです。私なんか、ちっとも覚えていなくて、「エッ?めがねかけてた?」と聞く。

外国の、ホテルでも、エレベーターの中でも、
あいさつ交わして、楽しかったなあ~~~
ほんとに楽しかった!!!
5才の娘を連れての、幼稚園、小学校など訪問・交流する旅でしたが、
あいさつするのが大切だからあいさつしたんじゃない!!!
自然に、心がほとばしり出た。

感性を養うことが大切と思うんだなあ~~
大人が感性を失っていることが悲劇なのでしょうね。

だから、校門で、関所じゃあるまいに、
「あいさつ運動」だなんて、たすきをかけて、
ポスター掲示して、
何になってるのか?
あいさつの強制は、非社会性、反社会性を促すという結果しか
もたらさない。と。(私が回答を書いてしまいました。)

お礼日時:2011/05/13 23:53

私は、あいさつ自体はとてもいいことだと思います。


だから子どもたちにあいさつの習慣は付けさせた方がいいと思います。
人間関係は、あいさつがなければその先には進めませんからね。
人気のない所で知らない人に会っても、
一言あいさつが交わされることによって、その場の空気がなごむのを感じます。
反対に、挨拶がないようですと、なんとなく警戒してしまうというか…
意識をそちらに向けなければ…と思います。

子ども達には、周りの大人たちが実践して自然に覚えられるのが理想だと思います。
しかし、小さな子どもって、見ているようで見えていない。感覚が鋭いようで鈍いのです。
大切にしてくれる親のもとでは鈍いのです。
リラックスしている時には鈍いのです。だから促さないと気付かないのです。
(だから小さいのにやたらに気がきく子は、普段あまりリラックスできていないのでは?と思います)
だから子どもたちにあいさつを教えるのは大事なことだと思うのです。

ただsjk さんが指摘されているようなあいさつ運動は行きすぎだと思います。
でもね、相手の方を心配させないように、
ちょっと元気のない時でもそれなりにあいさつができた方がいいとは思われませんか?

今は、家庭や地域でなされるべきことが家庭や地域でなされず、
何もかもが園教育、学校教育にお任せのような気がします。
多くの学校では、ひとりひとりに沿った対応ができるはずもなく、
大勢の子ども達をまとめるだけで精いっぱい。その結果、管理教育になるのでしょう。
これは学校だけの責任ではないでしょう。家庭の問題が大きくかかわっていると思います。

ところで sjk さんは大丈夫ですか?
何かとても無理をしていらっしゃるように感じます。
sjk さんの、他の質問の回答を拝見しても、ちょっとちぐはぐな感じがします。
何か、追い詰められている感じさえします。
理想を求めすぎているのではありませんか?
それこそ、今の素のままの御自分を愛すればいいのですよ。
無理をなさらず、現実と理想と、折り合いをつけていけばいいと思います。
もう少しご自分を甘やかしてもよろしいのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
それでは、(社会的儀礼である)あいさつができることが子どもにだいじだと・・・・・?
あいさつ運動したり、「あいさつしなさい」と命令されて、「おはようございます」と
あいさつを交わしたその場に、ほんとに空気がなごんでいるでしょうか?
私自身、子どもの頃、すごく 苦痛でした。

相手に心配させないために、作り笑顔で「おはようございます!」と
挨拶させたいのですか?相手を喜ばせるために。
それが、神戸の少年Aであり、長崎バスジャックの優秀高校生であったのですけど。
子どもには、いやな時は「いや」、困ったときは「困った」と、表現していいんだよと、
子どもには、どんな時でも、寄り添い、共感され、愛されて、認められる存在感を持たせなくちゃ。

よくあいさつする、学校でも優秀、模範的な少年が、犯罪を犯すと、
「エッ?まさか、近所でも評判のあんな良い子が・・・・」と コメントしていますね。

運動してまですることではないと私は思います。
自然に、表現としてあいさつの言葉が出たら。
良い、悪いはない。できる、できないではない。
あいさつなしでも、にこっと笑って、ポンと肩をたたいても。人間関係始まる。

「おはよう!」と声かけて、相手が、下を向いて泣きべそかいてたら、それがその子の
「人間関係の始まり」と、しっかり受け止め、さあ、みなさんなら、どうしますか?
「この子はあいさつができない、しつけができてない子だ。空気が悪くなった」と受け止める・・・・?
私なら、・・・おっと、書こうとしましたが、書きたいですが、みなさんに投げかけてみたい。
(ひとつだけ。予想される答えに、「どうしたの?」ときく。これは、ペケです。)

弱い性格、立場の気持ちがわからない人が、多数決で、社会はこうでなくてはならないと、
決めつけています。
子ども期に、自分をだいじにされ、認められた人が、人をだいじにし、社会に適応していけるのです。
追い詰められて非行、犯罪、自殺、ひきこもりになる少年、青年を代弁しているつもりです。
代弁というより、経験者ですけど。私は、認めてくれる恩師、友にめぐりあえた。
追い込まないでほしい。校門で、関所みたいに。
外国ではあんなことしていませんよ。
外国の学校、幼稚園。
息子の保育園もです。
いっせいに 声をそろえてあいさつを唱えさせることをしません。
自然に流れます。ほんとうに、心なごむ保育園でした。

お礼日時:2011/05/13 18:32

>自分の気持ちを押し殺して、隠して、うそをついて、にこにこ笑顔を作って、そんな抑圧、強制、の中で育った子ども、自分は、あるがまま自然なままでは、この社会では、認められないんだと。



それは自然という言葉を都合良く解釈しすぎですよ。

その理論で言うなら髪を染めたりだらしない格好をすることも「自然な姿」と言えてしまう。

それを規制することは「抑圧」ですか?


自然なままが認められないのは社会において当たり前のことですし、
それを知らせるという意味では挨拶運動も正しいとしか言いようがないですね。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。
私自身は、髪を染めるということは不自然な行為と思っていましたので、???が頭にいっぱいになりました。

ほかの方たちへのお礼の文で、書いていますように、
子ども期、自分を認められなかったからこそ、非社会的、反社会的行動をする。
原因があるから、社会から離れたり、反抗したりするという、 これは「結果」と思います。

スーパーなどで、しばしば見かけるのですが、茶髪の若い母親が、2、3才の幼児に、キャンキャン、ヒステリックに怒っています。幼児は、店内に響きわたる大声でワンワン泣いています。
私は、本当に、その子の気持ちに寄り添いたくなります。「いのちの電話」「カウンセリング」、そして、心身障がいをもつ子どもの教育に携わってきたり、自然育児での経験などから。
その子が、大きくなってから、社会に適応できない、それこそ、書いておられる行為、あるいは、もっと大きな犯罪にまでなるかも知れない。
子ども虐待事件では、「しつけとしてやった」と、よく言われます。
しつけは押しつけなのです。
そして、親子連鎖していくのです。
死刑になることを自ら求め、この世を去る前に、宅間守が世に伝えたかったことです。

自分をだいじにされた子どもが、他をだいじにできるのです。
社会性が育つのです。
服装、あいさつ・・・・社会性が。

指示、命令、抑圧、させるのでなく、(それは奴隷、ロボット)
「子どもが学ぶ」「育つ」ための環境、導き、引き出す、言葉がみつかりませんが、
教育とは、エデュケーション=引き出す(押し付けるでなく)。

前に、書きそびれたのですが、私が、透明な存在から、先生や他人に認められる存在になったきっかけは、口で話すことが苦手(母がそうなので、私、アスペルガーかと思います。息子はアスペルガーと診断されました。)だったのですが、書くこと、作文や筆記テストは好き、得意だったことでして、、それを認められたことで、自分は生きてていいんだと自信を得ました。また、バズ学習という、班で自由に何でも話し合って学びあう学習のしかたを進めてくださったI先生に出会ったこともとても大きいです。

「北風と太陽」
どんな時でも、この「北風と太陽」を どうぞ思い出してほしい。
自らにも 脳裏に留め置いていきたいです。

結果を責めても、なににもならない、傷を増やすだけ、逆効果。
それが、現状のこの社会です。
連鎖と悪循環。絶ちたいものです。

運動して、やらせる・・・・・・
やらせられたものは、いやになりませんか?
息子は、自ら、自分でやりたくて、自分で決めて、
書けば長くなりますが、
駅のトイレのそうじとか、近所の高齢者の方の用事を、自転車に乗って引き受けたりとか、
旅行業務とか、校長先生のお手伝いとか、新聞を発行したりとか、
ボランティア、(私は知らないことが多い)に明け暮れています。
あいさつについてでは、私はもちろん、保育園も、やらせをしない、号令をかけて、指示命令をしない子どもをだいじにする保育園でしたので、一切、あいさつを強要したり、運動をしなかったのですが、
村中の人から、「よくあいさつして、珍しい少年」と。

でも、神戸の事件のA少年は、親が、教育熱心で、あいさつをしつけ、一生懸命やらせて、近所で、あいさつをよくすると評判の子だったそうです。

「つながる」とは、真心がつながり、通い合うものではないでしょうか?

お礼日時:2011/05/12 13:01

2度目ですがこれも個人的な意見です(説得するつもりはありませんので参考程度に)



「その子の個性を伸ばす」という観点ではあなたの意見でもいいと思うのですが、実際問題の日本の教育現場や社会の構図で考えれば「受け入れられない」ので余計なトラブルを抱え込む危険を抱え込むように感じます。海外であれば早々に「環境」の整った場所に移す現場もあるでしょうが、日本だけで考えれば「異端児」でしかないので迫害を受けると感じます。ある程度柔軟な思考ならいいのですがこれだと「世間の否定」になるのでどこかで迫害を受けて挫折すると「いい子だったのに」と言われる結果にならないかなと思います。

自分自身でさえ、人生で「自分の価値観」など通じないことはいくつもありましたし、ある程度妥協するということも覚えました。あまり「個性」ばかりに縛られると社会に順応できない場合もでます。正直「郷に入っては郷に従う」しかないしかないと思います(理想を掲げ上ばかり見ていて足元すくわれてもしょうがないので)

親御さんがそういう環境を整えられるうちはいいでしょうが、この先も守れるかどうかもわかりません。ご自身も嘆いている通りそう変わるものでない社会ですから、長期的な視野で考え、現状できる範囲での対応策を講じるしかないと思います。植物がそうですが押さえつけられたほうがばねになって太く丈夫に育ちます。人間素直ないい子ばかりが功績を残すことでもありません。

申し訳ないのですがあなたのたとえを見ていると「毒」がなさすぎて気になってしまいました。

ちなみにこういう主張が受け入れられないことでもありません。強硬手段ですがうちの地方で学校教育に任せておけないと判断した親御さんたちで独自に「学問所」を開くと言った逸話があるからです。ただ、これは保護者同士が学力が高く有力権力者がおり、かなり強引に行っています。お勧めできる話ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。上のお礼文も合わせて、お読みいただければ・・・・
結果としての現状はその通りの社会になっています。
原因を、解決しないことには、連鎖、悪循環が とめどなく 続いていきます。

神戸の少年Aが、大阪の事件の宅間守が、バスジャック事件の(高校で優秀生徒だった)犯人が、
私たちに、解決の緒を知らせてくれています。
私たちは、学ばなくては。

あいさつ運動(あるいは押しつけというしつけ)が何になるか・・・・答えは、社会不適応を招く。
極端に言えば、将来の犯罪者を作る。
のではないかというのが、私の答えです。

実際、あいさつ運動して、子ども本人はどうなんでしょう。
教師、大人は、「よくあいさつする学校になった」と 
熱心に取り組んでいますと、誇らしげに、自己満足している。

追跡調査したらいかがでしょう。
大人になって、会社に入って、どうなったか。
少年Aは、結局、ねこを殺し、殺人を犯しました。
あや香ちゃんを橋から落とした事件の鈴香も、それはそれは、
ひどいいじめ、排斥を受けた生育歴による
傷、認めてもらえなかった自分が原因でした。
ひとりでもいい、寄り添い、認めてくれる人が そばにいたら、
あの事件はなかったでしょうに。

お礼日時:2011/05/12 13:21

 挨拶は本当に大切な物で、人と人を結びつけるものです。

ネットにつなぐのに回線をつながないと駄目でしょう?それと同じでコミュニケーションを始めるためにつなげる言葉です。

 学校ではこの挨拶の仕方などで子供の変化も分かります。出来ない子供は何かの原因で出来ない状態になっていると予想は出来ます。病気であったり、精神的な物など。
 それと気持ちの切り替えの意味もあります。挨拶を切っ掛けに変化が始まるのですから。

 今我が子は発達障害と不登校と大変な状態ですが挨拶が出来ない事とすることでの切り換えという事が大切だと分かります。アスペルガーですがこの挨拶という切り換えポイントがあることで変化を受け入れることが出来ています。これを忘れると大変でした。
 不登校ですが、出来ていた挨拶がまともに出来ない状態になったのです。今は改善へ向けて学校と親とで動いて居ます。これが元気に挨拶が出来ているときは機嫌が良い状態なんです。

 みんながそうするという事ではありません。しないと人とのつながりが出来ないからするようになったからです。そして、その意味を教えてはいるはずですがね。家にしろ学校にしろ。挨拶がしたくないから理由も聞かない状態では?挨拶の本来の意味が分かれば出来るようになりますよね。

 人間は社会性のある生き物です。単独では無理なんです。だから挨拶が必要なんですよ。だから教えるのです。

 猫も犬も挨拶としての行動はありますからね。それぞれが接触するときに敵意が無い事も示す意味もあるから。

 自分の気持ちを大切にも良いですが、相手の気持ちも大切にが挨拶なんですよ。

長々とまとまりの付かない文章になってごめん。
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この回答へのお礼

ご意見書き込んでいただき、ありがとうございました。日本では、たいていそう思われています。
私の 問いたいテーマとちょっとずれますが、例えば、「だれとでも仲良くしましょう」とよく言われます。それは、だれでもそうなればいいなと思う理想です。でも、とても怖い人、いやな思いをさせられた人は、いませんでしたか?つながりたくない人、関わりたくない人っていませんでしたか?小さい子どもは、大人よりずっと敏感です。(私の子どももアスペルガーで、非常に敏感です。)外より中を鋭く見透しているのです。小さい子どもに、自分の本当の気持ちにうそをついて、笑顔で、元気よく「おはよう」と言いなさい。と、強制するのですか?お父さん、お母さんが、普通に、「おはよう!」とあいさつを交わして、それを見て、自然に学ぶものだと、私は思います。しつけはおしつけだと子育て講演で聞きました。
意味もわからず、いやな気持を抑制して、強制させられてきたからこそ、あいさつがいやになったのだと思います。○○を食べて、吐いて、気分が悪くなって、ひどい目にあって以来、二度と○○を食べられなくなりました。
子どもは、自分の言葉であいさつをしたらいいのでは?朝、起きて、「ニコッ」と笑って、お母さんにだきつく。本音で、自分自身を表現する。お母さんが、だきしめる。
「つながる」とは、そういうことではないでしょうか?
大人になったら、社会になったら・・・・・・もう おわかりいただけますね。自分を認めてもらって育った子は、人とつながります。そうでしょう?自分を認めてもらえない、だめだ、だめだ、と育った子が、ひきこもり、傷ついた果てに、非行、犯罪へ行きます。

たくさん ご回答いただいた皆様にも 読んでいただきたいです。

お礼日時:2011/05/11 21:52

逆に学校でそういう指導しないと子どもが挨拶しなくなるんでしょうね。


本来は家庭教育なんじゃない?
家でのしつけが徹底すれば学校での教育は不必要になるはず。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。上の方へのお礼文をお読みいただければ幸いです。

お礼日時:2011/05/11 21:57

個人的な意見です。

参考までに。

「あいさつ」以前にその後の会話がないのかが心配です。仕事でもそうですが声色で相手の変化を感じ「どうしたのかな」体調が悪いのかな」と心配してあげないのでしょうか?普通に「どうした。元気ないぞ」と心配してあげたり、子供のほうから喋ったりしないのかが気になりました。

そのご家庭の教育論があるのでしょうが、あなた自身とお子さんでは感じていることが違います。お子さんとも話してみてはどうでしょうか?あなた自身の境遇を重ね過ぎて逆に強要してしまっていることもあるかもしれません。成人した親子でも本音で会話などしないとわからないことが多いです。確かにお子さんが小さいと稚拙な言葉になり表現しずらいですがだからと言ってわかりあえているわけではないのでもっとコミュニケーションをとっていいのではないかと思います。
それに自然に元気な挨拶ができることが目的なので先生に「褒められること」を意識してもいいと思います。

私には理論を並べてご自身の理由づけをしている割にお子さんに目を向けていないのでないかと質問からは思いました。
ですので、補足として「お子さんの情報」を求めます。あなたと同じように内向的で挨拶のときにびくびくしていると言うならやり方はあまりよくないのか知れません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。上の方へのお礼文をお読みいただいた上で・・・・・我が子は、町のみなさんから、学校の先生たちから、「ようあいさつしてくれる、あんないい子は、この頃おらんよ」と言われる子です。私の知らない間に、自分で、ボランティアで走り回っています。そこまでせんでいいのにと思うくらい大活躍する子なのです。保育園が、自然保育で、強制をしない。命令をしない。そういう保育園でしたし、私自身も、出産してから、自然育児を実践してきました。出産前は、教師をしておりましたが、子どもの「自ら学ぶ」という研究を全校あげて取り組んできた勤務校でした。本当に、子どもが、自分でどんどん、調べ、学習していき、それを見るのが忙しくも楽しい日々でした。保育園も勤務校も、先生は、必要最小限の厳選した言葉を発し、できるだけしゃべらない。子どもに任せるというのは、甘やかすではない。教師(親)にとっては、とても重い、厳しい仕事だ。指示、命令してさせるのは簡単です。相手は子どもです。脅かしたりすれば、力的に弱い立場の子どもは従うでしょう。云々。
だからこそ、校門に立って、「あいさつ運動」したり、「できる子に」「できない子はだめ」と評定したり、相手を満足させるために言ってあげさせることがこの社会には必要だ、大切なんだよと、教えこむことを、常識として、流行していることが 悲しいのです。

お礼日時:2011/05/11 22:22

私も 2005 年に TV と VTR を廃棄して以来 TV は持っていません・・・不要と思っています。


ただし、インターネットに接続可能な Note PC は必需品です(笑)。

>日本人は、みんながしているからするという、そうではなく、もっと自分を信じたらいいと思います。

同感です。
TV 雑誌などの傾向、つまり、世間に合わせることで安心する姿勢よりも自分自身をしっかりと確立する判断力を養う姿勢の方が好みです。

さて、「あいさつ運動」ですが・・・

幼児教育は理由を理解させるのではなく条件反射的に行動できるようにする「躾」ですので幼児教育に「おはようございます」や「いただきます」を強要することに反対はしません。
もっとも高校生、大学生にまで「おはようございます」や「いただきます」を強要する教育には疑問を呈しますが(笑)・・・。

山道や林道を歩いていると出会う人に「こんにちわ」と挨拶をするものですが・・・
>内向性が強く、人前に出るのが苦手で、隠れるように・・・
する人なのか、完全に無視されるとせっかく気分良く歩いていたのに心が一気に沈んでしまうものです。
この場合・・・
>自然に、心からほとばしり出る言葉が出るような相手に自分が・・・
なっているとは到底思えませんが(笑)、それでも挨拶を返して欲しいと思うものです。

幼児教育で「おはようございます」や「いただきます」を条件反射的にできるようにするのは社会生活で相手に無用な誤解を生まないための自己防衛力を付けさせていると思えば或る程度容認できるのでは?

「気を付け、礼、なおれ」や「行進」などもそれ自体に意味があるのではなく「集団行動が求められる状況下で規律を乱さない」ための訓練と考えるべきかと・・・。

つい先日、事務所に帰った時、同僚に「お疲れ様でしたっ!」と声をかけられ (するべき仕事が中止になったので疲れてもいないし、休憩が増えてしまったなあなどと思って帰ってきたところだったので) 何と答えて良いか一瞬とまどったところを再び 「お疲れ様でしたっ!」と言われ、こちらが答えないうちに「挨拶は基本ですよ!何を笑ってるんですか?私は真面目ですよ!」とたしなめられてしまいました。
「答える暇もなくたたみかけられたから苦笑いするしかなかった」などと言おうものなら対人関係を悪化させるだけですので「いやいや申し訳ない、お疲れ様でした」と返答しておいたのですが、無意味であっても「条件反射的に挨拶を返す」のが無用な軋轢を生まない処世術だなとつくづく思ったものです。

>ある保育園で、「いただきます」を強制されることが苦痛で、不登園になった子どもがいたそうです。
これは親御さんの「普段の教育 (躾)」に問題がありそうな気がしますよ。
>食べ物の命を感じ、心から、食べ物さんのお命をいただいて、自分がその命をだいじに生きさせていただきます・・・
ということを教えていれば・・・そうでなくても普段から「いただきます」を言わせていれば問題は生じなかったのでは?
或いは先生の「いただきます」を言わせる教育の仕方に問題があったのかも知れませんが「いただきます」と言うことに苦痛を感じる子供の方も問題ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。上の方たちへのお礼文をお読みいただいた上で・・・・・・
「お疲れ様」は、「挨拶」というより「気持ち」ではなかったのかなと感じました。
「挨拶」を辞書でひいてみますと、儀礼、形式とありました。儀礼、形ならば、気分を害したりしないのではないでしょうか?相手が帰ってきて、疲れているだろうな。ねぎらってあげたいな」とやさしい気持ちで発した言葉だったのではないでしょうか?真面目だからというより、やさしい気持ちで思いやりを表現したと。その思いやりの気持ちに対して、お返しになればよかったのでは?で、「挨拶」というものは、「儀礼、形式」ですので、決まり文句なのですよね。早くなくても「おはよう」だったりします。「ごちそうさま」も、本当は、駆け走りまわって集めた食べ物に様をつけているのですね。それが、自分の足は(手も)全然使わず、機械で、工場で作られ、スーパーやコンビニでお金で買って、あるいは配達までしてもらっても、「御馳走様」と言っています。
教えられたことは本当に理解できないと思います。体験することです。
100回教えても、一回体験することには及びません。と私は思います。
しつけはおしつけです。逆効果にしかならないと思います。その時は、従っていても、いつかしっぺ返しが来るでしょう。

お礼日時:2011/05/11 22:43

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