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鳥類が自分達の子供に羽ばたき方を教えたり、鯱が自分達の子供に餌の捕獲方法を教えたりしています様に、たとえ人間の言語に匹敵し得る伝達手段を獲得していませんでしても、技術指導が行なわれ得ますね。

従いまして、人類が言語を獲得していなかった時代にも、技術指導が繰り返されてきたのだるう、と思われますが、人類が言語を獲得した際には、それよりも前の時代の技術の由来をどの様に説明したのでしょうか?

A 回答 (16件中11~16件)

たとえ言語獲得前の時代に遡りませんでしても、中世の日本の徒弟制度の様相でも明らかになっています通りに、伝統技術の詳細の言語化は難しいですね。



そして、それは古代社会の侵略者達が自分達の権威の正当性を主張する為の手段にも、共通性の存在が認められますね。「浄塩」の由来にも思いを馳せてみて下さい。

この回答への補足

西洋近代科学的な証明方法が確立されていなかった時代に、理論体系の組成の手段は存在しなかったのでしょうか?

補足日時:2011/06/14 06:50
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 ANo.2


 動物たちの直接伝達の手段としてのサインではなく、概念と観念という間接的内容を所載する言語を具有して存在することを開始した知性存在を人間というなら、人間とともにそういうことばは同時に存在を開始していることになります。
 その意識の根底を度外視した考察は、仰せのように科学などの問題だと認めます。
 その成果はたいへん興味はありますが、壁に行き詰るのではないかとお話したわけです。

この回答への補足

有り難う御座います。

「言語能力の獲得を人類の短銃の起源だ」と見做す判断は、明らかに謬見です。言語を開発する前にも技術の伝承は継続されていまして、#3#6の両方の方々は其処にも諒察を敷衍して下さっています。

補足日時:2011/06/12 00:07
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 西欧市民革命の絶対王制に対する革命による市民階級による人権宣言とそれによる憲法制定をいいます。


 それは市民階級自らは予測を出来なかったが、両刃(もろは)の剣としての自由権や抵抗権を制定ているでしょう。
 為政者=憲法制定権者ということであれば、ご質問の範疇に入ると存じます。
 こういうものでなく、ご質問でしたら、その仰せの制約についてはご文章からは読み取れませんでした。
 

この回答への補足

いいえ。読み落しです。

「自虐的な法律」という表現を、私は其処で使っております。

補足日時:2011/06/12 00:02
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こんにちは。



ご質問は少し理解し難い点もあるのですが、全ての技術は何らかの獲得を目的にします。
例えば、狩りの技術なら獲物を、石を打つ技術なら石器の作成を、自分がどこにいるのか、
今は何時なのか、などを星の運行から読み取ることも一つの技術でしょう。

いずれも生きていくために必要な事物を獲得することを目的にしているわけです。

だから、まず空腹、或いは生命の危険を感じ逃れたいと願う、などの「欲求」が始まり。
第二に技術を持つものがそれを発動し、欲求を満足させる過程を「観察」、すなわち学習。
第三段階で自分も欲求を満足させるべく見よう見まねをする「模倣」段階、すなわち訓練。

出来る出来ないに応じてもう一度観察して何が違うのかを知ろうとする反復フィードバックを
繰り返して、第四段階の技術の獲得という段階に至る。

言語が文化を伝える働きがあることは否めませんが、技術伝承それ自体は言語説明が困難な
自律的な観察・真似っこシステムによるものが基本ですから、例えば親が子にやってみせる
という「伝達方法」は、遺伝子が自己を複製するために元々動物が持っている先天的な
「機能発動」の一つでしょう。 狭義の「言語」によるものではなく。

人間はともすると言語こそが知性の証左のように錯覚しがちなのですが、動物にも言語に
相当するものはあります。 猫の鳴き声だって、ちゃんと目的に応じて使い分けているんですよ。
餌くれとか、構ってくれとか。 気持ちいい時はもっとやってとエロエロ鳴きますよ。
感情伝達・意思表明を内容とする、広義の「言語」なら人間固有の伝達手段ではありません。

単語は原始時代に簡素な描写、つまり簡単な「絵」として生まれた記号ですが、記号というのは
他者との間に共通の事物を特定するための指差しとうなずき合いが増えた結果、定番化・定着化
したものだと言われていますよね。

無論、象形文字ではない表音文字なども同時期に発祥したでしょうけれど、言葉も無かった
原始時代に、ナウマン象を身振り手振りで示してガウーでもパオーでも、何らかの音声を真似て
発声していた、その方がずっと古代に遡るだろうことは誰でも思いつくことでしょう。

古代、音と声は身振り手振りと共に、敵味方の判別や威嚇、恭順、様々な生きる上での
意思表示・感情表現だった・・・混沌とした「原語」だったと思います。
例えば、はらわたが煮えくり返るほどむかついていても、相手が自分より強いなら笑顔、もしくは
卑屈な顔を見せて恭順の意を示す声と動作をしたはずですよ、100万年前の猿人たちも。
欲望・欲求に直截的に反応しているのではなく、行動表明までに数段階の逡巡の経過をたどって
いるだろうことから、思考を意味する「言語」とみなすことが出来ます。

同時に、大地に指で描いた象形文字の原型はすぐに消えてしまいますから、恐らく土を捏ねて
造った動物や山や川や、表現できるもののミニチュア・・・人形や恐ろしく稚拙ではあるにしても
ジオラマのようなもの・・・それらもまた、保存できる伝達情報の象徴として大切にされたと
思うのです。 風雨の影響を受けない深い洞窟の中、或いは巨木の洞の中などに。
言語とは個体の体験を保存し、部族内で普遍的な再現を目的とする「行為」そのものだ、とも
言えます。 それらは全て、言語の遠い祖先、いわば原語です。

我々が親しんでいるコトバは存在しなくても、声や擬音、踊りや仕草、それらは自然災害から
隔絶した場所=聖地に大切に保存され、そこでマツリとして人々を集めて披露されたはずです。

そうして、そんな洞窟を守り保守管理する一部の老人は「神話」の語り部としてのみならず
部族の神、或いは司祭として人間と言う「種」ではなく「部族」を後世に伝える/それは
時間の観念を持ったということですから、先祖と子孫という「系譜」を保存するという
「集団の意思」を形成することになったのではないでしょうか。

コトバが未発達な段階の時代には、体験者が複雑な情報伝達のために、自分の記憶をなぞって
演技したと思います。 どこにどのようにして行った、こんなものに会った、こんなもので
こうやって闘った、勝った、殺した、食った。

現代でも同じ話を何度も繰り返す人がいますが、当時もその一連のストーリーは何度も何度も
繰り返されたでしょう。 季節単位、年単位の時間観念はあったでしょうから、定期的に
思い出し、祭りとして繰り返されているうちに、そのストーリーは部族内の誰もが諳んじられる
ようになったと思う。 時間はいくらでもあったから、時間短縮のために物語が意味するものを
単語に圧縮したのではなくて、原語では、全てのコトバは一連の物語であったことも推測できます。

コトバは、意味の簡素化の要求から生まれたのではなくて、冗長性のある物語を部品化したり
特徴を抽出するために生み出された、再構成のために生み出された二次表現構造だったのでは?
というのが私の持論です。 前述した「祭り」を一次表現として、ですが。

見た人が新たなアレンジを加えて良い、変質を容認する、というおおらかなロジックは、誤解も
解釈の一つとして何の疑問もなく受け入れられていたでしょう。
何も無かった数万年前の原始時代には最高のエンターテインメントであれば十分だからです。

内容が正確かどうかには殆ど意味がなく、心躍る物語であること、その原体験の時空も知覚された
様々な気持ちや思考も、まとめてひっくるめて大きな情報の塊として広汎・伝播させるという目的に
沿って、伝言ゲーム大いにオーケー、楽しく悲しく恐ろしく、ワクワクドキドキすればそれでよし!と
いう、今では想像もし難いスケールの大きなものだったのカモ、とウキウキしたりするのです。

・・・一連の誰かの体験、記憶、原語表現による伝達。

遥かな昔、言葉も確立されていなかった時代に。

恐らく神話は存在していたと思う根拠がそれです。

音も声も踊りも、人形、儀式、火。様々なものが渾然一体となった、原語表現の宴・・・。

失礼。ちょっと古代に頭が飛びかけてしまいました。

もう一つ特筆すべきことは。

繰り返されてきたのは技術指導ではなく、獲物や女や道具などを持てる者がひけらかし
持たざるものが模倣してきた、能力格差そのものであったろう、と思うことです。

まとめ、というわけではないのですが、動物が狩りにせよセックスにせよ遺伝子のプログラムと
して、元々持っていた、というのは基本的に親(その形質や能力)をコピーする機序です。
でも、欲求を満たすための模倣や、能力格差が種の淘汰ではなく多様性の原因となるシステム、
つまり「知性」ですが、その原型は猿人以外の哺乳類や、行動学者の論文などを垣間見ると
昆虫などにも部分的に存在しているようです。
単なる世代間コピーという種の維持では無くて、無数の環境に適応する亜種を沢山生み出し、
切磋琢磨させるシステムの発生・・・

遠い原生動物達の時代に単性生殖から多様性を求めて雌雄に分化したようなことが多分、
起きたのでしょうね。 脳の中に。

言語を獲得した際に、それより前の時代のというご質問もありますが、古代から不変の欲求や
行動パターン・・・例えば、可愛い女性を見つけたら性的に獲得しようとする、などですが
それらの共通した認識、我々人間は何時の時代も同じようなことをするものだ、という直感。

それが証拠から論理を展開するのではなくて、想像や創作によって虚実の境界さえ曖昧な・・・
部族内での体験の共有とでも言えば良いのでしょうか(勿論、その中に技術の由来なども
含まれます)を物語として、或いはそれ以前なら踊りや儀式によって集団の記憶として
部族内に保存したのでしょう。

その点で必ずしも言語も技術も「伝達」である必要も無かったのかも知れません。
伝達は、精度と伝達量、伝達される相手の多寡で優劣を決定されますが、
想像や創作の中で語られる物語、別に言語に拠るとは限りません。 踊りや儀式がそれに相当
します・・・それらは伝達の要素も含んではいるけれど、与えるものと与えられるものの間に
都度、固有で新鮮なものを発生させていたのではないか、そんな風に考えることも出来ます。

おそまつ。

この回答への補足

有り難う御座います。

確かに、音声で連絡を取るのは人類だけの特徴と違いますが、西洋近代科学が東洋医学の立場を危うくしている展開と同じく、人類が言語を獲得した際に、従来からの技術の説明の為に、創始者の話題もが必要になった可能性が有るのではないでしょうか?

補足日時:2011/06/11 17:06
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 ともかさん。


 人間という定義、それを生物学や自然科学、ないしは他の科学からもってきておられますか。
 それはそれでいいと存じます。しかしその持ってきていることも再度検討し、理論付けなさることが必要です。
 
 サインという動物の言語と、概念や観念という間接内容を所載している人間言語とは隔絶の相異があるでしょうが、そういう言語以前に人間はどういう言語をもっていたか。
 そういう存在をも人間というか、神というか、動物というか。
 そういう問題もありうると存じますが、無意味でしょうか。

 それは何と何が違う存在であり、そういう違いが外界にあるという創造の界の出来(しゅったい)のあたりも考察する、つまり区分と認識のもんだいでもありますね。

 それ以前は一体でしたでしょう。自己・即・他・即・全体でしたでしょう。
 
 そういう言い方以外では科学や知的物象の考察などがご満足のいくご説明となりましょう。

この回答への補足

投稿は有り難いのですが、質問の内容を熟読して頂きたいです。

つまり、人類が言語を獲得した時に、「それよりも前の頃からの技術の由来を説明しようと試みる発想」もが衝動的に登場している筈です。

補足日時:2011/06/11 16:53
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 桜井さん、3分前投稿しましたら。

解決との事でした。
 為政者の不利な法制ということです。

 違うカテですが、敢えて投稿し、カテ違いで削除されますがどうぞご参考にしてください。
 近代の政治と法律は、為政者に不利になることを以って本旨としているのが本当なのです。

 以下内容:
 
 私もご質問を普通の意味にとって、ANo.1さんのご回答に一票投じます。
 その投票の後に、更にご質問の意味を少し拡大すれば、制度として、為政者に不利な法律といえば(そして法律というものの制定権やその同意権ないしは承認権が為政者にあるとして)、民主主義という制度でしょう。
 これは自分の立場はその被為政者の意思(そして意志)に基づくというものですから。
 無論、これは法律の文章であって、現実には被為政者がそれを表示し行使したと解釈されてしまいます。
 そして一旦、そうされれば、為政者は被為政者の意思や意志と関係なく為政できます。

 そして民主主義の極致は、成文や非成文で抵抗権を認めることで、そういう規定もあります。
 http://azby.search.nifty.com/websearch/search?se …

イエーリングのいわゆる権利の上に眠らざることが、どうのこうのというのを民主主義というものに即して展開すれば、民主主義もどんな制度も抵抗権を前提にしているといえます。

 しかし一つの法体系で成文上抵抗権をどう規定するかは、ある意味で自己否定にもなる矛盾同着なので、どうしても一定秩序の範疇に押し込めた抵抗権や革命権となります。
 つまり去勢しないと成文にはなじみにくい。
 しかし社会立法上の社会権は直接には抵抗権にはつながりませんが、全ての自由権(表現、結社、行動など)は為政者に対しても行使されて始めて、その意味がありますので、自由権を制度で、そして具体的な施策立法で認める事は(そうしなければ民主主義でも自由主義でもない)抵抗権の保障そのものだと思います。
 抵抗権は法哲学の一分野となります。

この回答への補足

有り難う御座います。

自己の行為を阻める法律を為政者達が「自発的に」制定したことが、世界史上に有るのか否かを其処では伺っています。

補足日時:2011/06/11 16:57
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