推しミネラルウォーターはありますか?

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 ふとほんとうのわたしを垣間見てしまったところ 人はそのわたしに帰ろうとしないものか?

 一瞬わがわたしを嫌うのだろうか?

 ほんとうの自分だと分かったとき その自分に戻ることに不安がるのか?

 長い間わすれていたからか?

 よろこばしいのではないのだろうか?

 ほんとうにそれこそが自分だと分かったからこそ 不安になるのか?

 ふるさとは恋しいけれど 帰りたくなくなっているのか?

 なぜだ?

A 回答 (27件中21~27件)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっちでございます。

> たとえば《われあやまつならば 〔そのあやまちに気づいて われに還ったそのとき〕われあり》というふうにのみ捉えていました。
> ☆ そちらの方面での《ほんとうのわたし》がありましたか。面目ありません。
> つまり《よみがえり》と言えば 自分の隠していた(または 気づかなかった)弱点やさらには汚点のこととは思えない。のではないか。
 でも あいまいでした。出直したほうがよいかも知れません。

 いえいえ、愚生が考慮に入れ、回答すべきでした。至らぬ点、深くお詫び申し上げます。

> ☆ そうでしたか。少し ずれがわたしの側にあったようです。でもやはり柔軟で しかもどんな難局にあっても楽観を絶やさない方だと思っています。

 どうもありがとうございます。“楽観”、確かに仰られる点もあろうかと存じます。おそらく、「”悪あがき”でもいいから、とにかくやってみよう」といった気持ちがどこかにあるのかもしれません。

> ★ 社交力のなさ
 ☆ をわたしが悩まなくなったとしたらそれは 海舟のように みんな敵でいいぢゃないかと思ってからです。《批判と反批判の過程》という意味でけんかをするようになってからです。

 周囲の“モノサシ”を気にしなくなってから、愚生も幾分かは楽にはなりました。

> どこまで一般化していいか分かりませんが けんか腰でこそ話がかみ合うということもありなのだと知りました。そういう意味での社交力はついているのではないかと自分では思っています。
 
 そうでございましたか。愚生は相変わらずのようではございますが、前向きには考えていきたいと思っております。


 そこで、懲りずに、再掲させていただきます。
> 一瞬わがわたしを嫌うのだろうか?

 以前にも、お話させていただきましたが、“モラルハラスメント”なるものがございます。つまり、自分の過ちに全く気付かないケースでございます。
そうなりますと、“我に還る”というよりも、“他者への悪意のまなざし(他責)”に変化してしまうのではないか、との懸念がございます。
 さらに申しますと、その過ちに気づいても、われに還るどころか、他者に責任を押し付けてしまい、かえって逆に自己を憐れんでしまう、といったことになりかねない、ということでございます。

> ほんとうの自分だと分かったとき その自分に戻ることに不安がるのか?

 ただ、そういう人たちも、本当の自己を見つめなおすときが来ますと、“不安”に襲われるかと推察してございます。ただ、気付かずに、人生を終えていく人もいるやもしれません。

 またもや、やるせない回答となってしまい、申し訳ございませんでした。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 けんか腰になるということについて おぎないます。

 これは たしかにそのように頭を切り替えるのですから その行為はわざとするものです。
 でも じっさいに相手とのやり取りに入れば そこにおいては もはやこちらは何もしません。何かこちらから仕掛けるとか計らいを持つとかいったことはありません。すべて あとは相手に合わせて相手の動向に――つかず離れずですが――沿って 応対してまいります。

 たしかにこの OKWave でも 二年三年と ちいさい変化はありましたが なかなか効果は上がらず《成果》も出ませんでした。でも 何度も言うようですが この春から ときが満ちたと捉えています。

 すべての人に対してすべてとなりました。

 その具体的な姿は わたしにとっては けんか腰というものでした。
 つまり その姿勢を持つという頭の切り替えをしたあとは すべて相手の動向に沿って むしろ相手が何を要求しているかに沿って こちらは何の力をも出さずに 応対をするだけのかたちでした。

 むろん 誰でもこのようにせよという意味では毛頭ありません。ちょっときざに言えば 野菜を食べる人もいれば 肉をも食べる人間もいる。こう思っています。

 説明としてでした。

補足日時:2011/06/27 22:14
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この回答へのお礼

 今回は ほほえみを誘われますね。
 ご回答をありがとうございます。こんばんは ひどっちさん。

 次の場合を取り上げておられるわけですが ひじょうに微妙な見方をなさっている。やはりこう捉えます。
 ★ ~~~~~~
 “モラルハラスメント”なるものがございます。つまり、自分の過ちに全く気付かないケースでございます。
 そうなりますと、“我に還る”というよりも、“他者への悪意のまなざし(他責)”に変化してしまうのではないか、との懸念がございます。
 さらに申しますと、その過ちに気づいても、われに還るどころか、他者に責任を押し付けてしまい、かえって逆に自己を憐れんでしまう、といったことになりかねない、ということでございます。
 ~~~~~~~~
 ☆ この絶望のシナリオがまづ取り上げられます。

 ★ ただ、そういう人たちも、本当の自己を見つめなおすときが来ますと、“不安”に襲われるかと推察してございます。ただ、気付かずに、人生を終えていく人もいるやもしれません。
 ☆ ということは 絶望のシナリオと並んで 《そういう人でさえ 不安に襲われ得て 自己を見つめ直すかも知れない》と 見通されています。
 この感覚ですね。楽観を絶やさないというところは。

 たしかに
 ★ やるせない回答となってしま
 ☆ ったかたちですが そう言えば こういう文句を聞いたことがあります。

  ○ あわれもうと思えば あわれむには値しないではないかと思われ これを嘆くならば いよいよ嘆くにも値しなくなるような人間の状態

 ☆ です。《モラルハラスメント》という言葉にはあまりなじみがないですが そんなブラックホールのような人間状態はあるかも知れません。


 ★ さらに申しますと、その過ちに気づいても、われに還るどころか、他者に責任を押し付けてしまい、かえって逆に自己を憐れんでしまう、といったことになりかねない、ということでございます。
 ☆ こまかく見ようと思ったのですが ここで
 ★ 過ちに気づいても
 ☆ という位相が出て来ます。つまり とにもかくにも

  ○ あやまちに気づいたなら あやまちを犯さない我れに まばたきする間なりとも 還ったはずだ。

 ☆ ではないかと――理論的には――見たい。とは思います。



 きのう NHK BS で 沖縄戦に従軍したアメリカ人戦争カメラマンが出ていました。いま88歳の人は カラ―の動画を撮った人ですが その昔話をひとくさり終えたあと 見せたいものがあると言って 写真を持ち出して来ました。いままで誰にも言わなかったことだとことわって見せた写真は 倒れたふたりの日本兵を前にして勇んだ姿の自分でした。
 戦況が途中で米軍にも簡単ではなくなった頃から自分も銃を持つことがあって 戦いをおこなったのだ。勇んでよろこんでたのしそうにさえなって 日本兵を殺したのだと。――なぜ あんなことをしたのか? いったい全体あのときのおれは どういう人間だったのか? と言葉少なにそう語っていました。



 我れに還るのは やはりむしろヒラメキであるのかも知れません。

 そのヒラメキをも無視する人間の状態があるとしたら?・・・

 或る意味でそういう人は そのままの姿が戦争状態にあるのでしょうか?
 だとしたら こちらもやはりけんか腰にまではなって 同じようになって こちらも多少はよみがえりのきっかけになるよう行動することもありかも知れません。あるいは 横っ面を張ってやらねばならないのかも知れません。(だからというわけではないですが わたしはすすんで 心の横っ面を張ってみています いま。ほかの質疑応答にて)。

お礼日時:2011/06/27 21:43

 こんばんは、ヒドッチでございます。



> ふとほんとうのわたしを垣間見てしまったところ 人はそのわたしに帰ろうとしないものか?
 一瞬わがわたしを嫌うのだろうか?
 ほんとうの自分だと分かったとき その自分に戻ることに不安がるのか?

 ”人の振り見て我が振り直せ”といわれますが、時折自己を省みることがございます。そんなとき、「もしかすると、これって自分も同じことをしていたのか」と、ふと思ったりも致します。こんなときは、往々にしまして、自己嫌悪に陥ったりします。換言致しますと、「ほんとうのわたしを垣間見てしまった」とき、おそらく、「自己を嫌う」ことがあろうとはじゅうぶんにあろうかと考えております。
 おそらく、気付かないうちに、自分が嫌だと思う他人の言動・態度、それを「そんなこと自分がしているわけがない」という変な妄想をいだいていたのかもしれません。その妄想を剥がされてしまいますと、やはり、自己に戻ろうとは、考えないと思っております。

 ”政治家は国民の鏡”と言われていますが、おそらく事実をついていると考えております。そのときの政権を、まるで野党にでもなったかのように、罵倒する人がおられます。ですが、民意によって選出されたのですから、自分(もしくは日本人)に唾しているのと同じように思っております。

> ほんとうにそれこそが自分だと分かったからこそ 不安になるのか?
 ふるさとは恋しいけれど 帰りたくなくなっているのか?
 なぜだ?

 一般的に、“自分の醜さ”は自分が一番よく知っているものですから、不安感のようなものがあるのかもしれませんし、またはいっそのこと目を背けてしまうものかと推察されます。
 ご回答者様のなかに、以下の文章を拝見致しました。”社交力のなさ”は愚生自身も痛切に感じてございます。ですが最近では、”社交力のなさ”がなくとも、うまく生きていく道を選んでおります。「ないものはどうしようもない」と一種の諦めからからかもしれません。

 「悲しみをもたらすものつまり社交力のなさそのものをまことに否認するのでした。相手の名前を知っても、それでもなかなか人が恐ろしいのです。」

> 「脳晴天の性格にも脳雨天の性格にも対応なさって行けるのは ひどっちさんではないかと考えます。単純に言って そう考えます。」

 とのお言葉を賜りましたが、誠に恐れ多いお言葉です。決して愚生はそんな立派な人物ではございませんし、どちらかと申しますと頑固者と言われております。ですが、なぜだか、bragelonne様の仰りたいことは理解出来るのです。底抜けの悲観者であるひどっちだから、かもしれません・・・

 とりとめのない、回答となってしまい、心苦しいのですが、最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 あぁ そういう解釈がありましたか。これは しくじりました。
 ――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 たとえば《われあやまつならば 〔そのあやまちに気づいて われに還ったそのとき〕われあり》というふうにのみ捉えていました。
 ★ ”人の振り見て我が振り直せ”といわれますが、時折自己を省みることがございます。そんなとき、「もしかすると、これって自分も同じことをしていたのか」と、ふと思ったりも致します。こんなときは、往々にしまして、自己嫌悪に陥ったりします。・・・
 ☆ そちらの方面での《ほんとうのわたし》がありましたか。面目ありません。



 あっ ひとつだけ弁明しうるものがありました。

  ○ 《わたし》のよみがえりを人は嫌うものなのか?

 つまり《よみがえり》と言えば 自分の隠していた(または 気づかなかった)弱点やさらには汚点のこととは思えない。のではないか。
 でも あいまいでした。出直したほうがよいかも知れません。



 ★ どちらかと申しますと頑固者と言われております。ですが、なぜだか、bragelonne様の仰りたいことは理解出来るのです。底抜けの悲観者であるひどっちだから、かもしれません・・・
 ☆ そうでしたか。少し ずれがわたしの側にあったようです。でもやはり柔軟で しかもどんな難局にあっても楽観を絶やさない方だと思っています。

 ★ 社交力のなさ
 ☆ をわたしが悩まなくなったとしたらそれは 海舟のように みんな敵でいいぢゃないかと思ってからです。《批判と反批判の過程》という意味でけんかをするようになってからです。
 そして考えてみれば 人びとは もう相手にしなくなった段階は別として 多少ともわたくしを相手にして多少とも杭を打つようにしていたときには けっきょく《けんか》を仕掛けて来ていたのだとあとで知りました。どこまで一般化していいか分かりませんが けんか腰でこそ話がかみ合うということもありなのだと知りました。そういう意味での社交力はついているのではないかと自分では思っています。
 へんな話になりましたが。

お礼日時:2011/06/27 00:44

仁科です。

ブロックされていないかなぜか少し不安なので試しに回答します。就職しました。

認知療法や論理療法のようなことをbragelpnneさんはしていたのだと思いました。自分について問い立てることは否認ではなく直面化ですし。ちなみに否認は否認で、なぜか非認ではないですし、メラニー・クラインさんはフロイトに盾ついた感じの人だったようです。

bragelonneさんのいう能天気とはいわゆる「鈍(どん)」のことなのかと思います。同性から嫉妬される逞しい人といえば坂口安吾を思い出します。

いじめはないようだけれどしかし孤立し孤独だったことはありますが、エポケーというものはなく疲れながらもう寝たり絵を描いたりしていました。よく失神したりしていました。

なぜひとは自らを否認するのかとの問いに答えるなら、人は自分の内面をくわしく言葉に出来ないことがあるからで、
未成熟な心の持ち主(一般的な男性の場合は二十代前半までらしい)なら、心の言語化はまだ無理らしいです。
またよく言われることに心をそのまますべて冷静な言葉にはできず、なので詩なんかがあるのですが、非言語的な部分も含めて人で、人は獣性的な部分を含むので、しばしば自らや他者の野蛮な部分を人は否むし嫌うと思います。つまりけつの穴が小さくて、そこが小さいのは対人経験の浅さ少なさからきているような気がします。

本当の僕はなんにもやる気のない人間ですと、そう知ってもあんまりうれしくありませんが、でも、やる気のない者が私だと気づくと、無理してやる気を出したり、わざとらしく興味や関心を持っているふりをするのを止して、正直にやる気も興味もない人間としてふるまうことにすると、なぜだか他者はいつもよりいろいろと話しかけてくれるのでした。それがうれしいのでした。いつもの白々しい偽りの態度を放り捨てたせいでしょうか。でもこの頃はまたあまり人が話しかけてくれませんが。
やる気がなさすぎたり、やれることが少なすぎたりして、だめなのだと思います。
カメレオンのようだといわれたことがあります。カメレオンでは信用されません。きのう真面目と書かれましたが、へんに真面目であり、かつやる気がないのが自分かもしれません。自立支援組織の人やカウンセラーさんからは、典型的な良い子だと言われました。引き籠りになる人には良い子が多いとも前に読みました。

やる気がないという基本的な本心のところをまでゆがめ、わざわざ人に合わせるとうまくいかないようです。
よく、外国の人が書いた本には、他の仲間たちがしていることについて筆者が「自分はそういうことにまったく興味がないが」と書ききっていることに、驚いたことがあるのでした。
そういう書き手は、わたしというものがよみがえっているというか、自分と他人の違いをわかっていると思います。八方美人なひとびと(稲作をする民とか)の場合は、そういう自他の差を明確にすることを嫌うので、なかなか、自分と他者たちの分かれ目を言葉にせず、否認しさえして、わたしがわたしにならないまま生きるのではないでしょうか。でも農作している人はこの国でもう少ないですし、個人的な活動を主に打ち出して、それを売りにして価値として社会生活を営む人が多ければ、個性を前面に押し出す人も増えているのでしょうね。

他者(とくに異性か)と全体対象関係を築いたことがない場合、自分が十全に受け入れられないので、自分をまるごと相手に示すことをためらい、また自分自身への己の示し方も縮こまり、わたしの全貌を否認するかもしれません。歯切れ悪いです。読むに値する文を書けません。
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この回答へのお礼

 ううーん。まづは わが詩作品をごひろうしましょう。
 分かりやすいものをひとつ。そしてつづく二編は もう今となっては本人も意味がとりにくいものです。


  ● そのあわい(恒信風)

   そのあわい

   神の戦士としての微笑みと

   父の息子としての恥づかしみと

   のそのあわい

   たかとかえるとのそのあわい

   にふとすっぽりおさまって

   無重力の遊泳でも意外とない
 
   世界

   にまんざらでもない鳥どもの交感を

   見たと思っていた

   高炉の火が消えたとて

   歯車がロックの車座に代わったとて

   どよむ空気とてなく

   恒信風が

   赤いじゅうたんの上を吹き進み

   ネオンサインの間を駆け抜ける

   常秋の星へのワ゛イキングだと思っていた



   ときたま超ロングランを博す

   デルフォイの神託にもう酔うまい

   グーテンベルクの落とし子が催す

   華々しいカーニヴワ゛ルにももう踊るまい

   祭りを終えて

   恒信風に乗った

    *
 
  ● 霜の降りた月面の中から


   霜の降りた月面の中から

   かのじょの薄氷りが立体派を成して

   天体への飛翔に傷ついた雲間から

   凍土が油彩画を破って

   圧し掛かる砂嵐の下から

   葉脈を伸ばして

   黄道が公転して



   鋭角の傾きが

   夕凪を引きずる主体の回転を

   海流を揺さぶって

   少女の偏西風が

   春の雨を吸って

   プリズムの陽光を

   楕円軌道に乗せて



   草深い惑星のうなりを

   花明かりの地殻の中から

   膨張する陽炎の舌を

   蛇行の中に抱き集め

   潮騒のぼくを

   アカシアの梢に飛ばす



   波が憂えて

   水しぶきが憶い出して

   青い雲が震えて

   少女が流れる

   憂える波

   憶い出す水しぶき

   震える雲

   かのじょの少女が流れる

   偏西風に潮騒がさざめいていた


    *


  ● 陽があがり
   
   陽があがり

   火があがる

   不審火が

   桶屋の底から

   丘を越えて

   青空が

   寒がっているのだろうか




   Chicago, Illinois を越えて

   氷の国も寒がっているのだろうか




   陽があがり

   上天に寒い鶴がひとり

   長いストローを突き降ろして

   極地の水を齧っている

   鶴は季節(とき)を知っているはずなのに

   インフルエンザの

   島に渡るというのではなく

   陽が沈む

   たそかれのポケットの中に

   冬の火を暖める



   いま 優しい不審火をついばみ

   長い脚が長い旅にある


   *
  
 さて ご回答をありがとうございます。

 ★ 認知療法や論理療法のようなことをbragelonneさんはしていたのだと思いました。自分について問い立てることは否認ではなく直面化ですし。
 ☆ あぁ えぇ たぶんそういう見方は出来るのではないかと――他人事のように・そして精神分析はとんと知らない(つまり 嫌うという意味です)のですが―― 思います。
 聖書の筋としては パウロという人間が《わたしは自由な人間ですが 相手のその人と同じようになりました。情感の人にはそのように 理知的な人にはそのように。その人を得るためです》という意味合いのことを言っています。
 自分は触媒です。

 ★ ちなみに否認は否認で、なぜか非認ではないですし
 ☆ あぁ ほんとですね。気づかなかった。自分の弱みやずるさについては認めたくないということですね。
 もっとも だとしたら ほんとうはその自分のことを知っているということにもなると思うのですが? 知っているけれど 知らないと決めて振る舞おうというところでしょうか?

 ここですでに自分がかわいいぶらじゅろんぬくんは こういう複雑な心の持ち方は 自分はしない。出来ないと思うのでした。きわめて 単純に出来ています。弱いなら 弱いのだ。おしまい。――こういうかたちです。
 ★ bragelonneさんのいう能天気とはいわゆる「鈍(どん)」のことなのかと思います。同性から嫉妬される逞しい人といえば坂口安吾を思い出します。
 ☆ くわしいことは分かりません。つまり知りたいと思わないという意味です。鈍なのかどうかも。
 安吾も 無頼漢とか聞いて 読もうと思ったことがあったのでしたっけ。読んだかどうか おぼえていません。理論が伸びるのでしたら どうぞ おしえてください。


 ★ なぜひとは自らを否認するのかとの問いに答えるなら、人は自分の内面をくわしく言葉に出来ないことがあるからで、
 ☆ これはたぶん違うでしょう。《言葉に出来なくても 知っていることは――自分の弱さなどとして――知っている》はずです。感性のほうが むしろその知覚は強いでしょう。

 対人恐怖で 継ぎましょう。田舎の叔母(わたしの母の弟の嫁さん)などは 中学生のころにわたしと会って話をしていると 恥づかしくなると言いました。(つまり ほかにほとんどそういう事例はなく かのじょはきわめて素朴な人間だったのだと見ますが)。ものごとについてきわめて自然で当然かつ普通となることをわたしが 言っていたからだと言います。そしてたぶん 《わたしは 人と向かい合っていることがひじょうに苦手です》と言葉にしなくても 言っていたからだと推し測ります。
 父親が後年言っていたことは 《おまえに対しては 人は敬遠するという言葉がいちばん合っている》でした。この敬遠するという気持ちを わたしは長ずるに及んで肌で覚えそれが蓄積されすでに前もってでも対人恐怖といったクセがついたのだと見ます。

 この事例で言いたいことは 人の心理的あるいは精神分析的な性格などとして挙げられることがらは あくまで対人関係からも形成されて来ているであろうということです。《存在は 社会的な独立存在であると同時に――同時にです―― 社会的な関係存在である》と見るものです。


 ★ 八方美人なひとびと(稲作をする民とか)
 ☆ このいわゆる《集団主義》なる性格も きわめてあいまいな規定だと見ます。稲作も所帯ごとに田んぼを持って仕事をします。社会主義社会における集団農場ではないのです。
 八方美人も四方美人も一方美人も 閉鎖不美人も どの時代にもどこの社会にも それぞれいるでしょう。
 この集団主義なる常識には 異議を唱えたいとつねに思っています。


 ★ カメレオンのようだといわれたことがあります。カメレオンでは信用されません。
 ☆ でも 君子は豹変すとも言います。朝令暮改でも 必要な改正なら必要です。要は自信を持って。


 ★ 歯切れ悪い
 ☆ に合わせたわけではありませんが 焦点が結びにくいと思われ こころみに以上のようにお応えするものです。
 あなたは 若いのですから 奥歯に物がはさかったような――という心つもりはないでしょうが――言い方を自由にあやつってみてください。


 resistance450 という参加者を知っていますか? 【Q:みなさんお疲れ様でした】などを挙げています。八戸のいわばニートです。何か声をかけてもいいと思ったなら そうしてやってみてください。これは わたしからのお願いになります。

お礼日時:2011/06/25 23:41

 


 心理学の本を読んで知ったのですが、否認ということについて書きます。対象関係論とか、部分対象関係とか、全体対象関係とか、妄想・分裂ポジションとか、抑うつポジションとか、退行とか、去勢とか、統合失調症とか、公務員とか、軍隊(自衛隊)とか、中庭とか、どうでもいいという感じとかについて書きます。

 わたしがわたしを認めないことは否認です。人は否認することによって、ようやく自分を保っている場合があるそうです。なかなか解決しがたい問題や心理的な危機、ひどく悲しいみじめな事と直面化することが、嫌なのです。そういうつらさや不安なことがらを否認して、あたかも無いことであるかのようにして、生きていることが多いのですって。合理化というやつですって。現実や事実を捻じ曲げ、そうしてようやくいつわりの安らかさの中に生きるということをするのですって。。
 自分や他人の嫌な部分を否認すると、嫌なところを見ないようにしながら、すべては取り扱わずに生きているうち、どんどん世界や人間が断片的なものになり、狭まり、痩せていきますし、すると純粋な理想形もイメージとして現れてくるでしょうけれど、それは否認の多い、がりがりに痩せた理想です。十全ではないということです。

 人は否認するとその時々は楽ですし、問題の先送りであり、つけは回るものらしいですが、それは自分が自分自身について否認している部分を、他者が持ち合わせている場合、そういう他者の一部に対する憎悪になったりするとかもあり、人への好悪という、幼稚なことがらが私にはなぜか重要なのです。思春期なのでしょうか。

 対象関係とか書きます。心理学の世界には昔、フロイトさんと相対したおばさんがいて、メラニー・クラインさんという人で、そのおばさんが対象関係論ということを言い、
 おさなごが人を部分的に見る……つまり怖い母親と、優しい母親との2人いるという、そういう、部分対象関係というところから、やがて発達して、抑うつポジションという過程を踏みながら、すみやかに、怖い時の母親も優しい時の母親も一人の母親の両面なのだということを理解して、全体関係対象に至るわけらしいのですが。

 自分のことを書いてみると、対人的な絆を持つためのふるまいを身につけておらず、つらくなって自分や他人を否認して、他人と親しめない、関われない、というみじめな気持を、その具体的な理由(つまり社交スキルがないということ)を否認して、代わりに自己臭恐怖(妄想にちかい)とか、醜形恐怖とかにすりかえ、自分との関わりも不満足になり、社会的に引きこもり、人との無関係へ戻り、死んだようになって、廃人くささが染みつき、こう書くとかなり狂っていますがありふれた心の患者で、記述や散歩によって自分との関係を戻し、つぶやきや自己表出という考え方によっても自分自身の言葉や心に自信というか、価値感情がいちおう持てて、つぎに他者との部分対象関係へとむりやり進み、分裂・妄想・理想化・恐怖などが渦巻くまなざしで家族や他者を見る日々がつづき、ほんの少しだけいろんなことを話せる友人ができて、そこからはなかなか全体対象関係に行けません。
 誰が言ったのか忘れましたが、妄想・分裂ポジションという所にいます。そのポジション(態勢)にあっては、自分や他人を、都合よく部分的に否認して、自分や他人について、簡単に理想化したり、安易に悪者扱いたりして、破壊的な気分も立ちのぼりやすいそうです。

 ブラジュロンヌさんが過日に書いていました、悪魔についての記述は、他者を純粋な悪として仮にでも見定めるようなことでしたから、なんだかブラジュロンヌさんの中に、部分対象関係的な他者観があるように思いました。すぐに相手を嫌うようですし、対象関係論によってブラジュロンヌさんのけんか癖のようなものを説明できるかも知れないような気がしました。
 原発爆発から公務員の人気がかなり、巷では下がっているかもしれませんが、組織内や組織外で人を、自分と比べて上か下か、勝ち負けいずれかで人を見ると、そういう区別をした見方とそこから派生するふるまいの習慣は、せっかく獲得したはずの全体対象関係から、赤ん坊のような部分対象関係へ退行しているように思います。また軍隊は女性的だと思います。規律が厳しくて減点式で人を見て、マイナスを積み重ねれば罰が下されます。軍隊的で女性的な父親がいて、彼と息子が軍隊的な部分対象関係的な関わりしか持てない場合があると思います。一般的にも多くの家庭でそういう、関係の貧しさがあると思います。人間観の貧しさが家庭や組織にあることを書いています。

 あやまつならわれあり、ということを公務員は立場上、責任を取らずに去勢されずに? 出世することが大事な人々らしいので言えないのでしょうけれど、ブラジュロンヌさんは公務員ではない貧乏な会社員なので、それ(私まちがえましたということ)を言えるらしいので、そこのところでブラジュロンヌさんは公務員よりも精神性においていくらか上回っている、ということになるのですか。公務員より自由の身だと。より人間的だと。たしかにそうだと思いますが、人間なるものについてどうまなざすかにおいて、じぶんの眼は人より上回っているとか、より深くて広い精神性を持っているなどと思うことは、(こういうのはブラジュロンヌさんを鏡にして私自身を見つめているのですが、その点がこういう回答の記述をする意味でもありますが、どこか捨てるために書いているということはあり) 心がまえにおける優劣はやはり勝ち負けの出世勝負の世界にいる人々のようなおごりだと思います。金はなくとも精神性においては高みにあるのだというような貧乏たらしいおごりは、世捨て人のみじめな誇りのようだと思います。スポーツは全人格的なところではなく部分的なところで勝ち負けをどうこうするから少しはきれいですが、精神性やら人格やら人間性で勝ち負けをやってしてしまうと、とっても汚いような厳しすぎる非人間的なことだと思います。おごりもせず、だめなものはだめだからだめだと、怒りをもって言うことは大切らしいですが、私はそういう怒りを持つには頭が悪すぎるので、他人が正しく怒ってくれたら素敵だなと思うばかりです。しかも注文をつけて、あまり傲慢にならずに私たちのかわりに怒ったらどうですかという。
 
 人間は誰であれ不完全なものらしく、人はその不完全さや弱さを互いに補い、社会を営み助け合う生き物なのだといわれます。そんななか人間どもはみな、脳みそなんかも高らかに膨らんでいて、公務員さんたちのように多少のところ過信なんかもして、あたかも自分(たち)は相当、完全に近い生き物なのだという、個人的にも集団的にもそんなおごりに満ちてしまうようなミスも犯す生き物なのだと思います。そういう弱さや間違えやすさがあるから、そんな不完全な存在である、ばかである、にも関わらず、働いたりして助け合ったりして、仲間としてふるまってくれるので、申し訳ないとか、ありがたいものだとか、弱くて不完全な同胞への感謝が湧くらしいです。こういう忝(かたじけな)さはおごりなのでしょうか。何もかもどうでもいい感じですけれど。
 親なども、母であれ父親であれ、不完全ながらも、それでも一応、親としてのことはしてくれたのだから、ありがたいと思うわけなのでした。私はすこしブラジュロンヌさんがしばしば記述する昔語り(生い立ちのかけらみたいなもの、父親との不仲など)を読みながら、自分のぎこちない成長や親との来し方についてを省みるのでした。そこにおいてブラジュロンヌさんと自分を時代は違えど(どうせ同じ国だし数十年ていどしか違わないので)重ねて思うこともありました。肝心なところで会話が成立しない家庭というものは、私の感じからいくと少なくとも世の中(この国)の家庭のうち五割以上はあると思うのです。先々先月に原発が爆発して福島県に残ろうか避難するかどうするか、という議論や語らいやを家庭でしようとしても、話し合いにならないばあいが多いようで、本音の会話って難しいですね、たとえばいま福島県知事は自分の言葉を持ちません、彼は新聞の切り抜きなどを東電のひとに見せて、まるでそれが自分からのメッセージだということにしています。心理学の本の内容をただ書いて自分の回答にしている私もそうですが、まるで頭が働いていないのでした。

 およそ対人関係は難しいのでした。否認したくなるほど難しいのでした。その難しさや苦手意識からくる不安や恐怖や悔しさや悲しみをこそ否認したいのでした。悲しみをもたらすものつまり社交力のなさそのものをまことに否認するのでした。相手の名前を知っても、それでもなかなか人が恐ろしいのです。まだ部分対象関係で、どうでもいいのですが、ブラジュロンヌさんのいう、心の中庭でしたか、そんなところには私のばあいひとりきり何もなく、がらんどうで、ラカンのいうような、河合隼雄もいう? 中み空っぽな構造で、なんにもないただみじめでむなしい、ひたすら何もかもがまずどうでも良いという、興味も関心もないいつも、そういう感じなのでそういう感じを記述することが、まるで中身のないことを書くことが私なりの正直な言葉の使い方なのでした。ボイスレコーダーで自分の声を聴いたらそのやる気のなさにびっくりしました。切実になることがない人の声でした。
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この回答へのお礼

 ははんははんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 〔福島ということで そしてわたしの文章を読んでくださっているということで にしなくんかと思いましたが もしそうだとしたら 文体をあたらしくなさったということになるでしょう〕。

 ははんははんさんは 人生の悩みや試練について わたしと同じようなところも違ったところもおありだと思いますが わたしとの間でひとつ違いがあるとすれば あなたは ふつうに言う真面目でいられる。言いかえると わたしは 真面目でないというよりは 悩みや行き悩みに遭って それでも地が脳天気だという性格です。

 ★ ~~~~~~~~~
 ブラジュロンヌさんのいう、心の中庭でしたか、そんなところには私のばあいひとりきり何もなく、がらんどうで、ラカンのいうような、河合隼雄もいう? 中み空っぽな構造で、なんにもないただみじめでむなしい、ひたすら何もかもがまずどうでも良いという、興味も関心もないいつも、そういう感じなのでそういう感じを記述することが、まるで中身のないことを書くことが私なりの正直な言葉の使い方なのでした。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば《いじめられたり いじめられなくなったりするのではなく 相手にされない。放っておかれる》というむなしさを味わったことがありますが そのときにもわたくしは 脳天気です。雨は降らず または降ってもすぐに止んで 晴れて来ます。

 そのこころは?
 たぶん 答えが出ないのなら もううっちゃっておこう。これです。エポケーです。

 こういう言い方は問題をはぐらかすかも知れませんが 脳晴天の性格にも脳雨天の性格にも対応なさって行けるのは ひどっちさんではないかと考えます。単純に言って そう考えます。
 あるいは フロイト理論に対してわたくしは懐疑的ですが その理論にもとづき考えを展開なさるのは はこぶるさんです。それとして対応される方です。

 こういう見方をも述べたあと たとえば次のくだりを取り上げてわたしの考えを述べます。
 ★ ~~~~~
 およそ対人関係は難しいのでした。否認したくなるほど難しいのでした。その難しさや苦手意識からくる不安や恐怖や悔しさや悲しみをこそ否認したいのでした。悲しみをもたらすものつまり社交力のなさそのものをまことに否認するのでした。相手の名前を知っても、それでもなかなか人が恐ろしいのです。
 ~~~~~~~
 ☆ そうですね。赤面恐怖症という意味で対人関係のむつかしさであれば わたしは小学四年生ころから 二十代の半ばまでなやみましたね。その後顔を赤らめなくなったのではなく 赤らめてもそのときその情況に即してその意味がわかるようになって こわがらなくなりました。
 ただ――すでに触れました脳天気もさることながら―― そう言えばわたしは《非認》はしませんでしたね。申し訳ないですが その点参考にならないかも知れません。
 ですから つねに何でわたしは顔を赤らめるのか? そんな理由も必然性もないではないか? と問い求めつづけていました。

 いくつか理由やその場の事情があるようです。

 1. 失敗をしたくない。
 2. 相手としっかりとした話をしたい。
 3. 成功を勝ち取りたい。

 けっきょくこんなところでしたね。しかも問題は 多くの場合 そういう気持ちを じつはその相手のほうが持っていたということです。わたしを警戒したり敬遠したりしていました。
 むろんわたし自身がほんとうにこのような願いのような悩みを持っていたというのも 実際でしたが それだけで対人恐怖に陥るとは思えなかった。

 こういう分析は 思い上がりもいいところでしょうか? わたしは かなり純情だったのです。それが 相手には まぶしかったらしい。そう結論づけています。
 この一点でお応えしてみます。

お礼日時:2011/06/23 23:59

自分の本来の姿は、必ず今の世界に受け入れられる形になる


というお気持ちは、とっても肯定的で素晴らしいと思います。

私自身は、そんな立派な姿ではないという
さびしい気持から出た回答です

おそらく還りたい時代が少し違うんだと思います
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この回答へのお礼

 いえいえ そんな自信のある考えを表明したという覚えはないのです。――えいちあーるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――ただ 何度も出しますが 《いちど間違いに気づいて我れに還ったときには その我れは 間違いがない》と思われるのです。
 
  われあやまつなら われあり。

 だと考えます。この気づきの我れは ちょっとやそっとでは誰からも欺かれることもないのではないでしょうか? きみきみ そんなに浮かれていてはきっと誰かにだまされるよと人が言って来ても たぶん欺かれないでしょう。あやまちに気づいた自分は つよいと思います。
 このことを――下敷きにして――言っているのみです。

 ★ ~~~~~
 自分の本来の姿は、必ず今の世界に受け入れられる形になる
 というお気持ちは、とっても肯定的で素晴らしいと思います。
 ~~~~~~~
 ☆ 確かに《肯定的》ですが 《必ず世界に受け容れられる》という自信があるとまでは思いませんでした。

 でも《どんな環境が来ても やって行ける》などと じっさい書いていますね。
 ううーん。ですから 紆余曲折を経て行くであろうと。山あり谷ありだけれど 《自分のあやまちに気づきつづける我れであれば やって行ける》のかなと。特にこまあすさんの方向性(志向性)としては そのつどひと回り大きくなって行く《あたらしいわたし》というイメージがあったものですから。

 ★ ~~~~~
 私自身は、そんな立派な姿ではないという
 さびしい気持から出た回答です

 おそらく還りたい時代が少し違うんだと思います
 ~~~~~~~
 ☆ おのれの子どものときが 身の回りの環境を含めてどうであったか。そしてその頃社会がどういう時代であったか。などが多少は影響するでしょうか。


 そして ひとつにはどうもわたくしは脳天気であって 上に触れました《あやまちに気づいたわたし》ということには 何故かわれながら信頼を置いているといったことがあるでしょうか。あやまちを認めたという開き直りに過ぎないことが えらく大きくはたらいているのでしょうか?

 こんなことを思いました。ありがとうございました。また何かありましたら むろんこの質問にも 投稿してみてください。

お礼日時:2011/06/19 23:18

昔(本来の自分がいるべき世界)と今では周りの人間関係や環境が違うので


自分が還ったとしても
周りが自分の望むようにはならないかもしれないです
結果的には自分すら還れないことも…
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この回答へのお礼

 えいちあーるえすえむ・・・さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ひとつの側面として No.1のこまあすさんのご見解とつうじるところがあるように思えました。
 一たん《建て直し》をするにしても そのあたらしい自分は もはや――あるいは必ずしも――過去の自分と同じではないはずだ。あるいはそして むしろ周りの人が変わり環境が変わっているはずだ。そうかんたんに《我れに還った》からと言って 元に戻るというわけには行かないのだと。

 こまあすさんとの違いを見てみれば たぶんこまあすさんが 《あたらしい我れ》は過去の我れよりもその開拓すべき新境地を開拓していてすでにプラス α がついてひと回り大きくなっているはずだから おいそれと元に戻るということにはならないのではないか。こう言っているのに対して えいちあーるさんは どうでしょう いくぶん悲観的なのでしょうか
 ★ 自分が還ったとしても / 周りが自分の望むようにはならないかもしれないです
 ☆ というふうに《人間関係》の問題を重く見ていらっしゃる。
 ★ 結果的には自分すら還れないことも…
 ☆ つまり 還るべき我れはあるかも知れないし 還ろうとすることもある。ただし 問題は 周りとの兼ね合いである。と見ているのに対して こまあすさんはと言えば あくまで新しい自分は昔よりも一回り大きいのだから わざわざ還ろうとすることもない。どうしても還れと言われても そんなふうに言うのなら行き倒れになったほうがよいくらいだとさえ言っています。


 考えてみれば お二人のよいところを取って まとめるとよいのではないか。――勝手なことを申してよければですが こうです。
 ○ ~~~~~~~
 1. ふとわたしは これこそがわたしだという姿を知った。ゆえにこれをまづは取り戻そうはする。

 2. けれどもじつは 今の自分は昔の自分よりも一段と大きくなっているのだ。だから 《我れに還った我れという姿》は この大きくなった新しい自分なのだ。

 3. それだったら 還ってもよい。それなら 元からの中身は充実するし 人との関係においてもひと回り大きくなっている。

 4. それなら どんな人間関係の中に入って行っても やって行ける。どんな環境が来ても それとうまくやって行ける。

 5. そういう我れになればよい。なれそうだ。またそういう我れでなければ 還る意義がない。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 バラ色すぎますかね。

お礼日時:2011/06/19 15:29

ご質問のこころとは違っているかもしれませんが…



本当の自分はまず鏡の中にあらわれますが、どれほどの美女、美男であってもなかなかこれが認められ難いのではないでしょうか。ナルシスはよほど単純な精神のもちぬしだったと思われますが、ましてそう(美しく)でなかったら、一生封印してしまうこともあるでしょう。

自己嫌悪というのは外貌内面あらゆる場合に起こりうることです。
望みと現実は殆どの場合乖離しているのが普通でしょう。

自分探しとか言われますが、必ずしもふるさとではないと思います。
よみがえりとか戻るとか長い間忘れていたとか仰るのが理解しかねます。

それはおそらく新しい発見であるはずです。

もちろん客観的にはよろこばしいことであろうと思います。
往くというか、たどり着くのにそこ以外にはありえないのですから。
でも帰るというのも少し違うと思います。
むしろわたしたちは帰るくらいならゆきだおれを望むはずです。
そういったものだと思います。
>ふるさとは恋しいけれど 帰りたくなくなっているのか?
当然です。

自分は日本人だ、帰るにつけても、行き着く先は日本しかない。こういった保守的な芸術家の思いは当然ながら自身の芸術の作風とか精神性について言っているのだろうと思います。


ご参考になれば。
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この回答へのお礼

 こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 微妙なところにおいて・隙間のような狭いあわいにおいて 互いに見方が分かれてしまったように思われます。
 ★ ~~~~
 自分探しとか言われますが、必ずしもふるさとではないと思います。
 よみがえりとか戻るとか長い間忘れていたとか仰るのが理解しかねます。
 ~~~~~~
 ☆ 《われに還る》 こういう言葉があるものですから すでに《ほんとうのわたし》がともかく見つかったというところから話を始めています。ですから《ふるさと・よみがえり・戻る・忘れていた》という言い回しもすべて当てはまるものと思っていました。
 当てはまらない場合というのは 子どもの頃からずっと《わたし》であり続けている人だけだと。

 でもよく捉えてみると さらに微妙な見方に行きあたります。
 ★ それはおそらく新しい発見であるはずです。
 ☆ しかもこの《新しい発見》は 《われに還る》ばあいの《わたし》を基礎としてその上にさらにあたらしい・よりよい姿として発見される場合を指し示しているようです。
 ★ 望みと現実は殆どの場合乖離しているのが普通でしょう。
 ☆ つまり《現実のわたし》であるよりは 《望みとしてのわたし》を発見するのなら分かる。けれどもそれは 《忘れていたふるさとを見つけそこに戻る》こととは違うのだと。

 すなわち
 ★ ~~~~~~
 もちろん客観的にはよろこばしいことであろうと思います。
 往くというか、たどり着くのにそこ以外にはありえないのですから。
 でも帰るというのも少し違うと思います。
 むしろわたしたちは帰るくらいならゆきだおれを望むはずです。
 そういったものだと思います。
  >ふるさとは恋しいけれど 帰りたくなくなっているのか?
 当然です。
 ~~~~~~~~
 ☆ なかなか込み入っています。
 確かにそこから来たということに間違いはないが 《故郷に錦を飾るのではなければ 帰らない》し 実際に錦を飾ることが出来るようになったのならもう《帰りたくなくなっている》のだと。
 そういった意味合いでしょうか?

 もしそうだとしたら きわめて微妙な心のあり方を明らかになさっているのではないでしょうか?

 ★ ~~~~~
 自分は日本人だ、帰るにつけても、行き着く先は日本しかない。こういった保守的な芸術家の思いは当然ながら自身の芸術の作風とか精神性について言っているのだろうと思います。
 ~~~~~~~
 ☆ ううーん。
 《忘れていた自分》が見つかりそれは《よみがえり》とさえ思われる場合 こういう場合を扱っています。そしてそれが《日本であり日本人であり それとしての精神性や芸術の作風》であったとしたら たしかにその人にとってはそれだとなります。
 でもそれに対しては 百歩ゆづってもしそういうことがあったとしても それは《望みとしての・新しい発見としてのわれ》ではないであろうと。つまりだから《よみがえり》ではなく《フロンティアにまで行き着きそこで開眼したあたらしい自分の実現》でなくてはだめなのだと。

 たぶん もしこうであるとすれば 強引かも知れませんが 同じような趣旨だと見ます。《よみがえったわれ》は そのわれをもっともよく十二分に発揮するところの姿だと設問のときから想定していましたから。


 でも《ふるさと》などと言うと いわゆる《過去の自分》といった意味合いがまとわりついていて そんな姿よりは行きだおれになったほうがよいであろう――このようなご趣旨かと受け取りました。どうでしょう。

お礼日時:2011/06/19 00:42

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