プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 少し違った角度から 問い求めます。

 ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?

 ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義あるいはつまりそれらの互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?

 ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?

 ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を保ち守ることを言うのではないか?

 ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?

 ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉鎖する行為を言うのではないか?

 ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始するという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?

 ( h ) 対話に対する鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?

 ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提に固執して話をすすめる場合ではないか?

 ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?

A 回答 (12件中11~12件)

神に詳しくはありませんが、


神=善悪しか存在しないのでしょうか?
神は善悪を判断する審判員。

物事全てを善悪で判断すると、やはり競争で共存はないかと。

人間、世界を全てを2沢で判断出来るでしょうか?

ふと、考えの前提に疑問を感じました。
すみません。
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この回答へのお礼

 またたびさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 人間、世界を全てを2沢で判断出来るでしょうか?
 ☆ この善悪を定義しておくといった発想あるいは思考方法が問題である。こういうご見解かと思います。

 そうですね。さらに質問の趣旨を次のようにご説明してまいりたい。こう考えます。

 基本的に言えば 
 ○ 善悪という言葉があるから それを哲学として整理しておきたい。
 ☆ というノリです。
 たしかに初めに《神》を出して話をすすめていたりしますから 神につながり善とそして悪といった構図を 質問者じしんが描いてしまっていると見られてしまうかも知れません。
 いづれにしましても そういう道筋からの思考方法や説明の方式もあると思います。
 そしてここで言っているのは 
 ○ 世の中では《悪》という言葉を気軽に使っているが じつは悪という実体はない。その現象は起きているが 悪という存在はない。
 ☆ のではないかという問いかけです。(回答者によっては 神学やあるいはこのあと投稿がありましたがブディズムの教理をめぐって ご見解を示していただいてもかまわないと思っています)。

 考えてみれば 世間では結構この善悪の取り扱いで苦労しているのではないでしょうか?
 たとえば人間万事塞翁が馬ということわざを持ち出して 災難を悪と見立てれば 悪はやがて善になり 善と思っていたものが悪になる――というふうな議論を展開する場合も見られます。

 あるいは 昔から性善説か性悪説かで議論が絶えません。両方がありうるとすれば いったいどう常識として捉えればよいのか。(日本社会では 性善説に立って規則などをつくっており 悪意による違反は 想定外だったとか言ったりすると思いますが では 性悪説もけっきょくは含むということなのか? といぶかしんでしまいます)。

 あるいは 言わずと知れた善悪二元論が 消えたりまた浮かんで来たりしている風景もヨーロッパないしいわゆるキリスト教圏のなかで見られるのではないでしょうか?
 元は ペルシャのザラトゥシュトラの教説から始まると言われます。つまり出発点が 善神と悪神との二つの根元が存在するというもので ただしこの場合は 最終的には世界の最後で善神が悪神に勝つという物語だったと思いますが これが 例のマニ教において一時猛威をふるったと言いますし あるいは やはり例のグノーシス主義が れっきとした善悪二元論です。カトリックからは 異端とされ 物理的な力で弾圧もされたようですが 考え方として現代にも継がれて来ているのではないでしょうか?
 
 その一つとしては あのユングの四位一体なる神の説です。三位一体の神が 至高の善として存在すると言われるところへ いやいやそれでは足りないのだ 悪魔という同等の力を持った悪神が 第四位の神として存在すると見なければならないのだと言い出しました。
 日本では 河合隼雄がこれを継いでいるかのように文章を書いています。(河合は一般に自説を述べるとき ものをはっきり言いません。はっきり言っていても 中身はよく見てみると案外まとまっていません。あいまいなままだと気づかされることがあります。他説の批評では 合理的な指摘をおこなっているようですが)。

 ですから
 ★ 人間、世界を全て善悪の二者択一で判断出来るでしょうか?
 ☆ という問いは この質問の持つところですし だからと言って
 ○ 善は悪 悪は善。世のなか神は 善と悪との二元である。
 ☆ というのも どうも具合いがわるいと思っての問いかけです。

 この質問が前提する善悪観は 回答No.1でのやり取りを参照いただくと手っ取り早いと思いますが そこに但し書きをいまつけ加えます。
 たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。
 あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。
 クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。
 (善か悪かに関係なく その判定をしないものを 無記と言うかとも思います)。

 ところが 端的に言って ウソは 善であることを放棄して(あるいは破って)表現されることではないでしょうか? おそらくそのときの《善》とは その人の主観においておのれの心にさからわないその意志内容だと捉えられます。逆らう場合が 負の善であり これを名づけて悪と言うのだと。
 そうして 今回の質問では この善悪観を少し広げて一般的な社会性の次元でも有効なかたちを模索したものです。
 No.1でのやり取りで明らかになったように:
 ○ 共生する存在――人間存在――を善と見なし その《共生》のための思惟や行動を善と規定する。そして特にはその思惟や行動の中で 《話し合い》という行為を取り出しておく。
 ○ したがって この話し合いをはぐらかしたり拒んだり閉じたりする行動とその発想としての考えは 善のマイナスとして悪と規定する。

 ☆ こんな感じです。
 ですから もしこの提案がやはり勇み足だったと分かれば 引っ込めなくてはなりません。そういう質疑応答を望んでいます。

 さて
 ★ 物事全てを善悪で判断すると、やはり競争で共存はないかと。
 ☆ 質問者の感覚としましては 世間がすでに《競争社会であり共存共栄といった思いが薄らいで来ているのではないか》と思って それでは善とは何か悪とは存在しないのではないかを考えておきたい。考えておくと 案外その競争もやわらぐか あるいは別の意味や基礎にもとづく競い合いになるのではないか? そういう見とおしのもとに問うてはいます。
 言いかえると:
 ○ 競争を取り上げてみるなら やはり共生のための競争はだいたい善であろう。
 ○ あるいは そのときにも《共生のため》というそのことの中身を実際にみんなで《話し合い》 その上で決めるものである。そういう善を目指そう。
 ☆ といったかたちになるかと考えます。


 ★ 神
 ☆ については そうですね。たとえば次のような見方を提出してさらに問い求めを深めて行っていただければと思います。
 ○ 神は善人にも悪人にもひとしく雨を降らせる。両者をひとしく日は照らす。
 ○ ただし 神は いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。
 ○ 風は気ままに吹く。

 ☆ あとの二つは 神がえこひいきをすると言っているのですが これらを合わせて 神は善悪の彼岸なる存在だと思われます。

お礼日時:2011/07/17 14:18

( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?


     ↑
神を感じた、と言っている宇宙飛行士がいましたね。ジム・アーウィンと言う人です。
神を見てもいないし、話もしていないけど宇宙に出たとき、神の存在をはっきりと感じたそうです。
その後、その宇宙飛行士は伝道師になりました。

ま、揚げ足取りはともかく。


「善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い
 悪とは この善を傷つけることであり」
  ↑
この部分は素晴らしいと思います。出典はあるのでしょうか。
それとも自分で考えたのでしょうか。
眼が洗われた思いです。

善悪てのは、人間が試行錯誤の結果、この行為は秩序維持上マイナス
だから、悪、という名をつけて禁止、抑制しよう、
善はその反対、ということで築き上げられてきた概念だと思っています。
つまり、社会のルール。
そのルールを造る前提となる共生、話し合いで善悪を意義づける
という考えはすごいと思いました。
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この回答へのお礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 褒めてもらっていますね。
 気を良くしてしまって この質問の前身をもかかげます。みなさんの中には参照していただけるかも分からないと思ってです。

 【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5552729.html
 
 その趣旨説明の中に さらにその前身の質問もしるしています。
 そして
 ★ この部分は素晴らしいと思います。出典はあるのでしょうか。
 ☆ ということですが これは あります。一般に西欧の――神学ないし――哲学では 

   悪は 善の欠如である。

 と言われている命題です。これを今回は 触れていただいたように《共生〔する一人ひとりの存在〕》というふうに共生ないし社会という要素を取り立ててみました。
 つまり社会的な関係性のことをあまり打ち出さない場合には さきほど引き合いに出した質問での趣旨説明でも 次のようにまだ個人もしくは《わたし》の問題として捉えた恰好でした。ちょっと長いですが 引いてみます。

 ☆☆(【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】)~~~
 ――その趣旨説明――
 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。

 4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち 次のようにおっしゃるかたち(つまり社会という次元)での定義について なかなかそこへ進めずにいたところではありました。(そのために上に長々と引用しました)。
 ★ ~~~~~~~~
 善悪てのは、人間が試行錯誤の結果、この行為は秩序維持上マイナス
 だから、悪、という名をつけて禁止、抑制しよう、
 善はその反対、ということで築き上げられてきた概念だと思っています。
 つまり、社会のルール。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ ということは 少し出来過ぎであり出来あいであるようにさえ見えてしまうかも分かりませんが おそらく へきゆさんのその定義とわたしの個人にかんする善悪の定義との中間点に 今回は着地し得たということかも分かりません。つまり
 ★ そのルールを造る前提となる共生、話し合いで善悪を意義づける / という考えはすごいと思いました。
 ☆ 確かに《共生と話し合い》を鍵語としたわけでした。

 案外 これで共同主観(常識)へと打ち出して行けるかも分かりません。とは言っても たとえば次の回答No.2では またたびさんから ご批判をもらっています。へきゆさんも お考えがありましたら ご参加ください。

 ★ 宇宙飛行士
 ☆ のお話がありました。
 ★ 神を見てもいないし、話もしていないけど宇宙に出たとき、神の存在をはっきりと感じたそうです。
 ☆ えぇ ヒラメキ(インスピレーション・直感および直観)ということについては わたしもはっきりと捉えています。認めるという言葉を使うとおかしいですが 認めています。
 そして このヒラメキで得たことの内容を 人びとにも分かるようにふつうの言葉で表現できればさらによいと思っています。善悪観に 間接的にしろ つながるものと思います。

お礼日時:2011/07/17 00:11

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