A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?
A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?
B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?
B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?
B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?
B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?
C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?
D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。
E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?
*
○ (神を哲学する) ~~~~~
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
Y=考えれば分かること。
(いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
為によって分かるようになると考えられること)。
(科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
しうることがら。)
X=考えても分からないこと。
(いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。
(人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
(もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
とがら。 )
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて
超経験の領域= X
超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
〔そしてこのような意味での〕神・
〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空
人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)
さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。
人間存在 = Z
とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。
これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。
したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。
逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。
§3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。
しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。
信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。
もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。
以上の定義だけの理論は 次が その心である。
吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。
~~~~~~~~~~~~
No.12
- 回答日時:
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。
ひどっち でございます。> そう言えば あいさつをしないでお礼欄に返答をしたためている場合もあります。
いえいえ、お気遣いな全く無用でございます。
> 《たましいの復旧と復興を!》と言っても 《暑苦しい。やめとけ》と返されるのが関の山でしょうか。
残念ながら、現実はそのようでございます。
> ☆ ふたつをまとめるならば
( d ) この世界のものごとは 神の足跡であるかも知れず 神の姿をおぼろに映し出す鏡であるかも知れない。
☆ といった命題が導けると思われます。
仰れますような結論になりうると考えらます。
> つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。――にもかかわらず むしろ聖職者たちのほうが先導しかつ扇動して 《魔女》を決めつけこれを狩り根絶やすというマチガイを犯すまでに到った。よほど《偉かった》のでしょうか。
神のご意志を知りたい、たとえそこまで辿り着かずとも、「初めからすべてを神の みこころにゆだねていた」と考えております。
なお、魔女狩りの件ではございますが、 一般に考えられているものとは違い、実際、裁きを受けたのは、ほとんどが異端審問所ではなく民衆法廷であったとされています。
また、一昔前までは、数百万人の犠牲者とされていましたが、実際はそこまではいかないようでございます。
・「魔女」の告発は、一般市民の間では魔女や悪魔への恐怖があり、一般市民によりなされた。
・ほとんどの魔女とされた者は民衆法廷で裁かれており、民衆法廷には厳密なルールが存在しないため、行き過ぎた拷問や刑罰がなされてしまった(一般に考えられているものとは異なり、教会裁判まで持ち込まれた場合のほとんどが無罪放免とされていたようです)。
・宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を元来嫌っていた。
・強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化しなかった(市民の過剰な反応を抑えることができた)。
以上の史実を鑑みますと、単に権力者の一方的な意向だけで魔女裁判がされた訳ではなさそうなのです。ですが、全く責任がなかったとも言いにくいのですが。
疫病(ペスト等です)や社会・自然の大変動(戦争や飢饉等です)により、精神的な不安に苛まれ、そこに権力者の意向が重なって起こったものと思われます。
(参考 Wikipedia 魔女裁判)
> ☆ すなわち 無神論であれば 宗教組織の犯したアヤマチあるいは要するに人間がこの世界で侵すアヤマチを含めもろもろのおこないとしての物事を超えたところにその《無神》を想定しているのであるから そうであるのだから そこのところに持たれているその見方において自重しなければならないはずです。
はい、意見を等しく致します。
> ( a )の命題を変形して 次のように言わねばならないように考えます。
( a-1 ) ~~~
“信じる”という行為が、
かくして“〔人間が〕考える”という行為の暴走としてのように犯すあやまちを 静かに強くしっかりと思いとどまらせる力を持つというのに
だからこの“〔人間が〕考える”という行為よりも格段に気高くとうとい人間の自由であり 人間の存在を証しする力を湛えているほどだというのに
そうであるにもかかわらず 現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあって 理性万能主義が蔓延っているのかもしれません。 ~~~~~~~~~~
残念ではありますが、事実かと思われます。
> ☆ という事態がそこここに見られる世間一般の情況であるとしたならば けっきょく人びとはそれぞれ《信じる》という行為を じつは欲している。のではないか。 ならば 神を見きわめよ。神を見きわめよう。 となるはずなのですが。
はい、おそらく完全な”虚無主義”には、人はついていけないと思われます。この結果、おそらく、”科学崇拝”と揶揄される現象が生じてしまったものと考えております。
> ガリレイやニュートンらは それぞれおのれの信仰が 《考える》理性の暴走をゆるさず じゅうぶんふつうにその理性を使いこなそうとした。と言えましょうか?
断定はしにくいのですが、神のご意志までは無理としましても、その結果を知ることにより、神を知りたかったものと考えております。そして、その結果、西欧において、自然科学が発展していきたものと考えております(通説ではございますが・・・)。
なにかしらの、ご参考になれば、幸いでございます。
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。
魔女狩りは 教会ないし聖職者が先導かつ扇動したという見方は 間違いでしたか。
たしかに異端審問といった裁きを問題にしたかったのですが 魔女呼ばわりも 大きくはその裁きに入ると思っていました。
異端審問も ご指摘のようにむしろ民衆のあいだにおける不安つまりは治安秩序の問題から発しているかに伝えていますね。
▼(ヰキぺ:異端審問) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF% …
12世紀に「中世の異端審問」と呼ばれる最初の異端審問が始まったのは、南フランスにおいてカタリ派がその影響力を拡大したことが直接の契機であった。
先に述べたようにしばしば異端問題は政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして個別に地域内のカタリ派の捕縛や裁判を行っていたが、そういった従来の方法をまとめた形でだされた1184年の教皇勅書『アド・アボレンダム(甚だしきもののために)』(ルキウス3世)によって教会による公式な異端審問の方法が示された。
そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われていた。司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものだった。
教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、このシステムはそれほど厳密に適用されていなかったが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変した。
~~~~~~~~~
☆ 先ほどのあやまちは お詫びして撤回しますが 考えてみれば 魔女に対する民衆裁判にしても それが 異教徒の問題であれ異端のそれであれ けっきょく――司法権や処罰権が教会にはなかったとしても―― その公式の見解を発表して《裁き》を回避させることは出来たかに推し測られます。
つまり 民衆のあいだの動きをそうだとしたら 放っておいたことになり それは 《未必の故意》のような振る舞いになるかに思われるからです。
▼(同上) ~~~~
1542年、時の法王パウルス3世によってローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が、特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられた。
~~~~~~~~
☆ 要するに 異なる見解については 互いの自由な批判をどこまでも推し進めて行くといった制度(または 慣わし)であれば まだよいかと思います。
次の文章については 《魔女》は 削除しまして 《悪魔》〔およびそれを悪魔として裁くこと〕の問題として考えようとしていると読んでいただければさいわいです。
☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。
☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。
つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。
~~~~~~~~~~~
☆ すなわち 自分にとって《悪魔》と思えるような相手が現われたとした場合 それは 単純に言って神からの叱責であるかあるいは注意を促しつつ何らかの助言を与えようとする神の手紙であるか と捉える見方も成り立つかに考えられるからです。
《悪魔狩り》には発展しない。むつかしい問題があるかとも思いますが 基本は互いに自由なやはり批判を含めた対話に活路を求めるということだと言おうとしていました。
ガリレイやニュートンらに 現代からその現代の信仰論を当てはめようとするのは ほどほどにですね。
こんなところになりました。どうでしょう。
No.11
- 回答日時:
丁寧な返事を下さり、有り難く思いますので、
感謝の気持ちを添えまして、続きの投稿をさせて頂きます。
そこで唐突ながら畏れ入りますが、次の点の疑問を申し上げます。
そもそも、『信じる』という語は他動詞に留まっていますので、対象不在の状態では成り立ち得ませんでして、たとえ対象が具体的に絞り込まれていませんでしても、若し無心で行なわれていないのでしたら、ブロードキャスト的(http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%96%E3% …)に、通俗的な信仰は行なわれていかざるを得ないのではないでしょうか?
★ そもそも、『信じる』という語は他動詞に留まっていますので、対象不在の状態では成り立ち得ませんでして、
☆ 《信仰とは何か》論ですね。
ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
まづ 次の問い求めをして来ております。そこでのたたき台を再掲します。
【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6729443.html
○ (上記質問での趣旨説明) ~~~~~
1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為である。
2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。
6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。
7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。
8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。
9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。
10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。
11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。
12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰〔によるの〕であろうと考えられる。
13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。
15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れることが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離した〔あと もはや問わない〕ところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。
16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
~~~~~~~~~~~
★ 『信じる』という語は他動詞に留まっています
☆ 相手は 《非経験の領域》です。ゆえにこの行為主体つまりわれわれ人間にとっては 《非思考》――思考によっては捉えられないナゾ――です。しかもその信じるという行為は 人間がおこなう経験行為です。
★ 対象不在の状態では成り立ち得ませんでして
☆ まづ《対象》は 《非経験のナゾ》ですが したがって《不在》というよりは――存在か不在かが決められないゆえ―― 《非対象》だと捉えます。(あるいは 《不在なるものの現在・遍在》と言ったりします)。
《非対象》を信じるというのは そのナゾを受け容れることです。(ちなみに 無神論の場合には 《無い神》として受け容れます)。
《不在のものを受け容れる》とは どういうことか? ――《心の伸び》です。あるいは《心の明け》です。《志向性》です。特に何かのかたちある行為ではないと言わねばならないかも知れません。
信じたときには 心の燈心に火が灯されたと言葉のあやとして表現しますが ともかく《閉ざされていた――暗い闇であった――心が 何となくでもひらかれた》そのことを言うと思います。
《わが心に 非思考の庭が成った》 こういうふうに表わします。これが 《信仰の成立》であり そのまま――理論上――《すくい》です。(その内実の充実は 時間過程に属します。けれども 魚が網に掬われるように わが身も心も掬い上げられています)。
★ 若し無心で行なわれていないのでしたら
☆ 人間の側でおこなうことは 《〔その雲をつかむような〕ナゾを――その無根拠のままに――受け容れること》のみです。そのとき《邪心があっても》かまいません。《欲望に満ち満ちていても》大丈夫です。むしろ その非思考の庭が成ることにおいて 《無心》にせしめられるようになります。心がやわらがしめられます。〔ちなみに イスラームとは 語義としてそういう意味です。《アンニョン・ハシムニカ》のアンニョン(安寧)のことです〕。
以上の定義と理論がもし現実に成っていないとみたときには おっしゃるような・言ってみれば――悪意がないとすれば――《信仰の普及版》が世に出回るということになりましょうね。
ただし 信仰者が集まってその組織に 信仰の深浅の度合いにもとづきその地位や身分を決めるというかたちのヒエラルキア(権限をともなう階層秩序)を敷くとしたら それは 個人の信仰・その自由をすでに初めに踏みにじるものです。個人の信仰を他人が瀬踏みし値踏みしその上けっきょくその人を 良くにしろ悪しくにしろ 裁くことまでおこなっています。
この裁きということは あってはなりません。問題は 信仰の中身を他人どうしが値踏みしそれを基準にして人びとの権限関係を決めてしまうことにあると考えます。
★ ブロードキャスト的に〔* しろ マルチキャスト的にしろ ユニキャストとしてにしろ〕 通俗的な信仰は行なわれていかざるを得ないのではないでしょうか?
☆ たぶん おっしゃるように・つまり現状分析としてそのようにきびしいものがあると皆が同意の声を上げざるを得ないように 宗教団体が 大通りを胸を張って歩いています。
ただし どうでしょう それは 一人ひとりの人間がいわば《哲学を放棄した》ところで デカイ顔をして大手を振ってのさばるようになるのだ。と見るべきなのでしょうね。
わたしたちは ただ《くにゆづり》をしているに過ぎません。その団体の指導者に対しても一般会員に対しても 話し合いを永続的に持とうとします。
この哲学カテでのやり取りは 必ずや実を成らせることでしょう。十年 二十年・・・。
こんな感じになりました。
No.10
- 回答日時:
たとえ自己が救いを受けられたと当事者達に感じていましょうとも、若し其の救済内容が『他者達の境涯(経済状態・健康状態・人間関係等)への相対的な【優越感】』に起因しているのでしたら、『純粋な無心状態への成長』を彼等が辿れないのでしょうから、本来的には救済の具体化を求めるべきなのではないのでしょう。
でも、『神は自らを助く者だけを助く』筈なのにも関わらず、残念ながら『他力本願』の妄想的な拡大解釈が助長され過ぎたせいで、多くの方々が救済の結果にも【物質的な根拠の確保】を期待したがりやすくなりましたね。
従いまして、『信仰の自由』と『表現の自由』との両立の制御が、
法的には必要なのかもしれませんね。
この回答への補足
お礼欄での表現のあいまいなところ(1)と そして入力の結果を勘違いしてしまったところ(2)を おぎないます。
(1) 最後の段落では 《信仰の自由》と《表現の自由》 これらふたつを扱って ふたつは互いにじつは次元がちがうのだと言おうとしています。
したがって 法律や倫理規範によって 表現の自由を制御しようとすることは よほどのことが起きた場合ではないかと言っています。
よほどの場合というのは 信仰の自由によっても扱い得ないほどの《表現の自由》が行使された場合です。つまり 物理的に存在を傷つけようとしたり抹殺しようとしたりする表現行為の場合です。
(2) 中ほどの《つまり・すなわち・取りも直さず じつは》の段落において
さらにその中ほどで 次のような入力ミスがありました。
x (ミスでした) ~~~
それも 主観の内にとどめられる事件0
見方です。
~~~~~~
○ (つぎのように直します) ~~~
それも 主観の内にとどめられる事件だという範囲を出ないという見方です。
~~~~~~
おわびします。
つづいてです。
前回(No.9)のお応えをも参照して欲しいのですが 片や定義と理論で処理する分野があり 片やそのあと実際問題に対処する同じく哲学の分野がある。こういう二段構えになります。
★ 若し其の救済内容が『他者達の境涯(経済状態・健康状態・人間関係等)への相対的な【優越感】』に起因しているのでしたら
☆ という事態について 片や実際問題として捉えたときの問題分析をしてもらっています。片や じつは理論としての問題もあります。なぜなら《すくい》は その内容がたしかに《自己の経済力や健康あるいは人間関係》といったかたちある相対的なモノゴトにかかわると言ってよいでしょうが それ自体だとは言えない。経済力がついていないからと言って すくわれていないとは言えないからです。
信仰――わが心に 非思考の庭が成る――は 《わたしは 神(ないし無い神)を信じる》と公言したときに成ります。その成ると同時に 理論的には《すくい》も出来上がりました。《考える》を超えて《信じる》による境地が出来上がったからです。
無心でなかったり純粋でなかったりしても かまいません。善と悪とをひとまとめにしてそれらの彼岸が 非思考の境地に成り立ったからです。
この境地の練り上げ 磨き上げが そのあとの人生です。つまり そういう信仰生活です。
人間の能力や努力によって この境地が得られるとは考えないかたちです。これが 無心です。この境地の心に なおも不純な動機や欲望が含まれていてもかまいません。《わたし》なる人間の計らいによって この境地の実現が成るとは思っていないからです。
つまり・すなわち・取りも直さず じつは
★ 『神は自らを助く者だけを助く』
☆ と考えるかどうかは この信仰とその境地にとって どうでもよいことなのです。そう見てそう言ってもよいでしょうし あるいは人事を尽くして天命を俟つ と考えそう言ってもよいでしょう。とともに そう考え努力することと 《非思考の信仰ないしその境地》とは 同じ次元では捉えられていないと思われます。
《自ら助く者を助く》のは 実際には 友や仲間であったり 知らない人であったり あるいは時には敵なる者であったり あるいは自然の成り行きや偶然のめぐりあわせであったり さまざまです。そしてそのいづれの場合であっても それは《神が介在して助けてくれた》と見なすのは じつに 主観の問題です。その本人だけの問題になります。
言いかえると これらの場合のすべてについて その助けられるいづれの場合についても 《他力本願》という見方によっていたからだと見なすことも できます。それも 主観の内にとどめられる事件0
見方です。
主観にあって《自力・他力》いづれの見方を取っても その境地はともに同じく信仰によって・つまりは神(ないし無い神)によって与えられためぐみであると見ることができます。境地が与えられためぐみであり そのめぐみのもとにある《わたし》が 実際上のすくいや助けを受けることが出来た。こういう《信仰〔および思考〕の史観》だと考えます。
実際問題を問題にするなら
★ 救済の〔* というよりは 助け合いとしての〕結果にも【物質的な根拠の確保】を期待したがりやすくなりましたね。
☆ という場合は 時には あると思われます。モノが要り用なときはあると思います。境地に立って境地の磨き上げのために――それも おそらく実際には おのれ一人のではなく 互いの境地のために――モノを必要とする場合はあると思われます。精神と物質 身と心 どちらも 信仰の境地からまとめてひとつとして取り扱われます。
申し訳ないけれど 次には異を唱えます。
★ ~~~~
従いまして、『信仰の自由』と『表現の自由』との両立の制御が、
法的には必要なのかもしれませんね。
~~~~~~
☆ 信仰の自由ないしその境地に立てば・つまり立って 表現の自由を享受して行くことになると思いますので――それが その理論どおりに行っているかどうかは これまた別の問題ですが―― それらを同じ次元において見る必要はなく 法的にその制御を考えることも よほどの事態に直面してのことではないか。こう考えるのですが どうでしょうか?
No.9
- 回答日時:
#3での回答の続きです。
救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。
従いまして、そのせいで、相対的な信仰対象の比較による派閥争いさえもが、
世界史上で繰り返されてきたのではないでしょうか?
ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
次のご投稿内容(No.10)をも合わせて むつかしいことをお考えである。
神の定義をしこれを大前提とした上で そのあとの具体的に社会において発生する問題を問うておられる。実際問題は これこれであり あれそれであると。
ただですね ただそういった実際問題というのは どうも
☆☆(趣旨説明) C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
☆ から派生する問題であり ひとことでまとめれば《組織宗教》の問題である。こう考えられます。
★ ・・・相対的な信仰対象の比較による派閥争いさえもが / 世界史上で繰り返されてきたのではないでしょうか?
☆ 実際問題として おっしゃるとおりですよね。
ただ 哲学としては その現実性を受けとめつつも なおも定義と理論において処理――交通整理――をすることを基本とすると思われるのです。
たとえば
★ 派閥争い
☆ この対立としての状態や過程が 理論的に避け得ないことかどうかを判断してから対処すると思うのです。どういう集団における何の対立関係であるのか?
★ 相対的な信仰対象の比較による
☆ ですね。こう考えるならば じつは・ところが
(1) 信仰の対象は けっきょく非対象でしかない。表象し得ないのだから。
(2) つまり《信仰に対象がある。しかも 相対的な・経験事象としての対象を持つ》と言うのは したがって 自己矛盾だとなります。神が 観念の・偶像としての神に成り下がります。
(3) なぜ 何が そんな自己矛盾を来たしているのか?――個人の信仰が 個人を超えた集団ないしその集団の指導者によって規定され信仰の内容や保ち方についても規定され左右されるとすれば その集団組織は 信教・良心の自由を侵しているとの疑いがかけられます。
(4) つまりは 初めの《派閥争い》は 組織宗教の組織宗教たるゆえんにこそ 起こることであり 信仰という立ち場から言えば その自由を踏みにじる社会行為であるとなると考えます。
☆ このような(1)から(4)までの事態を起こす原因は 次に求められています。
★ 救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。
(5) 《信者たち》という規定からしてすでに《個人信仰》がそれを扱う場として《信仰する者たちの集まり》という場に移っています。
(6) あらためて 神がひとりの人間に信仰として持たれるそのきっかけをふり返るなら それは この経験世界を超えて《人間の能力によって分かるか分からないかが分からないナゾの領域》を想定するところからです。
(7) ただし実際には わざわざ想定をする必要もなくわたしたちはすでに社会に暮らしていて そこではコトバとして《神》や《信じる》という語を使うという習慣の中にいます。すでにそこから出発しています。
(8) つまり このような人間的自然および社会的慣習としての《ことば》なる与件を持っているので そのとき《わたしは神を信じる》とか《わたしは無い神を信じる(つまり 無神論者である)》というどちらかひとつを選択すれば済むことになっています。
(9) どうしても決断が出来ない場合には その猶予も与えられているわけですが このような事情にあるとき じつはコトはきわめて単純であって この《神(ないし無い神)を信じる》と言ったそのことで 《救済》は済んでいます。
(10) コトが済んでいると言っても たしかに問題が残らないという意味ではなく しかもその《救済》の不確かさは すべて一人の人の主観(それは 人生として動態)の範囲内におさまり 主観にすべてがゆだねられます。
(11) そのあとなのです。そのあと
★ 救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。
☆ という事態が生じると考えられます。《救済の具体的な根拠の明示を 無自覚の裡に求める》というなら それは主には組織宗教のからむ問題です。個人としてその種の本や講演を求めたとすれば 必ずしも組織の問題ではないわけですが
★ 救済を求めている信者達の多くは、
☆ ということであれば 集団がからみます。
(12) ひどっちさん(回答No.5)の見るところによれば 考えるに対して 信じるを愚かなことと現代人は見なしていると言います。とすれば そうであるのに 《個人として〈信じる〉という決断ができず しかも その決断を組織の中に入っておのれの外(他者)から〈救済〉の渇望のもとに迫られることによって下すかたちを取る》というようなことになっているようです。つまり
★ 救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。
(13) じつは基本的には 《根拠》はないわけです。分かるか分からないかが分からないナゾについて根拠は 明らかではありません。ゆえに《わたしは 神を(ないし 無い神を)信じる》とひとこと公言すれば そこで信仰は成立し 理論上《すくい》も成ったとなります。
(14) この定義および理論を言わば踏みにじって そこから別の世界に抜け出てしまってのように 別の《すくい》を求める。根拠は分かり得ないのにそれが明示された信仰が欲しいなどという事態が繰り広げられている。《愛》なら《愛》 教祖なら教祖といった観念や姿を或る種の根拠として 信仰とそれによる救いが得られたと思うのかも知れません。――勘違いです。
こう見ます。
このような事態について 分析のメスを入れておられる。
こう受け取ります。どうでしょう?
No.8
- 回答日時:
#7
いいえ、私はbragelonneさんの哲学を哲学ではないとは申し上げていません。
私の志向する界と方法と目的が違うということに過ぎません。
ですからbragelonneさんがお前のは哲学ではない、というようなことに繋がるお話はなさらないで欲しいと存じます。無論、bragelonneさんがそういうことを仰せになっているという事ではりません。
ただ、ブロックを解除してくれ、多少とも私も関心を持っている言葉や文章内容がありましたので、かみ合った議論はできませんが、私のやっていることをご参考までに投稿させていただきました。
今後bragelonneさんのコメントなどに添うことの出来るものを何とか投稿したいと存じているのです。
また、いろんなご回答から私も勉強させていただきたく、ご挨拶のつもりでした。
この回答への補足
よく分かりませんが――という意味は こういった質疑応答においてふつうに前提されていることを確認されているだけのように思われるのでですが―― もし回答No.7のような文章がふたたびありましたら それに対するお礼欄と同じ応答を繰り返します。
補足日時:2011/08/20 14:50No.7
- 回答日時:
#4お分かりになっていると存じますが。
#4で“私は哲学としては回答できません。”において哲学というタームで、標示している内容は、bragelonneさんの方法と目的での哲学です。このことは書かないでおきたかったが、やはり戴いたコメントに対しての応答は必要と存じまして、敢えて書くことに致しました。あしからずお許し下さい。
つづいてです。
★ bragelonneさんの方法と目的での哲学
☆ これはつまり 誰か特定の人間の哲学が問われるということは ほんとうには ないでしょう。
○ 誰だれの方法と目的での哲学
☆ これはむしろ 一人ひとり誰もが持っています。
そして誰もが発展途上にありますが その中で割り合いはっきりしている場合とそうでない場合とがある。こういうことだと思われます。
いづれにしましても《特定の誰だれさんの方法と目的での哲学》を仮りにもし異端であるとか例外だとか特殊なものとしてあつかうのであれば そのこと自体で哲学が自殺しようとしていることになりましょう。
もしその理由をきちんと述べたとしても やっと自殺を押しとどめているだけの状態でありましょう。
表現の自由を侵すうたがいがかけられますから。そして 言わば――ほんとうはそんなことはあり得ないのですが――哲学外の社会力学上の力が加えられるというような事態です。
これは 哲学の放棄です。哲学を放棄した上で 外からこれこそが哲学だと口を挟むようなものです。
おそらくこれもそれも 《神にかんする勘違い》から発している大きな問題だと考えられます。どうでしょう。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
こんばんは、ひどっち でございます。
かってながら、(臨時的にではございますが)こちら側に移ってまいりました。
> A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?
当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。
> B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?
[自然科学とキリスト教]
・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。
・宇宙や自然を研究すれば、その根底にある原理・秩序を見出すことは、そのまま神の創造の御業の素晴らしさを見出すことができる。
・さらにそれを人々に知らせれば神の栄光に帰することになる。
近代科学を作り出した人々のなかには、多かれ少なかれ上述のような動機が働いたとされています(定説)。
例えば、ガリレオ(敬虔なキリスト教徒)は宇宙と聖書を同一視し、宇宙を“聖書”とのアナロジーで、いわば第二の聖書のように考えていました。
また、ニュートン(プロテスタント)は、“ダニエル書”や“ヨハネの黙示録”を解釈した独自の終末論を展開していました。ただ、目的論には重きを置いていなかったとされています。つまり、万有引力の法則も、なぜ引力が発生するか、もしくは何のために引力が存在するのかということではなく、どのような法則によって引力が機能するのかということに興味を持ったとされています。その背景には、「神の行い・御業について、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としていた」とも言われています。
ではそれ以前はと申しますと、スコラ哲学が主流を占めていました。極論を申しますと、アリストテレスがこうだ、と言えば、それが絶対であるとされていたわけです。
長々と綴ってきましたが、”教義”=”聖書の記述内容”、と致しますと、自然科学の流れを引き継いでいるように推察されます。
> B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?
宗教=教義(集団)と解しますと、おかしいと考えられます。残念ながら、愚生にはわかりません。
> B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?
理性万能主義の所産かと存じます。
もはや、率直に“信じる”ということができなくなったのかもしれません。
> C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
教団にとりましては、それが都合がよいから、また一方では、人は自由なるものを恐れているからと思われます。
> D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?
D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
おそらく、これは無心論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・
> E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?
“信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・
何かご参考になるところがございましたら、幸いでございます。
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。(そう言えば あいさつをしないでお礼欄に返答をしたためている場合もあります。機械的にていねいであるよりは ましだと考えてのことと答えても お叱りを受けねばならないかも知れません)。
★( a ) “信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。
☆ たしかに《神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢い》と言ったところで 人びとは何のハタラキをも受けないほどになっているのかも知れません。
《たましいの復旧と復興を!》と言っても 《暑苦しい。やめとけ》と返されるのが関の山でしょうか。
( b )★ ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・
( c )★ ・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。
☆ ふたつをまとめるならば
( d ) この世界のものごとは 神の足跡であるかも知れず 神の姿をおぼろに映し出す鏡であるかも知れない。
☆ といった命題が導けると思われます。
したがって
( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。
☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。
つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。――にもかかわらず むしろ聖職者たちのほうが先導しかつ扇動して 《魔女》を決めつけこれを狩り根絶やすというマチガイを犯すまでに到った。よほど《偉かった》のでしょうか。
( d-2 ) 《偉くなかった》と言いたい人びとは この魔女狩りのあやまちを まるで神の罪だと言わんばかりに取り出し取り上げる。
☆☆(趣旨説明) D-1 それを批判するために 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに 神を論じる。
☆ に到ります。
★ ~~~~
おそらく、これは無神論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・
~~~~~~
☆ すなわち 無神論であれば 宗教組織の犯したアヤマチあるいは要するに人間がこの世界で侵すアヤマチを含めもろもろのおこないとしての物事を超えたところにその《無神》を想定しているのであるから そうであるのだから そこのところに持たれているその見方において自重しなければならないはずです。
もし《神=宗教組織》と見てしまったなら 自分の《無神=すなわち 人間の思考と想像の産物》とすでに見てしまっていることになります。ヰトゲンシュタインの( b )の命題を忘れてしまっています。
( a )の命題を変形して 次のように言わねばならないように考えます。
( a-1 ) ~~~
“信じる”という行為が、
かくして“〔人間が〕考える”という行為の暴走としてのように犯すあやまちを 静かに強くしっかりと思いとどまらせる力を持つというのに
だからこの“〔人間が〕考える”という行為よりも格段に気高くとうとい人間の自由であり 人間の存在を証しする力を湛えているほどだというのに
そうであるにもかかわらず
現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあって
理性万能主義が蔓延っているのかもしれません。
~~~~~~~~~~
もし
★ ~~~~
> A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?
当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。
~~~~~~~
☆ という事態がそこここに見られる世間一般の情況であるとしたならば けっきょく人びとはそれぞれ《信じる》という行為を じつは欲している。のではないか。
ならば 神を見きわめよ。神を見きわめよう。
となるはずなのですが。
ガリレイやニュートンらは それぞれおのれの信仰が 《考える》理性の暴走をゆるさず じゅうぶんふつうにその理性を使いこなそうとした。と言えましょうか?
《信じる》は《考える》に先行する。――さらにみなさんからも この主題を問い求めて行って ご見解をおおしえください。この《神についての勘違いを見きわめること》が どうも哲学のさまざまな あるいは すべての主題についての解明に先立って重要であると考えられて来ます。だとすれば それだけに衆知をあつめる必要があります。お待ちします。
No.4
- 回答日時:
愛とは愛させること
という貴方のご質問に回答しようとしましたが、その当時は未だブロックされていました。
今回、私には問題性のないことにですがブロックを解除されています。有り難う御座います。
やはり貴方の哲学としてのご質問に、私は哲学としては回答できません。
A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?
krya1998⇒だから行と信仰の中で、神の意識という自分を経験する精進をしております。
A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?
krya1998⇒私たちの会では、神のメッセンジャーであるということで神ではない。
それも外部の声や存在としてではなく、真の自己の声としてです。
B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?
krya1998⇒その限りで終始はできないですね。
B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?
krya1998⇒教義は私どもにはないんです。
B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?
krya1998⇒《宗教を信じる》って何かの問題もありますね。
B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?
krya1998⇒観念の中には画けないですね。
C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
krya1998⇒これも無理ですね。
C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
krya1998⇒その教団と信徒さんが満足なら結構でしょう。目指す一つの星をさしているんでしょうか。
D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?
krya1998⇒正に人の過ちですね。
D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。
krya1998⇒まことに仰せのとおりですね。
E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?
krya1998⇒仰せのとおりですね。
★ やはり貴方の哲学としてのご質問に、私は哲学としては回答できません。
☆ これは 大きな問題です。
★ だから行と信仰の中で、神の意識という自分を経験する精進をしております。
☆ この《神の意識という自分》という表現がどういうことを意味するのか 哲学として説明しないからには 対話はかなわないと思われます。
ご主観の内でいくらとうとき内容の修行をしているとしてもです。
★ ~~~~
C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
krya1998⇒その教団と信徒さんが満足なら結構でしょう。目指す一つの星をさしているんでしょうか。
~~~~~~~
☆ 《神はこれこれだと 一人のひとがその主観の内で 決める》ことは その内容の是非や当否を別として 自由です。(良心・信教の自由)。
《神はこれこれだと 一人の人間が 他の人間に伝える》ことも 自由です。(表現の自由)。
現在において《宗教の組織をつくる》ことも 自由です。(結社の自由)。
ただし《教団》の内で――その組織に従わねばならないという規則のもとに――《神はこれこれだと決める》のは 無条件に自由だとは言えないはずです。初めの《信教・良心の自由》を侵すおそれがあります。
教団やそこにおける地位の高い者が 勝手に独りごとを言うというかたちで《神はこれこれだ》とつぶやく程度まででしょう ゆるされるのは。けれども そのような《独りごとによるつぶやき》が いわゆるクウキとなって けっきょくそれに従いそれを守ることが掟となって行ってしまう。このおそれが ありましょう。
こんな問題点を問い求めたいという質問です。
No.3
- 回答日時:
救済を経験したがる不純な動機によって、
信仰心が成り立ちやすいからなのではないでしょうか?
ばっふぁろう&ぢぇいてぃーぴーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
そうですね。
神にしても信仰にしても一般に軽く見ている。自分の救いについては重く見ていても そのときその場で《すくわれた》と感じたなら あとは軽く見ている。
こんな感じでしょうか?
そうですね。
★ 信仰心が成り立ちやすい
☆ 成り立ったと思うのなら それでよいとさえわたしは思うこともあったりします。
条件として:
1. 何のマ(間合い)の違いも何の憂えも疑いもなく――ただし神への信仰として これでよいのかというきよらかなおそれは保ちつつ――神をいだいている。
2. ほかの名前の神あるいは無神論という信仰の無神に対して排除せず すべて受け容れる――ただし 勘違いがあると捉えたなら互いにつねに自由に指摘する〔ことまでは 指摘しておく〕――。
3. 一時的な成り立ちではなく あとで思いや信仰を変えるのなら それは神の名前が変わっただけだというような信仰の形態にまで深まっている。
4. 組織宗教は 基本的におかしいと考えるが 仮りに一時的にでも組織にいるとしたら とにもかくにも 教団の思いや命令によって信仰が左右されるものではないということ。
もしこういう条件を満たすなら 案外 人びとの《すくい》を求める心は 純粋だと思うところがあります。あるいは その条件を満たそうとしているなら と言いかえてもよいと思います。
どうでしょう?
* 言いかえると 上に挙げた条件は 一たん信仰心が成ったと思ったあとに 吟味してみるというかたちでよいかと考えます。初めから門を狭めないといったところでしょうか。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
おすすめ情報