海外旅行から帰ってきたら、まず何を食べる?

 A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?

 A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?

 B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?

 B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?

 B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?

 B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?

 C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
 
 C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?

 D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?

 D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
  特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。

 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?


    *

 
 ○ (神を哲学する) ~~~~~

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 ~~~~~~~~~~~~

A 回答 (62件中31~40件)

御無沙汰で失礼を致しておりましたが、


久し振りに経験世界からの眺望を試みさせて下さい。

絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 こちらの命題は ちょっと早合点をなさったのかなとも思います。

 1. この世界は 人間にわかることとしては 四次元の時空間であり 経験世界である。

 2. ところが人間は 《かみ》だとかそれを《信じる》といった言葉を持ち それとしての意味内容をもった意思の疎通をおこなっている。
 
 3. これをしりぞける向きにしても それは無神論と言って じつは《無神》というかみを立てている。なぜなら 《かみ》の存在も非存在も人間の能力で証明しえないから。(経験世界におけるそれの存在は 否定されることが証明されたようですが)。

 4. つまりは 《かみ そして神ないし無い神を信じる》という言語習慣とそれに見合う現実は 人類にとって まさに現実である。(事実と主観真実とを包み込んだ大きな現実として そのまま現実である)。

 5. 主観真実が 事実と並んで現実だと言わねばならないことには 無神論者にしても けっきょく《かみ》の領域を 表現の上で否定しているだけであって その領域すなわち《非経験の領域》については 肯定するにも否定するにも証明し得ないからである。

 6. すなわち表象しえない領域については それを表わすしるしとしての言葉が持たれ用いられるにしたがって 認めざるを得ず それとして共通の定義や了解を得ておくことがのぞましい。

 7. 非経験の領域は 人間にとってナゾであるが ただし何らかの仮りの表現を与えたり 仮りの説明を加えたりすることがおこなわれる。

 8. 《かみ》と表わしても それにあまり意味がともなうとも思えないが これを《非経験》と言えば それとして・つまり経験世界を超えているという意味として 捉えられる。経験に対して非経験。相対に対して《絶対》。有限に対して《無限》。などなど。

 9. 《絶対》についてさらに分かりやすく《絶対者》というように擬人化した表現をも持つ。

 10. ★ 絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?
 ☆ と問うことは どうなんでしょう けっきょくその問う人がそれぞれの主観において どう考えるか。あるいは どう感じるかといった性質の問いなのでしょうか?

 11. 絶対者なる神は ひとり満ち足りている存在である。というふうにも仮りの説明が為されますが そのとき《神は 非経験世界を――その世界じたいが 自分自身のことであるわけですが――経験しているか?》

 12. どうでしょう? 思う存分 非経験世界との一体化――あるいは もともと一体であること――を味わっているかも知れません。どうなんでしょう?

お礼日時:2011/09/03 11:51

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ☆ 確認しえてよかったと思います。(これも むしろ 論理的な推測のようなものですが)。

 こちらこそ、光栄に存じます。

> ○《この経験世界に経験的な自然現象や社会的な行為関係などとしての事象と同じかたちにおいては存在しない》ということは 《同じ経験世界において 経験的なモノコトとは別のかたちで存在しうる。かも知れない》というまぼろしの可能性を排除していない。
 ☆ こう思われませんか? 

 まぼろし等の偶発的なものにつきましては、排除しておりません。数学等に見られる“公理“の世界での論理でございますから。

> 言い直しますと:
 ○ 神は霊である。この霊は 経験世界に経験的な事物と同じかたちでは存在していない。と同時に 経験事物と別のかたちで――しかもそれが プラスの霊としてかまたはマイナスの霊として―― 存在する。かも知れない。

 可能性はあろうかと考えられます。ただ、再現性が確保されないため、疑問を抱くだけかと思われます。おそらく、経験世界とは別の何かしらの原理のようなものがあるのかもしれません。

> 十字架上のキリスト・イエスのことしか知ろうとは思わなくなった。というのはそこらへんのナゾのことを言っているように思うのですが 果たしていかがでしょう?
 そうしたとき この経験世界に足をつけて 事実と主観真実とをまとめた大いなる現実を生きるであろうし これをあらためて行くであろうと思われます。

 前段関しましては、愚生にはわかりません。後段の方におきましては、やはり、この経験政界に立脚しながら、主観的事実をも重んじながら現実の生を営むのが理想かと存じます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 そうですね。今回は まぼろしのことばかりになってしまいました。
 一歩すすめようとした結果ではあると思います。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ということは もうそれ以上は進めることも出来ないかと思われます。
 そのまぼろしのことに対して心を開いているというところまでかと思われます。


 ばっふぁろうさんの提示された主題について なにかありましたら おしえてください。勝手に引用させてもらっていますが。



 ゆきくんが声をかけてくれました。
 元気になったようですね。
 それ以上もう何も言う資格もないのです。
 見守ってまいりたいと思います。

お礼日時:2011/09/02 22:19

(私の側の業務の都合で参加させて頂けなかったと申しましても、)前の回答の時から日にちを空けてすいませんでした。



『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況の下では、寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。じつは 今回お出しの主題は 前半の《状況》については ひどっちさんが解説をしてくれていて(回答No.28および29)むしろその根拠は提出されているのではないでしょうか? 
 後半の問いは まづわたしにはむつかしい問題であるようです。というのも その問いはむしろ経験思考ないしその論理で考察されているのではないでしょうか?


 まづ前半のほうです。
 ★ 『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況
 ☆ 神が 経験世界における存在としては 存在しないのだということ。つまりその不在が証明されているのではないでしょうか? ゲーデルの定理を使ったP.グリムの証明だそうです。

 ◆(回答No.28) ~~~
 P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのがございます。
 これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。

 ◆ (回答No.29) ~~~
 第1不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
 第2不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 無矛盾性、つまりその公理系で何か問題を考えたときに、矛盾する結果を来さないことでございます。
 従いまして、この第1定理からは、「無矛盾で出来ているならば、その公理系では、真であるとも偽であるとも証明できない命題がどうしても出て来てしまう」ということを意味します。

 例えば、つい最近までは、「フェルマーの最終定理(中学生でも理解できる命題にもかかわらず、約350年間、莫大な懸賞金がかけられましたが、証明がなされませんでした。ですが、20世紀後半に証明されることになりました)」が、この証明不可能な命題である、との憶測もございました。
 ざっくり申しますと、全ての真理(経験的に真と分かっていたとしましても)は証明不可能(決定不可能)、ということでございます。なお、第2定理の方は省略させてもらっております。

 従いまして、確かに全ての自然数論(以降、簡略のため、”数学”とさせていただきます)を公理化することは不可能であることはいえますし、また全ての数学を論理学的に還元することも不可能であるともいえます。ですが、この定理のみからは、「”全ての”根拠が不完全」とは断じにくいと考えられます。

 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。
 一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 そうなりますと、神が〔* ――この経験世界にある存在として――〕全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 これが、P.グリムのおおまかな証明方法でございます。
 ~~~~~~~~~~~~


 そうして
 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ の主題については わたしにはむつかしい問題です。

 参考になるかどうか分かりませんが 《いくらかの【経験され得ない可能世界】の〈不〉存在証明》のほうとしては 次のように考えたのでした。
 ☆☆(No.28お礼欄) ~~~
  ★ つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
  ☆ 自然科学に明るくないゆえに 無謀にもお尋ねしたいと思います。

  ○ ~~~~~~~~~
  もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか?
  通ればそこは 経験世界でしょうし。
  通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。
  経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。
  言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 次のような批評をもらっています。

 ◆(回答No.29) ~~~~
 この「もし絶対真空が経験されたという場合」というとことが、厄介でございます。
 “絶対零度”もそうでございますが、経験されうることは、もしかしますと(むしろ、おそらく)ないかもしれません。仮に宇宙のどこかにいけばあるかもしれませんが、宇宙空間といえども、分子がさまよっているからでございます。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 純粋に(?)論理的に処理することは 出来ないものでしょうか?



 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ すみません。お手上げです。(神の想定そして定義とは 別のひとつの分野として成立するかのように思うのですが)。

お礼日時:2011/09/02 19:39

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> ☆ 《無矛盾であれば 証明も反証も出来ない命題が存在する》 ゆえに
 ★ (経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 ☆ つまりは 《無矛盾であって 証明ないし反証ができる命題が存在する》ことも事実なのですね。それゆえ
 ★ そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 ☆ この《す べ て の真理を決定できる》とは言えないとなるのでしょうか?

 はい。ゲーデルの定理(“真なる命題”と“その証明”は別々のものと考えてくださいませ)からは、全ての真なる命題(経験的に真であることがわかっていましても)に対しましては、真であるとは証明不可能、ということを意味します。ですが、神は万能である以上は、全ての証明方法を知っているはずでございます。

> そう理解しますが だとしますと そうだとしましても ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るものですよね。
 だとしますと――理科系の人たちに食いつきますが―― その真理は 人間にも認識しうるということにならないでしょうか? わざわざ神を持ち出さなくてもよいのではないか? こういう意味なのですが?

 はい。「ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るもの」でございます。
 神を持ち出しました理由でございますが、今までに様々な存在証明がなされてきました。そしてどれもが(当然のことながら)“証明しえた”というものではございませんでした。このとき、人間理性においては、神はこの経験世界には説明不可能な世界に存する。ということを証明したかったのだと考えられます。少し例が異なりますが、代数的に5次方程式の解法は、約2,3百年間探索し続けられてきました。そこで、「そんな解法は存在しない」と証明したのには、それなりの意味があったものと考えております。おそらく、この数学の出来事とほぼ同じ経緯であったものと推察しております。ひとはどうしても、(存在しないことが証明されるまでは)その存在の根拠なるものを求めたがるのかもしれません。

> 神としての真理と 人間が経験思考で分かる真なる命題というときの真理とは 明らかに違うものだと見ますが どうでしょう?

 仰られますように、異なるものかと考えられます。


> もうひとつ ドクターに楯つきます。

 愚生はそんなたいした研究者ではないのですが、以下に愚見申し上げます。

~~~~
> ★「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ~~~~~~
 ☆ 《信じる》という言葉が もしその神を顔と顔を合わせて見まつるならば もはやすでに見ているのですから 信じる(非思考・非経験)ことは必要がなくなる。こう考えられます。
  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
  ~~~~~
 論理的には 信仰は要らなくなります。

 はい、“そのときには”、はっきり知られることとなり、その結果、“信仰”という言葉も自然と消失していくものと察せられます。“そのとき”が何時なのかは愚生には分かりませんが、来るべきときが来れば(今はまだそのときではないと思っております)、そうなるものと思われます。

> というふうに言葉が消えてなくなることは そういうふうにして 考えられますが これは
 ★ 今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ☆ というときの《消失》とは 別のことではないかと考えます。しかも人が前史から後史に入って信仰が要らなくなったときにも その後史においても《われは前史において この神を〈信じ〉ていたのだなぁ》と振りかえって述懐する場合に使うことがあるかと思われます。

 その言葉(申し訳ございません。ここでは、“単語”の意味で用いました)が消失する際は、(変化等を遂げて)他の言葉に代替されてしまった、もしくはその言葉を使うひとがいなくなり、その必要性がなくなってしまった、と考えられるかと思われます。
 仰られますように、いったん消失した言葉(単語)が復活することは非常に稀なことから、異なる可能性は否定でいきないとも思われます。


 何かしらの、ご参考となり得ましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~
  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~~~
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
  ~~~~~~~~~
  ☆ 論理的には 信仰は要らなくなります。

 はい、“そのときには”、はっきり知られることとなり、その結果、“信仰”という言葉も自然と消失していくものと察せられます。“そのとき”が何時なのかは愚生には分かりませんが、来るべきときが来れば(今はまだそのときではないと思っております)、そうなるものと思われます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 確認しえてよかったと思います。(これも むしろ 論理的な推測のようなものですが)。


 ★ ~~~~
 ・・・このとき、人間理性においては、神はこの経験世界には説明不可能な世界に存する。ということを証明したかったのだと考えられます。
 ・・・
 ひとはどうしても、(存在しないことが証明されるまでは)その存在の根拠なるものを求めたがるのかもしれません。
 ~~~~~~
 ☆ ちょっとしつこい食い下がりをしてみます。

 ○ 《この経験世界に経験的な自然現象や社会的な行為関係などとしての事象と同じかたちにおいては存在しない》ということは 《同じ経験世界において 経験的なモノコトとは別のかたちで存在しうる。かも知れない》というまぼろしの可能性を排除していない。

 ☆ こう思われませんか? 

 もしそうだとした場合 ただし《まぼろしの可能性》とは何か? にもなると思います。
 《霊》であり《なぞ》であり それは 表象し得ない。説明不可能な世界に存在しつつ この経験世界にはその霊でありナゾであるまぼろしとして存在する(もしくは マイナスの霊やナゾとして存在する)ということになるかも知れません。

 言い直しますと:
 ○ 神は霊である。この霊は 経験世界に経験的な事物と同じかたちでは存在していない。と同時に 経験事物と別のかたちで――しかもそれが プラスの霊としてかまたはマイナスの霊として―― 存在する。かも知れない。

 ☆ と。この無根拠もしくは非合理を ひとは見よ。となるかも知れませんし ならないかも知れません。


 十字架上のキリスト・イエスのことしか知ろうとは思わなくなった。というのはそこらへんのナゾのことを言っているように思うのですが 果たしていかがでしょう?
 そうしたとき この経験世界に足をつけて 事実と主観真実とをまとめた大いなる現実を生きるであろうし これをあらためて行くであろうと思われます。

お礼日時:2011/09/01 23:19

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


 ○ (神は存在するか否か? と問うことについて) ~~~~~
> 次のような答えでは 無味乾燥です。
 【回答1】 ~~~~~~~~~
 神の存在が証明されたなら その証明にかんする限りで 《神の存在》は 肯定される。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 はい、これだけでは、仰られますように、“陳腐”以外何者でもないと思われます。

> 次のように答えるなら 或る程度の妥当性があると認められるでしょうか。
 【回答2】 ~~~~~~~~~~
 神は いやしくも神であるなら その存在を証明される必要はない。その必要があっては おかしい。
 また 証明されようがされまいが その証明の可否や内容は あくまで 人間の存在を基準にして言っているのであり その理性および感性から見ての話にとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
 前段の必要があっても別段構わないと思っております。ひとは知的好奇心に富む動物でございます。ひとのみが神を信ずる種ならば、知りたいというひと特有のものが存在しても構わないと思うからでございます。
 後段の方に関しましては、意見を等しく致します。

> 理屈をこねて次のように答えを回避する答えを用意することも考えられる。
 【回答3】 ~~~~~~~~~~~~
 神について なぜ その存在を証明したいのか? これを 先に聞かせて欲しいと答える。
 証明したいわけではないという返答であれば ぢゃあ しなくていいではないかと答える。
 証明したいと返答されれば 誰に対してか? と問い返す。
 人びと一般に対してだという返答を受けるなら ぢゃあ それは 必要ないはずだと答える。
 神との関係は――非思考だからなのだと考えられるが それは措くとしても―― もし神が人に伝えられ得るというのであれば 存在を証明する必要もない。
 それでも どうしても 自分に対して証明したいという答弁が返ってきたなら どうか? 大いに 証明につとめてくださいと答える。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 「もし神が人に伝えられ得るというのであれば」という箇所が若干ひっかかりを覚えます。それ以外は、仰るとおりかと存じます。

> ○ もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか? 通ればそこは 経験世界でしょうし 通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?

 この「もし絶対真空が経験されたという場合」というとことが、厄介でございます。“絶対零度”もそうでございますが、経験されうることは、もしかしますと(むしろ、おそらく)ないかもしれません。仮に宇宙のどこかにいけばあるかもしれませんが、宇宙空間といえども、分子がさまよっているからでございます。
 
> ☆ これらの実際の証明については 残念ながら 理解が追いつきません。

第1不完全性定理 
公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理 
公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 無矛盾性、つまりその公理系で何か問題を考えたときに、矛盾する結果を来さないことでございます。従いまして、この第1定理からは、「無矛盾で出来ているならば、その公理系では、真であるとも偽であるとも証明できない命題がどうしても出て来てしまう」ということを意味します。例えば、つい最近までは、「フェルマーの最終定理(中学生でも理解できる命題にもかかわらず、約350年間、莫大な懸賞金がかけられましたが、証明がなされませんでした。ですが、20世紀後半に証明されることになりました)」が、この証明不可能な命題である、との憶測もございました。ざっくり申しますと、全ての真理(経験的に真と分かっていたとしましても)は証明不可能(決定不可能)、とうことでございます。なお、第2定理の方は省略させてもらっております。
 従いまして、確かに全ての自然数論(以降、簡略のため、”数学”とさせていただきます)を公理化することは不可能であることはいえますし、また全ての数学を論理学的に還元することも不可能であるともいえます。ですが、この定理のみからは、「”全ての”根拠が不完全」とは断じにくいと考えられます。

 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。これが、グリムのおおまかな証明方法でございます。

> ☆ カントの議論につきましては 詳しいかたちでではありませんが 最初に触れましたように なぜ《存在を証明しようとする》のか? という思いを捨てきれません。つまりこれは これこれの理由からというかたちで 話を継ぐこともままならないのですが。

 存在証明というよりも、認識不可能性を主張したことを鑑みますと、おそらく、ルター派であったカントにしてみれば、神のご意志を知りたかったのでは、と考えております。

> 趣旨説明によるかぎりでは 神は《神を想定する》という捉え方をしています。
 もっと簡単な話としては 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》という問いから出発するという捉え方です。この問いに答えられなければ その神は想定しておかざるを得ず 想定したかぎりで定義をしておかねばならない。となるという見方です。
 そうして こういった議論の以前に 生きる・生活するという次元で《信じる》というコトは 現実である。と見るかたちです。

 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》 この問いに対する回答は非常に難しいと考えられます。おそらく、ひとが文化・文明を築いた時点から既にこれらの言葉があったものと推察しております。ですが、進化論的にひとよりも遡った種では(化石等から発話器官が未発達であったとされる北京原人等です)、これらの言葉はもちろん持っておりません。おそらく、言語の獲得とほぼ同時期頃には用いられてきた言葉かと考えております。

> ここから さらにみなさんとともに互いに理解や認識を深めるために 問い求めが展開されましょうか? どのように展開するのが よいでしょうか?

 「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。

> 神学における議論を取り上げるのが ひとつの方法であるかと思うところはあるのですが やはりそれも最初に触れましたように 存在証明という入り方そのことに 質問者としましては 違和感があって 自分からは踏み出しづらいものがあります。どなたかの問題提起に対するかたちでなら それに従ってまいりたいと思っています。

 了解致しました。

 何かしらの、ご参考となり得ましたなら、幸甚に存じます。
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この回答へのお礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ゲーデルおよびP.グリムについて説明してくださりありがとうございます。
 ただし今回は その科学としての行き方(方法)にわざととしてでも異論をとなえてみたいと思います。二点です。

 ★ ~~~
 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。これが、グリムのおおまかな証明方法でございます。
 ~~~~~
 ☆ 《無矛盾であれば 証明も反証も出来ない命題が存在する》 ゆえに
 ★ (経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 ☆ つまりは 《無矛盾であって 証明ないし反証ができる命題が存在する》ことも事実なのですね。それゆえ
 ★ そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 ☆ この《す べ て の真理を決定できる》とは言えないとなるのでしょうか?

 そう理解しますが だとしますと そうだとしましても ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るものですよね。
 だとしますと――理科系の人たちに食いつきますが―― その真理は 人間にも認識しうるということにならないでしょうか? わざわざ神を持ち出さなくてもよいのではないか? こういう意味なのですが?

 神としての真理と 人間が経験思考で分かる真なる命題というときの真理とは 明らかに違うものだと見ますが どうでしょう?




 もうひとつ ドクターに楯つきます。
 ★ ~~~~
 「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ~~~~~~
 ☆ 《信じる》という言葉が もしその神を顔と顔を合わせて見まつるならば もはやすでに見ているのですから 信じる(非思考・非経験)ことは必要がなくなる。こう考えられます。

  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~
   わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが
  そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今
  は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているよ
  うにはっきり知ることになる。

   それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
  その中で最も大いなるものは、愛である。
  ~~~~~

 ここでは 《三つとも残る》と書いてありますが それは《神を見る》ということが ひょっとすると主観真実として大きく現実的であるかも知れませんが 一般に非事実的なことですので そういう表現になるのではないかと考えます。
 論理的には 信仰は要らなくなります。
 かたちあるものについては希望とは言わないというときの希望も すでにかたちとして見ているのならば その希望は要らなくなります。愛は 残る。

 というふうに言葉が消えてなくなることは そういうふうにして 考えられますが これは
 ★ 今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ☆ というときの《消失》とは 別のことではないかと考えます。しかも人が前史から後史に入って信仰が要らなくなったときにも その後史においても《われは前史において この神を〈信じ〉ていたのだなぁ》と振りかえって述懐する場合に使うことがあるかと思われます。


 これらふたつについて 検討願えればさいわいに思うところです。いかがでしょう?

お礼日時:2011/08/31 23:00

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。

ひどっち でございます。

 他の回答者様のご意見を読みながら、少しオツムをひねってみました。

 まず、「絶対無」がそもそも存在するのか、そして、「“全て”の根拠が不完全な状態」について、愚見を述べたく存じます。ただ、他の回答者様とのやりとりは、禁じられておりますので、単なる愚生の独り言ととして、ご一読いただければと思っております。

 まず、現時点では、まだ「絶対無」に到達したことはない、というのが愚生の知る所でございます。つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
 また、ゲーデルの不完全性定理によりますと、確かに、存在論的に”絶対有”は存在しない、ということは言えると考えられます。ですが、「全ての根拠が不完全」とは、ゲーデルの定理からでは断定できないものと思われます。
 以前もご紹介させていただきましたが、P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのかございます。これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。ですが、彼はそれにも関わらず、神学は否定していません。と申しますのも、神は人間理性では認識不可能に過ぎず、だからといって、その信仰が否定できるものではない、からという理由からです。これは、古くは、例えばカントによる純粋理性批判に見られますように、「人間の理性は(思弁的な)経験を超えた神の存在を認識することはできない」ということと、ほぼ同義かと考えられます(因にカントはルター派でした)。
 極論を申しますと、人間理性の求めるところと、信仰とは別次元ものと考えております。
 なお、他のご回答者様に批判的な内容となってしまいましたが、あくまで、ご質問者の質問への回答という範疇のものでございます。従いまして、回答者を批判する意志は全くございません。
 もし、ご心象を害するようでしたら、深くお詫び申し上げます。

 駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 数学や論理学を敢えて省みず 次のようにひねくれたことを考えたことがあります。神の存在(または 非存在)証明とは どういう意味があるかについてです。

 ○ (神は存在するか否か? と問うことについて) ~~~~~

 次のような答えでは 無味乾燥です。

 【回答1】 ~~~~~~~~~
 神の存在が証明されたなら その証明にかんする限りで 《神の存在》は 肯定される。
 ~~~~~~~~~~~~~~
  

 次のように答えるなら 或る程度の妥当性があると認められるでしょうか。

 【回答2】 ~~~~~~~~~~
 神は いやしくも神であるなら その存在を証明される必要はない。その必要があっては おかしい。

 また 証明されようがされまいが その証明の可否や内容は あくまで 人間の存在を基準にして言っているのであり その理性および感性から見ての話にとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 《いやしくも神であるなら》という条件に 異論を唱える人が出るでしょう。


 理屈をこねて次のように答えを回避する答えを用意することも考えられる。

 【回答3】 ~~~~~~~~~~~~
 神について なぜ その存在を証明したいのか? これを 先に聞かせて欲しいと答える。
 証明したいわけではないという返答であれば ぢゃあ しなくていいではないかと答える。

 証明したいと返答されれば 誰に対してか? と問い返す。
 人びと一般に対してだという返答を受けるなら ぢゃあ それは 必要ないはずだと答える。
 神との関係は――非思考だからなのだと考えられるが それは措くとしても―― もし神が人に伝えられ得るというのであれば 存在を証明する必要もない。

 それでも どうしても 自分に対して証明したいという答弁が返ってきたなら どうか? 大いに 証明につとめてくださいと答える。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~


 ★ つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
 ☆ 自然科学に明るくないゆえに 無謀にもお尋ねしたいと思います。
 ○ もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか? 通ればそこは 経験世界でしょうし 通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?


 ★ ~~~~
 また、ゲーデルの不完全性定理によりますと、確かに、存在論的に”絶対有”は存在しない、ということは言えると考えられます。ですが、「全ての根拠が不完全」とは、ゲーデルの定理からでは断定できないものと思われます。
 ★ ~~~~~~
 P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのがございます。これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。ですが、彼はそれにも関わらず、神学は否定していません。
 ~~~~~~~~
 ☆ これらの実際の証明については 残念ながら 理解が追いつきません。

 ★ これは、古くは、例えばカントによる純粋理性批判に見られますように、「人間の理性は(思弁的な)経験を超えた神の存在を認識することはできない」ということと、ほぼ同義かと考えられます(因にカントはルター派でした)。
 ☆ カントの議論につきましては 詳しいかたちでではありませんが 最初に触れましたように なぜ《存在を証明しようとする》のか? という思いを捨てきれません。つまりこれは これこれの理由からというかたちで 話を継ぐこともままならないのですが。

 趣旨説明によるかぎりでは 神は《神を想定する》という捉え方をしています。
 もっと簡単な話としては 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》という問いから出発するという捉え方です。この問いに答えられなければ その神は想定しておかざるを得ず 想定したかぎりで定義をしておかねばならない。となるという見方です。
 そうして こういった議論の以前に 生きる・生活するという次元で《信じる》というコトは 現実である。と見るかたちです。


 ここから さらにみなさんとともに互いに理解や認識を深めるために 問い求めが展開されましょうか? どのように展開するのが よいでしょうか?

 神学における議論を取り上げるのが ひとつの方法であるかと思うところはあるのですが やはりそれも最初に触れましたように 存在証明という入り方そのことに 質問者としましては 違和感があって 自分からは踏み出しづらいものがあります。どなたかの問題提起に対するかたちでなら それに従ってまいりたいと思っています。

 

お礼日時:2011/08/30 09:29

<head>私自身の学びにも役立っていますので、


夜分に畏れ入りますが、続けて御邪魔をさせて頂きます。</head>

<body>
全ての根拠が不完全な状態に留まっていますので、
完全な根拠の存在が否定されていますから、
そういう意味では『無根拠の儘で承認されざるを得ない』のだろう、
と私には思われましたが、其の考え方には謬見が含まれていますでしょうか?
</body>
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この回答へのお礼

 いえいえ 経験思考の世界において おっしゃるとおりだと思います。

 ばっふぁろうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ そういう意味では『無根拠の儘で承認されざるを得ない』のだろう、
 ☆ つまりこの場合の《根拠・無根拠》というのは 経験思考で考えて判断することのできる内容を言っているはずです。推論や理由説明としての根拠(その有無)を その場合には あつかっているはずです。
 そしてそれは 非思考の信じるとは 別の話である。こういう意味です。

 もし
 ★ 全ての根拠が不完全な状態に留まっていますので、
 ☆ というときの《根拠》が 経験世界における根拠であるとともに 同時に非経験の領域における神としての根拠・無根拠をも取り扱っているのだとしたら どうか?
 それは この場合 ありえないようです。
 なぜなら もし神についての根拠・無根拠を言うのでしたら
 ★ 不完全な状態に留まっています
 ☆ というふうに判断することができるとは考えられません。

 完全だろうか どこまで完全だろうかといったかたちで その根拠の信憑性・確実性を吟味・検討することは 神については あり得ません。
 つまり おこなってもよいわけですが その結果が 人間に分かるかたちで出るという気づかいはあり得ません。それが 神の定義です。表象し得ないナゾとして。どうでしょう?

お礼日時:2011/08/29 01:48

前回の回答内容に関しましての具体例を追記させて頂きます。



例えば、周知の通りに、某アインシュタイン氏は量子力学固有の現象の存在を信じたがりませんでしたが、現代社会では、既に量子暗号による通信の技術さえもが開発されています。

従いまして、たとえ内容を信じられませんでしても認めざるを得ない、という情報群は少なくないと思われますので、経験を許可され得ない情報の場合にも、不確定性原理を適用させましたら、多くの方々に『絶対無の可能世界の広がり』を明確に認知させ得るのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 つづいてですね。

 前回(No.25)の前置きが まづ参照されるのではないでしょうか。
 ☆☆(No.25お礼欄) ~~~~
  そうですね。
  ★ 【不完全性定理】
  ☆ は 神の問題とからませて議論があるようにうかがっていますが その前に問題は 経験世界かそれを超えているかの問いにあります。経験思考の及ぶ範囲かそれとも思考が及ばない(つまり 及ぶとも及ばないとも分からない)領域か この区別にあります。
 ~~~~~~~~~~~

 すなわち
 ★ 量子力学固有の現象の存在 / 量子暗号による通信の技術
 ☆ これらが あくまで経験世界における現象であり事象であるということにおいて 神の領域には達していない。これです。(ただし その現象に神の力が介入していたり その事象において人びとをみちびいていたりすると見ることがあっても それは 自由です)。


 ★ 経験を許可され得ない情報の場合にも
 ☆ この場合について 議論が持ち上がりましょうか。経験し得ない情報あるいはその領域 これは あたかも神の領域に似ていますから。
 ですが ここでも《経験世界の内にあるか それともそれを超えているか》 この区別が重要です。
 《経験世界の中で しかも知り得ない・ゆえに経験し得ないことがらがある》というとき・つまり言うのですから それは 経験世界における現象・事象である。となるはずです。

 つまりは
 ★ 不確定性原理を適用させましたら、多くの方々に『絶対無〔* と見まごうばかりの実は相対有〕の可能世界の広がり』を明確に認知させ得るのではないでしょうか?
 ☆ と帰結されるのではないでしょうか?

 人間があやつれる絶対有も絶対無も あり得ません。定義つまり想定の内容ないし仕方においてです。

 ひょっとしたら ここらへんで――人間もやっと民主制や平和(生命)のとうとさに目覚め始めたようだから―― わしの力を逆に人間が操作することができるようにしてやろうか と神が思っているかも分かりません。でも それは ほんの一部分のちからなのでしょうね。

お礼日時:2011/08/28 09:25

<head>丁寧な返事の御蔭で私自身の愚見を見直せる機会にもなっていますので、助かっていると思われますから、畏れ入りますが、更に追加で申し上げさせて下さい。

</head>

<body>
経験世界の誕生の前の絶対無が無根拠で成り立っている、と伺いましたが、【不完全性定理】が根拠になって、『【絶対無】への認知』の必要性が現時点で既に証明されていますので、私達はそれを『承認』せざるを得なくなっている、と考えられます。<br>

従いまして、『承認』を致しさえすれば済む状況の下では、たとえ別段に其の内容の正当性を信じて遣りませんでしても、支障を来たさないのではないでしょうか?</body>
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 【不完全性定理】
 ☆ は 神の問題とからませて議論があるようにうかがっていますが その前に問題は 経験世界かそれを超えているかの問いにあります。経験思考の及ぶ範囲かそれとも思考が及ばない(つまり 及ぶとも及ばないとも分からない)領域か この区別にあります。

 そうですね。その前に
 ★ 経験世界の誕生の前の絶対無が無根拠で成り立っている、と伺いましたが
 ☆ について 細かい表現の問題を捉えておきます。
 
 (1) 上の《非経験の領域 あるいは 思考を超えており・ゆえに非思考の場としてあつかわねばならない領域》――以後は かんたんに《神》と言うことにしますが――は 無限であり無根拠であり〔経験相対の世界を超えるゆえ〕絶対であると規定することができると思われますが それを経験思考としての《有る・無い》で表現することは 言わば第二次の規定です。
 
 (2) すなわち 神としての《絶対》を 有るとして絶対有と表わしたり あるいはそうではなく無いとして絶対無と言ったりするのは 人間が分かりやすくするために使う便宜的な(第二次の)表現です。

 ☆ つまりきわめて細かいことを言って何ですが 定義上における表現を整理しておきたいと思います。

 (3) 経験世界を超えた領域は たしかに《経験世界の誕生の前》ですが 《超えた》という規定(想定)は その誕生のあとにおいても当てはまります。

 (4) そして さらに神の属性を第二次・第三次において引き出してくると 《超えている》ならその経験世界に介入するということになります。経験世界を蔽い包み ひょっとしたら何らかの力のはたらきとしてこの経験世界をみちびいているかも分かりません。

 (5) ちなみに そういった第二次以降の属性はもちろん第一次の本体についてすら 《無い》と見る場合には――無神論の場合には―― この経験世界に対する奇蹟などのような神のはたらきは一切ないと見ています。神そのものが無いと見ているのですから。
 
 (6) ただしその無神論にしても 《無い神》を《経験世界を超えたところ》に想定しています。ゆえに非思考の場としての心の有り方を示しています。つまり早く言えば 信仰〔のひとつの形態〕です。

 (7) 有る神も無い神も 絶対であり――絶対有であったり絶対無であったりし―― そのまま無限であり 無根拠です。・・・重箱の隅をほじくっているのですが 
 ★ 絶対無が無根拠で成り立っている
 ☆ という表現は 違和感があります。神はどう成り立っているのか人間には分かりませんが――つまり それゆえに おれは分かったぞという人も じつは自由に出て来れるということになるのですが―― 一般に無根拠として受け取ることができると考えます。

 (8) その意味は 別の表現が可能だということをも示唆します。神は 宇宙大のでっかい根拠なのだと言っても まったく問題はありません。ただしその根拠の内容を示すことは むつかしいでしょうね。





 (9) 従いまして もし《不完全性定理》が その公理系をめぐって人間の思考のおよぶ事柄をあつかうものであれば それは 神の領域には 基本的に言って 達していません。


 (10) もし
 ★ 【不完全性定理】が根拠になって、『【絶対無】への認知』の必要性が現時点で既に証明されています
 ☆ ということでしたら おしえていただきたいと思います。つまり 神ないし絶対という領域を 人間は想定せざるを得ないというところまでは 証明されうると思われますが それ以上のことは むしろ神の領域だと考えます。

 (11) その意味は こうです。人間は 神の領域を想定することは出来るけれど それによって 神をつくったとか 神の存在(ないし不在)を認知したとかいうふうに 人間の側の思考や行為が成り立つものとは思えないからです。

 (12) 人間の思考やそのほかのあらゆる能力そして存在じたいをも超えたナゾの領域を 人間がどうしてつくったりあれこれ指図するかのように取り扱ったりすることができましょう?




 (13) ★ ~~~~~
 従いまして、『承認』を致しさえすれば済む状況の下では、たとえ別段に其の内容の正当性を信じて遣りませんでしても、支障を来たさないのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ ということには帰結されませんで 《承認》ではなく《認知》でもなく ただただ人間は《受け容れる》のみなのです。

 (14) ただし 人間には自由意志がそなわっており この想定した神を わたしは受け容れないぞというかたちで――つまり《無い神》として――受け容れることも まったく自由であり正当です。

 (15) この存在するとしてにせよ存在しないとしてにせよ《心に受け容れる》こと これが 非思考における心の動きとして 伸びあるいは明けといった志向性です。つまり信仰です。

 (16) 心に受け容れると言いましたが もっと分かりやすく言えば ヤハヱーだとかアッラーだとか あるいは 仏性なりキリストなりといった神の名を 心に親しく(あるいは 無として)持つ。それだけの行為です。(ただし 生涯をとおしての動態であり過程であるコトです)。

 (17) (13)における《正当性を信じる》というのは 信じる(受け容れる)ときに《正当性》うんぬんは かかわっていません。人間が神の正当性がどうのこうのと決める立ち場にはありません。

 (18) 《わたしは神という言葉が好きだ》と言う人がいるとしますと そんなかんたんな心の伸び それが すでに信仰だということだと考えます。《神などいるもんか》と言うときの心の明け これが信仰なのだと思います。神とつながったゆえ。

 (19) 絶対ということにかんしては それを否定しても つながることになります。なにしろ絶対なのです。

 (20) 誰もがこの神に向かって きよらかなおそれを持つに到るはずです。例外は無いと言ったほうがよいのではないでしょうか。――ただし 人間にかんするかぎり それは 時間過程においてあります。

お礼日時:2011/08/28 09:09

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。

ひどっち でございます。

> ひどっちさんは 社会の秩序をつかさどるお偉方たちは それほどあきらめが早いとも思われない。その欲において淡白だとは考えにくい。ゆえに しつこく迫り狙った相手は逃さないであろうとお考えですね。


 はい。いったん得られた地位、立場、利権なるものは、手段を選ばず、死守するものと思っております。

> 島田紳助の事件もありました。
 風通しがほんのちょっとでもよくなればよいがと思います。


 意見を等しく致します。暴力団と芸能関係の癒着等は、昔から知られたことかと思われます。もちろん、暴の方達にも、利益がございます。ですあが、地方巡業や、アイドル歌手の過去・裏顔の件(高部知子の”ニャンニャン事件”などは事務所としては避けたいでしょうから)等から、事務所側としましても利益があるため、関係を持っているという側面もございます。
 さらに風通しがよくなり、いっそのこと、”◯●組”から、”◯●カンパニー”等に変更し、一種の企業活動にも出てもらいたいとも思っております。


> 今回は ネタが切れたみたいです。エアポケットにはまったみたいですね。
 たまには こういう場合もあると見ておきます。

 申し訳ございません。愚生と致しましても、興味を引く話題等提供できれば良かったのですが・・・


 なお、菅首相が退陣表明したようでございます。確かに、時期はこの頃になろうことは予想できてはいましたが、どことなく、後味が悪い気持ちでおります。

「菅首相:退陣表明 県内各党談話 /静岡」  2011-08-27 毎日新聞
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20110827dd … 


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。


 暴の人たちも 震災の復旧のためにボランチアに出かけているのだとか。分からないようにと。

 
 政局は けっきょく あれですね。自民党の落選組の声が強くて 総選挙が早く来ることをただただ願っているのだとか。その方向の民主党代表かつ首相なら 協力するというふうに。谷垣も石原も そのもとで動いているのですとか。




 《Q:仏教は一神教か?》のほうでも この質問と同じ主題が出ています。出張しなくてはなりませんでした。


 次のアイディアが なかなか像を結びません。これも ぼちぼちまいりますので よろしくお願いいたします。

お礼日時:2011/08/27 18:47

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