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 A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?

 A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?

 B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?

 B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?

 B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?

 B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?

 C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
 
 C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?

 D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?

 D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
  特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。

 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?


    *

 
 ○ (神を哲学する) ~~~~~

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 ~~~~~~~~~~~~

A 回答 (62件中31~40件)

(私の側の業務の都合で参加させて頂けなかったと申しましても、)前の回答の時から日にちを空けてすいませんでした。



『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況の下では、寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。じつは 今回お出しの主題は 前半の《状況》については ひどっちさんが解説をしてくれていて(回答No.28および29)むしろその根拠は提出されているのではないでしょうか? 
 後半の問いは まづわたしにはむつかしい問題であるようです。というのも その問いはむしろ経験思考ないしその論理で考察されているのではないでしょうか?


 まづ前半のほうです。
 ★ 『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況
 ☆ 神が 経験世界における存在としては 存在しないのだということ。つまりその不在が証明されているのではないでしょうか? ゲーデルの定理を使ったP.グリムの証明だそうです。

 ◆(回答No.28) ~~~
 P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのがございます。
 これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。

 ◆ (回答No.29) ~~~
 第1不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
 第2不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 無矛盾性、つまりその公理系で何か問題を考えたときに、矛盾する結果を来さないことでございます。
 従いまして、この第1定理からは、「無矛盾で出来ているならば、その公理系では、真であるとも偽であるとも証明できない命題がどうしても出て来てしまう」ということを意味します。

 例えば、つい最近までは、「フェルマーの最終定理(中学生でも理解できる命題にもかかわらず、約350年間、莫大な懸賞金がかけられましたが、証明がなされませんでした。ですが、20世紀後半に証明されることになりました)」が、この証明不可能な命題である、との憶測もございました。
 ざっくり申しますと、全ての真理(経験的に真と分かっていたとしましても)は証明不可能(決定不可能)、ということでございます。なお、第2定理の方は省略させてもらっております。

 従いまして、確かに全ての自然数論(以降、簡略のため、”数学”とさせていただきます)を公理化することは不可能であることはいえますし、また全ての数学を論理学的に還元することも不可能であるともいえます。ですが、この定理のみからは、「”全ての”根拠が不完全」とは断じにくいと考えられます。

 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。
 一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 そうなりますと、神が〔* ――この経験世界にある存在として――〕全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 これが、P.グリムのおおまかな証明方法でございます。
 ~~~~~~~~~~~~


 そうして
 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ の主題については わたしにはむつかしい問題です。

 参考になるかどうか分かりませんが 《いくらかの【経験され得ない可能世界】の〈不〉存在証明》のほうとしては 次のように考えたのでした。
 ☆☆(No.28お礼欄) ~~~
  ★ つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
  ☆ 自然科学に明るくないゆえに 無謀にもお尋ねしたいと思います。

  ○ ~~~~~~~~~
  もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか?
  通ればそこは 経験世界でしょうし。
  通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。
  経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。
  言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 次のような批評をもらっています。

 ◆(回答No.29) ~~~~
 この「もし絶対真空が経験されたという場合」というとことが、厄介でございます。
 “絶対零度”もそうでございますが、経験されうることは、もしかしますと(むしろ、おそらく)ないかもしれません。仮に宇宙のどこかにいけばあるかもしれませんが、宇宙空間といえども、分子がさまよっているからでございます。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 純粋に(?)論理的に処理することは 出来ないものでしょうか?



 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ すみません。お手上げです。(神の想定そして定義とは 別のひとつの分野として成立するかのように思うのですが)。

お礼日時:2011/09/02 19:39

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> ☆ 確認しえてよかったと思います。(これも むしろ 論理的な推測のようなものですが)。

 こちらこそ、光栄に存じます。

> ○《この経験世界に経験的な自然現象や社会的な行為関係などとしての事象と同じかたちにおいては存在しない》ということは 《同じ経験世界において 経験的なモノコトとは別のかたちで存在しうる。かも知れない》というまぼろしの可能性を排除していない。
 ☆ こう思われませんか? 

 まぼろし等の偶発的なものにつきましては、排除しておりません。数学等に見られる“公理“の世界での論理でございますから。

> 言い直しますと:
 ○ 神は霊である。この霊は 経験世界に経験的な事物と同じかたちでは存在していない。と同時に 経験事物と別のかたちで――しかもそれが プラスの霊としてかまたはマイナスの霊として―― 存在する。かも知れない。

 可能性はあろうかと考えられます。ただ、再現性が確保されないため、疑問を抱くだけかと思われます。おそらく、経験世界とは別の何かしらの原理のようなものがあるのかもしれません。

> 十字架上のキリスト・イエスのことしか知ろうとは思わなくなった。というのはそこらへんのナゾのことを言っているように思うのですが 果たしていかがでしょう?
 そうしたとき この経験世界に足をつけて 事実と主観真実とをまとめた大いなる現実を生きるであろうし これをあらためて行くであろうと思われます。

 前段関しましては、愚生にはわかりません。後段の方におきましては、やはり、この経験政界に立脚しながら、主観的事実をも重んじながら現実の生を営むのが理想かと存じます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 そうですね。今回は まぼろしのことばかりになってしまいました。
 一歩すすめようとした結果ではあると思います。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ということは もうそれ以上は進めることも出来ないかと思われます。
 そのまぼろしのことに対して心を開いているというところまでかと思われます。


 ばっふぁろうさんの提示された主題について なにかありましたら おしえてください。勝手に引用させてもらっていますが。



 ゆきくんが声をかけてくれました。
 元気になったようですね。
 それ以上もう何も言う資格もないのです。
 見守ってまいりたいと思います。

お礼日時:2011/09/02 22:19

御無沙汰で失礼を致しておりましたが、


久し振りに経験世界からの眺望を試みさせて下さい。

絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 こちらの命題は ちょっと早合点をなさったのかなとも思います。

 1. この世界は 人間にわかることとしては 四次元の時空間であり 経験世界である。

 2. ところが人間は 《かみ》だとかそれを《信じる》といった言葉を持ち それとしての意味内容をもった意思の疎通をおこなっている。
 
 3. これをしりぞける向きにしても それは無神論と言って じつは《無神》というかみを立てている。なぜなら 《かみ》の存在も非存在も人間の能力で証明しえないから。(経験世界におけるそれの存在は 否定されることが証明されたようですが)。

 4. つまりは 《かみ そして神ないし無い神を信じる》という言語習慣とそれに見合う現実は 人類にとって まさに現実である。(事実と主観真実とを包み込んだ大きな現実として そのまま現実である)。

 5. 主観真実が 事実と並んで現実だと言わねばならないことには 無神論者にしても けっきょく《かみ》の領域を 表現の上で否定しているだけであって その領域すなわち《非経験の領域》については 肯定するにも否定するにも証明し得ないからである。

 6. すなわち表象しえない領域については それを表わすしるしとしての言葉が持たれ用いられるにしたがって 認めざるを得ず それとして共通の定義や了解を得ておくことがのぞましい。

 7. 非経験の領域は 人間にとってナゾであるが ただし何らかの仮りの表現を与えたり 仮りの説明を加えたりすることがおこなわれる。

 8. 《かみ》と表わしても それにあまり意味がともなうとも思えないが これを《非経験》と言えば それとして・つまり経験世界を超えているという意味として 捉えられる。経験に対して非経験。相対に対して《絶対》。有限に対して《無限》。などなど。

 9. 《絶対》についてさらに分かりやすく《絶対者》というように擬人化した表現をも持つ。

 10. ★ 絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?
 ☆ と問うことは どうなんでしょう けっきょくその問う人がそれぞれの主観において どう考えるか。あるいは どう感じるかといった性質の問いなのでしょうか?

 11. 絶対者なる神は ひとり満ち足りている存在である。というふうにも仮りの説明が為されますが そのとき《神は 非経験世界を――その世界じたいが 自分自身のことであるわけですが――経験しているか?》

 12. どうでしょう? 思う存分 非経験世界との一体化――あるいは もともと一体であること――を味わっているかも知れません。どうなんでしょう?

お礼日時:2011/09/03 11:51

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> そうですね。今回は まぼろしのことばかりになってしまいました。
 一歩すすめようとした結果ではあると思います。


 誠に、光栄に存じます。


> ということは もうそれ以上は進めることも出来ないかと思われます。
 そのまぼろしのことに対して心を開いているというところまでかと思われます。


 仰られますように、これ以上のご議論は難しいと思われます。後は、各々の方達が、その偶発的ともいえます事象とどう関わっていくか、というはなしになろうかと思われます。


> ばっふぁろうさんの提示された主題について なにかありましたら おしえてください。勝手に引用させてもらっていますが。



1. 『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない
2. 【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
3. 絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?

 1につきましては、省略させていただきます。
 2に関しましては、
【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ない
 → 経験不可能にも関わらず、可能性に(のみ)立脚した世界は、成立しない。 
 とさせていただきます。

 この問題につきましては、「そもそもわからない」というのが愚見でございます。一例を挙げさせていただきますと、宇宙空間は半径約460光年とされています。「では、その外側の世界とは?」、「そもそもその外部の世界(空間)が存在するのか否か」、「もしあれば、その空間のさらにもう一つ外側の空間はどうなのか?」 これらの疑問に対しましては、現在の科学では返答不可能な問題かと推察されます。
 従いまして、「わからない」としか申し上げようがないというのが実情でございます。おそらく、ほぼ確実に申し上げられることは、ひとには認識不可能な世界も存在しても決しておかしくはない、ということぐらいかもしれません。

 なお、3の問題につきましても、”ナゾ”としか申し上げようがないとうのが実情でございます。



> ゆきくんが声をかけてくれました。
 元気になったようですね。
 それ以上もう何も言う資格もないのです。
 見守ってまいりたいと思います。

 そうでございましたか。
 確かに以前よりも、冷静かつ、いろんな方達の言葉にも落ち着いてお話されるように拝見致しております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございまず。

 ★ 仰られますように、これ以上のご議論は難しいと思われます。後は、各々の方達が、その偶発的ともいえます事象とどう関わっていくか、というはなしになろうかと思われます。
 ☆ おっしゃるところに落ち着くかとわたくしも考えます。

 ほかのところで 言い回しの勢いで この質問の想定している神学が 一般絶対性理論であり 【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭った】などなどのキリスト神学は 特殊絶対性理論だと述べました。
 しかも 特殊絶対性のほうから その個別の神学ないし信仰形態を基礎として 一般絶対性理論ないし一般神論がもたらされるのだと。

 そこらへんを固めて行きたいと思っていますが どうでしょう?

 ゆきくんへのお礼欄に書いたこととしましては:
  神の子であり神であるキリストが 父のはかりごとのもとに 勝手に 磔になった。この勝手にのゆえに 神の愛であると書きました。

 また じどうしゃがいしゃさんへのお応えのなかで:
  神は モーセに《あなたは わたしの顔を見て生きることは出来ない。わたしが手を取りのけるとき わたしのうしろすがたを見るであろう》と言ったように キリストも十字架上に去って行ったそのあと――聖霊がおとづれ―― 弟子たちを初めとする人びとに キリストも神の背面を見せしめた。これが 非思考の信仰であると書きました。

 ここらへんの事柄です さらにすすめて行きたいところはです。


 ばっふぁろうさんや じどうしゃがいしゃさんが 反応されるかも分かりません。わたしは いまひとつ筆が伸びません。せっかく書いてくださったのに どうお応えしてよいか 自信がありません。あしからずお願いいたします。もちろん 見守ります。

お礼日時:2011/09/03 21:55

度重なる参加で畏れ入りますが、


此処の内容に関する質問を私が別のページで提出させて頂きましたので、
報告をさせて頂きます。

http://okwave.jp/qa/q6985389.html
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この回答へのお礼

 はい 承知しており うかがっています。

 わたしくしにとって 焦点が結ばないと言いますか 不完全性定理の全体が見定められないと言いますか 躊躇するという以上にまだ手が出ません。

 見守っております。

 ご回答を寄せていただくのはいつでも何度でも大丈夫なんですが。
 そしてありがとうございます。

お礼日時:2011/09/04 15:22

続きで更に御邪魔をさせて頂きます。



前回の回答欄で申し上げましたページでは、『不完全性定理の完全性の有無』の検証の為に、ベテランのプログラマーの方が、【網羅性テスト(http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1& …)】の内容に言及して下さっていますが、下記のページでの質疑にも、ヒントが隠れていませんでしょうか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5497722.html
http://okwave.jp/qa/q6902888.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 時間をあたえてください。

 
 【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】をまなんでいます。
 何も出て来ないかも知れませんが しばらくお待ちください。

お礼日時:2011/09/05 11:31

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> ほかのところで 言い回しの勢いで この質問の想定している神学が 一般絶対性理論であり 【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭った】などなどのキリスト神学は 特殊絶対性理論だと述べました。

 しかも 特殊絶対性のほうから その個別の神学ないし信仰形態を基礎として 一般絶対性理論ないし一般神論がもたらされるのだと。

 そこらへんを固めて行きたいと思っていますが どうでしょう?


 了解致しました。固めていく重要性もございますことから、微力を尽したいと思っております。


> ゆきくんへのお礼欄に書いたこととしましては:
  神の子であり神であるキリストが 父のはかりごとのもとに 勝手に 磔になった。この勝手にのゆえに 神の愛であると書きました。


 ご意見頂戴致しまして、 どうもありがとうございました。


> また じどうしゃがいしゃさんへのお応えのなかで:

 神は モーセに《あなたは わたしの顔を見て生きることは出来ない。わたしが手を取りのけるとき わたしのうしろすがたを見るであろう》と言ったように キリストも十字架上に去って行ったそのあと――聖霊がおとづれ―― 弟子たちを初めとする人びとに キリストも神の背面を見せしめた。これが 非思考の信仰であると書きました。

 ここらへんの事柄です
 さらにすすめて行きたいところはです。



 了解致しました。


> ばっふぁろうさんや じどうしゃがいしゃさんが 反応されるかも分かりません。わたしは いまひとつ筆が伸びません。せっかく書いてくださったのに どうお応えしてよいか 自信がありません。あしからずお願いいたします。もちろん 見守ります。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。当方と致しましても、微力を尽くしたく存じます。


 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 このご回答で受けとめていただいたことについて 感謝申し上げつつ 確認してあゆんで行きたいと思います。

 ほかのことについて思考中です。
 直前(No.36)のばっふぁろうさんの取り上げておられる【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】のやり取りからもまなんでいます。
 何も出て来ないかも知れませんが 思考中です。

 ばっふぁろうさんご自身のご質問:

  【Q:絶対無の存在証明を巡って、…。】
  (不完全性定理の完全性は自己言及的に証明され得るのでしょうか? )

 でご説明をいただき まことにありがとうございます。

 ★★(そのご回答No.9) ~~~~~
 ・・・従いまして、「真なる命題は存在しない」、とまでは断じていないことになります(ただ、それが証明されうるかは、別問題となり未定でございます)。
 そこで、この不完全性定理では、そもそも証明がなされております(”予想”ではなく”定理”となってございます)。従いまして、《真偽決定可能》な部分に該当するものと考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ きわめて微妙ながら 科学の力の届く範囲を見きわめようとなさっておられるように思います。前提が前提であるなら それとして科学の判断には 妥当性があり 《真偽が決定されうる》という判断も納得されうるはずだと。 
 あるいは 科学もその作業の過程に属し 動態であるということでしょうか?

 そのとき《自己言及性》あるいは《無限》を扱うということの問題が からまっていましょうか?

 全体としてまなんで行きたいと思いますが ひどっちさんのご見解に対して失礼になりましょうか?
 それが分からない状態ですので 失礼の節はそれをご指摘いただきつつ よろしくお願いいたしたいと思います。

お礼日時:2011/09/05 11:59

絶対神への考察の過程の途上で思い付いた視点が御座いますので、


失念しない内に此処で其の内容を纏めさせて頂く為に、申し上げます。

不完全性定理は、信仰によって自己言及を回避させているのでしょうか?

この回答への補足

 ★ 【Q:ヴァーチャルな無分別智】
   http://okwave.jp/qa/q6902888.html

 ☆ につきましては 趣旨をまだつかみかねています。
 もう少し議論が煮詰まって来ませんと。

補足日時:2011/09/05 16:26
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この回答へのお礼

 【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】のやり取りを読み終わったところです。

 ばっふぁろうさん ご回答をありがとうございます。

 分かりません。ごめんなさい。見かけ(わたしの予告)倒しに終わりました。

 もし印象だけでものを言うことがゆるされますならば こう考えます。
 人間の能力・特に科学という道具によってどこまでのことが分かるか またその分かったことを再現したり加工したりすることができるか。こういった主題をめぐって 議論をたたかわせている。というように感じました。
 科学は その道にしたがって その探究をつづけていくであろうというひどっちさんのご見解が ふつうの見方であるのではないかと思いました。

 特に無限について 実無限をあつかうかどうかという話をすすめるのなら この質問の《神》の想定を参照して欲しいと思いました。
 《想定》だというところが ミソだと思っています。

 ★ 不完全性定理は、信仰によって自己言及を回避させているのでしょうか?
 ☆ こう考えます。つまり 次のように表現しなおします。

 ○ 不完全性定理は わが心における非思考の庭において・つまり信仰において 〔定理じたいの〕自己言及を含み持っている。

 ○ 言いかえると 不完全性定理は みづからを考えみちびき出した存在(つまり 人間)の中に はぐくまれるようにして おさまっている。

 ○ 人間にかんしては――これは 実無限を問うていた方も触れておられましたが―― その存在が科学に先行する。境地が 科学の定理を覆いつつみこむ。

 ○ 信仰――特には ヒラメキ――は 思考に先行する。

 ○ 信仰は みづからの内に 科学認識をそして特にそこにおける自己言及をおさめている。


 ☆ きわめて漫画チックに言えば:

 ○ 池としての思考の蓄積は もし周りが洪水になっていれば あまり役に立たない。洪水とは 人間の存在としての境地を指して言っている。


 
 じんるいの科学の営為に対する失礼を省みずでした。

お礼日時:2011/09/05 14:53

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。

> このご回答で受けとめていただいたことについて 感謝申し上げつつ 確認してあゆんで行きたいと思います。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

> ☆ きわめて微妙ながら 科学の力の届く範囲を見きわめようとなさっておられるように思います。前提が前提であるなら それとして科学の判断には 妥当性があり 《真偽が決定されうる》という判断も納得されうるはずだと。 
 あるいは 科学もその作業の過程に属し 動態であるということでしょうか?

 はい、もちろん、他の科学分野との関連性も生じます。
 ですが、“定理”と呼ばれるものにつきましては、ほとんどが数学におけるものでございます。他の学問分野におきましても、若干は存在します(例:カルノーの法則。証明がなされております)。
一方、特に数式で記述する学問体系の中には、(数学がそうであるのと同様に)科学におきまして、証明不可能な命題(経験的には、それが真であるとわかっている場合にもです)、さらに申しますと、決定不可能な命題(仮説)が、この定理により存在することになろうかと考えられます。
ですが、その根本をなすところに、“自然法則・経験則”がございます。極論を申しますと、“慣性の法則”等の“経験則”は、その存在は確かに確認されてはいますが、“常に正しい”ということは未解決かと存じます。さらに申しますと、「永遠に法則が成立し続ける保障はない」、ということでもあります。

> そのとき《自己言及性》あるいは《無限》を扱うということの問題が からまっていましょうか?

 そもそも、証明方法がメタ数学(メタとは、Metaphysicsのmeta-にあたります)に拠っております。つまり、ある意味、自己言及的な証明になろうかと推察されます。

[一例です]
2 + 3 = ? 答え: 5   → 数学
“2 + 3 = 5”、これ自体が成立する  → メタ数学(超数学)

 ”無限”とはある意味、数学特有の言葉でもございます。他の分野でも使用されるかもしれませんが、例えば、宇宙物理に致しましても、宇宙の直径約1000億光年と、決して無限という訳でもなございません。”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。

> 全体としてまなんで行きたいと思いますが ひどっちさんのご見解に対して失礼になりましょうか?

 いえいえ。全くそんなことはございません。愚生にお役に立てるところがございましたなら、と思っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 数学とほかの科学とのあいだには 差があるのですね。論理上の検証と実験上のそれとは違うということでしょうか?

 それと
 ★ メタ数学(超数学)
 ☆ がまだよく分かりません。

 ★ ”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。
 ☆ 可能無限でなければ 無限は まったく非経験として想定されるものと思って来ました。
 つまりわたしに分かりやすい説明としては 無限を二で割っても三で割っても その商は やはり無限であるというかたちにおいてです。つまり 絶対であり 非経験だと考えます。
 これと メタ数学との関連がいまひとつ分かりにくいのですが どう違うのでしょう? どう重なっているのでしょうか?

 今回は この点についてお願いしたいと思います。おしえていただければさいわいです。

お礼日時:2011/09/05 22:54

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

ひどっち でございます。


> 数学とほかの科学とのあいだには 差があるのですね。論理上の検証と実験上のそれとは違うということでしょうか?


 以下の点が指摘されております。
 
・「仮説を立て実験観察により検証する」という自然科学の最大の特徴を欠いている。実験結果によって理論が覆される事があるが数学ではありえない。
・自然科学は自然現象を扱う学問である。しかし数学は論理で、公理から導けるものなら何でも扱うことが可能。
・数学は論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能。例:バナッハ・タルスキの定理
http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/5111 … 


> ★ メタ数学(超数学)

 ☆ がまだよく分かりません。


 以下に参考サイトをご紹介させていただいております。”「数学」自体を数学的に考える”ということでございます。

・Wikipedia 超数学
・「メタ数学・超数学ってなんですか?」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1135774.html 
・松岡正剛の千夜千冊 オスカーベッカー「数学的思考」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0748.html 


> ★ ”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。
 ☆ 可能無限でなければ 無限は まったく非経験として想定されるものと思って来ました。
 つまりわたしに分かりやすい説明としては 無限を二で割っても三で割っても その商は やはり無限であるというかたちにおいてです。つまり 絶対であり 非経験だと考えます。

 はい。ご理解賜りまして、ありがとうございます。無限に十倍乗じましても、また一京倍乗じましても、同じ無限(大)でございます(一方では、どちらで割っても無限大となります)。経験上ある程度感覚的にはイメージが湧きますが、”経験外”のことかと考えられます。
 一方、自然科学におけます”法則(経験則)”も突き詰めれば、ナゾになろうかと考えら得られます(基本となる法則である、慣性の法則、エネルギー保存の法則等がどうして成立しているかはわかってはおりませんので。とにかく、発見以来矛盾が見られていない、というだけかもしれません)。


> これと メタ数学との関連がいまひとつ分かりにくいのですが どう違うのでしょう? どう重なっているのでしょうか?



 ”無限”とメタ数学(超数学)との直接の関連性はございません。ただ、ゲーデルが不完全性定理におきまして、メタ数学(一種の自己言及化)を用いたということでございます。

「Gが証明可能であれば、”命題「Gは証明できる」もまた証明可能である”。一方Gは命題「Gは証明できない」と同値であることが証明可能であるので、両者から矛盾が導かれる。」
Wikipedia ゲーデルの不完全性定理 概要 からでございます。

> ANo.38お礼らんからでござます
 人間の能力・特に科学という道具によってどこまでのことが分かるか またその分かったことを再現したり加工したりすることができるか。こういった主題をめぐって 議論をたたかわせている。というように感じました。
 科学は その道にしたがって その探究をつづけていくであろうというひどっちさんのご見解が ふつうの見方であるのではないかと思いました。

 前段につきましては、仰られますように、数学・科学の限界の追求といった側面も強くございます。
 後段につきましては、アラン・カーソル(あのカーソル事件のカーソル氏です)が以下の発言をしております。おそらく、科学者は、「その道(自己の信念)にしたがって その探究をつづけていくであろう」と考えております。

「でもなぜわたしがあんなことをしたのか? 告白しておくと、わたしは古くさい左翼であることをまったく恥ずかしいと思っておらず、脱構築(deconstruction)がなんで労働階級を助けることになるのやら、さっぱり理解できない人間だ。そしてわたしは頑固な古くさい科学者でもあって、外部の世界というものが実在し、世界についての客観的な真理というものが実在して、自分の仕事がその真理の一部を発見することだと、脳天気にも信じているのだ。」


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 そしてこのところ いつにも増して お世話になっています。おしえていただいております。

 如何ようにも料理してやってください。煮ても焼いても食えないほどでしたら うっちゃってやってください。

 ★ ・数学は論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能。例:バナッハ・タルスキの定理
 ▲ (数学って面白い!?) ~~~

  ○ バナッハ・タルスキの定理の主張は、以下のようなものです。

   『球体Aを有限個に分割し、適当に寄せ集めることで、任意の
   大きさの球体Bを作れる。』

 例を挙げると、ゴマ粒ほどの大きさの球を分割して上手に寄せ集めることで、バスケットボール大の球が作れるということになります。

 球体の大きさは任意ですから、太陽と同じ大きさの球をゴマ粒から作ることも可能です。



 ちなみに〔この定理の〕証明は、選択公理という集合論の公理を仮定しています。

  ○ 選択公理とは、

   『無限個のグループがあり、各グループに一人以上が所属して
  いるとき、各グループから一人ずつ選んでくることができる』

 という決め事です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 一般的な言い方として 《前提がある。そこから みちびき出せるものは みちびき出せるのだ》というかたちとして受け取りましたが よろしいでしょうか?


 ★ ・松岡正剛の千夜千冊 オスカーベッカー「数学的思考」
 ☆ 松岡の文章で――きわめて傲慢なことを承知の上でなのですが――初めて有益だと思いました。(このあいだテレビの番組で クレスピダッダのことをおそわりましたが これは 松岡だからおしえられたという問題ではありませんので)。
 そうしますと――という意味は 上で触れました《前提(つまり 公理やそれからみちびき出した定理や命題)があればうんぬん》としますとになりますが―― 数学ないしそれによって明らかになる論理の世界というのは きわめて巨大な宇宙大のタコツボだということになりませんか?
 ほかの自然科学は この数論を超えて事実を尋ね求めるものだと。その発見された事実について事後的に(また事前にも)証明するべくあるいはつまり整合的に理解するべく 数学論理をも――あたらしい論理を探し出すかたちにおいてさえも――活用すると。

 そうしますと・もし大筋でそうだとしますと 科学は残念ながら この世界ないし宇宙のつねに部分的な事柄をしか扱えないものと考えられます。

 数学やメタ数学を超えて宇宙全体の論理を扱えるメタ・メタ数学が現われればいちおう別だと考えられますが でもたぶんさらにその上のメタ さらにそれを超えるメタ・・・というふうにメタが有限という大前提において限りなくつづくものと考えられます。

 この傲慢論理を論破してくださいませ。



 ★ ・Wikipedia 超数学
 ☆ から次に出くわしました。
 ▼ (ヰキぺ:形式論理学) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F% …

 § 形式的論理学(formale Logik)とは、

 ドイツ観念論哲学の祖と言われるイマヌエル・カントがアリストテレス流の論理学に与えた名称。
 自己の唱えた超越論的論理学(transzendentale Logik)と対比したもの。
 
 エドムント・フッサールなどによって、従来の論理学をカントが「全く誤解して」名付けたものであり、対比されている超越論的論理学は形而上学と認識論の奇妙な混合物というべきものであると批判された(フッサール「形式的論理学と超越論的論理学」)。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ カントの先験的論理学は 次の見方と重なると考えています。ご見解をたまわれればありがたいです。(形式論理学なら 巨大な――そしてその認識のいとなみとして偉大な――タコツボであることを免れないと考えます)。

 ☆☆(No.38お礼欄) ~~~~
 ○ 不完全性定理は わが心における非思考の庭において・つまり信仰において 〔定理じたいの〕自己言及を含み持っている。

 ○ 言いかえると 不完全性定理は みづからを考えみちびき出した存在(つまり 人間)の中に はぐくまれるようにして おさまっている。

 ○ 人間にかんしては その存在が科学に先行する。境地が 科学の定理を覆いつつみこむ。

 ○ 信仰――特には ヒラメキ――は 思考に先行する。

 ○ 信仰は みづからの内に 科学認識をそして特にそこにおける自己言及をおさめている。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ 不完全性定理じたいが 《数論は 宇宙大のタコツボであるというかたちを超え得ない》と言っているのではないでしょうか?

 ○ 公理系が無矛盾なら不完全である。
 ☆ つまり 

    無矛盾な公理系およびそこからみちびき出せた命題は
    その全体がその全体としてのタコツボの構成において 
    無矛盾であり真偽を決定し得る完全性を持つ。

    ただしそのタコツボ自体が 完全であるかどうかは
   分からない。
    それ自身がみづからの無矛盾性を証明しうるものでは
   ない。

 ☆ ということを 信仰ないし人間は その存在そのもの(それは動態)においておさめているし 知っている。これも ひとつのメタ数学だとしたら そのメタ数学を自己の内におさめる信仰ないし人間の存在がある。

 ○ 信仰ないし存在は 思考ないし認識に先行する。

 ☆ ここで 《信仰ないし存在》に代えて 《先験的ないし統合論的な統覚》をそれとして――つまり論理的にあるいは認識論的に――持って来ると やはりすべてはメタ科学だというふうに狭く規定されてしまうおそれがあると思います。
 ゆえに きわめてずるく横着に大バカモノとして学問のいとなみをあざ笑うかのように 《非思考》を打ち出しています。

  * 吉本隆明が 親鸞の《信》にちなんで 《非知》ということを言って
  いますが いまのような議論は――その後の吉本を読まなくなったことも
  あって――していないと思います。
   かかわりがあるとは思います。

 ☆ 自己言及性というのは タコツボ〔としての認識体系〕である〔ことを自覚しているのだ〕ということかと思います。


 
 科学の持つ特徴や性質あるいはその歩み方などについての・復唱もせずに触れ残しました後半のご文章は そのままを引用して確認すべき内容ですので その意味でご回答欄のほうにゆだねたいと思います。


 ツッコミどころ満載になれましたら さいわいです。 

お礼日時:2011/09/06 11:41

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