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刑事裁判というものに、興味があった誰もが、日本の裁判の大原則論として、”疑わしきは被告人の利益に・・。”という言葉は、必ず聞いた事があるはずです。

つまり、怪しいというだけでは、被告人は原則無罪だと言う事です。

これは、冤罪を未然に防ぐというのが理由らしいです。

一人の冤罪を出すために、ある程度の犯罪者を野放しにするのは、冤罪者を出しても構わないから、犯罪者を減らすよりも最優先される事だと、学んだ記憶があります。

それくらい、関係のない無実、無罪の国民を、国家が身柄を拘束するのは、慎重になるべきだと、言う事らしいです。

しかしながら、この原則論を支持している国民は少ない印象・・と言うか、知らない人が多いような気がします。

そもそも、裁判どころか、警察に逮捕された段階で、取り調べ前から、有罪だと決めつける報道があり、裁判になっても、刑事裁判の場合、無罪の確率が限りなくゼロに近いという事実があります。

つまり、原則論は、まったく現実とは異なっていまして、そもそも、現実的でないのなら、そんな原則論など、完全に放棄してしまえば良いのに・・・とすら、思ってしまいます。

なぜ?ここまで原則と現実に大きな差が出たのか?どなたか教えていただけませんか?

A 回答 (8件)

おっしゃる通り、現実の国民の認識と原則論の差は出ていますね。



もともと、この原則の由来や原則が妥当している領域が違うということと、この原則の背景なども、この差に影響しているように思います。

この原則が出てくる以前の近代より前は、疑わしいものも罰していました。日本でいえば、大岡裁きみたいなものですね。こういう裁き方をしても、おっしゃるように90パーセントは犯人を裁けていたと思います。しかし、これでは怪しいというだけで、処罰されてしまうし、魔女狩りのように世間一般は怪しいものを吊るしあげるという風潮だったと思います。
それでは、10パーセントの無実の人があまりにも酷だというところで、このような裁判手続き、刑事手続きにおける疑わしきは被告人の利益にの原則が出てきました。

つまり、刑事手続上、裁判上の原則です。
原則が出てきたときも今と変わらず、国民の大半は怪しいというだけで、つるしあげていたのです。

何故か・・・それは、その吊るしあげの感覚は、決して悪の心ではなく、正義感に基づくものだからですね。犯罪を憎み、被害者の痛みを知るからこそ、怒りにかられるのですよね。国民全般となると、当然そういう傾向になってしまいますね。客観的で冷静な情報分析と公平性といったものは、どうしても正義の怒りの前に後退してしまうのですよね。
それは、それで、ある程度貴重な怒りだと思います。

問題は、それを冷静に対処する、第三者の立場で冷静に対処する人々が一部にいなければならないということが必ずしも徹底されていないことですね。
第一に挙げるべきは、マスメディアですね。マスメディアが冷静客観的に対処しなければ、情報の受け手である国民はますます怒りだけを増幅させ、真犯人でないのではないかといった冷静さは持ちえるはずもないように思います。

裁判に対しても、若干疑問があるかもしれません。特に、報道されるのは冤罪ですから。しかし、それでも、裁判自体はかなりこの原則を維持しています。世間のイメージとは異なり。
しかし、一方でこの原則を徹底しすぎるのも、社会的には混乱が生じますね。やくざや性犯罪の危険があるもの殺傷の危険があるものが今以上に野放しにされる確率も高まるのですから。
ですので、裁判や刑事手続においては微妙なバランスが必要になってきますね。
それから、裁判で有罪率が高いのは、検察のところで徹底的に疑わしきはの原則が用いられているともいえることですね。疑わしきはの原則を超えても疑わしいとの立証ができる証拠がなければ、検察は裁判に持ち込まず不起訴にしてしまうので。
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No.7です。


もし、本当にえん罪を少しでも減らそうと思えば、多少の誤認逮捕には目をつぶる必要がありますし、また誤認逮捕であったならば、すぐさま釈放せねばなりません。

しかし、日本では逆です。
誤認逮捕でさえ、絶対に許されないからこそ、1度逮捕したら拷問をしてでも自白される必要が生じます。
もし、自白させないと逮捕したこの悪いヤツに、自分が恥をかかされてしまうのです。
まさに、本末転倒なのですが、過去には実際何度もあったことです。

「日米地位協定」で米軍が日本国内で犯した罪を日本で裁けないのも、このようなことが原因と言われています。

このようなものの根底には「自分に甘く、他人に厳しい」日本人の気質があります。
ですから、えん罪でも誤認逮捕でも、同じ「ミス」として捉え、他人のミスはどんなに笹井であっても絶対に許さない主義なのです。
「誤認逮捕は絶対に許さない」と誤認逮捕した人を養護しているようで、実は逆に逮捕したら絶対に犯人に仕立て上げることに荷担しているのです。

他のことでもそうですが、安易に被害者に同情し、ただ自分の怒りを爆発させる理由付けに利用する行為は、大抵はあらぬ方向へ向かい、悪循環となる場合がほとんどです。
(特に正義を盾に感情的になるから、たちが悪い)

今の日本人は、他人のミスをせせら笑うのが、この上ない楽しみなので、むしろえん罪は大歓迎なのではないでしょうか。
(もちろん、それが他人事ならばね)
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今でも日本人の心の中には「俺様は全部お見通しだ」であったり「火のないところに煙は立たない」であったりが、まかり通ります。


(もちろん、常に相手に対してですが)
たとえば朝のワイドショー「朝ズバッ!」なども、それほど大した根拠がなくとも「断定」することが肝心なのです。
そして、そのようなあやふやな断定の場合は"国民の声を代弁"することが、お約束です。
国民の声を代弁すると言うことは、単に自分の発言に責任を持たない「確信のない断定」以外に何も伝えることがない情報なのですが、日本国民はそれが自分に当てはまった考えだとそれをわかっていてもその意見を支持します。
ですから、結果的にこのような発言はすべて"迎合主義"でもあり"ご都合主義"でもあるのです。

いい例があの拉致問題での横田めぐみさんの骨のDNA鑑定だと思います。
当初「DNA鑑定の結果、本人の骨ではない」と発表しましたが、その後ある学会で「(焼いた骨の)DNA鑑定は不可能」と発表されるや、「複数の骨が混ざっている」とトーンダウンしました。
しかし、"DNA鑑定はできない"と言うのは認めていません。
それから考えると、DNA鑑定できて、複数の人の骨が混ざっているのですから、横田めぐみさんの骨も混ざっていることになります。
もし、そうでなければ、そのまま本人の骨ではないと言う主張を変える必要はないですからね。
このようなことも、結局海外から見れば、日本人は信じられないと判断されてしまいます。
しかし、国内であればこれさえも正当化するのは簡単です。
「そもそも(拉致した)お前が悪いのだから」
「北朝鮮ならば、何をやっても不思議はない」(と言って自らが何をやってもいいと思っている)
「すべては駆け引きだから」
などなど。

このような詭弁がまかり通る日本では、なかなか「疑わしきは被告人の利益に」あるいは「疑わしくは罰せず」と言ったものは成り立たない環境にあると思います。

今であれば、政治家の小沢氏など政治家の場合や、あるいはホリエモンなんかは単に「お前は生意気だから」ぐらいの軽い気持ちで有罪にされたんだと、個人的には思いますけどね。
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1,無罪推定の原則がなかったら今以上に冤罪が増える


  かも知れませんし、被疑者の扱いもひどいものに
  なるでしょう。
  歯止めとして、無罪推定の原則は必要です。

2,原則と現実に大きな差が出来たのは、有罪率が殆ど百%だからです。
  これが米国あたりだと、50%ぐらいですから、無罪推定
  が現実味を帯びてくるのです。

3,国民があまり怒らないのは、冤罪になる人がまともな
  市民でない場合が多いことを知っているからです。

4,あと、お上思想があるでしょうね。
  お上のやっていることだから、正しいんじゃないの
  という訳です。

5,個人主義云々と挙げていた人がいましたが、それでは
  個人主義を採っている欧米に冤罪は発生していないの
  でしょうか。
  欧米のマスコミは、逮捕された時点で犯人扱いはして
  いないのでしょうか。

  実は、日本と同じようなものですよ。
  特に、米国の警察は質が悪く、逮捕して殴る、蹴るなど
  しょっちゅうやっていました。
  ロス暴動もそれが原因で発生しています。
  今はかなり厳しくなっていますが。
  そういう警察に対する歯止めとして、無罪推定の原則が
  英米で発達したのです。

  
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「疑わしきは被告人の利益に」は司法における原則です。


警察などの行政組織には適用されません。

そもそも逮捕した時点ではまだ「被告人」ですらなく、「容疑者」です。

裁判という司法組織と、警察という行政組織はまったく別物だと思ってください。
三権分立は中学生のときに習いましたよね?

警察や検察は「司法に送る」のが仕事であって刑罰を与えるわけではありません。



有罪率が99.9%というのは有名な話であり、日本の司法の問題点の一つでもあります。

しかしそれには
「完璧に証拠を揃えられる状況でしか起訴しない」
という検察の手法が根底にあります。

本来は、ある程度の証拠があったらあとは裁判で判断して貰うのが司法制度です。

ところが、あなたのように警察に逮捕された段階で
「冤罪だ」などと騒ぐ国民が多いからそういった手法を取らざるを得ないのです。

裁判で被告人が無罪になるともの凄く検察叩きが行われますよね?
これでは何のために司法があるのかわかりません。

司法で無罪になることがダメだという風潮があるから、
検察は絶対に有罪になる事例しか起訴できなくなってしまうわけです。


そして、そういった背景があるから、
基本として「検察が起訴したのだから間違いない」という思いこみが裁判官に発生し、
稀に発生する例外的な証拠の少ない事例も有罪にしてしまうケースが出てきてしまう。



これが日本における冤罪問題の本質です。

証拠捏造などの違法行為でも無い限り、警察や検察の逮捕・起訴について
間違った原則の使い方で批判することは冤罪を増やすことにしかなりません。



一番有罪だと思いこんでるのは国民なんですよ。

有罪が確定するまでは無罪というのは当たり前のこと。
にも関わらず、起訴されて無罪になった人間がなぜか大きな風評被害を受けてしまう。

警察が取り締まりのために「犯人だろう」と思うのは当然ですが、
なぜか国民までが「犯人だろう」と思いこんでいるからこんな馬鹿げたことが起きてしまうのです。
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2番で回答した補足ですが、無責任体質に関してですが、ここもリアル世界の縮図で、時々質問者や回答者に無責任な非難を浴びせる人がいます。


最近体験したことですが、私としては関係法規を熟読し、複数の専門家の解説にも目を通し、間違いがないであろうと信じてある質問に回答しました。
ところが「ポイント目当てに違法なデタラメ回答をやっている人」と別の会員に書かれ、私としては普段から「ポイント目当ての怪答はやめるべき」と主張している立場上、自分がそう言われるのもしゃくなのでいったん退会しポイントを捨てて、ポイント目当てではないという証を立てました。
その質問自体まだ締め切り前ですが、私を非難した会員からは何らお詫びの言葉もないですね。
これは希な例ではないです。

これが世間の縮図で、ここで何をやろうが顔が見えないから責任をとる必要も無い。
松本サリン事件などでも、河野さんのお宅に非難する電話や手紙が殺到したと聞きますが、そういう事をした人たちは河野さんが無関係な被害者という事が分かっても、おそらく自分がやった行為が間違っているとは思っていないと思います。
警察がずさんな捜査をしたから、マスコミが悪い、自分は正義感にあふれた人間で、警察やマスコミに騙されただけで罪はない。
警察も結局は組織の理屈で動くので、組織の決めた方向に動くことが正義であり、間違えても組織の問題であって、警察官個人は責任なんて無い、裁判官や検事も無難な選択は組織の方向性であり、方向性が間違っていても個人としては責任がない。
国民も公が決めたことは公の責任であって関係がない。
誰も責任をとらない体質にも問題があるように感じます。
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私も交通違反で濡れ衣を着せられ、不起訴になり常識的には『推定無罪』なんですが、警察の管轄である点数は勝手に引かれてしまうし、事情を知らない人は反則金を払わずに済んだからごね得と言われたりさんざんでした。


私が思うに「お上の権威」だと思います。
今回の原発事故でもそうですが、国が基準を出すと一部の学者やマスコミは基準の根拠がはっきりしないと言いますが、大方は基準を下回ったから安全、超えたから危険と判断し、疑問を持たないでしょ。
本来は基準がどうやって作られ、本当に大丈夫なのか、たとえば基準を超えていたって、20年も30年も先に影響が出るというなら、私にとってみればその頃には平均寿命を超えてるので影響ないと同義語だし、赤ちゃんにとってみれば、基準を下回ったので「直ちに影響がない」と言われたって、この「直ち」が50年先の話だって大いに影響有りです。
ところが国などの公が発表してしまうとそれが受け入れられてしまう。
えん罪でも同じ事で、いったん警察が参考人として事情聴取すると、マスコミとしては間違ったら警察の責任にしてしまえばよいと安易に犯人扱いして報道し、一般も警察が参考人として手配するなら犯人に違いないと思ってしまう、間違えたら警察のずさんな捜査であって、それを信じた一般人は責任がないと安易に思う。
公が発表する内容を盲信するという国民性があるように思います。

私も当然の権利を行使しただけですが、警察の対応も「煩いやつに引っかかった。 変人にあたった。」という感覚でした。
警察自体も真実に基づいて動くのではなく、構築された推論を確定するために動くので、推論と異なるファクターは意図的に切り捨て、都合の良さそうなファクターは積極的に取り入れるので、えん罪はなくならないでしょう、これは私の実体験です。
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日本社会はまだ村社会であり、個人主義が浸透していないからです。

個人主義が浸透すれば、各人の権利義務関係が尊重されるようになります。つまりそのときに初めて日本は完全な法治国家になるのです。

日本では、悪いことをしたならまず謝りなさい、という発想があります。裁判でも同じ。謝らないととことんまで被告はやっつけられます。冤罪主張などしてみなさい。裁判官から「こいつは反省の色全くなし」となって心証最悪、もうほぼ有罪確定です。裁判官は法律家でありながら、村社会の住人なのです。そして判決のその瞬間は村社会の論理が勝つわけです。いや、正確に言えば裁判官個人は法律家かもしれませんが、高等審では常に村社会の論理が勝つ可能性があります。

そうなると裁判官がいくら合理的判断をしても意味がありません。最後は社会通念に照らして判断されるのですよ。参考文献として
http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4 …
を挙げておきます。世間学と言っておきながら著者は法学者です。多くの日本人にぜひとも読んでもらいたい一冊です。
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