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哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。

それは一体なぜなのでしょう。

ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。

彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。
ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。

宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。

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A 回答 (21件中1~10件)

外側からの眺めではなく、内側・只中においての眺めから見てみましょうか(河童の屁理屈は置いといて)。



「反感」というレベルの低い感情を持っている人間が歴史的背景など難しいことを判断してから反応することはないでしょう。

そもそも、「反感」というより、今そこにいる人間の在り方・言動・行為振る舞いに不快なものや欺瞞を感じるのではないですか。

キリストは自ら重荷を背負うと言ったそうですが。

それではキリスト教においては誰が・何が 重荷を背負うのでしょうか。決して弾劾され、磔にされることのないローマ教皇ですか?保護され、認知されている牧師・神父でしょうか。それとも「キリスト教」が背負うのですか。

キリスト教の、「キリスト者」なのだから、世界の責任の一端を担い、自らも重荷を背負う覚悟があって入信したのでしょうか。それとも、自分だけいい思いをしたい・甘い汁を吸いたい あるいは自分だけは救われたい と思って入信したのでしょうか。

艱難辛苦を甘受し、重荷を背負う覚悟もなく、単に優越感や特別意識を持っていればそれは不快でしょう。救われるつもりで、甘え・依存しているくせに、ときに偉そうに?していたり、嬉々としてキリスト教を語っているなら。

そういったことで批判され、弾劾されるなら、本望ではないですか。

もちろんこれはこのサイトでキリスト教について質問する人に対しての回答です。

「キリスト者」が反感を買い、弾劾されるなら本望でしょう。フランス人のバイブルスタディの先生も本望なのではないでしょうか。

キリスト教の欺瞞や、嘘が歴史として表れ、記されるのです。歴史が先にあるのではありません。

まさかとは思いますが、キリスト者・クリスチャンと言うのは キリストに甘える者・依存する者・ぶら下がっている者 という意味ではないですよね。


総括的 ? ですか。また河童が「馬鹿がまた引っかかった」と冷笑しているのではないですか。

河童もワルよのう
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この回答へのお礼

お礼が遅れておりますが、何とか年内に片付けようと、発奮しております。

あまがっぱさんがお好きなんですね。

イエスさんは、人々の罪を許して歩かれて、最後に我々の罪を背負って磔刑に会い、お蔭で、二千年後の現在に住む我々も、彼に甘え、依存しているわけです。

他の何者にも、甘えたり、依存したりしてはいけない、と仰るのです。

そして、そのために迫害されたり、糾弾されたりされるのは、本望なのです。貴方のおっしゃるとおりです。

教会に集まって、礼拝をしたり、聖書の勉強をしたり、悩みがあるときにはお互いに励ましあったりしている信者さんたちに、なぜ欺瞞を感じるか、なぜ不快なものを感じるか。

それが質問なのです。

優越感や特別意識を持って、偉そうにしているからですか。それが嫉妬という感情と結びつくのなら、うちの先生は正しいことになります。

と、いうわけで、うちの先生に一票入りました。

ご回答、誠にありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:07

かかりつけの築地の病院が聖公会系で家族共々随分お世話になってきているからでしょうか、


私自身はキリスト教やキリスト教徒に対して特に反感を抱いたことはありません。

25年以上も前、ちょっとした怪我で入院した際、病室を巡回する図書ボランティアの存在を新鮮に思い有難みを感じ、後日手伝ったことがあります。
病院の空間とはうらはらに、一歩病院を出ると、私の行為は部外者にとっては偽善に映るものだったのかもしれませんが。
私のようなキリスト教徒ではない元患者や家族のみならず、勤務医が退職後にボランティアの立場で診察支援をすることも珍しくないとのことです。
終末期医療や乳房再建の心のケア、無差別な攻撃(地下鉄サリン事件)に対する対処など、地味ながらも困った人の役に立つという点において率先して取り組んできたその経緯は相応に評価し得るもので、それは立役者の現理事長そして創立者のキリスト教徒としての使命と決して無縁のものではないはずです。

ただしそんな私でも、一国の大統領が「十字軍」を持ち出し演説したような国際社会における政争の具や御旗としてのキリスト教に対しては、反感というよりも懸念や憂いを抱くことがあったのも事実です。
その病院とて、数年前に内紛による医師の退職で、患者をないがしろにしているなどと雑誌にスキャンダルとして派手に書きたてられましたっけ。

信仰の対象でないかぎりは、物事には良いところと悪いところの両方が見い出しやすいのですし、キリスト教を信仰していないからこそ見え、反感や憂いを抱くことがあるように思われます。
もっとも、先生の論理では嫉妬にしか映らないのかもしれませんね。

その考えをすり合わせていくことに、質問者さまには、何か意味が見出せるのでしょうか。
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この回答へのお礼

回答が遅れて申し訳ありません。

築地の聖路加病院のことでしょうか。院長先生は、素晴らしい方だと聞いておりました。もう大変なお年でしょうが、お元気でしょうか。病院内でボランティアをなさったとのこと、嬉しく伺いました。それが外に出ると、偽善に映ってしまうというのは、残念なかぎりです。

今までのご回答の中にも、偽善、欺瞞、などという言葉が含まれていました。

偽善や欺瞞では、長いこと、無償のご奉仕ができるものではありません。

聖路加病院のようなところでも、内紛があったり、スキャンダルがあったりすると、キリスト教関係の病院であるだけ、余計に批判が集まるのかもしれません。過大な期待があるのですね。

先生は嫉妬と仰るけれど、私には人様に嫉妬されるような、華やかなところは少しもありません。質素で謙虚に生きるのが目標なのですが、ボランティアをするときに、いかに、お相手から、反感を取り除くか、というのが、実は大切なポイントです。

私の不注意で、お相手の気持ちを傷つけたりしない、というのが、現在の私の目標なのです。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 13:10

相手は先生なのだろう? 反論をして対等に話す必要など、そもそもあるのかい?


――わからぬやつは、わからんでもよい。信仰とは、開き直りとも言えるほどの、透徹した決意があってこそ成り立つもんじゃないのかい?
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって、申し訳ありません。

たくさんの人に教えておられる方ですが、質問や意見はいつも受け付けておられます。

もちろん、段違いに深い信仰心に支えられた方なので、私の意見など、はねつけられるのは覚悟の上です。

私の身を心配していただきまして、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:49

 No.7です。

ご返答をいただきました。

 冗長にならないことのみ 前回の回答内容の確認のためにしるします。
 ★ ~~~~~
 それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。

 それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。
 ~~~~~~~

 ☆ もしカルワ゛ンがこの『キリスト教綱要』をロー教会や各国の政治や社会の状態などなどの時代情況に応じて書いたとしたら それこそ『綱要』としては要らないのではないでしょうか? おしえ(つまり ここは神学です)が時代情況によってころころ変わりましょうか?


 それに引き合いに出しました第一編第一章は 時代情況にいっさいかかわらないところの
 ★ 聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性がある
 ☆ そのことについてです。
 つまり わたしの回答は そのようにイエス・キリスト論として質問者さんがカルワ゛ンの発言に賛同するのかどうかを問うています。
 カルワ゛ンは――実際にはその時代にすでに コーワ゛ンと発音されていたそうですが―― 見るべきものがありません。政治的手腕があると言っても それは キリスト・イエス論にとって論外の問題です。
 そのように
 ★ 彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで
 ☆ ではなく 突き放して見ていますよ。

 この質疑応答の場というのは そのような互いの情報交換――わたしは 対話と呼んでいますが――を経ながら 世界に OK の波をおこして行こうとするところだと承知しています。



 《言動に終始一貫性があるから信奉する》というのは――《神によってではなく 人間の意志によって神の子らとして生まれた》(ヨハネ一章では逆 を参照)と言っているようで―― 微妙なのですが つまりあまりいただけないと思うのですが ともかく上に述べました一点のみ お伝えいたします。
 確認するならば こうです。
 ○ 《キリスト者は 聖書の知識や神の〈認識〉によってではなく 名を受け容れたこと(信じること)によってあゆむ》であるはずなのに カルワ゛ンは その逆のことを言おうとしている。のではないか?

 ☆ このような自由な言論に 《自分のほうに引き寄せるも引き寄せない》もありません。ご自分の見解やお立ち場が都合わるくなると 答えないようになり ほかの話ではぐらかすというのは キリスト者のおこないではありません。《反感を買うか否か》あるいは《それは嫉妬だ いや違う》うんぬんどころの問題ではなく 根本的な問題であるとお考えになりませんか?

 二千年が経って 世界は変わって来たようなのです。どんでん返しを予感なさいませんか?
 (とにもかくにも この二千年は まだまだ消化不良を起こしていたということではないでしょうか? 権威があるように見えるものを 権威ある者としてただただまつり挙げていればよかった。そのようにして 消化期間をもうけざるを得なかった)。
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この回答へのお礼

再度のご回答、ありがとうございます。

人間の作り上げた組織の問題点はいつも同じです。権力争い、金権争い、後継者争い。。。教会内部も同じです。ただ、これは人間の問題であって、神の問題ではありません。

カルヴィンが、神の顔を見よ、といったのは、教会内の人間同士のいざこざから目を離し、もう一度、神の言葉を聴け、ということでしょう。それは、現在でも同じです。

一人の人間にできることは限られています。なるべく大きく、影響力のある教会に属して、そこでご奉仕をしてゆくことは、社会の中で虐げられた、貧しい人たち、病気の人たち、そして、苦しんでいる人たちに、かかわってゆくときに、より効果のある(たくさんの人たちを助けることができる)方法であると思います。

そして、人間的に成長し、驕った心、高ぶった心を、自分から、切り離してゆかなくてはなりません。そのための、バイブルスタディ、そのための、質問です。

ご理解いただければ、幸いです。

お礼日時:2011/12/31 12:40

>宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。


少しズレた答えになってしまうかもしれませんが
キリスト教に違和感を感じてしまう日本人的感覚から答えてみたいと思います。

キリスト教では、神を信じることを必須のこととして説いていますが
日本で一番大衆的な浄土宗では、念仏を唱えるだけでもよいとされています。
信じることが必要なのではなく、簡単な念仏を唱えるだけでもよいとされています。
愛や慈悲心を享受する立場を得ることにおいて、一遍の念仏だけでもよい、という解釈は
信仰心を持つ人、持たない人、すべての人を救済しようとする教えのように見えます。
信じる人だけが救われるというキリスト教と違って、信じない人でも救われるという最も簡単な実践を示したものです。
それは余りにも、甘過ぎる教えなのかもしれませんが
日本人に広く受け入れられた一つの宗教の極至だったようにも思います。
一つの神への信心を始めから必要とするキリスト教とは、大きな隔たりがあるように思います。

日本古来の神への信仰においては、自然と一体となった形が一般的なようです。
伊勢神宮はその最もたるものだと思います。
移り変わりゆく自然と共に様々な神もまた永遠に存在する、という感覚があると思います。
キリスト教では、神は一つであり、自然は神が創造したものであり、神とは超自然的存在であるようです。
自然と神は一体であるという日本人的感覚からは、どうしても違和感があるように思います。

以上簡単ですが、信心の有無の必要性と、神と自然との一体感の有無において
日本人の心がキリスト教に馴染めない面があるように思います。
それらも、古臭いといってしまえばそれまでですが
でも、なくなることはない、といった感じもするのですが・・・。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

そうですね。浄土教の阿弥陀様は、死にそうな人がいやだといってもお迎えに来て、極楽に連れて行ってくださる、と聞いたことがあります。”山越えの弥陀”でしたか。もし、それがスタンダードなら、”契約”から始まるのは、堅苦しく窮屈でしょう。

日本の豊かな自然に結びついた、古代の宗教の形が、まだ濃厚に残っているというご意見ですね。一体誰が祭られているのかよく判らないお社にも、ありがたさを感じて、手を合わせて、頭をたれる、というのが、日本の神道の良さなのでしょう。

それは、これからも長く続いてゆくものだとのご指摘です。

嫉妬、とはかけ離れた感情ですねぇ。これは。

日本人ならではの、感覚の確認をしていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:21

いやいや、河童先生はそこまで悪人ではないですね。



自分で自分のしていることがわかっていないだけなのです。

河童先生は、以前このカテで自分のことを「アホ馬鹿」と言っていましたが、それは自嘲し過ぎですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 12:09

お礼ありがとうございます。



>噛み砕くと、宗教の奥義に無知であるため、それが、偏見や反感に?がってしまうということですが。
デ・ローチ先生のいうには、”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”人たちが多いのだそうです。

その先生のおっしゃることに近いと思います。

>キリスト教国の犯したたくさんの間違いを見て、キリスト教そのものの信憑性を判断することなのでしょうか。

本質は見がたいあまりに、表層に頼るのが人の弱さなのでしょうね。

>あとは、愛着、と仰るところがもうひとつわからなかったのですが、神道や仏教への愛着、ということでしょうか。

そうですね。慣れ親しんだものには道理を越えて惹かれるものです。

結局、キリスト教にしろ仏教にしろ、ほとんどが迷える羊であり、羊どうしが背比べしているというのが実状ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

お礼のなかの質問にまたお返事くださいまして、ありがとうございます。

本質は見がたいあまりに、表層に頼る人の弱さ。。。。というところですが。

本質というのは、英語で言うとリアリティのことで、(Realの名詞です)、日本語の”現実”と混同されがちです。ホーキング博士のブラックホールの研究を受けて、スタンフォード大学の先生が、実は、手当たり次第に周囲を飲み込んでゆくブラックホールの向こう側にこそ、本質があって、今我々が見ている現実は、そのホログラム(三次元の映像)にすぎない、という理論を研究なさっていられます。

ブラックホールの向こうが本質であり、現実は単なる表層である。。。。というのは極めてお考えに似ているように思い、これをもって、お礼の文章にさせていただきます。

ほかの方がおっしゃっている通り、宗教に帰依しても、決して、現実の問題が解決するわけではないのです。ただ、心の安らぎが訪れるだけです。これも単なる表層に過ぎないかもしれませんね。

お礼日時:2011/12/31 11:46

No.9の回答中に重大な誤記がありましたので、訂正します。


4段落目の後半、
「現に、アメリカ中西部社会では、未だに進化論を信じるキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
は「・・・・・・・・・・・・・・未だに進化論を否定するキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
の誤りです。正反対の意味になりますものね。
その下に表示した私の過去問における関連記載はNo.1や4のご回答に見えます。

ついでに、若干コメントを追加します。

他の回答者の皆さんのご回答やお礼を読んで・・・。
やはり、偽善や他宗教を受け入れないことや、世界制覇や戦争や大量殺戮や差別に手を貸したことなどが、反感の原因になっているようですね。

又、あなたの言われるように”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”という人もおられますね。確かに、キリスト教に限らず宗教を信じている人の中には、「自分は正しい」という気持ちが強すぎて、他人に対して嫌に居丈高になっている人(いわゆる「偽善者」)もいると同時に、逆に宗教に頼らないと生きて行けなさそうな、とても弱弱しそうな人も多いように、昔感じたことがあります。(まあ、このようにステレオタイプ化するのはよくなく、今は色んな性格の人がいることに気づきましたが・・・)
ですから、前にも言いましたが、キリスト教信者と言っても色々いますし、皆普通の人間ですから、問題もありますし、間違いも大いにします。そのような人がいたからといって、その宗教は変だというふうには、どうか見てほしくないのです。

最後に、あなたが問題提議されていることですが、先生のおっしゃっているのは、キリスト教に反感も持つ人々の反感の背景には、キリスト教に対する”嫉妬”があるという意味でしょうか?

つまり、キリスト教を含めた西欧文明や、白人優位説や、実際に彼らが他の地域・民族・宗教を信じる人々に比べて裕福だったということでしょうか?

これは一概には言えませんが、古くはキリスト教の前身であるユダヤ教の母国であるユダヤの民は、長い間他民族に支配・抑圧されていましたし、イエス・キリストも、飼い葉おけの中で生まれ、最後は皆に裏切られて十字架上で悲惨な最期を迎えており、必ずしも、キリスト教が富める者・民族の味方だということはありません。しかし、ある時点で権力と宗教が結びついた時点で、残念ながらキリスト教も世界制覇に協力するなど、不本意な歴史を重ねてきたのは事実だと思います。
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この回答へのお礼

お礼が遅れ続けて申し訳なく思っています。

西欧文明優位説や、白人優位説のせいで、”嫉妬”という言葉を使われたとは、普段の言動からは、とても信じられないので、頭をひねっているところです。

現在のところ、物質的な豊かさ、といえば、中東の国々の裕福さには、誰も太刀打ちできません。ご近所にM.D.Andersonという名の、名の通った、癌専門の病院があるのですが、海外からそこの特別室に入院なさるのは、中東の方ばかりですし、サウジアラビアの王子様も、亡くなるまでニューヨークの病院で治療を受けておられました。多分アメリカの健康保険に入っていなかったでしょうから、莫大な財産を費やされたことでしょう。

けれども、ご存知のように、アラブの民の先祖は、アブラハムの妾腹の息子で、嫡子が生まれたところで、砂漠に追放されてしまいます。ですから、直系の血を受けたイエスに、傍系の出であるところのイスラム系の人たちが、”嫉妬”するのか、とも考えてみたのですが、これは違います。

もっと、根本的な理由でしょう。イエスの教えは、永遠普遍の真実であり、それを丸ごと受け入れることが可能であったのは、別に信者が優れていたわけではなく、神の恵み(慈悲)があったからです。その辺りのヒントがあるように思い始めています。うまく言葉にできないのが、残念です。

再度のご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 11:27

人間は自分が理解できないものには根拠のない反感を持つものだと思います。


キリスト教が自分を受け入れてくれないと思うからではないでしょうか。
その先生は嫌いきらいも好きなうちのような相反する気持ちの絡み合っている
心理状態を嫉妬と言っているのでしょう。

まったく無関心だったら、回答もつけないのではないのでしょうか。

キリスト教は律法主義ではありません。

マタイによる福音書11の25以下ルカによる福音書10の21-22をお読みください。

イエスは律法に縛られていた人間を開放し一人一人の人間が神との関係を持つことを
教えられたのです。

マタイ 11の25
その時イエスはこういわれた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを
知恵あるものや賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
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この回答へのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

そうですね。信者の側から見ると、ご回答は大変に正しいように思われるのですが、回答してくださった方たちから、偽善、欺瞞、との言葉をいただいているので、それにはそれなりの理由があるように思われます。

実際のところは、先生に伺ってみなければわからないのですが、皆さんの回答を読んで、考えてみたお蔭で、お返事を伺って、”ああ、そうですか”だけではなく、もう少し問題提起ができるように思います。

師走のお忙しい時期に、お時間をとっていただき、誠にありがとうございました。

お礼日時:2012/01/01 01:51

たぶん質問者様もお感じになっておられるのではないかと思いますが、読み物としての聖書は素晴らしいが、それが掟となって拘束されるのは嫌だ、ということがあるのかもしれません。

日本には「嘘も方便」という諺がありますけど、キリスト教のような厳格な律法主義にはそういった方便は通用しません。現代日本のような自由主義の時代では、そういう厳格なイメージはなじめないのかも。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

キリスト教の神は父親のような厳格なイメージがある、ということでしょうか。

イエスが人類全部の罪を負って磔刑になり、そのために、我々の罪が許された、というのも少し大掛かりで、好みではないかもしれません。

イエスか、ノーか、ハッキリしないところで生きてゆくのが楽ちんになってしまうと、洗礼を受けたりするのにも、違和感が感じられるかもしれません。

ライフスタイルの違い、というところでしょうか。

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2011/12/31 10:55

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Qキリスト教は矛盾していませんか

私は無宗教に近い、葬式仏教の日本人としてイスラム教とかキリスト教とかの宗教にも関心がないのですが、キリスト教が分かりません。
特別な神の子であるイエスが磔で死ぬのはおかしいし、処女懐妊もおかしい。 天地創造の神ヤーウェの力があれは 一瞬にキリストを創造し、無敵の生命力も持たすことができるだろうに、矛盾しています。精霊と神とキリストは一体だと三位一体説もあります。
普通に考えれば、ユダに裏切られたのも、他の弟子に3度知らないと言われたのも、信頼できない指導者であったとするのが自然です。 地域住民がローマ総督に訴えたのもアサハラのような人間であったと考えられます。 奇跡を行ったというのも、詐欺臭い。 復活したというのも騒乱罪で磔になったイエスが失神していて、4日後に意識が戻ったとするのが自然です。
なぜ大宗教になっているのでしょうか。

Aベストアンサー

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思います。
キリスト教が国教になる前、ローマ帝国は「ソル・インウィクトゥス」(不滅の太陽)という太陽神への信仰を広めようとしたことがあるそうです。太陽は1つしかありませんし、どこでも拝むことができますから、国をまとめる宗教として適当だと思われたのでしょう。ローマ帝国にとって重要なのは、政治に役立つかどうかであって、教義などの中身は二の次です。

ともあれ、それなりに信者が多くないと、ローマ帝国もキリスト教を選ばないでしょう。1~4世紀のローマ帝国で、キリスト教が普及したことには、いくつかの理由があるようです。

1.キリスト教は本来、いわゆる社会的弱者に対して共感的でした。これはどうやら、イエス本人の生前の教えによるものです。「貧しい人こそが救われる」など、社会の底辺で苦しい生活をしている人々に、受け入れられやすい教義をもっていました。そういう人ほど、一度信者になれば熱心に信仰しますから、布教には有利な特徴です。

2.キリスト教には、ややこしい戒律などはなく、簡単に信者になれました。大雑把に言えば、「あなたはイエスがいったん死ぬことで、人類の罪をあがなったことを信じますか?」「はい、信じます」だけでOKです(イエスの死後、パウロという人がつくった教義です)。日本でも鎌倉時代に、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」といった宗教が流行したことがありますが、あれと似たような感じですね。この手軽さも、広く受け入れられた理由でしょう。

3.これはやや否定的な側面ですが、キリスト教の教義では、「イエスの死と復活を信じない者は救われず、永遠に地獄で苦しむ」とされています。救われる(天国に行ける)方法を1つに限定することで、信者を脅している面があるわけです。いまでもカルト宗教などが同じ手を使うことからわかるように、藁にもすがるような心境の人を入信させるには、非常に有効な方法です。

4.ローマ帝国は特に2世紀から、キリスト教を弾圧していました。が、当時のキリスト教徒の多くは、もともと苦しい生活を強いられていたので、この世にあまり未練がありません。「殉教すれば天国に行ける」と信じていますから、なおさらです。苛酷な弾圧にも耐える人々の姿は感動的なので、「これは何か、すごい教えなのかもしれない」と思う人も出てきます。つまり皮肉なことに、弾圧がかえって信者を増やすというケースもありました。

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思い...続きを読む

Q宗教にはまる人とはまらない人の違いは?

オウム、創価、統一教会といった宗教(団体)や、
江原や細木といった恫喝霊媒師等に脳みそ全部預けてしまう人と、
そういったものには近づかず自分なりの宗教観を持って生活する人
の違いって何でしょうか?
その人の生い立ち環境や教育、性格にどういった特徴があるのでしょう

おそらく正解というようなものは無いとは思うのですが、参考になる
ようなご意見を聞かせていただければと思っております。
確証はないですが、「引きこもり」になるならない、「自殺」する
しないタイプの人の違いにも通じてるような気もします。

Aベストアンサー

私見ですが。

宗教には基本的に誰でもはまります。
どんなに強固な信念を持っていたって、科学が発展したって、死んだ後はどうなるのかとかココロとは何かとか運命とは何かといったことは納得できるように説明できませんし、もちろん自由に操作することもできません。人間は「わからない」ということを忌避する生物でありいろんなことに考えが及ぶ生物なので、世界とか人生とかいったことについて何らかの物語を求めます。科学の発展や未開地の探検がほぼ終わったことなどによって、大地が巨大な象の上に乗っているわけではないとかキリスト教の神様がみんな白人というのはおかしいとか、いろいろな宗教世界が描いてきた世界像の間違いが暴かれていきましたが、だからといって運命とか生死とか善悪とかいう宗教や哲学が扱っている様々な問題に対しては科学は回答を示せません。そして繰り返しますがわからないことをわからないとして放置できないのが人間の性質です。

日本は国教として神道を持っていたんですが、それを戦争の国威発揚に利用して負けたために現人神の役を担っていた天皇が人間宣言をするはめになって、神様の権威がかなり落ちてしまった。それで人は生まれる前何であって死んだらどうなるのかとかいった世界観について社会的なコンセンサスを持ち合わせていないのです。だからいろんな宗教が普及する余地がある。

実際に宗教にはまるかどうかは個々人の置かれている状況などに大きく依存します。生活の中で恋人にふられて絶望するとか不治の病に侵された場合は科学なんて屁のツッパリにもなりませんから、宗教に傾倒しやすいです。ぼくを含めて多くの人が宗教を無視していられるのは、死とか絶望とかいったことに直面していないからですが、半年後に絶対に世界が滅亡するなんてことになったら宗教が大ブームになるでしょう。

そういった環境要因を除外して個人の気質だけを問題にするなら、何事にも自分の信念を持つような思い込みの強い人の方が実は宗教にはまりやすいです。好き嫌いがはっきりしている人でしょうか。芸術家なんかがそういう特性で宗教に傾倒しやすいです。

しかし特に新興宗教団体なんかは、ぐずぐずしていて決断力が無い人を取り込むためのサークルのような構造を作っていますから、決断力が無い人が一度そこに取り込まれると、抜け出す決断ができないためにそこに居続けます。摂理の問題でこないだテレビでやってましたけど、宗教ですがどうですかというのではなくて、サークルだとか勉強会だとかいって勧誘します。オウムだってヨガの研究会でしたし。こういうグループに生活の多くの部分を依存すると、決断力が弱いタイプの人はおかしいかもしれないと思っても抜け出せません。そういう意味で意思の弱い人も宗教に取り込まれやすい。
考え方が中庸でバランスが取れている人は、極端な思想の宗教にははまりにくいと思います。
そんな感じでしょうか。

オウムだの摂理だの統一教会だの創価学会だのエホバの商人だの慧光塾だのといった周りに迷惑をかける宗教にはまったり、細木数子だの江原啓之といったデタラメを言う連中に惑わされたくなかったら、とりあえず適当に神道なり仏教なりキリスト教なりイスラム教なりを選んでちょっと勉強して信心しとくのがいいと思います。まあ日本だったら神道か仏教でいいんじゃないでしょうか。

私見ですが。

宗教には基本的に誰でもはまります。
どんなに強固な信念を持っていたって、科学が発展したって、死んだ後はどうなるのかとかココロとは何かとか運命とは何かといったことは納得できるように説明できませんし、もちろん自由に操作することもできません。人間は「わからない」ということを忌避する生物でありいろんなことに考えが及ぶ生物なので、世界とか人生とかいったことについて何らかの物語を求めます。科学の発展や未開地の探検がほぼ終わったことなどによって、大地が巨大な象の上に乗っ...続きを読む

Qなぜ日本ではキリスト教の普及率が悪いのか?

 ありきたりですが、気になるのでよろしくお願いします。もともと仏教だから、といった紋切り型の理由ではやはり説明できそうに思えません。まず、韓国の爆発的な普及、台湾や中国など。日本人はキリスト教の福音活動の話を聞こうともせず、はなから拒絶するのに対し、彼らは一応耳を傾ける傾向があります。これはオウム真理教などの影響もありそうですが・・・しかし、占いなどや細木和子は信奉できるというのも、不思議に思います。
 できる限り、感情的返答は避けていただきたいと思います。できれば、学問的に宗教社会学・哲学などの手法で、お答えをいただきたく存じます。

Aベストアンサー

 むしろ、何故、韓国や台湾でキリスト教が人気があるかを考えるべきです。

 各国に昔からある宗教というのは、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められた歴史を持っています。韓国や台湾では、歴史的に中国本土の支配者の圧政を受け、社会構造的に、国民は、伝統的な仏教は自分たちに何もしてくれなかった、自分たちを支配してきた、という思いが強いのではないでしょうか。従って、自分たちを、より自由にし平等に扱ってくれそうな、外来のキリスト教を理想化して期待しているのだと思います。

 しかし、西洋では、キリスト教は、実際には、当初(ローマ帝国時代)から支配者によって人々を支配するために創作され、歪められ、利用され、戦争の原因でもありました(現在も)。「三位一体」、聖母マリアの処女懐胎、最後の審判、も創作されたものですよね。

 日本は、国際法に反してキリスト教国のアメリカから原爆を落とされ、アメリカはそれをいまだに正当化しています。欧米のキリスト教では、非キリスト教徒の日本人を対等な人間と見ていないでしょう。・・・日本人にはキリスト教に対する不信感があります。そのような尊敬すべからざるキリスト教徒に自らなろうとは思わないのではないでしょうか。日本人は、キリスト教国の経済的な豊かさにあこがれているだけです。

 キリスト教は昔から福音活動に熱心ですから、日本人はその内容を皆おおかた知っていると思います。しかし、上述のように、キリスト教も、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められいますから、イエスキリストの教えが、どの程度、聖書にもとのまま残っているかは、分かりません。日本人はそのことを知っているのです。欧米のキリスト教の多くの研究者でさえ、聖書の大部分が事実でないと考えます。

 キリスト教の神を信じれば悪人でも天国に行くことができ、信じないものは善人でも地獄に落ちる・・・そのような、日本人の長い歴史にわたって体験してきた因果応報の法則に反し非常識で不道徳な教えは、日本人には通じないのだと思います。

 また、日本人は、元々、自然を崇拝し、多神教でしたから、人間のように嫉妬する尊敬できない絶対的唯一神に強い違和感を持つのだと思います。

 今や、ニューエイジの時代です。質問者様、キリスト教にこだわることなく、「プレアデス+ かく語りき」バ-バラ・マーシハニック(太陽出版)、「テオドールから地球へ」ジーナ・レイク(たま出版)、「シルバーバーチの霊訓」アンドゥーリー(潮文社)、「神との対話」ニール・ドナルドウォルシュ(サンマーク出版)をお読み下さい。日本において、なぜキリスト教が浸透しないのかを、より深くご理解いただけると思います。

 むしろ、何故、韓国や台湾でキリスト教が人気があるかを考えるべきです。

 各国に昔からある宗教というのは、支配者によって人々を支配するために利用され、そのように歪められた歴史を持っています。韓国や台湾では、歴史的に中国本土の支配者の圧政を受け、社会構造的に、国民は、伝統的な仏教は自分たちに何もしてくれなかった、自分たちを支配してきた、という思いが強いのではないでしょうか。従って、自分たちを、より自由にし平等に扱ってくれそうな、外来のキリスト教を理想化して期待しているのだ...続きを読む

Qキリスト教の彼なのですが・・・

私には遠距離恋愛中の彼がいます。
遠距離ですが特に問題もなく良い関係を保っています。

ですが、ひとつ問題があります。
結構前に聞いたのですが、彼はキリスト教らしいのです。
(カトリックかプロテスタントかは分かりません)
でも両親がキリスト教で、自動的にキリスト教になったらしいので
熱心に教会に行ったりはしていないみたいです。
私はキリスト教のことはよく分からないですし、
別に怪しい宗教でもないと思うので特に気にしてはなかったのですが
以下のことを言われて「ん・・・?」と思ってしまいました。

・正月や雛祭り等は他の神様を崇めることになるのでしない。
(おせちくらいは食べるみたいですが)
・初詣等にも行かない。
・結婚式も必ず教会で。
・結婚したら、私も教会に連れて行くと言う。
・子供が生まれたら、子供も教会に連れて行くと言う。
・自分達が死んだら、お墓は無し。

私は無宗教ですが、お正月やお雛祭り等は普通にやりたいですし
結婚式の時も着物を着たいですし、自分のお墓も欲しいです・・・
キリスト教を批判するつもりも嫌うつもりもありませんが
宗教自体に全然興味がないので、教会も行きたくありません。
彼に「行くつもりはない」と言っても
ふざけた感じで「駄目だよ~連れて行くよ」と言われました。
彼が「お正月等の行事をやらない」と言ったのも、サラッと言っただけなので
私が強情に「絶対やる!!」と言ったら出来るのかもしれませんが・・・。
彼が言ったこと以外にもキリスト教の掟(?)みたいなものが
あると思うので、それも不安です。

彼と宗教について真剣に話し合った事はないのですが
(話し合わずに相談してすいません)
意見を譲らないと言われたらと思うと、気持ちが滅入ります。
もし結婚して子供が生まれたら、子供をキリスト教にしたくないですし・・・
キリスト教を批判するつもりも嫌うつもりもないとは言いましたが
正直、宗教というもの自体毛嫌いしてるとこがあります。
とにかく何も崇めるつもりはないのです。。
問題はこのことだけで、彼のことは大好きなんです。
結婚も考えています。それなので上記の悩みが出て来たのです。
もし結婚したら宗教の事で衝突があるかもしれないと思うと不安です。
彼の両親も、結婚相手がクリスチャンでないと嫌な顔をするかもしれないんだそうです。

極端ですが、どうすれば彼にキリスト教を辞めさせることが出来るのでしょうか。
(もともと親に流されてる感じもあって嫌だったのです)
辞めさせるまではいかなくても、
結婚してから普通にお正月したりと行事を決行する方法はあるのでしょうか。
それとも、考えたくありませんが、別れたほうがいいのでしょうか・・・。

パートナーがキリスト教の方や他宗教の方、
無宗教の方、どなたでも宜しいので意見やエピソードなどを聞かせて頂けると嬉しいです。
拙い文章を長々と失礼致しました。

私には遠距離恋愛中の彼がいます。
遠距離ですが特に問題もなく良い関係を保っています。

ですが、ひとつ問題があります。
結構前に聞いたのですが、彼はキリスト教らしいのです。
(カトリックかプロテスタントかは分かりません)
でも両親がキリスト教で、自動的にキリスト教になったらしいので
熱心に教会に行ったりはしていないみたいです。
私はキリスト教のことはよく分からないですし、
別に怪しい宗教でもないと思うので特に気にしてはなかったのですが
以下のことを言われて「ん・・・?」と...続きを読む

Aベストアンサー

妻が熱心なプロテスタントのクリスチャンです。私も洗礼を受けましたが、興味なくなったので、教会へは行ってません。

・正月や雛祭り等は他の神様を崇めることになるのでしない。
(おせちくらいは食べるみたいですが)
・初詣等にも行かない。

これはほとんどのクリスチャンがそうだと思いますよ。そのかわりお正月にはそれに代わる礼拝があります。ただ、うちは初詣も行きますし、お正月も祝います。妻はあまり拘りませんね。

・結婚式も必ず教会で。

これもクリスチャンなら、するでしょうね。というか、女性なら教会で挙げるのを夢見ている人が多いんじゃないですか?

・結婚したら、私も教会に連れて行くと言う。

信仰は自由ですからね。強要して連れてって楽しいんでしょうか? 彼は。行きたくないとはっきり意思表示してないんでしょう。あなた。

・子供が生まれたら、子供も教会に連れて行くと言う。

教会学校がありますからね。クリスチャンとしてはそうしたいでしょう。私も許してますけど、行事や旅行のときは礼拝や教会学校は行きませんね。それほど熱心に行かなくてもいいと思いますが。ただ、洗礼はちゃんと大人になってからじゃないとできないと思います。

・自分達が死んだら、お墓は無し。

ああ、そういうクリスチャン多いですね。でも遺骨はこまるでしょう。遺灰を撒いてくれという要望をする人もいますけど、はっきりいって迷惑なんですよね。これって。教会の共同墓地に入ることになるんじゃないですか? 普通の霊園のように個々の墓石があるとこだってありますよ。



私の妻は熱心に通ってますけど、聖書の知識はあまりなく、私のほうが詳しいくらいです。

仏式の葬式には出ない、手を合わせないって方はさすがに少数ですが、妻は普通にしますけど、熱心な信徒は通常の焼香はせず、手を組んで目をつぶり冥福を祈ります。

熱心な信徒は日曜礼拝はよく出ますけど必ずというわけではありません。都合の悪いときや、用事があるときは休みます。

妻はあまり拘らないし、参拝はしませんけど、あちこちの神社にもよく行きました。靖国神社にも行きましたね。

教会では個人の意思が一番尊重されます。ですから信仰を強要するような人はほとんどいません。聖書の例えで笑い話したりしますが、普段の生活では全くといっていいほど、聖書の話題などしないでしょうね。普通の信徒は。

プロテスタントかカソリックかの違いは重要ですよ。プロテスタント系のほうがわりと厳格で、お酒とか嗜好品とかを嫌います。

日本基督教団のような大きな連合体は問題ありませんが、新興宗教など怪しいところもあります。彼に聞いておいたほうがいいでしょう。

あと、お布施、献金ですが、これは心配することないです。クリスチャンはケチが多くて多額の献金をしません。それに多額の献金をするやつは偉くないって聖書に書いてあるものだから尚更です。ですから教会の会計はみんな嫌がりますね。逆に多額の献金を要請するところは要注意です。

わたしもよく妻に「だからクリスチャンは理想主義者で困る」とか苦言を言ったりしますけどね。奇麗事が私嫌いですから。聖書を熟知している方は「それは違うぞ」というかも知れませんが、一般的に、クリスチャンは理想主義者で、奇麗事いう人が多いですよ。たとえば、子供はみな根は素直でいい子なんだとかね。私はそういうのが嫌いで、衝突はありますけど、破局とか深刻なことにはなりませんよ。神の上に立てられた結婚ってのは意外と強固なんです。彼が熱心なら、あなたとの結婚を神からの啓示という風に考えます。あなた自身が別れを望まない限り、悪い方向になることはないと思います。

キリスト教に良い印象持ってないなら、信仰は勧めません。多くの信徒も同じように考えると思います。意思を無視して信徒を増やそうとするのは新興宗教だけです。信仰心がなくとも結婚生活は続けられると思います。

妻が熱心なプロテスタントのクリスチャンです。私も洗礼を受けましたが、興味なくなったので、教会へは行ってません。

・正月や雛祭り等は他の神様を崇めることになるのでしない。
(おせちくらいは食べるみたいですが)
・初詣等にも行かない。

これはほとんどのクリスチャンがそうだと思いますよ。そのかわりお正月にはそれに代わる礼拝があります。ただ、うちは初詣も行きますし、お正月も祝います。妻はあまり拘りませんね。

・結婚式も必ず教会で。

これもクリスチャンなら、するでしょうね。...続きを読む

Q日本ユニセフに募金しちゃダメ

アグネス・チャンで有名な日本ユニセフはいろいろと問題があるみたいだね
ユニセフとは全く無関係な組織で
募金しても日本ユニセフの懐に入っちゃうだけとか
日本ユニセフには募金しないほうがいいのかな?

Aベストアンサー

>ユニセフとは全く無関係な組織で

ちょっと誤解があるようですが、全く無関係ではないですよ。

日本ユニセフという組織は、『ユニセフに協力する民間団体』です。
いろいろな審査があって、それにパスすると『ユニセフ』の名称を使用する事を許可されるのです。
まあ、一応ユニセフに認定された民間団体ってことで。

民間団体ですから、募金されたお金を何に使おうが勝手です(基本的に)。
ユニセフに協賛する団体ですから、『上納金』はそれなりに払う必要がありますが、
100円募金されたとして、100円全部寄付するか、10円だけ寄付して残り90円を自分の懐にいれるかは、その団体次第です。

Qプロテスタント教会での出来事

教会に恐怖を感じていくのをやめました。
洗礼は受けていませんが、一日5時間聖書を読めとか、一度でも礼拝を休むと
必ず、しつこく詮索してくる人がいます。今まで大勢の人が教会を去って行きました。
教会はどんな人でも受け入れるのが神様の愛なのではないのでしょうか?
普段はいい人なのですが、聖書を少しでも理解できない人や、期待した言葉をださないと
感情をむき出して、その人たちを排除して、オウムや創価のような恐怖や洗脳を思い出すがあります。1度、警察沙汰になったとき「私は悪くないのこの人は悪魔なの」と
警官のまえで悪あがきをして、このことが教会をやめる決定打になりました。
宗教って、生きることに疲れた人が心のよりどころと平安を与えるところ、
単純な理由で弱者や異質を攻撃するのなんて、残念です。
多くの教会が社交場化しているのでは、駅から歩いて3分もないのにわざわざベンツやBMWで乗り付けて路上に止めることもないのでは。

Aベストアンサー

カトリック信者で、ここの所原則毎週カトリックの教会に通っています。
少なくても私の周りでは、カトリック信者である前に、皆さん「良き市民」であり、特に偏屈な人、変に狂信的な人は見受けられません。逆に言えば、特別素晴らしい、徳の高い人にもそうそうはお目にかかれません。早い話が、一般の世の中と同じだということです。

この「良き市民」とは、キリスト教的に言えば「善きサマリア人」と言い換えてもよいと思います。
サマリア人は、聖書の時代、ユダヤ人から見てひどく差別されていたようです。
しかし、イエスの説法の中にある有名な「善きサマリア人のたとえ」(新約聖書・ルカによる福音書第10章第26~37節)にある通り、道で行き倒れになった人を救助し看病したのは、ユダヤ教の祭司などではなく、ふだんは卑しめられ差別されていた一人のサマリア人だったという話です。その人は、まるで自分のことのようにその行き倒れた人のことを心配し、先を急いでいたのに立ち止まって救助したのです。この「他人の痛みや苦しみを自分のことのように心配して、救いの手を差し伸べる精神」つまり「隣人愛」こそ、イエス・キリストが最も重んじるべき価値観として奨励したものであることは、質問者様もよくご存じの通りだと思います。

更に質問者様もよくご存じの通りかと思いますが、キリスト教の神は、本来、「裁く神」ではなく、人の過ちを「7の70倍」まで許す神です。(新約聖書・マタイによる福音書第18章第21~22節ご参照)
又、律法ばかりを重んじ、血の通わない、隣人愛の伴わない正義(?)をふりかざすパリサイ人たちに対するイエスの批判は当を得たものだったと思います。
更にもうひとつ、マタイによる福音書第6章第5~8節にもあるように、祈る時は隠れて祈れ、これ見よがしに人に「祈ってるぞ」と見せびらかすこともない、とあるように、虚栄心を戒めていますね。

こうしたイエスの教えにもかかわらず、教会といえども、世間のドロドロした人間関係や虚栄心、邪心から逃れることは出来ず、最初に書いた通り、やはり「弱い人間」の集合体なのだと思います。
だからこそ、逆説的ではありますが、そんな弱い人間から脱却して、少しでも心掛けのよい人間になるために、キリスト教をはじめとした宗教や、教会などのコミュニティの存在意義があるのではないでしょうか?

あなたの通っておられる教会は、どうも不幸な現状に晒されているようですが、それが、キリスト教ひいては宗教のすべてとは思わないでください。しかし、「すべて」ではないにしても、一つの姿ではあるという現実とも、同時に向き合って下さい。

その上で、あなたの身の処し方については、あなたの自由意思で考えて頂いてよいと思いますが、
1.今の教会で「改革」を目指すにしても、
2.他の教会(含・教派・宗派の変更)で再起を目指すにしても、
出来れば、キリスト教にもう少し付き合い、色んな現場から、学んでいって頂ければ幸いです。
(因みに、プロテスタント諸教派は、聖書に最も価値をおきますが、カトリックは、必ずしもそうではなく、教義にも柔軟な所が見受けられるようです。)

勿論、キリスト教にこだわらないのも、一案です。
最後に白状しますが、私自身、仏教や神道などにも深い親近感を持っており、特定の宗教というよりも普通名詞の「宗教」や「神」と向き合いたいという意識を強くもっています。

カトリック信者で、ここの所原則毎週カトリックの教会に通っています。
少なくても私の周りでは、カトリック信者である前に、皆さん「良き市民」であり、特に偏屈な人、変に狂信的な人は見受けられません。逆に言えば、特別素晴らしい、徳の高い人にもそうそうはお目にかかれません。早い話が、一般の世の中と同じだということです。

この「良き市民」とは、キリスト教的に言えば「善きサマリア人」と言い換えてもよいと思います。
サマリア人は、聖書の時代、ユダヤ人から見てひどく差別されていたようです。
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Q仏教徒のカトリックでの洗礼について

私は、長男で家の墓(曹洞宗)を継がなくてはなりません。

ところで、現在、聖書を読んで感動し、教会(カトリック)に通いだしています。
できれば、毎週のミサに出席し続けたいです。洗礼を受けなくてはならないでしょうか。

家の墓も継がなくてはなりません。洗礼を受けると、家の墓は放棄しなくてはならないでしょうか。

悩んでいます。どなたか、教えてください。

Aベストアンサー

お礼有難うございました。
又、No.4さんへのお礼も読ませて頂き、色々真剣に悩み、考えておられることがわかりました。
まだまだ、考えに整理がつかないかもしれませんが、本質問の4週間後応当日である明後日5日に管理人から強制締切される前に、どうぞベスト・アンサーを選び、締切をお願いします。(必要であれば、別質問を立てられれば、今後も回答可能です。)

本日、教会で、神父様とこの問題につき討議しました。
又、No.4さんへのお礼文を読んで考えたこともありますので、以下に記します。

1)カトリックが、禅宗のように「自力本願」でもって個人の能力を上げ「自己を修行し救済する」ことを目指す宗教ではなく、浄土宗や浄土真宗と同じく他力本願の考え方を持っていることは、我々「普通の人」には受け入れやすいと思います。
又、新約聖書に出てくるザアカイ或いはマグダラのマリアや姦通の現場を捉えられた女性のような、当時社会からはとんでもないとみなされていた人々をも救済する話は、キリスト教が社会的弱者(含・当時卑しいとみなされていた職業従事者、女性、少数民族など)のサイドに立っていることを明確に示していると言えます。

この世の中で、色々な問題に悩まされ、泥をかぶりながら現世を行き抜き、救済に向かう人間を神様は癒して下さいます。それは聖書の中のキリストの言動を見れば明らかだと思います。

2)キリスト教が「愛」を最上の価値とみなしているのと同様、仏教も、「慈悲」を重んじ、民衆サイドに立って、救済に努力してきたのはご存じの通りであり、この点はキリスト教と比べても決してそん色はないと思います。

3)私は、夫々宗教には優劣がなく、どの宗教を信じてもそれなりに救済に通じるという考えを今後も一生継続していくつもりです。(相対主義或いは多元主義)
 ただ、キリスト教の教義では、前回回答でも書きましたが、諸宗教とは腹を割って対話に励むものの、やはり救済はキリスト教のみで達成されるという考えであり、他宗教の人も究極的にはキリスト教の神で救われるのだという考えを保持しており、相対主義は誤った考え方と定義しているようです。
 私は、こうしたカトリックの教えには信念として決して従う意思のないことを、今日、神父様にはっきり伝えましたが、それぞれ色んな考えがあり、それでもキリストを信じている以上は、「棄教」の必要はないと諭されました。

4)又、仏式の葬儀や法要の際、焼香をし、霊前に頭を下げるとしても、心の中では静かに○○さんの冥福を自分なりにキリスト教の祈りで行う、という考えにも決して承服できないし、仏教で葬儀を行った自分の先祖の冥福をキリスト教で祈ったり、その墓をキリスト教墓地に改葬したりすることも決して承服できないことも伝えました。
 神父様はそれもひとつの考え方だと言いましたし、物理的に読経が流れている所で、それをかき消すようにキリスト教の祈りをするのは実際的でないことも認めました。その神父様自身、親族の多くは仏教であり、故郷に帰れば、仏式の葬儀や法要に参列しており、そうした宗教混在の日常には全く違和感を持っていないということです。

5)墓地に関しては、カトリック墓地やクリプタ(大きな教会に併設しているロッカー式墓地)でも、現在、カトリック信者ではない人の骨壺も受け入れていることが確認されましたが、私のように公設墓地を利用することが一番気兼ねなく良いと思います。

6)まあ、教義を突き詰めて行けば、色々自分の考えと違う所などもあるのは仕方がないと思いますが、現代は、昔と違い、人間の生活に合わせるように、宗教も敷居を低くしてラブコールを送っている時代だと思います。
 カトリックも第二バチカン公会議前に比べ、大分とっつきがよくなりました。
(恐らく、第二バチカン公会議前であれば、私は信者になれていなかったと思います。)

 それは他の宗教にも言えることだと思います。
 仏教も、坐禅や読経や写経やお坊さんの法話などを通じ、大衆とのつきあいに気を配り、日本人の生活の根底にいつも寄り添っている気がします。

 それでも多くの人は、宗教を普段は敬遠し、何かうさん臭いもののように遠ざけていることが残念でなりません。

 是非、仏教であれ、キリスト教であれ、アレルギーを持たずに、日頃から接して行って頂きたいものだと思います。

 そして、どちらかに自分の軸足を移すとしても、他方の宗教、或いは宗教全般への関心も失わず、常に広く学ぶという姿勢を続けて行ってほしいと思います。


 以下、私の過去の回答・質問です。時間があったらご参考にして下さい。
但し、私の思い込みによる記述も多いと思うので、何度も言いますが、
いつも訪問されるカトリック教会の神父様や信徒の皆様、そしてお寺の
皆様などにも、相談してみて下さいね。

日本人は無宗教?(回答No.24)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7392484.html

海外で無宗教と言ったら無神論者ととられてしまった(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3211328.html

自分が何教かわからない。(回答No.4)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5308582.html

クリスチャンとノンクリスチャン(回答No.8)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3591349.html

信仰を目的とする,道具的存在としての偶像について(回答No.1)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7298873.html

キリスト教とその信者に反感を持つ理由(回答No.9,14)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7204518.html

クリスチャンの方に伺いたいのですが、(回答No.2)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7163727.html

宗教について(回答No.7)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4889486.html

複数の宗教を同時に信仰してる人っているのでしょうか(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8670273.html

「普通名詞としての神」に祈ること (小生質問、
回答No.9など参考になると思います。)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html

クリスチャンの彼氏をもっと知るために(長文) (回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7890685.html

道を究めるのにどの宗教かは関係ない(回答No.4,5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8450068.html

“クリスマス”ってキリスト教の祭典なのでは?(回答No.16)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7789533.html

宗教と初詣(回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7749358.html

宗教とは?(回答No.17)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7667585.html

お墓や仏壇については、次の質問と文章末尾に挙げた過去問をご覧下さい。

キリスト教徒とお墓、位牌(回答No.5)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7655620.html

お礼有難うございました。
又、No.4さんへのお礼も読ませて頂き、色々真剣に悩み、考えておられることがわかりました。
まだまだ、考えに整理がつかないかもしれませんが、本質問の4週間後応当日である明後日5日に管理人から強制締切される前に、どうぞベスト・アンサーを選び、締切をお願いします。(必要であれば、別質問を立てられれば、今後も回答可能です。)

本日、教会で、神父様とこの問題につき討議しました。
又、No.4さんへのお礼文を読んで考えたこともありますので、以下に記します。

1)カトリッ...続きを読む


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