【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

哲学カテをご利用の方はご存じの通り、「スサノヲ」とは、他の方の作ったタームです。別にスサノヲと言わないでも、別のタームを使ってもいいのですし、それは類似する問題として項目4で示します。しかし、一つの現代的な問題を浮かび上がらせる手掛かりにはなるだろうと考え、敢えて、それを一つの理論とみなし、私の関心から自由に検討してみます。これは理論的にその意義を検討することを目的としており、個人の誹謗中傷とはなっていないはずです。なお、議論の背景を説明するために紙幅を多く使っていますが、質問は項目5で示しました。

1. スサノヲの定義
「スサノヲ」には神話的な意味があるそうですが、ここでは命名の由来を割愛し、むしろ、その機能に特化して、定義しておきます。なぜ由来を無視するかと言えば、ここでは「相手が話す気になるか、ならないか」というコミュニケーション問題に特化するからであって、スサノヲとアマテラスの神話の話を交える必要がないからです。
およそスサノヲとは、次のような存在であると、定義しておくことにします。
・専門的な知識がない人間である。
・しかし、モノを考えることは続けている。
・専門家でもないのに、専門家を批判(罵倒?)する発言を行う。
普通、知識がない者は、専門家に対して敬意を払い、「自分はわからないから黙っている」という態度をとるものです。しかし、スサノヲは違います。「俺も俺なりに考えている。それを聞いてもらおうじゃないか」という発想で、知らないことについても口を挟みます。その結果、正確な批判になっていることもあれば、ただの罵倒になっていることもあります。

2.スサノヲ批判
上記のスサノヲの態度は、「知識がない者は黙っている」という真理を追究する者らが普通に持っているコンセンサスを破っています。またKY「空気読めない」とほとんど同じです。
かつ、会話は、無益なものになることが多いのです。というのも、スサノヲには、「専門知識がない」存在であるのです。そこで堂々と語れば語るほど、一種の知ったかぶりになります。しかも、専門家ではないのですから、大体の場合、話が整理されていません。質問をされると、それに端的に答えることはできません。「これを説明すれば、自分の言いたいことを推測してもらえるのではないか?」という目測のものとで、関係ない神話の話をするとか、日本のために話しをしているのだ、と主張します。しかし、精密な議論とはこういうものではありません。そこで、多くの人は、呆れ果てて去って行きます。

3.スサノヲ的階級闘争
しかし、これは、スサノヲが傲慢で、知ったかぶりで、見栄っ張りだというだけのことなのでしょうか。もう少し、問題を掘り下げてみましょう。
現代では、様々なことが、専門性に特化しています。だから、ちょっとやそっと勉強した程度では「専門家」と認められません。そして、専門家ではない者は、発言できないという風潮が高まっています。原子力には原子力の専門家がおり、政治には政治の専門家がいる。専門のことは、専門家に任せなければならないという分業制が、現代では進んでいます。
だが、そうであるとするのなら、一般的な市民は、発言権がないのか。いえ、法的には発言権があるはずです。そして「専門家に任せておけばいい」という安易なことでもありません。たとえば、原子力はどうなりましたか? 年金はどうなりましたか? 社会保障制度はどうなりましたか? 任せておいた結果、おかしくなったきりです。こうした時、専門家でない者が、自分の生活を考えて声を上げようとすれば、誰であれ、スサノヲ的な愚かさを行う可能性があるのです。
するとスサノヲとは、実は高度に専門家による分業が確立した現代社会において、一市民が発言を行う際の一つの例ではあるのです。スサノヲの「暴言」とは、個人の気質や見栄の問題ではありません。知識がある者と知識がない者、あるいは、管理する者と管理される者の間にある、階級闘争として考える必要があるのです。

4.サバルタンとの類似
しかし、スサノヲ的階級闘争とは何なのか。他と比べることで、論点をさらに絞り込んで見ましょう。最初にスサノヲというタームを使わないでよいと言いましたが、普通、現代思想でこの問題を論じるときは、「マイノリティ」であるとか、「サバルタン」というタームを使います。特にガヤトリ・スピヴァクの用語「サバルタン」は、有識者ではないという意味で、スサノヲと共通点が見出せます。Subalternとは【「他者」alternの「下位」subに従属する者】という意味で、もともとは、グラムシのタームでした。しかしスピヴァクの場合、この他者に従属する者を、インドのカーストにあてはめます。カーストの下位にいる者は、
・文字も読めないし、知識もない。
・そのための教育も受けていない。
・万が一、何か話しても、卑しいと思われ、上部の者に話も聞いてもらえない。
という立場に甘んじています。こうした搾取され、搾取について訴えかける力もない者を、サバルタンとスピヴァクは呼んだのです。
しかし、厳密にいえば、スサノヲとサバルタンは違います。そのことによって、問題設定も、かなり変わるのです。スサノヲは無知蒙昧と言ったところで、文盲ではないし、大学まで出ていても、スサノヲになることはあり得ます。専門家ではないというだけのことで、サバルタンと無知のレヴェルが異なります。しかしサバルタンとは、徹底的な無知蒙昧で、自分の欲求を口にする以外、言葉を持たないのです。極端にいえば「腹が減った」「眠たい」以外に、言えないのです。たとえば「なぜ腹が減るのか。収入が少ないからだ。収入が少ないのはなぜか。搾取されているからだ。搾取されているのはなぜか。階級差があるからだ。では、この格差の不当性を訴えかけなければならない」という論じ方はできません。この点、スサノヲの方は、サバルタンと異なります。

5.【質問】スサノヲの話を聞く気になるか?
スピヴァクの場合、「サバルタンが語ることができるか?」ということが、問題でしたし、彼女の主著の表題にもなっています。彼女にとっては、サバルタンが、ある程度まで、知的階級に向かって、認知されるような形で話しかけられるか否か、が問題でした。これはサバルタンの場合、実質的に、言いたいことを表明する力が根本的に欠けているからです。そしてスピヴァクは、それが不可能だと考え、主著の末尾で絶望的な結論を下します。「サバルタンは語ることができない」と。
しかし、スサノヲの場合は、ある程度までは話せるのです。すると問題は、聞く側です。つまりスサノヲが論理的に、精密に話すか否かが問題ではなく、意味不明なことが一部あっても、話を聞くことができるか、否かが問題なのです。無論、スサノヲの「話を聞く側」には二通りあると言ってよいのです。つまり、専門家としての聞き手。一つは専門家ではない聞き手。このウェブ上で問いたいのは、後者の場合についてです。つまり、問いを説明するのなら、次のようなものになります。
専門家ではないが、コンセンサスに従って沈黙している者は、スサノヲが発言し出すと、「コイツはバカな奴だ」と冷笑し、スサノヲの話を聞かないということがおきうるでしょう。だが、この冷笑をやめて、ある程度、話相手として認めることはできるのか?――これが、この質問の問いです。

6.回答の仕方について
この質問欄は「聞くことができるか、できないか」という二択の問いなので、立場を明確に示した上で、その理由を論述するという形の回答を求めます。
また理論的な問題として扱ってもらいたいと思うので、とある特定の人物と話したいかどうか?という人気投票的な意見は求めていません。むしろ、いずれの答えにせよ、階級差や社会的格差の是正の問題について、どのように考えるかをメインに論じてください。スサノヲ的な提言は、格差是正の仕方として何ら意味がないと考えているから聞かないとか、意味があると思うから少々難点があっても聞く――というような話です。
また「スサノヲ的」問題と幅広く解釈して、関連性があると思われる身の回りの他の事例をあげて、話を膨らませてくださった回答も歓迎します。質問者自身は、特にどちらと答えを出そうと無頓着であって、特にバイアスをかけることはしません。

7.B氏へ
投稿してくれて構いませんが、次の一点に気をつけてください。「スサノヲの話を聞く必要がある、俺の話を聞け!!!」という話し方をしたのなら、「ああ、単にこの人は傲慢で見栄っ張りなんだ」という印象を与えかねないということです。スサノヲ当人の自己弁明をしても、メリットはないかと思います。むしろ「聞く気になるか?」という問いを設定したのですから、「話し手」ではなく、あくまで、「聞き手」の側で考えてほしいと思います。
このウェブ上には、他にもスサノヲ的にも整理されない発言をしている人がいることでしょう。Pさんだとか、アルケーだとか、ナントカ百年という方々です。皆、五十歩百歩だという印象を受けました。あなたは、彼らがスサノヲではないというかもしれない。しかし、いくらアマテラス的と言っても、本物のアマテラスならば、ウェブで油を売っていることはないでしょうから、結局、社会で認められていないという点では、理由は違えど、似たり寄ったりといえるのではないでしょうか。私自身もそこに含めなければ、フェアではないかもしれません。こうした相手の言い分を聞く気になるか否か、という相互の問題として考えてくださった方が、建設的に問いが広がると思います。

A 回答 (3件)

Bさんの文章は、長くて、詰め込み過ぎて、様式や用語が個性的過ぎて、私は読む気が削がれるだけです。

次に、専門家に対する姿勢ですが、理論物理学や数学を除けば、手順を踏んでおこなえば素人でも会話は可能です。
ただ、どういう手順で議論するか、議論に足りない知識は何か、それを既知の知識からどう応用するかがわからなければなりません。しかし、それは専門的教育というよりも生活者的態度により育まれるものですから問題ありません。
具体的には、日曜大工や料理がこなせれば専門家とも会話ができると言えます。
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この回答へのお礼

話す気にならない。意味のわからないことを言っており、手間がかかる、というわけです。しかし、それは、専門家vs非専門家の問題ではないとおっしゃるようです。

>ただ、どういう手順で議論するか、議論に足りない知識は何か、それを既知の知識からどう応用するかがわからなければなりません。しかし、それは専門的教育というよりも生活者的態度により育まれるものですから問題ありません。

歳をとって、きちんとした論述ができない方は、生活態度や人間性がなっていない、というだけのことだ、と。そして

>具体的には、日曜大工や料理がこなせれば専門家とも会話ができると言えます。

専門家の良心に対する期待は、健在なんですね。

お礼日時:2012/01/14 10:34

 こんにちは。



 答えは ひとことです。

 その質問を読んで聞く気になったとき 主題とその展開といったその中身について話し合えばよい。これです。





 素人どうしが話し合っても どうなるか分からないとお思いなら 申します。
 専門家というのは 哲学の場合は 素人です。

 あるいはもう少し精確に言えば 哲学は 世界史と哲学史とその研究史の研究等々について明るくなければ 確かに専門家とは言えません。しかも そうであるにもかかわらず 思想つまりは生活態度については 誰もが――いくら全宇宙史について明るくとも―― 素人なのです。

 なぜか?
 知識をどのように用いるかの判断すなわち意志行為が 生活の中軸であるからです。
 哲学の専門家は その意志行為についても専門に研究をおこなっているとすればそれは いわゆる机上で資料を集めそれを分類整理しているというところでしょう。
 その域を脱する場合というのは 実際に生活し生きる場面のことですが この活きた場面では 専門家もみな 素人です。資料集における研究成果を応用すると言っても その論理は同じでも 実際の局面や役者たちである人間が違うからです。 

 そして特には どうも階級間の関係にご関心がお有りのようですから 触れるとしますと そのわたしの言葉での《 A (アマテラス公民)- S (スサノヲ市民)の連関制》をめぐる問題にかんしては これもどう考え どう生活ししかも共生して行くか このような問題は ぶっつけ本番であり いかなる理論もつねに実験となると考えたほうがよいと思われるからです。
 その理論や政策について専門家かどうかということも問題にするならばそれは その素人は 専門の研究者にまなべばよい。となります。

 言いかえると 多少は専門の研究書にまなんだ素人が その素人どうしが 質問における主題ないしそれへの回答の中身について――すべからく明らかにされた見解の中身について―― 自分の考えるところを述べる。これでよいという見方であり 答えです。




 あと問題が残るとすればそれは 哲学は 思想とちがって あらゆる可能性を事前にもしくは思弁においても考え これを整理し実践応用のために供するという作業であるとすれば つまりは哲学カテという名称にきびしく従うとするのならば それは いま述べた作業すなわちいわゆる迂回生産に徹するということになります。実践応用の前の段階において 研究に専念するということであり そのような研究の中身のみについて このカテでは情報交換するという行き方が帰結されて来ます。
 もし専門的にその意味で狭くこの方針に限定されているとするなら スサノヲの話を聞くかどうかの問題ではなく そのような素人スサノヲの話は このカテには上がって来ないというのが 正解になります。





 ★ Pさんだとか、アルケーだとか、ナントカ百年という方々です。皆、五十歩百歩だという印象を受けました。あなたは、彼らがスサノヲではないというかもしれない。しかし、いくらアマテラス的と言っても、本物のアマテラスならば、ウェブで油を売っていることはないでしょうから、・・・ 
 ☆ それぞれの事情によって わたしとこれらそれぞれの方とは その文体およびその内容が違います。いちいちその細かいことは省きますと けっきょくここに挙げられた方々とは わたしがどんな相手ともどこまでも話し合いをつづけるという点で違っています。
 (わたしが話を打ち切る場合というのは 相手が話の継続を望んでいないと捉えた場合です。だいたいはそれを確認して打ち切ります)。
 (ほかの方々について 話し合いがつづかない特徴があると批評しましたが それはあるいは 自分から送信はするが人からの受信はしないという半鎖国政策の持ち主だと言ったほうが精確です)。





 たぶん 筋が微妙に違っているとお感じになりましょうね。話を聞く気になるかどうかの二者択一だともおっしゃっていましたから。それを わたしは《聞く気になったら 投稿し対話をすすめればよい》と答えたのですから。どっちもあるという答えは 成り立ちませんか?
 ★ スサノヲ的な提言は、格差是正の仕方として何ら意味がないと考えているから聞かないとか、意味があると思うから少々難点があっても聞く――というような話です。
 ☆ ここからは ますます雲をつかむような話になります きちんと答えようとすればです。
 ★ 格差是正
 ☆ について 哲学ないし思想としては その主体である人間を問題にします。その主題をはづしては 話になりません。ですから その人間をつくればよい。その観点から 聞く気になるかどうかを決めるということになります。人間づくりは 案外素人のほうが玄人であるようですよ。あなたもあたまがおもたすぎませんか? ちしきが あ・くわ・ぼん?
 いつもひとこと多いぶらじゅろんぬでした。

この回答への補足

お礼欄のコメントは誤読したかもしれず、追記を書いておきます。

おそらく、あなたは、専門家と非専門家の断絶がないとお考えなのかもしれませんね。「誰もが皆、素人である」と、あなたはお考えになりたい。そもそも、究極的には【専門家というものが存在しない】という意見をお持ちなのかもしれません。こうした「誰もが素人である」という見方によって、専門家の権威というより、存在そのものを懐疑に付しているわけです。したがって、専門家の権威を認めているのとは異なるでしょう。

しかし、現実問題、誰もこういう認識は持っていないと思います。質問文に書いたように、専門家以外が発言すると「バカな奴がしゃしゃり出るなよ」というコンセンサスが、現実にあるからです。専門家vs非専門家の断絶は事実なのであり、この点を認識することから、問いは出発しています。

こうなると専門家vs非専門家の断絶はないと言いだしても、非専門家の側にとってはメリットがありません。むしろ、あなたのいうことが利するのは、責められている専門家の側に対してです。「そうそう、断絶なんてないの。俺たちはキミらを排除してないんだよ」という風に言われてしまうでしょう。
――これじゃあ、どうしようもない。相手に手玉にとられて終わりです。最後の最後に、「え、専門家さん、あんた、私と話してくれるって言ったじゃない。でも、対等な立場で全然話してくれてないよね。私の話なんて、まともに聞いていないでしょう。言ってることとやってることが違うじゃないですか」みたいなことを言って終わりじゃないですか? これは人がよすぎるってものです。

補足日時:2012/01/14 09:31
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この回答へのお礼

>その理論や政策について専門家かどうかということも問題にするならばそれは その素人は 専門の研究者にまなべばよい。となります。

ふーん、あなたは謙虚に専門家の価値なり権威を認めているんですか。認めていなかったのだと思っていました。すると私の問いは、どうやらスサノヲと関係ないことを勘違いしていたのかな、と思えました。

>もし専門的にその意味で狭くこの方針に限定されているとするなら スサノヲの話を聞くかどうかの問題ではなく そのような素人スサノヲの話は このカテには上がって来ないというのが 正解になります。

この哲学カテに上がっている質問は、どれも素人レヴェルだと思います。これは誰の目にも明らかだと思っていました。

>ここからは ますます雲をつかむような話になります きちんと答えようとすればです。

きちんと答えようという問いです。

>人間づくりは 案外素人のほうが玄人であるようですよ。

人間が高尚であるか否かと、知識の有無は関係ないのです。哲学の専門家の人間性が、最も高尚ですか。ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーはどうでしたか。答えは否です。したがって問題をまぜこぜにすることはできません。

お礼日時:2012/01/14 09:08

精緻なご質問を私がどれほど理解しているかは疑問ですが、私の体験からお答えさせています。


私は大学は出ましたが専門分野の学究を怠り、アカデミズムの世界からずり落ちた「スサノヲ」的人間です。たまに専門書ではありませんが、哲学・社会思想に関わる書物を読むことがあります。しかし、あまり深くは理解できません。しかし、こういう時私は、「自分が生きる上で有用な(実用的というのとは違いますが)認識が会得できればそれでいいのだ」と考え、あくまで自分の言葉で、自力で考えていくという方針を採っております。自分が納得できない理論なんて必要ないとまでは申しませんが、私の生に照らして意義があるかどうかがまず問題であり、専門家の発言はその観点から見直されるのです。この時素人の私と専門家の理論の「交流」は無意味ではないと思います。ですから、「サバルタン」のような人々は分かりませんが、ある問題について自分なりに理解を深めようとする在野の人が、自力で考え、発言することは有意義でしょう。少なくともその人にとっては。
また、専門家階級も自分自身のエゴイズムを持っている人間ですから、在野の人間の存在によって相対化される機会が確保されてよいはずです。もしこの二つの階級が相互の意見の交流を持たなければ、お互い社会的責任の放棄のし合いが生じることでしょう。専門家はアカデミズムの範囲内にとどまらず、在野の人々を射程に含めて自論を展開していく必要があると思います。
ご質問の趣旨に合致しているかは存じ上げませんが、以上が私の考えです。

この回答への補足

あまり話が発展する様子がないらしいので、これでやめておきます。話が発展しない理由としては、結局、日本では階級闘争という考え方そのものが、希薄であるか、抜け落ちており、投稿者の側で問題の焦点が実感できないでいるからだという印象を覚えました。

投稿して下った3人には、共通して、専門家に対する信頼があります。非専門家でも門前払いをくらわせずに、話しあってくれるに違いないと思っていらっしゃる。しかし、現実はそうなのでしょうか。少しお人よしだなと思いました。おそらく、溝というものについて、あまり実感が湧かないのでしょう。
しかし、B氏当人がこれでは、スサノヲというタームを使った意義がなかったなと感じた次第です。もっともスサノヲが自分自身を相対化して認識し、それを理路整然と論述するかもしれない、などという、甘い期待は持っていなかったのですけれども。おそらくご自分では、明晰に論じてらっしゃるつもりなのかもしれません。ただし客観的に見れば、そうは思われないのでした。これはNo3さんのご指摘の通りです。彼の日常生活や人間性に原因があるかどうかは、知りませんが。

さて、問題の趣旨とは少し外れますが、私の問いに答えようとしてくださったという意味で、No1をBAに選んで終えたいと思います。おそらく興味があったら、あとはB氏本人が、何らかの問いをあげて、ゆっくりと議論してくれることでしょう。フィギュアの話も、そういうことになりましたから。

補足日時:2012/01/14 14:19
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この回答へのお礼

自らをスサノヲ的であるとした上でのご意見、ありがとうございます。しかし想定してらっしゃるのは、専門家vs非専門家の間のやり取りのみですね。これが有益であるという点についてはわかりました。非専門家は知識を吸収することができる。専門家は説明責任を果たすことができるし、自らの意見を相対化できる、ということです。
しかし、非専門家vs非専門家のやりとりは、有益だと思われますか。この問いは、非専門家同士によるコミュニケーションは可能かどうか?という視点を含んでいるのです。この状況を想定するので、スサノヲもまた話し手ではなく、聞き手であるという状況が想定されます。項目7ですが。この意味で「聞く気になるか?」を聞いているのでした。

お礼日時:2012/01/14 07:05

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