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「観念」とは何ですか?
辞書的には、
1、基本は「物事に対して持つ考え」です。
2、哲学では「意識の対象について持つ主観的な像」です。
3、心理学では「具体的なものが無くても、それについて心に残る印象」です。

上記のように言葉にすると、様々な表現になり、正直、私は、
理解できておりません。ピンと来ないのです。

いったい「観念」とは、どんな場合に必要な言葉なのでしょうか?
アバウトな言葉なのか? 「認識」とはどこが違うのか?

もし辞書的な表現でない“何か”を知っていましたら、
是非、お教えください。宜しくお願い致します。

A 回答 (9件)

分からなければ、その言葉を使わなければ良い。


世界は言葉でできているのではない。
得られたイメージに言葉は与えられるのだ。
もし、その言葉を用いなかったために、世界を記述し
切れなかったならば、その時には、そこにその言葉を
あてはめれば良い。
それが、その言葉の意味なのだ。
言葉を以って言葉の意味を知る時、それは競走馬の
目隠しに過ぎない‥‥ゴールは見えても、それが
どこに在るかは分からない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

「確かにその通りだ」と思いました。
実際、「観念」を使う事は、ほとんどありません。
「観念論者」という言葉を言われた人が、以前おりました。
彼にはイメージが“ある”のでしょう。それに興味があります。

お礼日時:2012/02/10 04:39

観念が昂じれば妄念


欲に迷えば邪念
一つに執着すれば執念
情に流されれば情念
悔しいのが無念
人を疑えば疑念
道理を言い聞かすのが正念
念、念、念・・・念ばかり
心の張り紙を次から次へと、剥がしたり、また張ったり・・・
早い、早い
分析をしない心の張り紙が観念
分析をしてから張り出すのが認識
観は観想、念は憶念
いつでもすぐに取り出せるのが観念
もういいか・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/19 20:43

観念しろ・・・とは、諦めろという事


諦めろという事は、崖っぷちに立たされて一つだけ選んで念じろ、という事
客観的に真実であるかどうかではなく
ぎりぎりの主観的選択が観念
観念とは崇高であり、愚かであり、人らしくあるもの
認識という人の賢さの尺度では計れないもの
観念したか・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/14 09:24

OtamaFJWRさん、こんばんは。



「「意思」では、どうにもならないもの」が、「観念」でしょうか。
・・・「念」と「認識」の違いでしょうか。

でも、そんな意味で「観念」したくないですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/14 09:24

 自分が最も良く知る「観念」は「数学的定理」です。

「数学的定理」は、現実とのつながりがなくても成立し得る論理手続きなので、「観念」だと思います。

 ただし普通の「数学的定理」は、現実とのつながりを注意深く保っています。そのために「数学モデル」と「現実」とを区別できない事は、ままあります。

 「数学的定理」はいったん証明されてしまえば、現実とのつながりがなくても、その論理手続き自体は否定できないので、それを一つの「具体的なものが無くても、それについて心に残る印象」という物理的現実と捉え、数学的定理は永遠普遍の真理という、現実の存在物と捉える人もいると思います。

 同様に数学的(観念的)認識というのもあり得て、それはけっこう役に立ちます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/14 09:23

人は,


認識 ― 接触 ― 経験 ― 記憶(継続)---
判断 ― 経験の解体 ― 将来への再構築
という,いわば現在を踏み越える能力を持つ.

つまり,≪なんだろう≫ から ≪たぶんあれだろう≫
への変身である.

この,≪たぶんあれだろう≫ が,「観念」であり,
パラダイムである.

ただし,パラダイムを取り去ることは出来ない.
パラダイムを取り去れば,テオリアが根底にあり,
テオリアを取り去れば,パラダイムが根底にある.

このような状態を相補的であると言い,しばしば
太極図によって表される.

たとえば,長すぎる孫の手で,自分の背中をかこうと
しても,長すぎてかけない.そんなとき,同じく困って
いる人の背中をかいてあげましょう.

すると,その人が,長い孫の手で,あなたの背中をかいて
くれるでしょう.この事象を観て,再構築した観念によって
表現するならば,相補再分化と表される.

ああ アルケー いや 独り言です.(´ω`;)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/11 11:36

>辞書的な表現でない“何か”



これを言葉でない何かと解釈すれば、ここではお伝えできません。ここでの伝達手段は言葉しかないからです。

「観念」そのものはおっしゃる1,2,3 で表される意味を持つ言葉だろうと思います。でも観念という言葉自体はなにものでもないと思います。
>私は、理解できておりません。ピンと来ないのです。

>いったい「観念」とは、どんな場合に必要な言葉なのでしょうか?
 アバウトな言葉なのか?
当然だろうと思います。言葉とはそのような、実際のものを恣意的に切り取る漠然としたものだからです。
その言葉自体を研究されるのなら、それを使った先人の書を沢山読まれて、どんなつかわれ方をしているか調べるしかないでしょう。そして、あなたがこれを使われたら、またその言葉に新しい観念が加わるのです。つかわれることによってどんどん豊かに多様になっていく。言葉とはそういうものだと思います。認識も同じようなものだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/10 19:19

認識は、実際の事象に対して「ああ、なるほど」と知ること


観念は、頭の中で「こういうことなんだろうな」と思うこと
もとは仏教用語。物事を一心に突き詰めて考えること。
転じて、もう後がないこと⇒観念しろ!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/10 04:27

一番簡易な言葉では「道」です。


柔道剣道華道茶道、世界全部を捉えるのではなく、ひとつだけの正道を選んで極める。それが観念。

認識は、ただ意識に捉えるだけ。観はあっても念がない。
自らが念じた結果、見えてくるものが観念。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。

お礼日時:2012/02/10 04:26

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