好きな人を振り向かせるためにしたこと

「目を覚ましたらもう12時だった。」という文があるとします。
この文の後に、「私は・・・」や「彼は・・・」という風に文が続けば主語を読み取ることが可能だと思いますが、
もし、この一文だけだったら、主語の読み取りは可能でしょうか?それとも、誰かは特定できないのでしょうか?
また、主語が明示されていない文で主語を読み取る方法は文脈以外に何かありますか?
文法に詳しい方、よろしくお願いいたします。

A 回答 (7件)

文法というよりも、語法とか表現法とかいう部類の問題です。



文法的に言うなら、この文は「重文」というやつで、「主語-述語 + 主語-述語」という形になっていると解釈できます。ただ、その二つの主語は二つとも省略されています。

(私が)目を覚ましたら(時刻は)もう12時だった。

「この文の主語」と問われれば、文法的には「省略されている(時刻は)」である、と言えます。述語が「12時だった」なので、その正体は「時刻」だからです。

文脈なしに主語が省略されている場合は、人物であればただ一人だけ確かに存在する人物、つまり「話し手」と考えるほかありません。

人物でない場合は、「時」とか「日」とか、いつも存在する「時間の一部」でしょう。
当然のように存在している物を、日本語は省略することが多いのです。
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この回答へのお礼

時刻も主語になるのですね!回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/02/12 01:40

「目を覚ましたらもう12時だった」



・・・英語に訳すなら、「目覚めが訪れた時、it was もう12時」。
つまりこの文の主語は「it」。
つまり、No.5 の方の回答に感心しました。
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この回答へのお礼

私もNO5の方の説明は大変わかりやすかったです。

お礼日時:2012/02/12 01:41

文法に詳しいわけではありませんが、主語が人物(生き物)である必要はないと思います。


http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E4%B8%BB%E8%AA …
の辞書では、
文において、述語の示す動作・作用・属性などの主体を表す部分。「鳥が鳴く」「山が高い」「彼は学生だ」という文で、「何が」に当たる部分をいう。
のように説明されています。

「目を覚ましたらもう12時だった。」の場合の主語は「時刻」です。
主語が無いというより、「目を覚ましたら時刻はもう12時だった。」という文の単なる省略。
この文の述語はあくまで「12時だった」であり、「覚ました」ではありません。
「(12時)だった」という動詞の主体を表わすものは何か、と考えるとよいでしょう。
  
  
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この回答へのお礼

動詞の主体を考えれば、主語がわかるということですね!
わかりやすい回答ありがとうございました!

お礼日時:2012/02/12 01:42

その文単独なら、確定するのは不可能です。



ですが、「私」や「彼」という次元とは、違っても、

その文の「語り手」がいて、その「語り手」は、
「起きたのは12時だったが、もっと早く起きようと思っていた、
または、起きなければならない事情があった」ということは
解ります。

もう少し文が長くて、「語り口調」が見えてくるようなら、
「敬語」「ギョ~カイ用語」「男/女言葉」「大人/子供言葉」
などから、「語り手」の「人となり」が見てとれることもあり、
日本語は、欧米でいう「主語」などよりも、そういう部分を
重んじる言語だ、と、言っていいのかもしれません。

小説などで、「と誰々は言った」という部分なしで、
引用符にくくられた会話だけが延々と続く場面の長さは、
日本語では、文脈に加えて、そういうふうな部分で解る
可能性が、英語より高いので、長めになっている傾向が
あるように思えます。古文などは、特に、そうで、
誰のセリフかを、敬語などから判断するのは、
頻出問題だったりしますよね。

また、「私」や「彼」と、主語を書いていたからと言って、
「私」や「彼」について、何か情報が得られるかというと、
そういう訳でもない、英米にも日本にも、書き手はいますが、
推理小説で「叙述トリック」というジャンルがあり、一番、
典型的なパターンが、どこかで「私」や「彼」など「語り手」
がすり替わって、そうと解って読めば「伏線」は、キチンと
張ってあるのに、読者は騙されてしまう、というタイプの
トリックが使われているものですが、これなどは、極端な
ケースとしても、形式的な主語が書いてあれば、安心は
できるかもしれないが、それで解ったつもりになるのは危険、
そういうこともあるので、原則、主語を書かない(※)日本語が
欧米語より非論理的などという、よくある意見も、そんなに
一律には言えるもんじゃないだろう、というのが、私の意見です。

ちなみに、普通は、ネタバレになるので、どういう作品が
そのジャンルにあるのか、というのは、書きにくいのですが
(日本でも英米でも、沢山書いた本の1冊だけがそのジャンル、
という作家の方が、圧倒的なので)、

日本には、折原一という、作品のほとんどが「叙述トリック」、
帯にも、堂々と「叙述トリック」という言葉が使われていて、
それでも、騙されてしまい、それを楽しみに買う読者がいる、
という第一人者がいますので、万が一、興味が湧いてきたという
ことがあれば、お勧めいたします。

ついでですが、(※)の部分について、余談になりますが…

誰の話だったか、それなりの定説になっているのか、
こういう考え方を、聞いたことがあります。

「主語を省く、というより、元々、書かないのが、本来の日本語、
どうしても必要な場合は、書き足すとしても、
そのときに助詞は付けない、か、『が』を付ける、
『が』は、本来、『我が家』『君が代』のように、
『の』と同じ意味、『の』にも『君の好きな本』のように、
特別な場合の主語を表す用法があるので、『が』もこれと
同じく、しかたなく借りてきた表現と思っていい」

覚えている範囲で、筋書きを再現したものですが、

実際に、私の住んでいる、九州北部の方言では、
単独の主語も『の』を使うことがよくありますし
(最近では若い人は使わない地区が増えていますが)、

英語で、動名詞の意味上の主語を、所有格で
書いたりするようなものなのか、と、納得した
覚えがあります。

ちなみに『は』は「強調」を表す「副」助詞なので、
一律に主語を表すものではありません。

『は』が主語を表すことが多いのは、
英語の倒置の説明で、
「英語は基本強調したいものを真っ先に書きたい言語、
普通の文だと、主語のことが多いので、その結果、
普通の文では、主語を真っ先に書く、という語順に
なっていて、主語よりも強調したいものがあるときに、
倒置が行われることがある」
のと、似たような筋書きの話ではないかと思います。

『は』の方は、英語では、主語云々よりも、
冠詞を「a」にするか「the」にするか、のようなことの
「参考」「決め手」になることも多くあります。
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その文単独なら、確定するのは不可能です。



ですが、「私」や「彼」という次元とは、違っても、

その文の「語り手」がいて、その「語り手」は、
「起きたのは12時だったが、もっと早く起きようと思っていた、
または、起きなければならない事情があった」ということは
解ります。

もう少し文が長くて、「語り口調」が見えてくるようなら、
「敬語」「ギョ~カイ用語」「男/女言葉」「大人/子供言葉」
などから、「語り手」の「人となり」が見てとれることもあり、
日本語は、欧米でいう「主語」などよりも、そういう部分を
重んじる言語だ、と、言っていいのかもしれません。

小説などで、「と誰々は言った」という部分なしで、
引用符にくくられた会話だけが延々と続く場面の長さは、
日本語では、文脈に加えて、そういうふうな部分で解る
可能性が、英語より高いので、長めになっている傾向が
あるように思えます。古文などは、特に、そうで、
誰のセリフかを、敬語などから判断するのは、
頻出問題だったりしますよね。

また、「私」や「彼」と、主語を書いていたからと言って、
「私」や「彼」について、何か情報が得られるかというと、
そういう訳でもない、英米にも日本にも、書き手はいますが、
推理小説で「叙述トリック」というジャンルがあり、一番、
典型的なパターンが、どこかで「私」や「彼」など「語り手」
がすり替わって、そうと解って読めば「伏線」は、キチンと
張ってあるのに、読者は騙されてしまう、というタイプの
トリックが使われているものですが、これなどは、極端な
ケースとしても、形式的な主語が書いてあれば、安心は
できるかもしれないが、それで解ったつもりになるのは危険、
そういうこともあるので、原則、主語を書かない(※)日本語が
欧米語より非論理的などという、よくある意見も、そんなに
一律には言えるもんじゃないだろう、というのが、私の意見です。

ちなみに、普通は、ネタバレになるので、どういう作品が
そのジャンルにあるのか、というのは、書きにくいのですが
(日本でも英米でも、沢山書いた本の1冊だけがそのジャンル、
という作家の方が、圧倒的なので)、

日本には、折原一という、作品のほとんどが「叙述トリック」、
帯にも、堂々と「叙述トリック」という言葉が使われていて、
それでも、騙されてしまい、それを楽しみに買う読者がいる、
という第一人者がいますので、万が一、興味が湧いてきたという
ことがあれば、お勧めいたします。

ついでですが、(※)の部分について、余談になりますが…

誰の話だったか、それなりの定説になっているのか、
こういう考え方を、聞いたことがあります。

「主語を省く、というより、元々、書かないのが、本来の日本語、
どうしても必要な場合は、書き足すとしても、
そのときに助詞は付けない、か、『が』を付ける、
『が』は、本来、『我が家』『君が代』のように、
『の』と同じ意味、『の』にも『君の好きな本』のように、
特別な場合の主語を表す用法があるので、『が』もこれと
同じく、しかたなく借りてきた表現と思っていい」

覚えている範囲で、筋書きを再現したものですが、

実際に、私の住んでいる、九州北部の方言では、
単独の主語も『の』を使うことがよくありますし
(最近では若い人は使わない地区が増えていますが)、

英語で、動名詞の意味上の主語を、所有格で
書いたりするようなものなのか、と、納得した
覚えがあります。

ちなみに『は』は「強調」を表す「副」助詞なので、
一律に主語を表すものではありません。

『は』が主語を表すことが多いのは、
英語の倒置の説明で、
「英語は基本強調したいものを真っ先に書きたい言語、
普通の文だと、主語のことが多いので、その結果、
普通の文では、主語を真っ先に書く、という語順に
なっていて、主語よりも強調したいものがあるときに、
倒置が行われることがある」
のと、似たような筋書きの話ではないかと思います。

『は』の方は、英語では、主語云々よりも、
冠詞を「a」にするか「the」にするか、のようなことの
「参考」「決め手」になることも多くあります。
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日本語で一々主語を明示することはくどく、文章や話がスムーズに流れません。


通常は話し手か、書いている人が主語である事は暗黙に了解されています。
島国で言語も民俗・民族も多様でない歴史の中の言語の特質です。
一般的で不特定な主語とする場合も省きます。英語でtheyとか、itというような場合です。
“I”は通常は省かれます。
君達やみなさんはそういうだろうが、考えるだろうが。私は、・・・・というような主語を特に強調する必要の場合を除いて。

一人称でなくて、省かれている場合は、文章で誰が主体になってきているかの流れで解釈できます。
これが日本語の特性です。
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    僕は別に何が主語かを考えて日本語を読んでいませんが、「目を覚ましたらもう12時だった」という文を、主語を言わなくてはならない外国語に訳するなら「1人称単数の代名詞」を使います。

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