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もしいたらすみませんが、あまりブッダ以外で悟りを開いたという人の話を聞いたこと上がりません(訳の分からない新興宗教の教祖連中は除外してください)
大乗仏教理論をまとめたナーガルージュナなども、悟りを開いたという意味には当てはまらないのでしょうか?

いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。

A 回答 (19件中1~10件)

悟りを開くと云う事が、如何いうものかを書いてそれから、説明してみます。

悟りを開く事を他の言葉で言うなら『見性』です。自分の性を見るという意味ですが、その意味を科学的な文献から解き明かしたいと思います。

人間には二つの人格が備わっていますので、科学的な文献を載せてから説明します。


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


この研究はその後余り進んでいないように見えますので、残念と思います。

右脳の人格は左脳に存在する『自我意識』にはかなり分かり難くなっています。全く判らない場合に『健常者』と言う風に呼んでいます。

右脳の人格は『命そのものを働かせている者』です。人間の命の働きは、ある程度細分化出来ますので、もし細分化をするなら、概略三つに区分けする事が出来ます。

それは人間の、『身体に対する命の働きと、行動に対する命の働きと、心に対する命の働き』と言う風にですが、本当の意味ではそれらの三つには境目が在りませんから、全ての大元では共通点が在ります。

その共通点とは『心の矛盾』です、心が騒がしく争っていると言う意味です。具体的な言い方をするなら『生き難い想い』或は『一切皆苦』或は『漠然とした不安や、何処から押し寄せているのか分らない正体不明の心的な圧迫感』です。

人間の命は命として芽生えた瞬間から『働き始めています。』初めての働き始めが細胞分裂ですが、この働きを働き始める事を知っている働きが『命そのものの働き』です。

生まれてからは、誰も教えなくとも、安心する事も、不安になる事も、更に云うならば恐怖する事さえ知っている働きです。心臓の打つ数も、呼吸する数もホルモンや消化系等や排便する事も全て承知している働きです。

暑い時には汗が出る仕組みそのものや、心的には涼しい所や、水の在りかを探すように『自我意識に』指示さえ出している働きです。ですが健常者の場合では、今書いたシステムに何の疑いも持つ事が在りません、この疑いがない姿を聖書では『天国に住んでいる』と形容しています。

人間の脳の機能が大人になる頃から『人間は全てを疑う場合があります。』この現象を『失楽園』と形容しています。

二つの脳の機能が上手く同調出来ている場合の事です。天国に一番近い存在は『幼子』と言われる由縁は、脳の機能分化が進んでいないために、未だ一つのものとして働いているからです。

脳の機能分化の完成を待って始めて『人間は天国から追放される事』を意味します。この意味は『心が二つの機能になることで、争いがはじまるという意味です。』

つまり知恵が付いたために天国から追放されると言う意味は、『心が分裂をしたり矛盾を起したり、対立する事』を意味します。おもに思春期頃の事です。

人生がなんであるのか?や、自分は何者か?と言う疑問が湧き始めるころの事です。この疑問を抱き始める事によって『失楽園』と言う表現方法を取っています。

この疑問の解消方法が『悟り』を意味します。それは自分自身に疑問を抱かせていた者の正体を知る、と言う意味になります。つまり自分自身の感情を湧きあがらせていた者の正体が『自分自身であった事を知る』と言う意味です。

もっと具体的な表現方法を取るなら『死に対する恐怖感』と言う書き方をすると分かり易いと思いますので、この線で書いてみます。

普通の状態で『死』を意識した場合に、恐怖感が湧き上がります。この恐怖感の正体が何であったかを知る事が『見性』と言う意味です。

人間の心に不安や恐怖感が湧き上がる場合では『二つの意識が戦っていたり、矛盾を起しています』この意味は、『意識の根底で二つの意識は、脳梁を介して情報交換をしています』この情報交換に、ある場面で『自我意識が、感情が湧き上がる情報の受取りを拒否する場合です。』

もっと平たく言うなら『死に対する不安や恐怖心が芽生える場合では』人間の心は『永遠の命を希求しています』この事実が、心の矛盾です。

自我意識は有限の身ですが、右脳の人格は永遠の存在だからです。有限の身である自我意識は『永遠の存在である右脳の意識=仏性や神としての存在によって、』永遠を希求させられています。

右脳の働きは分り難いので、実際に右脳の人格を体感している動画が在りますので、載せてみます、その後でもう一度説明します。


URL:


この動画から汲取っていただきたい事は、『自我意識が全てではない事』です。もう一つの意識によって、自我意識は支えられている事です。

貴方が質問している事にお答えしたいと思います。


『いないという前提で話させていただきますが、ブッダはすべての人間が悟りを開けると教えているのに、もしブッダ以降今に至るまで第二のブッダがいないのなら、この事自体がブッダの教えは間違っていたという反証になりませんか?
この辺の事情についてお詳しい方お願いします。』


禅宗の記録を読んでください、禅宗では、悟りを開く事がその修行の全てに近い事を示しているからです。死の恐怖に怯える事からの開放を示しているからです。

禅宗では、見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。その意味は『死に怯えていた自我意識は、永遠の存在である右脳の働き、命そのものの働きに出会う事によって、有限のこの身の存在が、朽ち果てたとしても、自分は元々永遠の存在であった事を身を持って知る事を意味します。』

この永遠の存在との出会いを見性=悟りを開くと表現しています。そうして自我意識が二度と、右脳の人格の前にでしゃばらなくなると言う意味です。

キリスト教であっても同じ事を違う表現で言っています。『神と和解して、神の僕となる』と言う表現です。

釈迦の悟りは禅宗では、連綿と伝えられています。そのテキストの価値を書いて終わりにします。

右脳の意識は『言葉を持っていない事が特徴です。』右脳の意識を引き出す事が出来れば『見性』出来ることを意味します。

そのためのテキストとは『禅問答』です。禅問答は左脳の自我意識では、歯が立ちません、これは脳の機能的な問題です。

その理由は禅問答は右脳の人格としての機能が出て来ないと解けないように仕組まれているからです。

鬱と言う場合でも、神経症としての強迫行為も恐怖症も、自律神経失調症としての症状も、『心の矛盾』を症状として感じています。正に意識地獄の状態です。一切皆苦になっていますので、その症状を起こしている意識との出会いで『完治する事』を意味します。


それは『意識が発生する丁度、正にその時の事です。』その体験以後では『心の矛盾が解消しますので』もう二度と心同士が争う事がなくなりますので、寛解ではなくて、完治した事を意味します。

言葉にするなら、右脳と左脳の間にホットラインが開通する事によって、いつも心が静まり返っている事を意味します。仏教的な表現方法では『涅槃』です。
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ちょっと乱暴な言い方になりますが、


悟るとは自身の内面について「気が付く」ということです。
社会的に何を成し遂げたかという条件が必要になるものではありません。

そうした観点からすると、ブッダと同じ悟りを啓いた人は
たくさん居る「とされています」。ただ、その心的メカニズムを
片っ端から解き明かし、後世のために説明し尽くしていた
最初の人という「敬意」をこめて、ゴータマ・ブッダを固有名詞としている
場合が多いだけです。

とある経典にはブッダの直後に十大弟子という方々もいらっしゃいました
「と書かれています」ね。経典の内容を信用するなら、
彼らはすべからく悟りを啓いているはずです。

自らの精神の解明がどれくらい進んだかと言う意味では、
彼らもブッダです。

イエスキリストもブッダと同じような境地に立った「という人も居ますし」、
クリシュナムルティなどもそう「だとされています」。

あくまでも内面的なお話なんです。

ですから名前を知られていなくとも、真にブッダと同じ境地に立って
人々のために頑張り続けた人も居る「でしょう」し、もういいや人の中で生きるのとか
めんどくさいし…と思って隠居してしまった人も居た「可能性も多々あります」。
もともとブッダも悟った直後は人知れず消えてしまいたかったのだとか。

そして真に「悟りを啓いた」人たちが相対したときには、
おそらくは真理についての話が彼らの間で通じ合うのでしょう
…ということしか僕には言えません。

では、たくさん居たはずなのになぜ表に出てこなかったのか?
それは彼らなりの理由があったのだろうということでしょうね。

何故かと言うと、彼らは基本的に建設主義者だからです。

「悟り」と言う言葉を出すことにデメリットを感じればおそらくは
自分の境涯を伏せるという選択を取る事もあるはずです。

たとえばサラリーマンがいきなり悟っちゃったとしても、上下関係や
限りない発展とかいう欲望や怒りや迷いが渦巻く社内では、
いきなり「皆平等だ」などと言ってもいいことありませんし。

まぁそんなこんなで、「悟りを啓いて、説く」というのは、
何時でも何処でも大変だったと言うことなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
私用によりしばらく離れておりました。数多くのご回答をいただきましたので一度閉めたいと思います。
皆さんの回答は全て拝見しました。また機会があれば再度質問させて頂こうと思います。

お礼日時:2012/03/14 20:50

さとりを啓くということの意味が、本来、他者から認定してもらうような質のものでないということから類推すれば釈尊以降仏陀がどれくらいいたかというのは誰も分からないというのが本当のところなのではないのかな?


仏陀というのは目覚めた者、さとりを啓いたものという意味からすれば言葉の定義上、仏陀以外にさとりを啓いた者はいないということで言葉遊び的にはいいのではないでしょうかねw

それでも、世間にはいたる所に道標があるということは確かにそこを人が通った形跡を示してはいる



ところで
さとりって何?
さとりを啓くってどういう意味?

かな..


全ての人は悟りを開ける
言いかえると
全ての人はさとりを啓く可能性は持っている

はて..
この言の葉の
何が間違っているのかな?

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No3です


1-私自身は釈迦は悟っていないと思います。
悟っていない人間がどおしてここまで大きい影響力を持ったかについては、弟子たちの力が大きのではないかと思います。

幸○の科学という新興宗教の教祖は、自分は釈迦の生まれ変わりだと言っています。
100%ウソですが、日本だけでも、60万人くらいの信者がいるそうです。
また選挙でも、幸○実現党というのを掲げて、選挙を行いましたね。
また彼は自分の子供も洗脳しています。
一人の詐欺師でもこれくらいのことができます。

昔であれば、魔術、悪魔などが信じられていたでしょうし、今でも、未開の人たちは、病気は悪霊の仕業であるといって、シャーマンなどが活躍しています

その時代にマジシャンのセロなんかいたら、神様扱いされていたのではないでしょうか。
それ故、釈迦も人を信じこませるものに長けていたのかもしれません。



2-釈迦自身は自分ではなんにも書き残さなかったわけですが、弟子たちが私はある時、尊師がこういうのを聞いたと言って、それをまとめたのが仏典なわけですが、インドの中でとどまっていえば、ここまで広がらなかったのでは?と思っています。

その後、中国に渡ったのが大きかったと思います。

中国人によってかなりの解釈が付け加えられたことが大きかったのだと思います。

また、政治的に仏教はかなり利用されましたし、それによって人々に広まったのではないでしょうか。

今ではインドで仏教徒の数はあまり多くないそうです。
釈迦はヒンドゥー教のうちの一人でしかないという扱いだそうです



3-またこれはあくまで私個人の考えでしか無いのですが、ある種の薬物などを、釈迦も弟子たちも使っていたのではないかと思っています。

昔なぜ薬物を使った人は、ある種の宗教的体験と似たものを経験するのか?
(空海も明星が口の中に入ってきたとか言ってますし)
とおもい、薬物の本を調べたところ、昔から聖なるキノコと呼ばれるキノコが、その地方にあったそうです。

幻覚ー幻聴などを引き起こすもので、釈迦たちも森ー林で生活していましたし、一度くらいは分かってか、分からずかは分かりませんが、食べたことがあるのではないかと思います。



食べたあとに瞑想などをしていれば、幻覚などによって、神秘的な体験をしたと思い、悟ったと思ったのかもしれません

あと仏像などを見ますと、半目の状態が多いですが、あの目は薬物中毒患者と同じものだそうです。
薬物をやっているかどうかは、目を見るとわかると書いてありました。

まあ、3については、あくまで私個人の考えです。
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ANo.5です。



悟りを開くと言う事は、かつて釈迦世尊が見たものと同じものを見て、同じものを味わい、同じ事に同意するという事です。そして、それが「ブッダ(目覚めた人)になる」という事なんです。

前回の回答で名前を挙げたブッダ達が、一体何を見て、何を味わい、何に同意したのかは、敢えてここでは書きません。何故なら、それは私があなたに教えて差し上げる様な事ではなく、あなたがブッダ達の教えを学んで、自ら気づくべき事だからです。

良い勉強をしていれば、悟りを開いた仏弟子達は、何も真新しい事を説きたがっている訳ではなく、むしろ一番最初に真理を説いた釈迦世尊が言及していない事の補足をしたり、異なる視野からの説明をしている事に気づく筈です。既に法は説かれている訳ですから、今更全然違う事を説く必要なんか、どこにも無いんですよ。

仮に釈迦世尊の様な存在が再び現れる日が来るとしたら、それは仏教や過去のブッダ達の教えが完全に滅びて跡形も無くなるか、原型をとどめないくらい破壊された時です。でも、その時に現れるブッダも、結局は釈迦世尊と同じ様な事を説く訳です。

何故そう言い切れるのかと言うと、仏教のブの字も無い国で悟りを開いた人も、結局は釈迦世尊と同じ様な事を言っているからです。尤も、大変にオリジナリティ溢れる表現を用いている事が多いので、本物か否かを判断するのは難しいですけどね。
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まずは悟るの定義ですが、例えば単に「自分のバカさ加減を悟った」などというような類のものであれば、ほとんどの人たちは悟っているかと思われますが、もし、その悟るという言葉の字体が表している立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知すること、それは『心』こそが本当の自分自身、つまり本質であって、鏡に映る肉体はその所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分自身そのものであるということに気付いた人を悟った人と定義するならば、そのような人はさほど多くはないでしょう。



例えば、このことに気付いた著名人としては、かのデカルトがいますが、それは『我思う、故に我有り』という有名な言葉を残していますが、それで肉体というものは、運動する機械と捉えて、その本質である心がそれを操作するということで、早い話がアニメのガンダムのモビルスーツとパイロットの関係を思い浮かべてもらえば解るかと思われますが。

結局、人は目に見える物を以ってしてしか判断しない傾向性があるので、事実存在するのに色も形もない心が自分自身の主体であるとは考えられず、鏡に映る客体を(その心が認識しているのにも係わらず、その点に気付かず)主体として捉えてしまって、本末転倒しているのが実状で、つまり、本当の自分ではない無常の肉体に執着して、その挙句苦悩を生じてしまっている。その反対に色も形もない心こそが本当の自分自身と気付けば、元々、色も形もないが故に肉体のようにいずれ朽ち果てることもなく、常に存続する。つまり、我々自身は本来、永遠なる存在であるということに確信が持てるようになり、それで、いわゆる生老病死を克服することができるようになる。

つまり、真に悟って理解した人間というものは、必然的に四苦の苦悩から離脱できるようになり、いわゆる、これが解脱ということになるかと思われます。

ともかく、自分が永遠の存在で、時には肉体を所有したり離れたりしての生死、生死を繰り返しながらの面白おかしく生活(生命活動)していくことこそが、我々の真の実態であると気づいている者は、やはり多くはないでしょうが、ブッダ(目覚めた者)は確実には居ますから釈迦の教えは妥当でしょう。
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No1 お礼ありがとうございます。



>第二のブッダになる以外にも悟りを開いた状態というのはあるのでしょうか。


「自分には悟ることができない」という悟り。

自己言及のジレンマをかかえていますが,

悟りというものは,論理的に難があるものだと思っています。



悟っていないものが悟ろうとする。

そこには悟りの可能性が前提としてあった。

ところが,修業の末,前提が否定される。

悟りの実在性は,期待が生み出した幻影であった。

そういうことに気付いたのである。

心理に目覚めたのである。

心をくもらせていたものが晴れたのである。



箒で掃ききることができないことからの類推で,

心の塵もなくせないと気付いたときに,

逆説的に,心に塵がなくなったのである。
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人々は、善は善であると考え、善が悪である事をしらない。

美は美であると考え、美が醜であることを知らない。・・・と(ヘー:ゲルの弁証法?が書いてある)のは、昔読んだ「老子」の第2章でした。
先日時間潰しに、本屋に立ち寄った折り、「老子」という小誌が目に入り、ページをめくったら。

第一章 道は道にして、常の道にあらず、 とあり、困った事に?道、に(みち)とふりがな、がついていました。後の無は激 有は嬌、との考え方は省かれ。自己解説が述べられていました。
そして。第2章 に続いており。2章は省かれていました。
かつて理解出来た者がいない。難解な哲学、と言われる。老子の第1章、の具体的説明、が
第2章 なのです。マスコミ、インターネット、スマホ。など情報が氾濫し。多弁に智なし。情報も量が増えると質が低下するものなんでしょうね。一月ばかり前になるのか、テレビで、原発事故の検証報道をしていましたが。解った風のキャスターが、格納容器の圧力は8気圧に達そうとしていた。ベントを必要としていた。などと言っていました。8気圧、は高い水道管の圧力なのです、そんなもので格納容器が破裂する訳がない。800気圧の間違いでは、ぐらいは、しゃべりながら気づくべき事ではないのか、日本の文系? 解ってない者が、知識や原稿、で。解ったふりをして人に話す、という問題、を感じさせられました。 

ブッダ以外に悟りを開いた者はいないのか。
悟り、の意味が、釈迦の世界観、事象に対する、他に追随を許さぬ考え方、(それ故にブッダ、(目覚めた人)と呼ばれたのでしょうが)を会得している。という意味であるなら。
先ほどの「老子」が、全く同じ、と言えるような、考え方、です。
老子が解る者は、釈迦はわかるでしょうし。釈迦の考え方が解っている者は、「老子」は理解できます。

悟り、とは何か?は。善とは、愛とは、美とは、などと同様。妄想にしか結び付かない、空論になります。善とはを知るには、善と一体、となっている。ものを知らなければ。善を知る事は出来ません。

善は善である。善=善 では 善-善=0 を空想する事でしかない。何も起こらないのです。

善という認識が一つの存在となるには。

善×(1/善)=1 となって。一つの認識単位となる。

そしてその(1/善)は悪と名付けられる。
 
善と悪は、善悪、という。一つの認識の表裏である。裏がなければ表はない。表がなければ裏はない
。善と悪は等価であり一体のものである。善=悪であり。
善×悪=1(いっ) なる存在(=認識単位) となる。

世界の根元的在り方もまた同様である。
道(タオ 世界を世界として在らせているもの)は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。

道=道  である それでは、1つの存在単位にはならない。1としての存在単位になるためには

(1/道)という、常でない道、が一体となっており。

道×(1/道)=1(いっ) なる存在となる。

道=有 であり 常でない道=無 である。

無、を天地の祖に名付け、有、を大地の母に名づく
もって、無はその檄(能力、方向性)を現わさんと欲し 有はその橋(色、形)を誇示せんとす。

この無を、空、と置き 。有を、色、と置き換えると

空不異色 色即是空 諸法空相 不生不滅 不垢不浄、不増不減
という、般若心経の一節になります。 多分、玄奘三蔵はそうしたのでしょう?
近年物理学が、反物質の確認、などと言っているようですが、釈迦や老子に言わせると
何を今頃、なのでしょうし。
反物質がなければ物質は存在し得ない。とはいえますが。
それは難しい事ではなく。人間は肉体×精神=1 個人 としいて存在しているが。

肉体から遊離した精神、霊魂、の存在を確認する事は出来ないのです。
精神は肉体を保持変化させる。能力、方向性、として。肉体を有らせている。肉体と一体としての存在でり。それ自体は、無、空、なのです。
それを 肉体+精神=個人 という認識を持つから、神や霊魂、などという幽霊に惑う事になるのでしょう。

長くなったついでに、誰でもさとれるか。ですが
悟りという言葉は、愛とは、善とは、と同様、一面しか見ない言葉、概念です。
漢字を創った知恵、から見ると。解脱、知る事によって脱する、自己を変革する。知っただけでは悟り、にならない。?という意味にするのもいいのかも?
しかし元々の釈迦の悟りに対する考えは。
ブーディズム。仏主義、であり。仏(導くもの)を縁として、悟り、が起こる。なのです。
仏=悟り 仏×悟り= 起こる事=新たな縁  なのです。

地獄に仏という言葉の由縁とも思えませんが?

地獄でもがき苦しむ亡者が、ブッダ、に出会った。亡者は「私は運が悪かった、もっと早く、仏、に出会っていたなら、こんな事にはならなかった。といいます。ブッダがお「そなたは本当に、仏、に出会った事がなかったのか。」と尋ねると。亡者は「ただの一度もありませんでした」と答えます。
ブッダが「そなたは、苦しみ死んでいく者にも出会った事がなかったのか」と尋ねると。
「そんな事なら何度もありました」と亡者が答えると。ブッダは
「それが、仏だったのだ。そなたは、その時、何故、自分も同じ在り方である事を悟らなかったのだ。」 と言った。

「世に仏の有るは難く、仏に出会うは難し。」が 有り難い、の語源のようですが。
誰でも悟れるものであるが。悟ろうとしないのが人の心、なのでは?






  


物事を知る、考える、とは。イメージとしての、定義された対象概念を、聞き、学び、知識、として記憶する。ではないですよね。
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NO7です。



補足します。

 1 ブッダは他の人には真似できないほどの天才だったか?
   
   答) 組合せのレア度から言えば、そうでしょうね。

 2 ブッダ(釈迦)自身は哲学者なのか
   宗教の開祖なのか?
  
   答) 釈迦在世当時も、色々な宗教があり、それぞれの
   教団に神の再来とされたトップがいたようです。
   その教えを単純に信じる人もいたでしょうが
   釈迦自身は、その教えに納得できず、理性でも
   納得できるまで真理を探究しました。
   その結果、いつのまにか自分自身が多くのことに
   答えられる存在になったわけです。
   もちろん最終的には宗教的直観によって
   普遍的真理に至っていますから
   その意味では、哲学者でもあり、宗教的覚醒者
   でもあり、したがって宗教の開祖でもあると
   言えます。

 3 仏教における神様とは一体誰を指すのか?
  
   答)仏教は神を立てません。
   というか、単純に「神」を立てて、すべてを
   説明しようとする既存の宗教教団に
   飽き足らなかったのが釈迦です。
   したがって
   神様はいません。
   当然、(本来の)仏教徒ならば、ブッダを
   神とは思いません。

 

 

   
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仏陀の「悟り」とは「超自然」なものでなく、自然なものすなわち「誰にでも到達可能のもの」ということです。

すなわち仏陀以降に無数の人々がこれに「到達」しているはずです。
「誰にでも到達可能のもの」でなければこれに憧れる理由がありません。禅宗などでは直接な表現で「われと仏陀とが眉毛を互いに結び、同じ目で同じものを見ている」状態であると言います。
ご質問の趣旨は「お釈迦様だけがなぜ特別に敬われるか」のようです。二つの答えを申します。一つにはお釈迦様が最初にこの主張をなさったことのインパクトが大きい(紙と文字が使えるようになった時代でもありそう)ことでしょう。次にはお釈迦様ほどに「人をうまく導く力(人徳)を持つ人が少ない」とされています。この教えは「理解することよりも理解させることが困難」なのだそうです。安心してお求め下さい。求めに失敗する確率は「ハンマーで大地を叩くことに失敗する確率と等しい」そうです。自然則ならば当然でしょうね。
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