準・究極の選択

百人一首は初めから現在のような形の遊戯用に作られたのでしょうか。当時すでに類似の札取り遊戯があったのでしょうか。あるいは定家の独創なのでしょうか。

A 回答 (2件)

百人一首って、今のような遊び方になったのって、そう昔ではないのではないですか?



正座をしないと成立しない遊びですよね。平安時代って正座して何かをするって余り広まっていないような気がします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほどそうですか。ご教示どうもありがとうございました。

お礼日時:2012/05/04 19:26

 百人一首はもともと鎌倉時代前期に藤原定家が選んだ私撰和歌集です。


天智天皇が7世紀半ば、選んだ定家自身は13世紀半ばの人とすればその幅は600年です。
2012年現在、600年も昔といえば1412年。我々の感覚で言えば、全て大昔の話ですが、今の時代に定家が選んだとするならば、足利義睦の時代の歌を選んだ・・・それくらいの時間軸の幅があることをまず理解しましょう。

 さて、百人一首と我々が称しているものは「小倉百人一首」というもので・・・って、此処から先はウィキペディアをコピペしてみますね。

 小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだといわれる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙といわれる。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半という[2]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したといわれる由来から「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。


 ようするに今のようなカルタの姿で流行りだしたのは江戸時代に入ってからだそうです。
これも定家が百人一首を選んでから少なくとも400年近くたってるわけですね。


 平安時代の貴族の遊びとして「貝合わせ」というものがありました。「源氏物語」にも登場しますが、
この貝合わせがいわゆる日本でのカルタの原型だと思われます。

 カルタ自体はトランプ(これも本来は勝利を意味するトライアンフですが)のことを英語でcardといい、そのポルトガル語だと思われます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

貝合わせは百人一首の祖形と考えられるのでしょうか。いろいろ教えていただきありがとうございました。

お礼日時:2012/05/04 19:30

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!