下で質問した(No.747897)通り、
「なぜ旧国名が都道府県名にならなかったのか」
という疑問を持っていました。
しかし、よくよく考えてみますと、旧国名の「国」とはそもそも何なのか、理解していませんでした。
「国」とはなんのためにあったのでしょうか。
江戸時代には、「藩」がありましたよね。
「藩」と「国」はどういう関係でしょうか。
(ここで聞きたいのは、「何藩がどの国にあったか」ではなくて、
同じ国の中にある藩どうしは、別の国にある藩どうしと違って、何か特別な関係にあったのか、などですね。多分、ないと思います。)
江戸時代には「国」は存在していなくて、廃藩置県で「国」が復活したのでしょうか。(←多分違うと思います。)
「国」とは地名で、「藩」は武家の領域と考えればよいのでしょうか。
そもそもは公地公民制の「地方行政区画」として「国」を作ったが、それがずうっと廃止されなかったということでしょうか。
No.4ベストアンサー
- 回答日時:
旧国名の「国」は行政区分の一つです。
国を細分して郡があり、それを細部すると町里(村)がある訳ですから、今日の県・郡・市町村と然程代わりがありません。
律令制度下の国の事やその制度の崩壊、領地私有化と武家の台頭、江戸開幕と、おおよその歴史はご存知かと思います。
江戸時代に置いての国は地名区画に過ぎません。
官職として上総介・肥前守などと旧国名を用いた国守を任ずる時に用いられる程度です。
国守に任ぜられても地位を得るだけで、国守の使命を果たす訳ではないですから。
国守の長官守にも位の差があり、律令制度下の大国(陸奥・近江等)の守は従五位上相当、
下国(和泉・対馬等)の守は従六位下相当と細かな区分があります。
「藩」と「国」は基本的には無関係です。
実際、藩は必ずしも一国内に存在するとは限りませんでした。
加増の際に遠い領地を得たり、あちこちから小さな土地を沢山集めて大きな領地に変えたり・・・幾つかの藩は飛び地を抱え、その飛び地が隣接国や遠い国にまで及ぶ藩もあるのです。
廃藩置県でできた多くの小さな県を集合させて新たな県を作る際、旧国の区分は基本的な区分けには利用されたと思います。
(必ずしも旧国境=県境ではありませんので、諸事情があったと思いますが。)
この回答への補足
>江戸時代に置いての国は地名区画に過ぎません。
「国」は廃止されたわけではないが、支配機構としての働きはしていなかったんですね。
>「藩」と「国」は基本的には無関係です。
なるほど、よくわかりました。
メモ
http://www.jca.apc.org/rekkyo/newfile2001/tiri.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%88%B6% …
http://suika.fam.cx/~wakaba/-temp/wiki/wiki?%B8%A9
旧国名 ―― 旧国名の謎 - 旧国名一覧 - 1871年の廃藩置県で国郡制から県郡制になったみたいに思ってる人が少なくないみたいですねぇ。廃藩置県はあくまで字の通り、藩に代えて県を置いただけなのに。 - で、あくまで県というのは政庁であって、廃藩置県後も行政区画は国だったんだから。 - -
No.3
- 回答日時:
邪馬台国は、一つのポリス国家としての「クニ」であったと同時に、いくつかの小さなクニを束ねる存在でもありました。
つまり、緩やかなポリス連邦国家としてのクニもあったようです。
旧国名というときの、信濃国、武蔵国、越後国・・・等は、元々、山や川などの自然の境界でくくられた地方を、古代に行政区にしたものです。
大化の改新以前は「国造」が統治し、律令時代に入ってからは国司が置かれました。
中世以降は、律令制の行政単位としての「国」は有名無実になり、武将が群雄割拠する勢力圏ができましたが、それでも「××の国」という地方の呼び名はずっと残りました。
「藩」は江戸時代の行政単位で、一定の大名家が預かりましたが、改易も頻繁に行われました。
分家による「支藩」はありましたが、藩をまたぐ上位の行政組織として「国」があったわけではありません。
「大岡越前守」とか「柳沢出羽守」とかいうのは、朝廷の官職としての名目上の肩書きであって、越前国全体を統括する行政官だったわけではありません。紛らわしいですね。
元々「こしのくに」だったところが、京都に近い側から「越前・越中・越後」に分割されるなど、時代とともに国の分け方も変わったようです。
大修館の図録で調べたところ、明治時代になってから「出羽」が羽前と羽後に、「陸奥」は陸奥・陸前など4つにというように、さらに細分化されたそうです。
廃藩置県が行われた当初は、今よりずっと県の数が多かったみたいですね。
なんで旧国名を県名にしなかったのか?
う~ん、「人心一新」したかったんじゃないですか?
長野の田中知事が、県名を「信州」にしたいと言っているのも、やっぱり「世の中を変えた!」ってムードを出したいからでしょう?
日本人は、社名や地名、芸名なんかを変えたりするのが好きですから。。。
ちなみに、#1さんがおっしゃっている「奈良は朝鮮語から来た」との説は有名ですが、平城京は徹底的に中国を模倣した人工都市ですよね。
それ以前の、日本の目が朝鮮半島に向いていた時代の都なら、納得がいくが、遣唐使時代に入ってから突然朝鮮語が登場したとは考えにくい・・・という説もあるようです。
この回答への補足
私の調べたことも混ぜて書きます。
>大化の改新以前は「国造」が統治し、律令時代に入ってからは国司が置かれました。
大和政権は、各地の豪族を服属させ、「国造(くにのみやつこ)」の地位を与えて、地方を支配させたんですね。
そして、改新の詔で 国・郡・里を置くことにしたんですね。
国司っていうのは、中央から派遣された役人のことですね。
そういう流れからすると、(もともとはクニとか地方の豪族かもしれないが)「国」とは大和政権という中央の都合で定められた、と考えるべきなんでしょうね。
>中世以降は、律令制の行政単位としての「国」は有名無実になり、武将が群雄割拠する勢力圏ができましたが、それでも「××の国」という地方の呼び名はずっと残りました。
実質的な機能は失っていたが、地名としては存在していた、ということですね。
>廃藩置県が行われた当初は、今よりずっと県の数が多かったみたいですね。
廃藩置県とは、藩をなくしてその代わりに県を置くわけですから、もともと藩がたくさんあれば県がたくさん出来るのは当然であり、
そのときに古代・中古に定められた「国」を考慮してどうこうとはならなかった、
ということですね。
No.2
- 回答日時:
9世紀ごろから日本の行政区劃の単位として設けられた区分の名称です。
大和政権が全国を治める際に区切った行政区分です
その中心地が国府(こくふ)で、その近くに国分寺や国分尼寺などがたてられました。
国府にあわせて国の港(津)が整備されました
国府は古い時代の国府と新しい時代の国府があります。
これは、時代が下がり貴族が京から各地に赴任してこなくなり、在庁官人とよばれる、各地方の有力者が国府の長官に変わって、国を治めるようになりました。
国府のあったところを、国府(こくふ)以外に府中とか
各地につかわされた、都の役人は、赴任してその国中の神社をまわって挨拶をしていました。のちにそれは大変と
国府の中に神社を集めた総社(そうじゃ)と呼ばれる神社をまつりました、国府がなくなったあとも、総社は残り現在でも総社という地名や神社も現在まで伝わっています。
これも国府の跡です。
ところが、室町になると、地方の官人も本来の国府まで行かず,自分の屋敷で政務を行うようになりました。
そういったところには、国分寺も国分尼寺もありませんが
総社や府中の名だけが伝わっています。
結構、各地には、国府があったといわれるところが2箇所くらいあるのはそのためです。
そういった地域の有力者が、朝廷から国の守護としてその地域を治めるようになりましたが、戦国時代ともなると、
その守護も力が弱りました。
江戸時代には、朝廷の力も抑えられましたが
官位や官職として
土佐の守(とさのかみ)とかそういった官職が朝廷からの
形として残されました。
藩は、国よりも小さな単位の支配区分ですが同じ国の中にあってもつながりどころか、相手を見張る役目をもった藩も多くありました。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%EC%B9%F1%CC%BE
http://www.kotowaza-world.com/bits/j_map.html
http://archive.hp.infoseek.co.jp/9kokumei.html
国名は何度も改廃されています。
全ての旧国名が漢字二文字であるのは、時は遡り713年、朝廷より”国名は漢字二文字、そして好字(縁起の良い字)を用いるよう、命令が出たから。
713年以前の地名の多くは廃止され、さらに発音の変化もあったようです。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Homeroom/23 …
※旧国名は927年の延喜式のもの。
http://www.kcat.zaq.ne.jp/kimutake/quiz/data/bun …
この回答への補足
私はそんなに歴史に詳しいわけではないので、勘違いがあるかもしれませんが。
>9世紀ごろから日本の行政区劃の単位として設けられた区分の名称です。
9世紀と言えば、平安時代ですね。
確かに、ご回答中の最初のサイトのページには、「9世紀ごろから」と書いてありますね。
>全ての旧国名が漢字二文字であるのは、時は遡り713年、朝廷より”国名は漢字二文字、そして好字(縁起の良い字)を用いるよう、命令が出たから。
713年と言えば、奈良時代の初期だと私は思っています。
そのときに、「国名」をどうしろということは、「国」自体は既にそのときには存在していた、ということですね。
「国」は奈良時代より前から存在したが、今で言う「旧国名」のような形になったのは、大体9世紀ころということでしょうか。
(奈良時代が何百年もあるわけじゃないし、あまり突っ込んで考えてもしかたないんでしょうか。)
>藩は、国よりも小さな単位の支配区分ですが同じ国の中にあってもつながりどころか、相手を見張る役目をもった藩も多くありました。
旧国名と言っても、藩とは関係ないんですね。
No.1
- 回答日時:
奈良(ナラ)は古代朝鮮語でクニを意味したそうです。
古代のクニは現代の国と区別するためにクニと表記されます。クニの最小単位は一人の長に率いられた集落だと思います。ヒミコのいた集団はひとつのクニだったわけです。
時代が下るとこのクニは国となり古代日本の行政単位まで大きくなっています。更に時代が下って単に地方を指したり、出身地すなわち田舎(故郷)と意味が変わり行政単位は藩にとって変わられたのでしょう。藩は藩主が
いて自治権を持っている点で共和国の州に匹敵したといえるでしょう。
クニという大和政権誕生以前の言葉が現在まで生き残っていますが、クニが示すものは時代によって大きく変わり、現在では単に田舎、ふるさと、出身地を示すに過ぎません。
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