前回(投稿日2012/4/28)の質問のタイトル「この解釈は間違ってますか?」で取り上げた質問文中の“(一)會色(物)帰心観”に続く“(二)色心不二観”です。
「主観の心相と客観の色相とは實は本質一體である。但し衆生が相待の見地よりして内観を主観と云ひ外観を客観と見る。見よ自己が頭より脚下に至る迄外部より見れば全体物質のみである。然るに同一の自己を内観すれば全體精神である。故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」
色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。
空=心 即是=不二
と受け止めて間違いないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
No.9
- 回答日時:
>>色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。
空=心 即是=不二
と受け止めて間違いないでしょうか。
☆☆☆
はい、
間違っています。
勘違いをしています。
般若心経には「空即是色」のあと、
《色即是空 受想行識もこのようなものだ》
と続きます。
なので、
『色(物質・肉体)は実体がない。
実体がないものこそ色(物質・肉体)である。』
これはセットで考えないといけません。
色は実体がないけれど、煩悩や無知などの条件があると、(物質的・精神的)現象界に現れるんです。仮の姿で現れるんです。
それが《色即是空。空即是色》の主張なんです。
だから、《空》や《空性》は、存在の一方的な否定ではないんです。
迷いの世界では、存在性をもちうるんです。
なので、
《色即是空・空即是色》はセットで考えないと、般若・大乗の空観にはなりません。
《色即是空》だけでは現象の一面性しか見ていないことになりますから。
般若心経は、さらに、こう説きます。
『受想行識(こころ)もこのようなものだ。
つまり、
心も空であり、空であるものこそ心だ』
つまり、”私”を構成する《色》と《心》が空である以上、
《私・我、アートマン》も空で実体のない存在だ、となるわけです。
なので、
空はすなわち《色》と《心》だから、迷いのある世界で”私”は存在しうる!!
となるわけです。
《色》と《心》を別だてにしているから、
この段階では、とりあえず、まだ《色心不二》じゃないんですね。
まして、
《色即是空》から《色心不二》は出てこない。そうはならない。
なのですが、
般若の智慧とは無分別の智慧。
つまり、主観と客観の対立が消滅したところ、
仏教的に言えば、あらゆる差別・差別相が消滅したところで成立する認識。
この境地では、もはや、色も心の区別、差別も存在しないので、その時、はじめて
《色心不二》
が成立します。
しかし、迷いの世界の認識では、これは成立しません。
般若心経の冒頭に
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、ホニャララ、ホニャララ」
と、書いてあるでしょう。この部分を見落としてはいけません。
般若心経で書いている内容は、すべて、
観音様が
般若の空観、観法・毘鉢舎那(びなしゃな)を行なって、感得した世界、悟りの内容です。
つまり、この悟りの境地を感得するには、般若の空観、観法が必要なのです。
頭で、概念を駆使してあれこれ詮索しても、絶対に到達できない世界なんです。
そこに仏教の観法の重要性があるんです。
もっとも、
龍樹はその著書『中論』で、否定的な思弁を使って、
いろんなこと(煩悩即菩提、死即生みたいなこと)を言っていますが、
龍樹が言わんとするところは、
「どんな言葉、概念を使おうが、結局は、
それらを用いた思弁は論理的な矛盾に突き当たる」
という、言葉に対する不信と、分別(主観と客観をたてるような差別的な見方)の否定につきます。
自身が立てた”煩悩即菩提”みたいなことですら否定する、それが龍樹の立場です。
《有》のアビダルマ哲学の否定であり、
般若経典でとく《空》を単なる《無》と考えることの否定、
それが龍樹の立場です。
一方的な《有》でも《空・無》でもない、その中を観る、これが《中観》です。
このことについては、No.4のbragelonneさんの分かりやすい説明を読んで、考えてください。
☆☆☆
色即是空:《色》⇒《空》 (”⇒”は”ならば”の意味です)
空即是色:《空》⇒《色》
ゆえに、《色》=《空》
同様に、《心》=《空》 (∵《心》⇒《空》、《空》⇒《心》)
よって、《色》=《心》=《空》
よって、《色心不二》が証明された。Q.E.D
なんて、論理を使って証明できる、と考えないでくださいね。
《色即是空。空即是色》は言葉・論理を超えたところで成立する真理で、
本来、言葉では表現できないことを、かりに、人に分かるように言葉で使って表現しているだけですから。
金剛般若経では、空という言葉を一切使わず、
「心は心でないから、心なのだ」
と、通常の論理学ではありえない”論理”を使って、空に迫ろうとしていますしね。
余談ですが、鈴木大拙は「A is not A」の論理とか、「非即の論理」とか言っていましたね。
話を戻して、
般若波羅蜜行が完成した時、
最終的には、
《色即是空・空即是色》、《色心不二》、この真理すら否定されてしまいます。
(まだ、言葉に頼っている、分別、主格の対立構造が完全に解消されていませんから。)
そして、それが、般若の智慧、無分別智の完成であり、真の悟りです。
(華厳教学では、十波羅蜜、無分別智のあとに後得智がある、とされているようですけれどもね)
☆☆☆
「故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」
これは、あなたへの質問なのですが、
この記述を読み、
あなたは《色心不二》と頭で納得できたのですか?
だとしたら、あなたは、本当に素直な人ですね。でも、批判的精神がすこし欠けているかもしれませんね。
ここで帰結できる結論(あくまで論理の上で)は、
《色心不二》
ではなく、
《色心象不二》!!
このことに、疑問を抱きませんでしたか?
わたしは、日本・中国の仏教と仏教の観法に疎いので(じゃぁ、インド仏教をどれくらい知っているのかといわれると、困ってしまうのですけれども、ほんの少しだけよけいに知っているということにしておいてください)、
華厳四観でしたっけ、この前の観法であるらしい
《會色(物)帰心観》
がどのようなものか、よく分からないのですけれども、たぶん、これの思想的・教義的なバックボーンは
華厳経の十地品とかにある
「またこの念を作す。三界は虚妄にしてただこれ心の作なり。十二縁分はこれ皆、心に依る。云々、云々」
《物質的・精神的な現象は幻のようなものだ》
みたいなやつですよね。
海印三昧でしたっけ。
「その禅定中の心に現れる対象・表象、心象は心が作り出したもので、虚妄である。そこに空性があって、その場で縁起の理法が成立という」というようなことをいっているわけで、
心象とそれを見る心との明確な識別は必要だ、と思うんですけれど…。
僕は、華厳教学に疎いもので、ちょっと唯識的な観点から、僕の疑問を表明してみました。
會色(物)帰心観で、すべての物質的な現象が本当に心に還元されてしまうのなら、余計なお世話ですね。
でも、だったら、《色心不二観》は《會色(物)帰心観》に吸収されてしまうのではないだろうか、
と疑問に思ったりもしています。
わたしは、事事無碍、一即一切・一切即一、主伴無尽などの華厳の深遠な教義がさっぱり分からないもので、
こういう意見もあるのだということを、頭の片隅にすこし置いていただけたら、嬉しいです。
「色心象不二」の“心象”は心に表れる象、というように思いますが、「色心不二」の“心”は精神、と捉えています。
だから“心象”ではなく“精神”が“色”とは“不二”であると。
また、「観」については修行法としての“観”ではなく、物の見方、考え方、と云う意味で使われているのだと思います。
と、疑問を持ちましたが、よく学ばれている皆さんの回答に接するたびに、無知であることを知ることとなり、学ぶ意欲が湧いてきます。
回答ありがとうございました。(2012/5/25 12:00)
No.8
- 回答日時:
>>「主観の心相と客観の色相とは實は本質一體である。
但し衆生が相待>>の見地よりして内観を主観と云ひ外観を客観と見る。見よ自己が頭よ
>>り脚下に至る迄外部より見れば全体物質のみである。然るに同一の自
>>己を内観すれば全體精神である。故に物色と心象とは本来一體の両面
>>より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」
この考え方は間違っています。
色心不二とはそういう意味ではありません。
ここに書かれているのは、自分の肉体と自分の心が一体であると書かれていますが、本来そういう意味ではなく、自分の外界の一切が自分の心から出ており、心と外界が不二一体であるという意味です。
つまり外界とは家族・家・友達・会社・同僚と自分がふれあう一切の外界を言います。
これは少し考えにくいことですが、夢を考えるとよく分かります。
夢はどんな人だろうと場所だろうと心から出たものです。
心によってできていない夢はないからです。
>>色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にあ
>>る色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。
同じです。
色即是空とは、この世の物質は空であるという意味です。
空とは幻(夢)であり、それは自分の心によって造られた物質であると言うことです。心にないものがこの世に出てくることはないのです。
まったく私も、この世のものは総て“空”である、夢の様なものである、と考えていた時期が在りました。
今は一つ上の回答に納得させられてしまった私は、少し考えが変わってきています。
すべて夢・幻だとしてしまうと現実に在る物事が説明できなくなってしまうからです。
回答ありがとうございました。(2012/5/25 11:15)
No.6
- 回答日時:
誤 もって深く理解したいという欲求
正 もっと深く理解したいという欲求
諌めたいという気持ちが強すぎて文章を間違えていたら、真剣な雰囲気が壊れ諌めるという目的も頓挫します。これがいい例です。反面教師にしてください。
No.5
- 回答日時:
著者を師と仰ぐならば、真髄を理解するまで述べられている内容から脱線することは避けた方がいいでしょう。
想像してみてください。例えば、先生が話しているのに他から概念をもってきて「似てますが同じですか?」と問うことは失礼でもあります。
また、それが正しいか間違っているかが問題ではなく、話の内容を理解するという目の前のことともって深く理解したいという欲求の順序が逆さまなのが問題です。
今回の質問は、本を完全に理解し卒業した者が発するようなものです。
ご忠告ありがとうございます。
これまで何度かこのような“質問”という形で、或るお坊さんの文章を紹介してきましたが、その都度後ろめたい気持ち、ためらいの気持ち、などを感じてました。
針の穴ほどの窓、と云えるような“文章”を提示して、その文章の真意を伝えようとしても、伝わるはずもなく、でも私には自分の言葉で“この思い”を述べることなど不可能。
そのジレンマゆえの行動だったのです。
ただ、こうした質問へ真剣に、本気で回答してくださった方々に“中途半端”で終わらせるのはかえって失礼になってしまうようにも思いました。
そこで、今回に限って再度完結編として“質問”をしておこうと思いました。
どうぞご理解ください。
重ねて、ご忠告ありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
こんにちは。
色心不二も色即是空も ともに全体観に立って捉えます。
色心不二は おそらく《生命》がその全体であろうし 色即是空は そのあとの空即是色とを合わせて全体として《中観》に立つのだろうと見ます。
中観とは 次のように段階を経て世界を捉えるものと思います。
1. 空諦:色即是空
2. 仮諦:空即是色
3. 中諦:それらの全体を見る
仮諦(けたい)の特徴は モノゴト(色受想行識)が空であると見たとしても その空と見たモノゴトがいま・ここに現象していることは 事実だと捉えることではないでしょうか。
けれども だからと言って 最初の空諦なる見方が消えたわけではない。無自性=無我だということは 基本であるようです。そのように全体観に立つのが 中諦だと思います。
わざわざこんなことを言い出しているのは何故かと言えば おそらくブディズムは 認識論ではない。つまり認識論には終わるものではないからだと考えます。
どういうことか?
全体とか全体観と言いましたが 問題はもっと切羽詰まっていて ほかでもなく《いま・ここなる〈わたし〉》を問題にしていることにあると見ます。
たとえば要するに涅槃について捉えようとするに ブッダの後世の人びとは考えた。
○ 無住処涅槃
といった考えです。これは おのれが涅槃に到るかどうかという見方に立つよりも おのれたちがどうなるかという見地を持つゆえだと思われます。
言いかえると
○ 自未得度先度他
というすでに実践の立ち場に《わたし》があるということだと思われます。それが いくらモノゴトは空だと言っても いまコトはここに現象しているではないかという仮諦の見方をどうしても欠かすことが出来ないということではないでしょうか。
空観ないし中観は 色だけではなく 受想行識つまり《心》についても捉えています。つまり
○ 受即是空(想即是空・・・・) そして 空即是受(空即是想・・・)
というふうに五蘊のそれぞれについて 空諦と仮諦とを捉えています。というわけですから そのような全体観に立って
○ 色心不二
を言おうとしていると思われます。心=受想行識 なのですから。
でもたぶん 空観は 《わたし》の思惟および行動の全体であり しかもそれは動態において見ていると思われます。
色心不二は ややもすればそのような空観の動態から離れている感じがある。だとしたら それは おそらく総合の観点としては《生命》といったコトを言おうとしているのかと思われます。
コトは 空であり 空とは それ自身で存在する自性を持った確かなモノはないと見ているわけですが それにもかかわらず なにがしか移ろいゆかざるもの としての生命のようなものを想定しているのかも分かりません。
生命において 色と心とは不二であり一体であると言いたいということでしょうか。
昔の言葉では 霊とか魂とかになるのでしょうか。
この生命が 自然科学の明らかにするモノゴトにそのままおさまるものなのかどうなのか それは どうなのでしょう?
この回答を何度か読み返してみましたが、なんとなくの感じしかつかめないのは、無知ゆえに“用語”の意味を明確に理解していないからと思います。
だからその“なんとなくの感想”では、やはりブラジュロンヌさんが言う“全体観”の事かと受け止めています。
今回はブラジュロンヌさんの論理の仕組みを解き明かせそうな回答になっているような。
聖書も仏書も十二分に読みこなしている様で、ほんとに頭が下がります。
回答ありがとうございました。(2012/5/25 10:40)
No.3
- 回答日時:
色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。
○同じと捉えて間違いではありません。ただし、色即是空のほうがもっと上位概念ですね。
「色心不二」とは肉体と心は不二にして一体という意味ですが、内面の心から見ると肉体は心(霊)の影である。という見方ですね。これはわかりやすくいえば主に空間的な現れ方を表現していますね。例えば4次元意識が3次元に投影されているのが肉体物質という意味です。4次元の心(空)と3次元の肉体(色)は不二一体ということになりますね。
「色即是空、空即是色」も同じような意味を有してはいますが、違いは時間概念を含んでいる点ですね。
心の影が肉体である、だから心即肉体というのは間違いではありませんが説明に多少の無理がありますね。
この無理は時間を導入することで解消されます。心(霊)は次元間で変転するという捉えかたですね。例えば、4次元意識が3次元に存在するためには変転(相の変位)という形を取る必要があります。その変転が時間概念ですね。「色即是空、空即是色」の場合の「即」には「変転」の意味があるのですね。
変転の結果が「色心不二」になるという捉え方ですね。それゆえ、色即是空のほうが上位概念ということです。そこで、時間概念を含む「色即是空」が「変転:転生輪廻」の意味になるわけですね。
“色即是空”に含まれている時間概念が“色心不二”には無い。
それゆえに“色即是空”の方が上位概念である、との主張かと思います。
“色即是空”について“勉強”した事は無く、断片的に入ってくる“耳学問”レベルなので「即」に「変転」の意味があるとは、mmkyさんの独自の解釈なんだろうかと思いました。
回答ありがとうございました。(2012/5/25 10:05)
No.2
- 回答日時:
唯物性の極致たる物理学の果てに、不確定性原理=
「不完全な認識に応じて有限な存在性は派生する」を
経て、観念論=「人間原理(宇宙は認識性が成立する
ように成っている)」に至っており、唯物論(色)と観念論
(心)は合一のものとなっている。
それは不確定性原理において、その存在性の確定化
により無限不確定化=無に還元される、色即是空を
ベースとしている。
psytexさんには追いつけそうもないなぁ。
でも意欲だけならまだ少し残っているので・・・・・
回答ありがとうございました。(2012/5/25/ 9:50)
No.1
- 回答日時:
偉い人が来るまで絵空事を。
少しイメージが違いますね。
色即是空って有るけど無いっていう
素粒子レベルのお話ですよね。
(観測して初めて有る事が分かる
観測していない、出来ない物は無い、
極論ですが)
色心不二というのは
肉体も精神も同じ物だっていうことですね。
素粒子レベルで言ったら
同じなんでしょう。
しかし昔の坊さんは
なんでそんな事知っているんでしょうか…。
この回答への補足
色即是空=素粒子レベルの話、については正確に“どう捉えているか”を知りたいと思いました。
「観測してしていない、できない物」を精神と受け止めてよいのか、物質的に、なのかを。
色心不二、については肉体も精神も同じ物、ではなく別々だが二つに分けられない、と云うことだと受け止めているのですが。
ありふれた表現を使えば“表裏一体”といった感じです。物とその影みたいな。
回答ありがとうございました。(2012/5/20 0:50)
今でも“素粒子レベルの話”が何なのか解かりませんが、“色即是空”についても分かっておらず、それを知りたいために、なんとなくわかったような“色心不二”を関連させて「質問」して見たのです。
でも、たくさん回答を頂いてみればどうやら違っているような・・・・・
ありがとうございました。(2012/5/25 9:35)
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