No.2ベストアンサー
- 回答日時:
言われていますね。
後の歴史家の評価もそうですし、五賢帝時代の知識人の評価も同じようなものです。この時代は、ローマの版図が最大規模になり、そのひずみで生じた諸問題も皇帝制を選択して解消され、共和制から皇帝制に変更された時に起きた権力闘争もネルヴァの時代ぐらいから協調路線に変わり(特に皇帝と元老院が和解したのが大きい)ローマ帝国としての機能が上手く廻っていたうえに、周囲の外国との国境もほぼ確定して、平和路線に転換したことが大きいです。
これによりローマ帝国内に住む人々は安心して生活を営むことができたこと、また皇帝に即位する人々がそれなりに賢明だったことがこの時代をして「幸せな時代」と評価される基礎になっています。
ただ「もっとも幸福な」というのはローマの歴史の中でもっとも幸福ということで、どの世界のどの時代を通じても「もっとも幸福」という意味ではありません。それなら日本の江戸時代も五賢帝時代に劣らないぐらい「幸福」な時代だったといえます。
No.3
- 回答日時:
五賢帝というのは,18世紀の歴史家ギボン(イギリス人)が,著書『ローマ帝国衰亡史』の中で付けた名前で,ギボンはこの時代を「人類が最も幸福であった時代」と評しました。
著書のタイトルからも分かるとおり,ギボンは五賢帝の時代をローマ帝国の絶頂期と捉え,そこからローマ帝国滅亡(コンスタンティノープル陥落)までの長い歴史書を書いているので,そういう歴史観にした方が物語として書きやすかったのでしょう。
そして,ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は,ローマ帝国に関する歴史書のベストセラーとして世界的に人気を博したので(今でも日本語訳が販売されています),それに伴って五賢帝という呼び方も一般的に広まりました。
18世紀のイギリスから見れば,五賢帝の時代にはヨーロッパの大半がローマ帝国の支配下に置かれ,誰もがそれなりに平和な生活を楽しんでいたのに,そのローマ帝国が崩壊した後は小国同士の争いが延々と続き,18世紀になってもそのような戦乱状態は一向に解決していませんでした。当時の情勢から考えれば,ギボンが五賢帝の時代こそ人類が最も幸福な時代であったと評したくなるのも,理解できないわけではありません。
ただし,ギボン以前の歴史家が,五賢帝時代についてそのような価値観を持っていたわけではなく,そもそも「五賢帝」という呼び方自体が一般的ではありませんでした。現在でも,「五賢帝」という呼び方はかなり批判の対象となっており,特に支持されているわけではありません。
さらに,その後産業革命を経て世界は大きく変わり,人々の生活も以前とは比較にならないくらい豊かになりました。現代と比較して,ローマ帝国の五賢帝時代が最も幸福な時代だったと考える人は,さほど多くないでしょう。
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