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ローマ帝国の衰退、滅亡の理由を教えていただきたいのと、
その具体的な説明をお願いします。

よろしくお願いします

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A 回答 (7件)

どこかの誰か残したコメントですが「ローマ帝国の滅亡した原因よりも何故ああも長期間に渡り繁栄を維持できたのか?を問うべきだ」との趣旨でのものがあります。


実際ローマに限らず国家や文明は100%滅亡するか衰退するので私もこちらの方が建設的だと思います。

さて、私の過去の回答のコピペですが・・・

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました

長いのは別に嫌がらせではありませんよ。これでも文章は相当に削ったと自負しています。古代ローマ全体で千年以上。帝政に限定しても数百年はありますしね。勿論これは正解ではありません。あくまでも私の視点から眺めた古代ローマでしか無いのです。例えていうなら缶コーヒーの缶を眺めてこれは丸いと断言しているだけの事であり他の視点から見ればそれは長方形の物体や楕円形のそれとして見える・・・そういうことです。
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「研究者の数だけ答えがあります。

」・・・が、答えになりますが。
まともに答えようと思ったら、本が数冊書けますね。
取り合えず、参考書を、、、。

『ローマはなぜ滅んだか』弓削達 著 講談社現代新書968

『ローマの歴史』モムゼン 著 名古屋大学出版会

『ローマ帝国衰亡史』ギボン 著 筑摩書房

『ローマ人の物語』 塩野七海 著 新潮社

取り合えず、ローマ史の王道本ですね。
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ローマ市民の義務と権利のバランスが崩れたこと、衆愚政治になったことでしょうか。

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侵略の対象国がなくなったので経済の維持が出来なくなった

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丸投げ臭がありますが(笑)



Eギボン著(東京書籍刊)図説ローマ帝国衰亡史
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0104727038

30ポイントで読み解く「ローマ帝国衰亡史」金森誠也監修(PHP刊)
http://www.bk1.co.jp/product/02457132

末期ローマ帝国(クセジュ文庫:白水社刊)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4560056021.h …
辺りを参照されれば氷解すると思いますね
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 塩野七海「ローマ人の物語」を読めば良いと思います。



 歴史的名著と言われる、ギボン著「ローマ帝国衰亡史」以上に核心を捉えていると思います。また、著者が日本人なので、ギボン著の訳文よりもはるかに読みやすいです。
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それって凄い長いレポートになると思うんですが・・・


学校の課題か何かですか?

そうなら「何らかの課題やレポートのテーマを記載し、ご自分の判断や不明点の説明もなく回答のみを求める質問は、マナー違反であり・・・こういった質問対し回答する事も規約違反となりますのでご注意をお願いいたします。」となっています。

まずは検索してみて不明な点を聞いたほうがいいと思いますよ。
考え方にもよるところもあると思いますし(いろんな説もあるし)・・・。
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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Qローマ帝国とキリスト教の関係

キリスト教とローマ帝国との関係ですが、ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
また簡単でよいのですが、ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?
すみません、教えてください。

Aベストアンサー

今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」
http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。

>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。ですからその意味では違います。しかしながら、バティカン市国がローマ市内にあり、そこに堂々とローマン・カソリックの総本山たるサン・ピエトロ大聖堂があるという「宗教的な」意味においては非常に密接なつながりがあります。どういう関係にあったかは後にご説明します。

>ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?

ローマ帝国における宗教はもともと多神教でした。ちょうど日本の神道が「八百万の神々」を崇拝していたのと同様に。ローマにはもともと、ユピテル(英語名:ジュピター)、ユノー(英語名:ジュノー)とあともう1人(名前は忘れました)の神様がいましたが、ローマが版図を拡大し、植民地(属州)を増やしていく過程で、実に巧みに植民地経営を行っていきました。

古代ローマの伝統的な価値観に「寛容」(ラテン語:Clementia)の精神というのがあります。簡単に言ってしまえば、被征服者たる異民族の異質性を認めた上で、自らの価値観=宗教を押し付けることなく、異民族の宗教・信仰の自由を認めるということをやってのけたのです。また、ユリウス・カエサルの征服したガリアにおいては、ガリアの土着の神とローマの神を結び付けるということもしました。こうした“Clementia”の精神こそまさに古代ローマ帝国が1,000年もの長きに渡って繁栄し存続し得た要因だったわけです。

ところでキリスト教は一神教で、ローマ帝国内でも信者の数が増していきます。ローマ市民は当初、一神教であるキリスト教徒に対しては白眼視していました。

そこに目をつけたのが、あの悪名高き暴君ネロです。ある日、ローマで大火災が発生しました。ネロは自ら先頭に立って消火活動に務めます。都市計画にも非常に積極的だったネロはまた、芸術好きでもありました。最初のうちは積極的な消火活動や焼け跡の復興を好意的に受け止めていたローマ市民でしたが、ネロが黄金宮殿の建設を計画していることを知ると、あれはネロの放火の仕業でないかと噂するようになります。

そこでネロはキリスト教徒をスケープ・ゴートにすることを思い立ちます。彼は無実のキリスト教徒を磔にし火で焼き殺してしまったのです。しかしその後キリスト教徒が無実であることが分かると、今度はネロを糾弾する動きが起こり、ネロは海外への亡命を余儀なくされましたが、自害してしまいます。

その後ローマ帝国内のキリスト教徒の数は増えていきます。それでもパックス・ロマーナと呼ばれた最盛期になり五賢帝の時代を迎えても、キリスト教徒への迫害は続きました。

キリスト教が公認されるのは313年の皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発してからで、さらに国教となるのは後のテオドシウス帝の時(380年)でした。

コンスタンティヌス1世は、それまで皇帝はローマ市民から統治権限を委託されるという、非常に民主的というか、後の立憲君主制のような政治体制を改め、皇帝は神すなわちキリストから君主たる地位を授けられたとする、後の絶対王政期における王権神授説のごとき主張を行い、自らの地位を絶対的なものとするために宗教を利用しました。

それまでのローマ皇帝は、いわばローマ市民から統治を委任された存在で、たとえ皇帝であってもローマ市民から皇帝不適格の烙印を押されると退位しなければなりませんでした。ネロの時代もそうでした。しかし、市民ではなく神から統治権限を与えられたとすれば、たとえどのような悪政を行おうともローマ市民から皇帝の地位を剥奪されるようなことはなくなります。

こうしてローマ帝国で公認の宗教となったキリスト教は、ローマ市内の中心部に総本山たるサン・ピエトロ大聖堂を建設しました。「サン・ピエトロ」とは「聖ペテロ」の意味で、コンスタンティヌス1世がキリストの使徒の1人であるペテロの墓を参拝するために設けた殉教者祈念教会堂として建設したものでした。

今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」
http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。

>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。で...続きを読む

Qパンとサーカス

「パンとサーカス」とは誰の言葉でしょうか
またどういう意味なのでしょう

ご存知の方お教え願います

Aベストアンサー

誰の言葉かは存じ上げないのですが、これは、ローマ帝国時代の政治のあり方について言われた言葉です。

史上初の、福祉的政策を実現したローマ帝国は、ヨーロッパ史上類を見ない、膨大な領土を持つ大帝国へと発展していきました。その福祉的政策の状態のことを言います。

ローマの為政者は、国民の願いをかなえる人が選ばれます。国民が楽な暮らしをしていけるような政策を掲げる人でないと、政治家には選ばれないのです。(選挙ならば当たり前のことなのですが)

その結果、生活に必要な食料が支給されたり、休日を与えてもらったりする、当時としては実に快適な生活が、国民に保障されるようになってきました。国は栄えます。

しかし、国民の欲求はとどまるところを知りません。
「もっと豊かな食料を」→これが、「パン」にあたります。
「もっと休日を」

と、人々は、より働かず、より豊かな食料を与えてくれる人を求め、それをかなえてくれる人を為政者として選び続けました。国の財政はあっという間に破綻に向かいます。働かず、収入を増やさせているのですから当然です。

しかし、生活が保障されて休日などが増えると、人々は、次の欲求を持ちます。
「暇で仕方がない。何か面白いことはないか。」→これがサーカスにあたります。

ローマでは、「サーカス」は、確か、戦車での競技のようなものを見世物にしていたと思います。(映画の記憶より)まあつまり、生活をより高いレベルで保障し、退屈な国民に過剰なまでにサービスを提供し続ける、この状態を「パンとサーカス」と呼びます。

ローマが滅んだ理由はさまざまですが、私は、「パンとサーカス」状態が、じわりじわりと長い年月をかけて破綻に追いやった、大きな原因のひとつに間違いないと考えています。

そしてこの状態が、現在の日本と、コピーしたといってよいほど似ていること、わかりますよね。

誰の言葉かは存じ上げないのですが、これは、ローマ帝国時代の政治のあり方について言われた言葉です。

史上初の、福祉的政策を実現したローマ帝国は、ヨーロッパ史上類を見ない、膨大な領土を持つ大帝国へと発展していきました。その福祉的政策の状態のことを言います。

ローマの為政者は、国民の願いをかなえる人が選ばれます。国民が楽な暮らしをしていけるような政策を掲げる人でないと、政治家には選ばれないのです。(選挙ならば当たり前のことなのですが)

その結果、生活に必要な食料が支給され...続きを読む

Q古代ローマの造形技術の衰退について

つい先日塩野七生さんのローマ人の物語の最新刊を読んでいて、ふと疑問に思ったのですが


コンスタンティヌス大帝の時代の彫像(でいいのかな?素人なので)とアウグストゥス帝やユリウス・カエサルの肖像と比べると明かに下手くそな出来映えだと思いました。
これ以外にも技術の衰退は他にもあって中近東の優れた彫金技術というか冶金技術が衰退した理由は皮肉にも増えた需要に対して供給するべく森林資源の伐採で砂漠化が進み、それによって却って供給量が減少した為技術の継承がしにくくなった為だとは聞いた事がありました。


個人的には偶像崇拝を禁じたユダヤ教から派生したキリスト教の普及で古代ローマの造形技術がそうなったのかな?とも思いますが実際にはどんな説があるのか教えて頂ければと思います。

Aベストアンサー

こんにちは。
西洋美術史の一般論では、「古代ローマ末期は芸術衰退期」とされています。
その原因はご推察のとおり、キリスト教の普及です。

偶像崇拝と関係するかもしれませんが、非常に観念的なキリスト教の精神世界が、現世的で人間的なものに価値を置く古典古代の精神世界にとってかわっていくためです。
実在するヒーロー(=たとえばアウグストゥス)に至高の価値を見いだし表現するか、見えない神という観念的な存在にそれを求めるか、によって当然芸術は変容します。
前者では写実性の中に崇高さを求めますし、後者は「意味」が重要ですから記号的になったり装飾的な傾向が強くなります。

ローマ分裂後はキリスト教の世界が主流になりますよね。それが中世の始まりであり、古代ローマとは全く異質のビザンチン芸術のスタートとなります。

コンスタンティヌスの頃はまだローマの伝統が残っていますが、すでに中世に向かって古典古代の社会が崩壊しつつあるとも言え、移行期の皇帝の彫像にも変化が出てきているように私も感じます。写生はするけど、その中に人間の尊厳を表現するモチベーションがもはや前ほど感じられないというか・・・。かなり私見ですが。

他の要因としてはもちろん、経済の衰退とそれに起因する皇帝の政治力低下も、要因としてははずせないでしょう。

この時期のに比べると、最盛期のカエサルやアウグストゥスの彫刻は、非常に古典的な芸術性が高いと思います。

こんにちは。
西洋美術史の一般論では、「古代ローマ末期は芸術衰退期」とされています。
その原因はご推察のとおり、キリスト教の普及です。

偶像崇拝と関係するかもしれませんが、非常に観念的なキリスト教の精神世界が、現世的で人間的なものに価値を置く古典古代の精神世界にとってかわっていくためです。
実在するヒーロー(=たとえばアウグストゥス)に至高の価値を見いだし表現するか、見えない神という観念的な存在にそれを求めるか、によって当然芸術は変容します。
前者では写実性の中に崇高さ...続きを読む

Q西ローマ帝国滅亡 ゲルマン大移動

西ローマ帝国滅亡後の直接的な原因としてゲルマン人の大移動があったとよく聞きますが、国が滅亡するということと直接結びつきません。
移動が滅亡ということはそこに住んでいた西ローマ帝国の人よりも多い人が移動してきたわけでもないだろうし・・・。
その後、キリスト教に帰依してるのも不思議です。
詳しい方、ご教授お願いします。

Aベストアンサー

国の概念の理解

ローマ帝国は最盛期で人口が 5000万人
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html
ローマ時代のヨーロッパの人口を3300万人くらいとしていますが、小アジア(トルコ)とかエジプトとか北アフリカの人口をカウントしてませんので、この数字です。
ざっくり言うと、ローマ時代の人口密度は 1/20。今でもヨーロッパに行くと都心部以外は人口がまばら。(日本みたいに、狭い平野にこんなに人口があるところが不思議)
んで、今の国家はいろいろ面倒見てくれますが、面倒見のいい国家になったのは19世紀後半くらいから。それまでは、面倒見が悪いです。

当時の国家は、地方から税金を集めることが主目的。
中国の古代、秦の始皇帝が最初にやったことの一つが、全国の道路網の整備だったり、隋の煬帝が経済破綻したのも、大運河を頑張って作りすぎたため。
すべての道はローマに通ずってのは、軍隊を派遣する方法であるとともに、税金を集めてくる(当時の場合、食料の小麦を運んでくる)手段だから、頑張って道路を作った結果です。

まばらな人口のところに、道路を作っていれば、道路は簡単に切断できて、道路が切断されれば、税金がローマに来ません。

ゲルマン人が大移動してきたということは、道路という交通網の便利なところにゲルマン人が居座って、ローマに収める税金を途中でもらっちゃうことです。
イメージとして民族大移動というと、農地を求めて農民が移動な感じでしますが、数千万の人口のローマ帝国内に入ってきた各民族は10万人とか数十万人。農地をよこせではなく、農地でとれたものをよこせです。

交通網の切断=納税システムの崩壊によって、実質的な西ローマ帝国の皇帝の領域(=納税が来る場所)がイタリア半島くらいに縮小した段階で、皇帝が殺されて後継が生まれなかったというのが、西ローマ帝国の滅亡。

しかし当時の人の感覚としては、ローマ帝国内に複数の皇帝がいたり、一人の皇帝がいたりしていたので、その当時複数いた(東と西)の一人がいなくなったくらいにしか思ってなくて「ああ 西ローマ帝国が滅んだ」なんて思っていなかったらしい。

ゲルマン人がキリスト教に帰依したのは、西ローマ帝国滅亡のもっと前。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%88%E6%97%8F 例えば 西ゴート族
アリウス派がゲルマンに布教しており、一般庶民である旧ローマ帝国人がカソリックだったので、民衆を効率的に支配(自分らが少数派だから)するには、宗派を変えちゃえといようなノリです。

国の概念の理解

ローマ帝国は最盛期で人口が 5000万人
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html
ローマ時代のヨーロッパの人口を3300万人くらいとしていますが、小アジア(トルコ)とかエジプトとか北アフリカの人口をカウントしてませんので、この数字です。
ざっくり言うと、ローマ時代の人口密度は 1/20。今でもヨーロッパに行くと都心部以外は人口がまばら。(日本みたいに、狭い平野にこんなに人口があるところが不思議)
んで、今の国家はいろいろ面倒見てくれますが、面倒見のいい国家になったのは19...続きを読む


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