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高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

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A 回答 (5件)

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。

何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。
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まず一つ目に重要なことは、ギリシャは紀元前の相当前にさかのぼる歴史があるのに対して、ローマはそれより後の時代に成立した、ということが挙げられます。



ギリシャについてはトロイの木馬で有名な「イーリアス」などの叙事詩(または神話)が一部で事実と認められているように、歴史的には紀元前15世紀程度の神話時代までさかのぼることができます。ただしこの時に私たちが「ギリシャ文明」として知っている国はひとつではなく、アテネやスパルタなどの都市国家がそれぞれ独立した形で成立し、各地に散らばった形で「ギリシャ語を使うギリシャ人が居る場所」が、ギリシャ文明と呼ばれているのです。
実際にトロイの木馬で有名なトロイヤはトルコ地方にありますし、ギリシャ人は航海術に長けた海洋民族だったため、紀元前のかなり昔の時点でシチリア島のシラクサやスペインなどにも植民都市をもっていました。

参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3% …

これらの都市は紀元前7世紀から10世紀ぐらいまでさかのぼれることが可能な都市が多いのです。

さて、参考図のようなギリシャ人とフェニキア人の植民都市が勢力を競っている時代(それも都市国家ごとに勢力を競っている時代)、新興国家ローマが誕生します。

現在のローマの場所に元々あった王制ローマが紀元前509年に王制を廃止して共和制になったのが帝政まで続くローマの始まりとされています。

ギリシャとローマの関係で重要なのは、紀元前509年にローマが誕生したときにはすでに周辺にはギリシャの都市国家(そしてフェニキア人の都市国家)がたくさんあったということです。

そのためローマは誕生の最初からギリシャ文明を取り入れることになります。ちょうど日本が日本語という独自の言語を持ちながら、それを記すために漢字を取り入れ、その際にいろいろな文化も取り入れたのと同様に、ローマ地方のラテン語を書き表す為にはギリシャ文字や単語なども導入したのです。
結果としてローマは最初から公用語が二つある国家として発展することになります。

ローマは共和制になっても最初はもちろん地方の小さな都市国家に過ぎませんでしたし、どちらかというと、弱小で土地の勢力も弱い劣った都市国家でしかありませんでした。

しかし、周囲の都市国家と戦争や同盟を繰り返すことで紀元前272年にはイタリア半島を統一できるほどの力を蓄え、半島に同盟国とローマの衛星国家(自分の市民を配置した植民地)が相当数存在することになったのです。

そしてこの時代までの各都市と本国ローマの関係のあり方が、その後ギリシャ的な都市国家と様相を異にすることになっていくのです。

この時にギリシャ人とローマ人には大きな違いがありました。それはギリシャ人は海洋民族だったのに対して、どちらかというとローマ人は航海術が未熟な大陸民族だった、ということです。
そのため、ローマは各衛星都市と同盟国を結ぶように現在に至るローマ街道を整備し始めます。
最初はまだ統一戦争が続いている間の紀元前312年に完成したアッピア街道です。最初は当時ローマ本国に次ぐ大きな都市であり、戦略上重要拠点であったカプアに軍隊を迅速に送れる様に整備され、その後、当時の大国であったギリシャの諸都市に対して通商が容易なアドリア海に面したブリンディジまで延長されたものです。

このローマ街道の整備によって各都市と本国ローマが容易につながる様な方法とまたそれを支えた制度によって、ローマは大帝国になる基礎を築いていったのです。

ここまでが大体のあらすじでがこれによって個々の質問に答えることができると思います。
・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
もちろん出自も民族も文字もまったく違う民族です。ただしギリシャ人のほうが早く文明を築きました。

・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
日本が外国に使節を送れる程度まで統一国家に発展した後、当時の大文明国である中国から文字だけでなく文化や神まで輸入したのと同様、ローマも文化的な発展や文明の発展にギリシャ文明を大いに利用しています。特に日本と違いローマのすぐ近くにはギリシャ人が作った都市国家もありましたので(港湾都市のナポリはギリシャ人の都市国家が元であり、すぐ近くのカプアはナポリの監視と通商のための重要拠点だった)発展にはラテン語だけでなくギリシャ語も使用しましたし、その他の優れた民族の力は何でも利用したのです。

・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

ローマ人はギリシャ人と違って「政治の民・法律の民」と呼ばれています。日本人や中国人・朝鮮人などと同様民族が違えば、重要視するスタイルも違い、ローマ人は最初から法律の重要性・政治体制の重要性、そして国家の発展の重要性を意識していたように思います。
そのため、ギリシャのように「各都市国家がそれぞれ発展する」という方式ではなく、すべてローマとして発展する、という方式で帝国まで発展したといえます。

そのため征服したり服従したり、または発展的に同化した民族に対して非常に寛大に処遇し、ギリシャ人もフェキニア人もラテン人も関係なくローマ市民として扱うようになっていきました。特に建築においては共和制のごく初期にエトルリア人を同化させたため、ローマの建築レベルはぐんと上がったといわれています。
現代に残る水道橋などの建築技術は元はエトルリア人のものだったのです。

このようにローマは基本的に拡張した地位に住む文化や文明を同化させながら地中海世界の覇者となったのです。
またキリスト教が国教になる以前のローマは多神教でしたので、文化としての神々も様々なものを受け入れ、最初はギリシャ的な神々、次にゲルマン人やガリア人の神々もほぼ受け入れ(ただし政治的な側面があったドルイド教は廃止した)エジプトの神々なども受け入れて、ローマではいろいろな神様が乱立し神殿もたくさんの神様の神殿があったようです。

このあたりの文化的側面はローマの子孫であるヨーロッパ人よりもいまだに多神教である日本人のほうが理解しやすいと思います。

ローマが偉大だったのは、異民族は排除するのが当たり前の時代に征服した異民族も同化を願い出た異民族もすべて受け入れて国家を発展させたことです。
ローマはSenatus Populusque Romanus:元老院とローマ市民、という標語を国家全域に使い、属州民であってもローマ市民になることを拒むことはしませんでした(もちろん資格審査はあります)
その点では世界中の人がアメリカのグリーンカードを欲しがり、それがアメリカの発展につながっているように、ローマも様々な文化と民族を受けれていったのです。

当時は征服した異民族は「勝者の権利」として皆殺しにして民族抹殺をしても普通の時代であったため、ローマの同化政策は当時としてはかなり特殊なものでした。

ギリシャは当時の多民族と同様、異民族は受け入れずまた都市国家それぞれの違いはあるものの都市国家の子孫でなければ市民の資格を得ることができない所も多数あったのが普通だったのです。

ギリシャは紀元前のかなり古い時代から地中海を動き回る偉大な民族であったことはたしかです。そしてかれらのライバルはフェニキア人でした。しかし、新興国家ローマが発展し始めると、飲み込まれる都市国家が出たり、征服される地域が出たりして、ついにはマケドニア戦争でギリシャ文明と衝突します。

つまりギリシャ人としては、大陸的な民族としてあまり敵視していなかったローマ人が段々に地中海世界を支配するようになると敵対せざるをえなくなり、結果負けて地中海の覇者という称号がローマに移り、やがて帝政ローマの一部に組み込まれていく、という大きな流れだったのでしょう。

実際にローマがイタリア半島を出て、ガリアなどに進出していく時代になると何人ものギリシャ人が軍に随行して戦史などを書いています。
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2つ目の点ですが, アルファベットについてはローマがギリシャから輸入しています. もちろんそのまま輸入したわけではなくローマの言語 (ラテン語) にあわせて変更していますし, 輸入してからもラテン語の変化に応じで修正を加えたところもあります.



神については.... ラテンの神をギリシャの神と同じと「みなした」だけだったはず. なので, 厳密には一致しなかったんじゃないかな. 1つの神を複数の神と同一視することもあったはずだと思うんだけど....
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・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?



じわじわと ローマがギリシャを支配した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C% …

東方への進出というところ

・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています

※ 日本も中国も干支で12支とか使っていますし、使用する漢字も似ています、のようなもの。

・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと


ローマとギリシャが対立的に別個の存在したわけでなく、広く地中海世界というものがあり、その中で現在のギリシャを中心したところに都市国家がイロイロあったギリシャという地方がありました。また現在のイタリア半島の真ん中のあたりに ローマという集団がいました。

ギリシャの思想家と言われている、アルキメデスは、現在のイタリアのシラクサにおりました。
だから、アルキメデスはイタリアの思想家といってもいいような気もするが、通常古代ギリシャの思想家と切り分けている。

ちなみに、ギリシャという政治的な単一集団ができたのは、19世紀になってからであり(1830年)、その前には国家としてはの「ギリシャ」はありません。現在のギリシャにつながる政治単位が生まれるまでは、基本的に現在のギリシャ人は、(オスマン帝国内における)キリスト教徒として自己認識しておりました。
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1 古代ギリシャは都市国家群で、アテネとスパルタを中心とする勢力群での争いが絶えず、一国に纏められる偉人や国家が出来なかったので、勢力的には小さなままの「都市国家群」から抜け出られませんでした。

ただし、プラトンやソクラテス、アリストテレスなど、いまだに名を残す「文化人」を輩出した文明の発達した地域でありました。ですから、言論や数学、幾何学を基とする文明は発達し、天文学や土木も周辺地域に比べると群をぬいていました。
2 古代イタリアは群小部族があちこちに散らばっている弱小地域でしたが、所謂「ローマの7つの丘」周辺に住んでいた部族が、7つの丘の谷間の溜り水を低地に排水して病気を画期的に少なくし、ティレーべ川を水上交通可能に改修することにより、栄え始めました。言語も土木も「ギリシャからのパクリ」で、パクリが早かった分、軍事力も強大となり、次第に周辺部族をまとめて「国家」の態をなしてきました。ですから、12神を崇めるなどは当然一緒です。
3 古代ローマ帝国は民族問題にはおおらかな国家で、「帝国に貢献する者、した者」には惜しみなく市民権を与えました。国家元首は市民から選ばれますから、アフリカ人までが元首になったこともあります。こうなるとローマへの帰属意識が高まり、ガリア地方(今のフランス、スペインなど)や、北アフリカなどもローマ帝国となります。
4 結局、ギリシャは「頭はいいが、その分纏まりが悪い」小国家のままとなり、大帝国・古代ローマに臣従するだけで、張り合える国家にはなりませんでした。頭はいいが自己主張が強く、国家として纏めていくだけの度量も実力もない集団は「文化を提供しただけで、その文化を吸収、活用して大きくなった国家に臣従する」との結果を甘受せねばなりませんでした。
5 古代ギリシャの都市国家群の抗争を記録した書物に、当時の文筆家:トウキュディデスによる「歴史」(京都大学学術出版会)(岩波では「戦史」と題して出版されたことがあります)がありますが、都市国家群の抗争時のプロパガンダ合戦のすさまじさには辟易するほどです。古来、中国もそうですが抗争時には「我はいかに正しく、相手はいかに悪か」を声を大にして怒鳴るようにして主張してきました。今の世界も変わりありません。日本も言論闘争に強くならねばなりませんね。
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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qなぜヨーロッパの歴史がギリシアやローマから始まったのか

なぜヨーロッパの歴史はギリシアやローマから始まり、発展したのでしょうか。是非教えてください。

Aベストアンサー

 
ここで「ヨーロッパ」と言っているのは、「西欧文明」のことだと理解します。何故なら、「ヨーロッパ」には、北欧、東欧、ロシアも入るのであり、北欧や東欧、ロシアの歴史は、ギリシアやローマから始まっていません。北欧、東欧などは、キリスト教の布教によって、キリスト教文化の流入と共に、ローマやギリシアの文明との関連が生まれますが、それは、8世紀とか9世紀とか、かなり時代的に後になります。また、ロシアは独自の歴史があり、西欧とはまた違った文明とされます。

西欧文明の場合、人種的あるいは部族的には、ケルト、ゲルマン、ラテン人(ローマ人)が西欧文明を築いたと言えますが、中心に来るのは、ゲルマン・ケルトで、更にゲルマン部族が、西欧の歴史の主人公だとも言えます。

ゲルマンやケルトの場合、過去の歴史を遡って行くと、紀元前には、現在のフランスを中心とした大森林のなかで狩猟生活をしていた小部族の集団ということになります。紀元頃だと、ケルトの部族も多数、現在のフランス・ドイツ・イギリスなどの領域に居ましたが、やがて、3世紀から4世紀にかけての「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれるもので、ゲルマン族が、西欧を席巻し、ローマやイベリア半島や、果ては北アフリカにまで広がって、多数の部族王国を築きます。

西欧文明のコアであるゲルマン部族の人々の歴史は、紀元前になると、文書記録がほとんどなく、実態は、遺跡の発掘などで、考古学で検証されています。

イタリア人の歴史は、確かに、遡ると、ローマ帝国、ローマ共和制から始まります。またギリシアも、オットーマントルコの支配下に長い間あったとはいえ、遡ると、ローマ帝国の属州、更に遡れば、独立した古典ギリシア文明へと繋がります。

しかし、フランスやドイツやイギリスの歴史は、遡ると、大森林のなかの狩猟部族群となり、それも、遙か東の黒海あたりから移住してきた人々です。紀元前の西欧は、一面に大森林に覆われていて、当時のギリシア人やローマ人は、ゲルマン・ケルトの人々、つまり現在の西欧の人々の祖先を、森のなかの「蛮族」だと呼んでいました。

ローマは地中海全域を版図に収める大帝国を築きますが、その版図には、現在のフランスやドイツやイギリスは含まれていません。イギリスはブリタニアとして、比較的開けた領域は、ローマの植民地でしたが、島全体から見れば、ケルト族の土地でした。

現在の西欧の人々の直接の祖先の歴史になると、イタリアとギリシアは別ですが、「森のなかの蛮族」になってしまいます。

ギリシアとローマの文明は、西欧文明とは別のもので、西欧文明は、ギリシア・ローマを通じて、「文明」というものを学習したのですし、技術や知識や文化や思想を「模倣・継承」したのです。

西欧の歴史の最初が、「森のなかの蛮族」では、西欧の人々の自負心を満たさなかったので、古典ギリシアやローマ帝国の「継承者」を自認して、ローマやギリシアを、自分たちの歴史の最初に置いたというのが事実です。

なお、西欧が古典ギリシアを忘れていたなどというのは、どこから出てくるのか理解し難いです。12世紀13世紀のイスラム文化を通じての古典ギリシアのアリストテレスの思想の復興や、ルネッサンスの古典ギリシア復興のことを述べているのだとも思いますが、それは、キリスト教を文明の宗教としたことで、古典ギリシア哲学やローマ哲学を含む、「異教」の書物などを、すべて廃棄して残さなかったので、一見、忘却したように見えるだけで、ラテン語での記録などでは、ローマ帝国がかつてあり、古典ギリシア文化がかつて、ローマが崇拝した文化としてあったということは、忘却などされていません。

キリスト教にとっては、興味がなく、かつ有害と考えられたので、軽視され、また無視されていたので、キリスト教に都合の良い資料は、ローマ時代のものも、古典ギリシアのものも、西欧には残っていました。(ただし、哲学等のギリシア語原典は、意図的に廃棄し、抹消したので、名前だけ残り、実物が西欧からはなくなり、アラブ人を通じて、原典の写本が、12世紀頃再び、西欧に入って来たと言うことです)。

フランスの歴史、ドイツの歴史、イギリスの歴史などで調べると、最初がギリシアやローマにはなりません。イタリアの歴史の場合は、最初がローマやエトルリアになりますが、ギリシアはまた別です。

ローマや古典ギリシアが繁栄していた時代、イギリスやフランス、ドイツには、大森林があり、森林のあいだの小さな開拓地にケルトやゲルマンの人々が集落を作り細々と生活していたので、ギリシア人やローマ人は、彼らを、「森の蛮族」と呼び、フランス・ドイツ・イギリスなどを、「蛮族の土地」としていたのです。

(西欧は、上で述べたように、古典ギリシア文明や、ローマの文化資産を「学習・継承」して、みずからの文化を発展させて行ったのです。そのため、西欧の歴史の最初に、古典ギリシア文明やローマ帝国を置きます。特に、ローマ帝国は、キリスト教の成立と発展と密接に関係あるので、多数の資料がラテン語で西欧に継承されています)。 
 

 
ここで「ヨーロッパ」と言っているのは、「西欧文明」のことだと理解します。何故なら、「ヨーロッパ」には、北欧、東欧、ロシアも入るのであり、北欧や東欧、ロシアの歴史は、ギリシアやローマから始まっていません。北欧、東欧などは、キリスト教の布教によって、キリスト教文化の流入と共に、ローマやギリシアの文明との関連が生まれますが、それは、8世紀とか9世紀とか、かなり時代的に後になります。また、ロシアは独自の歴史があり、西欧とはまた違った文明とされます。

西欧文明の場合、人種的あ...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q古代ギリシャで急に学問が開花した理由

こんにちは。私は歴史が好きなのですが、ある程度全体を見渡すと改めて古代ギリシャの凄さがわかります。
ギリシャ以前のメソポタミアの歴史等を辿ってみても、古代ギリシャだけがなぜ突出して偉人や哲人が現れ栄えるようになったのでしょうか?
同時にギリシャは世界最古の民主政治を行ったともききます。

歴史の中ではこんなこと当たり前の事実みたいになってますが、改めて考えれば・・・ゲーム的にいえばギリシャだけ(文化面で)チート過ぎると思うのです。
ヨーロッパでは中世に入って地球が丸い云々のとき、もうギリシャでは地球の円周を計算した人がいます。
世界史的に見て、ギリシャだけが他と比べて性格が違って見えます。
なぜこんなことになっているのか理由があるのでしょうか?

Aベストアンサー

 地歴教育の専門家としてはこんな回答になりますが、妥当性は疑ってください
(1)宗教規範による強い束縛がなかった
(2)余剰生産力が豊富で、非労働者階級(知識・芸術を生業とする階級)が多く発生しえた
(3)民主制社会によって、自由な発想・思考が保証された
(4)個人を束縛する社会体制が希薄で、アナーキー(ホッブス的)な社会だったから
(5)海上貿易の発展・文化の中心として多くの知識・学術が集約しえた

以下のような状況が大きいのではないでしょうか?

ギリシャの古代は自然科学の発展が目覚ましいわけですが、これはギリシャ哲学の発展があってこそでしょうが、学問を追求してゆける社会環境が整備されているからこそ・・・というのが結論でしょう。

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q質問です

今西洋建築の歴史について調べているのですが、ローマ建築とギリシャ建築の最大の違いって何でしょうか?やはりギリシャ建築+α=ローマ建築なのでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ギリシア建築とローマ建築の違いは簡単に言えばパルテノンとパンテオンの違いだと教えられました。
ギリシア建築は柱梁構造。石造によってつくられているので(初期には木造であったとか)あまりスパンが飛ばせず,柱間が狭くなるとか。またギリシア建築は新しい形式を試したり工夫したりというよりも,その基本形態を完全なものにすることをめざしたようです。後記のローマ建築と違いこちらは中に人を入れるというよりも「外から」を重視したようです。
ローマ建築はギリシア建築と違って多様的で複合的です。ギリシア建築様式をはじめ,エトルリア,オリエント等から技術を取り入れています。そしてそれらを自由に組み合わせています。こちらは人を内部に入れることを考え施工され,建築物の種類も豊富で耐久性に優れています。構造はコンクリートが用いられ,(両面にレンガを積んだ後,中央隙間にコンクリートを入,大理石等で化粧張りしたり左官材料で仕上げ。)それによりアーチやドームといった曲面を自由につくりだし,柱が多く並んでいた前記の建築と違い大空間の建築を作り出せるようになったようです。(ですが,すべてというわけではなく,石造建築もあれば,石造+レンガもあり,石造+コンクリもあった・・・ほんとに複合的だったようです。)

わたしも今学んでる身なのでお教えできるほどの知識はそんなにありませんが,参考になれば幸いです。

ギリシア建築とローマ建築の違いは簡単に言えばパルテノンとパンテオンの違いだと教えられました。
ギリシア建築は柱梁構造。石造によってつくられているので(初期には木造であったとか)あまりスパンが飛ばせず,柱間が狭くなるとか。またギリシア建築は新しい形式を試したり工夫したりというよりも,その基本形態を完全なものにすることをめざしたようです。後記のローマ建築と違いこちらは中に人を入れるというよりも「外から」を重視したようです。
ローマ建築はギリシア建築と違って多様的で複合的です。...続きを読む

Qイエスキリストはどうして処刑されたのですか?

イエスがなにか変なことをしたがために処刑されたのでしょうか?

Aベストアンサー

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律主義」に走っていました。

そんな中に現れたのは、洗礼者ヨハネ(十二使徒のヨハネとは別人)とその教団でした。
彼らは、そんな議会派や民衆派の事を激しく批判していました。
そこに現れたのがイエスでした。
彼は、洗礼者ヨハネの主流2派の批判には納得していました。
しかし、完全には洗礼者ヨハネの言うことに納得は出来ませんでした。
そして、修行をするウチに「救世主(キリスト)」として目覚めていきました。(ただし、イエスは自分では「私は救世主だ」とは言ってません)
そして、ユダヤの各地を遊歴して弟子を得ていきました。

やがて、イエスの主導する勢力はだんだんと大きくなり、その影響力は洗礼者ヨハネをも超えていきました。
また、洗礼者ヨハネはヘロデ王も批判していたので彼に捕まり処刑されてしまいました。

ここに来て、主流2派にとってはイエス派の勢力を無視出来なくなってきました。
特に、議会派の人々はイエス派の人々が反乱を企てローマが怒るのを恐れました。
また、付き従っていた人々の中にもイエスが「救い=ローマからのユダヤの解放」をしてくれないので不満が募ってきました。
そこで、紆余曲折を経てイエスをとらえました。
しかし、イエスを裁判で罪にしても死刑にする権限はユダヤの議会にはありませんでした。
そこで、ピラトの元に行き
「イエスはユダヤの王を名乗り、ローマへの反乱を企てた。死刑にすべきだ」
と言いました。
ピラトはイエスの事を調べましたが、嫌疑不十分であるとして「ユダヤの事はユダヤで決めよ」と言い、ヘロデ王に任せました。(ヘロデ王は、イエスの故郷ガリラヤの支配者でした。)
ヘロデ王もイエスを取り調べましたが、やはり「罪」は無いと言い、ピラトに送り返しました。

ピラトは、「罪が無い」と言っているにもかかわらず、ユダヤの人々は「死刑にせよ」と要求します。
このままでは反乱になると恐れたピラトは、人々に取引をもちかけました。
当時とらえられていた「殺人犯」と「イエス」どちらかを「死刑」とし、どちらかを解放しようと。
「どちらを解放するか?」
とのピラトの問いに、人々は「イエスを十字架に」と叫びました。
この結果、「殺人犯」は解放され、イエスは十字架に架けられることになりました。

と、以上が大まかなイエス処刑の経緯です。
つまり、議会派の人々はローマを恐れる余り、民衆はイエスが「神の国」と言ってるわりには「ユダヤをローマから解放」してくれない事への不満のため、イエスは十字架に架けられることになったのです。
しかし、イエスは一言も「ユダヤをローマから解放する」とも「私は救世主です」とも言っていません。(救世主については、弟子には言わせてましたが、、、。)
そして、イエスのいう「神の国」はあの世の事だったのですが、民衆は理解しませんでした。
結論としては、議会派の人々による「冤罪(ローマに反乱を企て、ユダヤの王を僭称した罪)」に、民衆がイエスを「誤解」していたために議会派の人々の提案(扇動)にのった結果、イエスは十字架上で死んだのです。

余談2・イエスが言った一番良い言葉なのに、キリスト教ではあまり実戦されてない言葉に「皇帝のモノは皇帝に、神のモノは神に」があります。
このことからも、イエスはローマへの反乱の意志はなかったと推測できます。

一応、主流となっている説です。

まず、イエスはユダヤ教徒であったことを理解してください。
また、ユダヤ人はローマの支配下にあった事も頭に入れておいてください。

当時のユダヤ教は主に2つの派に別れていました。
議会派(サドカイ派)と民衆派(ファリサイ派)です。
議会派の人々は、その権力の基盤がローマに服従することによっていたので、ローマ人の顔色ばかりうかがっていました。(この意味ではユダヤの王ヘロデも同じ)
そんな彼らを、批判していたのは民衆派ですが、彼らは彼らで「戒律...続きを読む

Q★「封建制度」を簡単に説明してください!

★「封建制度」を簡単に説明してください!

世界史の時間によく「封建制度」なる言葉が出てきます。

いろいろと調べてみたのですが、いまいちよくわかりません。

理解力を深めたいので、封建制度を簡単に説明できる方よろしくお願いします!

Aベストアンサー

封建制度とは「封」(封土=土地)を与えて家来を「建てる」と言って、つまりは
「土地をなかだちとしてむすばれた主従関係(しゅじゅうかんけい)にもとづく社会のしくみ。」
のことを言います。
御恩と奉公ですね。
もちろん日本・中国(周)・中世欧で指す封建制度とはそれぞれ少し意味が異なったりしますが、基本的には上記の意味です。

ちなみに対義する言葉は絶対王政や絶対君主制です。


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