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何年か前にすでに説明している事だが、憶えている人は少ないだろうから、猿に理解できるかどうか改めて問うよ。
お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。
その内訳は、信仰とは我が心そのものだと言う確信であった。
目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもは、噂話が好きだ。
そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達の信仰に真実は無く、無だ。
そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者の痴漢行為に対しては、「それは自らの心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた無である。
そしてどっち道無だから一切が無と言う事にしましょうや。
信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。
ただそれだけだが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、無の哲学の真骨頂だ。

今回はこれを論理を鍛える題材として提示するよ。
とっくの昔に一人でもっと先に進んでいるんだけどそれはまた今度だ。
信仰を排除したありがたみの無い言い回しで説明したので判りにくい部分があるかもしれない。
特別サービスでもっと説明してくれと言うなら、頭の下げ方次第では説明してやるよ。

それから西洋の哲学が何故優れているかと言うと、信仰に目覚め自らである事を自覚した考えであるからだ。
日本人が哲学で免許皆伝するには、仏教を思考の土台に据えて西洋とは別であっても比類するだけの哲学を鍛える事だ。
そこまでしないと信仰が生きているとは言えないよ~ん。

A 回答 (13件中11~13件)

 他者の知性に便乗している。



 そのとうりかも知れない。

 ありがとうございます。

この回答への補足


信じさせられた事のみが君の全てだ。

これを詳しく解きほぐすと、
信じていると思いこまされただけで自らは信じた事は無い。
こうだよ。

補足日時:2012/06/24 23:59
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この回答へのお礼

安易にありがとうなどと言う事で証明されている。
他者に指摘されて初めて自分が判ると言う隷従行為だ。
自らを語ると言う事が判っていないのだよ。
自らの正直な心情を自らの言葉で語る。
これが出来ないで誰かがこう言ったからと言って、ああその通りですね。

君は信じた事は一度も無いだろうよ。
信じさせられた事のみが君の全てだ。

お礼日時:2012/06/24 23:55

 西洋の信仰は哲学とは言えない、と思う。

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この回答へのお礼

間違いなく信仰を起源として知性に発展させてるよ。

すなわち、人間を人間たらしめる知性とは神の発見と密接に関わっておる。
ところで何も信じられない君は、全ての信仰を自らのうちにとどめるのみにしろ。
なぜなら、人間の備えるものでしろ、知性とは神に由来し、君はその神を否定しているからだ。
哀れかな。
君に知性は無く、他者の知性に便乗しているのだ。

お礼日時:2012/06/24 23:45

 Flareonさんの言う処の“信仰”は哲学としての信仰だよね。



 その観点で言えば、空とか無とか、とらわれないとか、使い古された昔の言葉に依存しなければ“語れない”信仰の世界、ならばそれは活きた信仰とはいえない、と思う。

 Flareonさんの批判を受けてみたい。

この回答への補足

補足日時:2012/06/24 22:20
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この回答へのお礼

お礼日時:2012/06/24 22:55

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