痔になりやすい生活習慣とは?

映画 プライベートライアンでノルマンディー上陸作戦が行われたことを知ったのですが、なぜわざわざ敵の真正面から上陸したのですか。
上陸用ボートの扉が空いた瞬間に機関銃で蜂の巣にされていますし、海岸には鉄骨の残骸しかなく、とても敵の狙撃から隠れられそうにありません。アメリカ兵が持っているライフルでは、要塞内の敵を狙い撃ちできなさそうですし、上陸前に、スナイパーライフルで機関銃を撃っている敵兵を狙撃すれば、時間稼ぎにはなりそうなのになぜそうしなかったのですか。もっと敵の守備が手薄な所から侵入すれば、こんなに犠牲者は出なかったと思います。

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A 回答 (9件)

オマハ・ビーチ正面に位置するドイツ軍352師団正面の、爆撃と艦砲射撃に失敗したからです。


また、鉄骨の残骸に見えるのは、ドイツ軍が設置した障害物ですが、連合軍はわざと引き潮で浜辺が広がり、攻撃側が遮蔽物のない浜辺にさらされるタイミングで上陸したので、映画でも見えています。
この時間帯は攻撃側(上陸側)が丸見えになり著しく不利なので、護るドイツ側は部隊の交代に充てていた時間帯でした。
要するに、奇襲だったのです。

プライベートライアンの上陸シーンは、ここはオマハのドッグ・グリーンであると字幕が出てきます。
オマハビーチは西からC(チャーリー)・D(ドッグ)・E(イージー)・F(フォックス)の各セクターに分けられ、更にドッグセクターはドッググリーンとドッグホワイト、ドッグレッド、イージーセクターはイージーグリーンとイージーレッド、フォックスセクターもフォックスグリーンとフォックスレッドに分割されています。
初日に上がる部隊はチャーリーとドッグ、イージーグリーンに第29歩兵師団第116連隊、イージーレッドとフォックスに第1師団第16連隊が割り当てられました。
とりわけ激戦区となったのは東端のイージーグリーン、イージーレッド、フォックスグリーン、フォックスレッドです。
とくに第29師団の部隊は、潮流の関係と事前に伏せていた英軍の豆潜水艇(Xクラフト)の位置標定の誤りから上陸地点を3kmあまりずらしてしまい、イージーレッドとフォックスグリーンで第1師団の部隊と混じりあって混雑と混乱を招き、損害を増すことになりました。

また、チャーリーには主力は指向されず、断崖上の砲台を潰すためのレインジャーと戦闘工兵の一部が上がったわけです。
ミラー大尉の隊はレインジャーでしたから話の都合上チャーリーに上げなければならなかったのでしょうが、海岸での大混乱はそこから3~5kmあまり東の情景ということになります。
ミラー隊を乗せた舟艇も位置を間違ってイージーレッドかフォックスグリーンのあたりに着いてしまったということなのかもしれないのですが、それでもオマハ・チャーリーではないですね。
DDシャーマンが沈没しまくったのもドッグホワイト・ドッググリーン間とフォックスレッド・フォックスグリーン間でのことで、チャーリーには向かっていません。チャーリーでは装備を積みすぎた工兵隊のアリゲーターはいくつか沈没していますが、レインジャーはほぼ無傷で揚陸を果たし、「史上最大の作戦」の方で描かれているように砲台の制圧に向かっています。
「プライベート・ライアン」でのあのシーンは映画制作上での演出ということになります。

この日オマハに上陸させようとした兵力は約7000から8000であり、損耗率としては35%を超えていて部隊戦闘力喪失と認定できる非常に高い水準です(20%で、普通は壊滅扱い)。
 6個中隊からなる、第2レンジャー大隊はチャーリー地区のオック岬とぺリセー岬を攻撃目標とし、大隊長ルダー中佐がDEFの3個中隊を率いてオック岬第一陣、シュナイダー中佐がABの2個中隊を率いてオック岬第二陣、ゴランソン大尉(劇中ミラー大尉)率いるC中隊が単独でぺリセー岬という計画で舟艇を進めますが、ルダー中佐の第一陣以外はチャーリーの崖を登って攻撃する計画をチャーリー沖の土壇場で変更してドッグの方面に転進しました。C中隊はドッグとチャーリーの継目付近のドッグ・グリーン西端、シュナイダー中佐の二個中隊はドッグ・ホワイトかイージー・グリーン付近に上陸しています。この変更は単に舟艇が流されたのではなく、意図してドッグに向かったとされています。(シュナイダー中佐の二個中隊はドッグ・グリーンに向かったものの東に約1キロ流された)
従って、実際にはもっとチャーリー寄り、開鑿予定地点D-1のVierville sur Merの村への入り口の谷より更に西だったと思われますが、映画で第2レンジャー大隊C中隊がドッグ・グリーンにいたのは史実通りです( 映画ではVierville sur Merより東にいると受け取れる会話を交わしている )。
その時、このドッグ・グリーンでは第29師団 116連隊第1大隊A中隊が機関銃弾の中で全滅した直後でした。中隊長フェラーズ大尉は舟艇内で同乗の部下全員31名と共に戦死、A中隊は最初の舟艇が前扉を開いてから15分間で死傷率75パーセントに達し事実上消滅。映画でも指揮官なしでおびえるばかりの第29師団の兵隊達が出てきますが、これも史実通りと思います。第2レンジャーC中隊もここで135名中58名の死傷者(死者ではない)を出し、以降の作戦( D-1から入って陸路をぺリセー岬に向かう)を放棄せざるをえなくなります。116連隊第1大隊はA中隊の30分後、第2レンジャーC中隊にかぶさるようにB中隊を送り込みますが、これも中隊長が渚で戦死して戦闘力を失います。ドッグ・グリーンは『血なまぐさいオマハ』を象徴する戦場でした。

この映画はそういうドッグ・グリーンの惨状を描いて、出てくる部隊ともどもほぼ史実通りだと思います。

では嘘はなしか?。嘘というか、大変な誤解を招きそうなのは、ミラー大尉指揮下に小火器だけ、約30分間でD-1を開鑿して状況終りと、なんか小競り合いみたいな描き方なので、上陸軍の第一波だけで185000人が参加したという『史上最大の作戦』の規模が理解できない事。

史実では、ドッグで最初の突破口D-3が開かれたのは、ドッグ・ホワイト付近で第29師団副師団長コータ准将の陣頭指揮下で、時間は上陸開始から2時間半後の事でした。D-3に続いて、映画のミラー隊の突破口 Vierville sur Mer の東側あたりにも小さな突破口が開けられ、D-3から入ったコータ准将指揮の混成部隊と合流、西に向かって進撃、D-1を内側から開きます。時間は12時半頃といわれ、上陸開始から6時間が経過、オマハビーチ・ドッグ地区の制圧は分隊レベルの小競り合いの結果ではなく、師団規模の兵力が投入され、艦砲の近接支援も受けながらの長時間の大規模戦闘の末の事でした。この映画でノルマンディ上陸作戦を理解しようとしても無理で、その目的なら『史上最大の作戦』の方が、いかに大規模な作戦であったかが判って良いと思います。それでも、まなかじさんのおっしゃっている、イージーとフォックスを受け持って、大損害を出しながら、オマハ最初の突破口を開いた、歴戦の米第1師団の戦闘は全然出てこないし、空挺もプライベートライアンとは逆に82師団ばかりで101師団は殆ど描かれていません。

チャーリー・セクターでの死傷率

チャーリー・セクターで戦闘を行った唯一の部隊である、ルダー中佐の三個中隊は終日孤立無援で戦闘を続け、D-Dayだけの死傷率30パーセントといわれていますから、約130人というところでしょうか?。D-Dayの長い日が暮れる頃(21時頃?)、ドッグに上陸したシュナイダー中佐の二個中隊の内A中隊の一部が内陸を回ってオック岬に到着します。

ドイツ軍の兵力

オマハに向かった米第5軍団の第一波は、二個師団(第1と第29)、二個レンジャー大隊(第2と第5)、プラス海軍の施設部隊(海岸の障害物をぶっとばすからどけ、とミラー大尉にどなる東洋系の兵士が属していた部隊)、支援艦砲射撃の弾着観測班など約25000人。

これに対して、ドイツ軍はオマハ(これは連合軍の作戦名ですが)に再編成中ですが、基幹要員が東部戦線経験者で編成された、第352師団を配備していました。
しかし、第352の守備範囲は広く、かつ制空権を完全に握られていた為、戦闘開始後、機動を行う事も援軍を送り込む事も著しく制限され、D-Day当日、米第5軍に対して海岸で発砲したのは、当初から配置についていた正面陣地の600人から800人であろうといわれています。従って、米軍が渚での混乱から体勢を立て直せば、勝負あったで、実際にオマハの米軍死傷者は最初の30分間に集中しています。
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 もういろんな回答が出ているので蛇足になりますけれど。



>なぜわざわざ敵の真正面から上陸したのですか。
 ⇒この時代の戦争ではもう、航空支援の有無が最重要マターになっています。上陸地点の制空権なしで突撃するなんて日本陸軍くらいなものですし。で、制空権奪取を担う空軍の基地はイギリス本土にあるんですが、当時のヨーロッパの軍用機の戦闘行動半径は日本のそれと比べて極めてみじかかったのです。そのためカバーできる範囲はドーヴァー海峡のフランス側のパ・ド・カレー海岸か、カーン付近のノルマンディ海岸くらいしか選択肢がありませんでした。
 当初はパ・ド・カレーが有望だと思われたんですが、ここは海岸段丘の崖がずうっと延びていて、非常に突破しにくい。また近くに補給の拠点になる大きな港がないので、突破できても補給が大変。対するノルマンディは海岸から内陸までずっと平地、近くにシェルブールという大きな港があります。
 ということで、上陸作戦最適地は航空支援と補給港という条件でノルマンディに決定します。

 また連合軍は上陸地点をぼかそうと様々な欺瞞作戦を実施し、実際にドイツ軍は上陸地点をパ・ド・カレーと誤認、主力をそっちにむけてしまいます。加えて上陸前には徹底した爆撃も実施していますので、決して単に真正面から殴りかかろうとしたわけではないということになります。

>上陸前に、スナイパーライフルで機関銃を撃っている敵兵を狙撃すれば、時間稼ぎにはなりそう
 ⇒他の方もおっしゃるように、海から陸の狙撃は無理。こと砲撃戦では陸上の固定砲台のほうが圧倒的に有利となります。歩兵じゃないですが、駆逐艦(海)と戦車(陸)で撃ちあって駆逐艦の負けなんて例もあるそうです。

>もっと敵の守備が手薄な所から侵入すれば、こんなに犠牲者は出なかったと思います。
 ⇒これも他の方もおっしゃるように、欺瞞作戦や砲爆撃が功を奏し、オマハ海岸以外は大きな損害はだしていません。オマハ海岸は直前に増援のドイツ第352師団が防備に入っており、連合軍側はそれを察知していなかったともいわれています。

 余談ですが、一連の戦闘ではドイツ軍の虎の子のティーガー戦車も少数ちゃんと参加しており、英軍を散々な目に遭わせ、ミヒャエル・ヴィットマンというヒーローを生んでいます。
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プライベートライアンの冒頭シーンは、まあなんというか映画を面白くするための「演出」です。

映画で二丁拳銃の主人公が悪い奴らを命中率100%でやっつけるのとか、チャンバラ映画で主人公が周囲を取り囲まれてもばったばったと斬りまくるのと同じようなものです。

そもそも、上陸用舟艇を運転している人がいるわけで、その人から見れば「ありゃ、敵の陣地の真正面にきちゃった」となります。だったら、もちょっと違う場所をずらすなり、舟をナナメにつけるなりすりゃいいわけですよね。なにもバカ正直にドアを開けることはないわけで。

さて、実際の戦争で何が原因で死傷者が出るのか。あのアメリカ軍はさすがにちゃんと調べています。それによると、死傷者の50%弱は大砲の破片が原因です。続いて25%くらいが機関銃で、残りが他が原因です。爆弾で死傷者が少ないのは、アメリカ軍は爆撃することはあっても爆撃されることは滅多になかったからだと思います。
だから戦場で一番危険というか恐ろしいのは大砲なんですね。大砲がドカンドカンと炸裂するのがいちばんの恐怖なわけです。特に身を隠す場所がない海岸なんかじゃとても生きた心地はしなかったでしょうね。
映画じゃ銃撃で兵士が次から次へと倒れていますが、本当は大砲がドカンドカンと炸裂して、それに吹っ飛ばされたり破片を喰らったりしてみんな死んじゃうのです。でも、映画でそれをやろうとしたら役者さんがどえらい危険なので、銃撃で死ぬ演技にしているわけです。

また、映画では機関銃陣地が真正面を向いていましたが、実際の戦争では機関銃陣地というのは敵が攻めてきそうな方向に対してハの字の形で配します。ハの字の銃撃の線(火線)が先のところで十字になるのでこれを十字砲火といいます。この十字砲火が機関銃の最も効果的な配し方なのです。攻める側からすると攻めていく方向の斜め右と斜め左の両側から撃たれると隠れる場所がなくなるのでまさに地獄となります。
地形上十字砲火が無理でも、相手に対してナナメの位置から撃ちおろす場所に機関銃を配するのが鉄則です。

ついでに、ああいう陣地やトーチカは、海岸線よりちょっと入ったところに作っておくのが最も効果的です。なぜなら海岸のすぐ近くに陣地が見えるなら、事前に艦砲射撃をすれば潰せます。
「陣地は海岸すぐ近くに置くか、それともちょっと奥まったところに置くか」というのは議論されたのですが、実際の戦争だとちょっと奥まったところに置くのが効果的といわれています。太平洋戦線でのタラワ島では日本軍陣地は海岸すぐ近くに作られまして、確かにアメリカ軍は大損害を出したのですが、日本軍の損害も大きく3日で戦闘は終了しています。また同じく海岸線すぐ近くに防御ラインを作ったサイパン島では日本軍はほぼ一方的に敗北しています。その戦訓を受けて陣地をやや奥まったところに作ったペリリュー島の戦いではアメリカ軍はうんざりするほどの大損害を出しました。

映画の元ネタになったのはオマハビーチの戦いでしたが、英米連合軍は他にユタビーチ、ソードビーチ、ジュノービーチ、ゴールドビーチにも上陸していますが、これらの上陸海岸ではさほどの大損害は出していません。オマハビーチだけ別格だったんです。
ところで、ミラー大尉らはオマハビーチに上陸したのですが、ライアン二等兵の所属する第101空挺師団はユタビーチの先でした。この両方は映画で描かれている時点では連絡が繋がってないので、第1歩兵師団所属と思われるミラー大尉らが第101空挺師団の近くに行くなんて「ありえない」のですが、まあ、映画なんでそれをツッコむのはヤボだといえるでしょう。ついでに、第101歩兵師団の戦区にタイガー戦車があったとも思えないんですけどね。タイガー戦車はドイツ軍の象徴みたいな人気戦車なので映画出演は「お約束」なんですが、とても貴重な戦車だったのでそんなにあっちこっちになかったのです。

映画「ネイビーシールズ」は本物の隊員を使い、本物の銃と実弾を使って撮影したそうですが、見てきた友人によると「戦闘シーンは映画としてはあまり面白くなかった」そうです。「リアル」であることと「映像的に面白い」のはまた別の話であるようで。まあ恋愛も「駅で運命的な出会い!」なんてリアルにゃ起こらないですからね。
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第二次世界大戦の段階で言えば、ノルマンディー上陸作戦は、損害の少ない戦いだった。


第二次世界大戦の中で言えば、死傷者数の割合の少ない戦闘でもありました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4% …

戦力
190,000
損害
12,000
戦死 2009
戦傷 7,050
行方不明 3,501

6%

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9% …

戦力
歩兵160,000

損害23,934

15%

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC% …

戦力
155,000
損害
戦傷・戦死10,264

6%

ノルマンディのあと、二線級のドイツ軍に対して上陸作戦を行ったドラグーンでも
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Dragoon

175,000-200,000 の戦力で
米軍 フランス軍で 2万程度が 死傷しています。
2,050 killed, captured or missing 7,750 other casualties
more than 10,000 casualties

10%以上です。

ノルマンディだからあのような戦闘方式を取ったのではなく、強襲上陸作戦では基本的にこの程度の損害が出るのが前提で立案されます。

太平洋の戦いでも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A9% …

35千の部隊で3千近く

フィリピン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …(1944-1945%E5%B9%B4)

60万の兵力で 6万人の損害 これが勝ったアメリカ軍で 10%

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3% …(1941-1942%E5%B9%B4)

戦力
43,110
損害
戦死 4,130
行方不明 287
戦傷 6,808

勝った日本軍は10%近くが戦死して、25%に損害を受けています。
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上陸前に海上の軍艦から充分な砲撃をしましたが、大半がはずれてしまい、敵兵のほとんどが生き残っていました。


そのため上陸したアメリカ兵は、敵の抵抗はある程度予測はしていたのですが、あんなに損害が出るほど苦戦するとは想定外だったのです。

映画では、敵の機関銃はよく見えていましたが、実際は草や土壁で巧妙に隠れており、撃ってくるまでどこに機関銃があるのかわからない状況でした。

揺れ動く船の上から数百メートル離れた(隠れている)機関銃兵をスナイパーライフルで狙撃は無理です。
やるんなら、海上の軍艦から砲撃してもらうか、戦車で攻撃するか、バズーカ砲で吹き飛ばすぐらいしかありません。
でも、あんなに敵兵と接近していると軍艦からの砲撃で味方の兵も大損害を受けることになります。当時の技術ではピンポイント砲撃は無理だったのです。
戦車も、上陸前に大シケの海上でほとんどが沈没してしまいました。バズーカ砲は数十メートルしか射程距離がなかったので、これまた無理だったのです。

映画の舞台となった海岸では、アメリカ兵に多くの損害が出ましたが、ノルマンディーの中の他の海岸に上陸した部隊は、敵が手薄だったので損害は少なかったようです。
あの海岸だけ、色々な原因が積み重なり、あんな血みどろな結果になったのです。
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「プライベート・ライアン」の冒頭は、ノルマンディー上陸作戦の中でも「オマハ・ビーチ」上陸作戦を映像化したモノです。



そして、この地だけが唯一の例外だったのです。

まず、ノルマンディーを選んだ理由、そのポイントになったのは、「空軍の行動範囲」です。

第2次世界大戦は空軍の使い方が全てを支配する戦争でした。

それは、上陸海岸の制空権を握らずに上陸するのは自殺行為を意味します。

脆弱な輸送船団、上陸直後の弱体な橋頭堡、その後の補給港、どれも空軍の支援がなければ保持ができません。

その空軍の基地はイギリス本土にあります。

従って、上陸地点はイギリスからの空軍、特に行動範囲の狭い戦闘機の行動範囲内でないといけないわけです。

そうすると、候補になる地点は、ライン川の河口付近からコタンタン半島までの海岸に限定されます。

その範囲で上陸に適した平坦で広い海岸線を探していくと、候補はほぼ2ヶ所に絞られました。

それが、ドーヴァー海峡のフランス側、カレー・ブーローニュ付近の「パ・ド・カレー海岸」か、カーン付近の「ノルマンディ海岸」です。

実は、当初は「パ・ド・カレー」の方が有望だと思われていました。

何と言ってもイギリスから一番近い海岸ですし、「ノルマンディ」に比べてもドイツの国境に近く、その間の地形的な障害も少ないです。

フランス解放の手間を考えても、北フランス全土を戦い取らねばならないノルマンディ作戦に比べて、フランスとドイツの連絡線を断つことでより容易にドイツ軍の撤退を誘うことができます。

しかし、「パ・ド・カレー」には決定的な欠点があったのです。

補給の拠点になる大きな港がないのです。

「パ・ド・カレー」には「カレー」や「ダンケルク」などの良港が存在しますが、いずれも膨大な侵攻軍の補給をまかなうには規模がやや小ぶりです。

橋頭堡を確保したらすぐにも、大海港を求めて北の「アントウェルペン」か南の「ル・アーヴル」へ攻勢を開始しなければならなくなります。

しかし、大攻勢には大規模な補給が必要で、その補給には結局大きな港が必要になります。

その点、「ノルマンディ」には手近のコタンタン半島の突端に「シェルブール」という大きな港があります。

この港は半島の突端にありますから、一度奪取さえできれば奪回される危険も少なく、侵攻軍の補給基地にするにはもってこいの港でした。

また、海岸から内陸までずっと平地が続いているのも「ノルマンディ」の利点でした。

「パ・ド・カレー」の海岸沿いには海岸段丘の崖が延びている所が多く、もしここを迅速に突破できなかった場合、侵攻部隊が海岸で立ち往生する危険が考えられます。

また、この崖は海岸での物資陸揚げの際にもネックになります。

さらに、上陸部隊の発進基地を考えると、「パ・ド・カレー」に近い「ドーヴァー」、「マーゲイト」、「ハリッジ」などのイギリス東南岸の港よりも、「ノルマンディ」に近い「ポーツマス」、「サウサンプトン」、「ボーンマス」、「プリマス」などの南岸の港の方が規模が大きくて有利でした。

そして、敵の目を「ノルマンディ」からそらすべく大規模な欺瞞作戦が、作戦名「フォーティチュード」の名のもとに展開されました。

上陸地点の候補は「ノルマンディ」の他にもたくさんあります。

そのどこに本当の侵攻が来るかドイツ軍に悟られないようにすれば、その全てに備えねばならないドイツ軍の兵力は薄く分散せざるを得なくなります。

また、「ノルマンディ」に上陸した後も、これは実は本侵攻の前の牽制作戦では?と思わせることができれば、「ノルマンディ」に投入される兵力は少なくなるだろうとも考えられました。
 
この方針に基づき、いくつものニセ作戦が計画されました。

(スコットランドからのノルウェー侵攻作戦、スペイン上陸作戦、パ・ド・カレー上陸作戦など)

そして、この作戦はかなりの成功を収め、ノルマンディの海岸防御にあてられた装甲師団はたったの1個、「第21装甲師団」だけでした。

上陸作戦時、猛烈な砲爆撃の後、工兵隊を先導に上陸が開始されました。

工兵隊は事前偵察の成果をもとに舟艇の障害となる機雷や妨害物を取り除き、本隊の道を切り開きました。

そこを通って各種の上陸用舟艇と水陸両用戦車が殺到しました。
 
この怒濤の攻撃の前に、ほとんどの上陸地点でドイツ軍は抵抗の術を知らなかったのです。砲爆撃で拠点が破壊されていた所も多いですし、そうでなくても通信網が寸断されていたために、各拠点は孤立して戦闘せねばならず、有効な抵抗はできませんでした。

連合国側の予想通り順調に進んだ作戦の中で、ただ一つの例外が、アメリカ軍の上陸した「オマハ海岸」だったのです。

ここには上陸の数日前に新来の「第352師団」が防備に入っていました。

これを連合軍は察知しておらず、思いもかけない強い抵抗に遭って上陸部隊は海岸に釘付けになってしまったのです。

この海岸は地形も他にくらべて険しく、海岸線に沿って稜線が延びており、そこから海岸を射ち下ろす位置に築かれた陣地の前にアメリカ兵は屍の山をなしたのでした。
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>敵の真正面から上陸したのですか


部隊 しかも、数万人を一気に上陸させられる場所というのは多くないんですよ。
ドイツとしては、カレー地方がイギリスに近く、上陸には適地であるので、こちらに主力を振り向けていました。
ですから、守備兵力としてはまだ少ない方です。
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta02u5.htm

>扉が空いた瞬間に機関銃で蜂の巣にされていますし
特に激戦だったオハマビーチを描いていますし、その方が映画としてはおもしろいでしょ。

>海岸には鉄骨の残骸しかなく
コレはドイツが設置した障害物です。
舟艇や、こんなのが容易に上陸してこないように設置します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/DD%E6%88%A6%E8%BB%8A

>上陸前に、スナイパーライフルで機関銃を撃っている敵兵を狙撃すれば
だいたい、300~500mですよ。射程って。ゴルゴじゃ無いんだから。
海面が10cm上下すれば、弾着点では数mずれます。100発撃ったら1発ぐらいは当たるかも。
その前に機関銃や大砲で撃たれて終わりです。
攻める側は、撃たれないように高速で機動する必要があります。
相手が動く場合は何とかなっても、自分が動いている状態で撃って、しかも当てることは曲芸に近いです。

ちなみに、ノルマンディー上陸作戦ですが、ノルマンディーという砂浜に上陸したわけではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB% …

また、艦砲射撃ですが、戦艦の大砲の弾は敵の船用の弾です。
大砲の弾って、相手によって種類が変わるんですよ。違う種類の弾を撃っても十分な威力が無いのです。
下手に地面に向けて撃つと、不発が多く、うかつに上陸して踏んづけると爆発します。
つまりは、自分の部隊が動くところに地雷を撒くのと同じです。

もっと幅広く検索すればいろいろなことが分かります。
せっかくですから、もっと知識を深めてください。
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まあ、守備方の配置というのは上陸しやすい所、もしくは上陸されたらダメージが大きいところに多く配するものだから、逆にいうなら、守備の手薄な海岸というのは上陸しにくいか、もしくは上陸されてもその後の進軍に労多い所のはず。


そもそも岩場や荒磯には上陸用舟艇をつけれないです。
上陸地点の選定というのは、沖縄でも硫黄島でもそうですが、上陸しやすさと敵陣の固さとのかねあいで決まるもの。
あと連合側の上陸作戦はヨーロッパ戦線でも太平洋でもそうですが、上陸前に艦砲射撃と空爆で敵陣をつぶしてから上陸かけますから、ドイツ側の抵抗はあれでも相当へっていたはずです。
あとノルマンディーの場合は、上陸にさきがけて空挺部隊が降下し、有力な守備砲台をつぶしてから上陸かけるということをやったはず。
当時、制空権は完全に連合国側にあったので、上陸リスクを最小まで減らした上での実施だったと思います。
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そもそもノルマンディー上陸作戦は


不意打ちを狙ったものです。

ドイツ軍が上陸を前もって知っていればもっともっと犠牲者が出ていたし
成功しなったかもしれません。

あなたの言う時間稼ぎをする、というのはドイツ軍にとっても
時間を稼げるということになりドイツ軍の援軍が間に合ってしまうかもしれません。

したがって、危険ではありますがある程度の犠牲も覚悟の上
急襲したわけです。

ノルマンディーのドイツ軍の防衛陣はあれでも手薄だったのです。
手薄なうちに乗り込んでしまおうという作戦でした。
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Qノルマンディー上陸作戦の戦死者数

ノルマンディー上陸作戦の初日と、作戦全体の戦死者数を調べています。

アメリカ軍、連合軍全体、連合軍とドイツ軍を合計したもの、の3つがそれぞれ知りたいです。

書籍やサイトをみても、数字がまちまちでよく分かりません。
また損耗人員の数だけだったりすることもあります。。

書籍「史上最大の作戦」によれば、イギリスが公式に発表をしていないために推測値のようになっているようですね。


一般的にだいたいこれくらい、といった数字があれば、教えて頂けませんでしょうか。

Aベストアンサー

a fallen soldiers normandy firstday
で検索すると、
「D-DAY初日の連合軍兵士死者は、確認されているだけで4400人。最大10000人の可能性もあり。ドイツ軍側は、数千人。」と記載する英語サイトがいくつか出てきます。

連合軍の戦死者数に開きがあるのは、ノルマンディにおける戦闘は数日続き、空挺部隊やパイロット達の消息がすぐにわからなかったためと、連合軍兵士という定義をどの国の人間まで入れるかによって変わるためです。
4400人という数字は、あくまでも「少なく見積もって」みたいですね。

ドイツ軍側は、日を追うごとに増えていったようですから、初日だけで見たら4400人とほぼ同数であることは間違いないと思われます。
英語サイトの中には「連合軍・ドイツ軍合わせて死者9000人」と記載しているところもありますが。

Q第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由は?

先日、池上彰さんのテレビ番組で「第2次世界大戦のソ連の戦死者は2000万人を超えている」「その恐怖からスターリンは、隣国を共産国にした」ということを知りました。

日本の太平洋戦争での戦死者は300万人くらいと聞いてますが、日本の戦死者と単純に比較できるのかどうかわからないのですが、日本の7倍の戦死者の数には、とても驚きました。

第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む

Qオマハビーチの艦砲射撃

D-DAYオマハビーチの攻防について、ディスカバリーチャンネルの
2時間スペシャルを観ました。
私の知識は、この番組から得られた情報のみです。
つまり何も知らないので、ご教示願えればと思っています。

なぜ上陸前に艦砲射撃しなかったのですか?
上陸前に大規模空爆をしたそうですが、沿岸の味方艦船を誤爆しないために、
ズレたとしても海側ではなく内陸側にズレるよう投下したのが、雲で視界が
悪かったのと重なって、敵陣に打撃を与えることが出来なかったと番組では
言っていました。

硫黄島上陸の際は、それこそ地形が変わるほど艦砲射撃の浴びせてからの
上陸だったそうです。
ノルマンディではそれ以上の戦力が結集しているのだから、それこそ地図上から
オマハビーチなるものが消滅するほどの艦砲射撃をすることは可能だった筈。

さらに番組中では、上陸後に援護として艦砲射撃したと言っていましたが、
それこそ敵陣に乗り込んで接近戦をしている味方を誤爆しかねないですよね?

とても興味深い番組だったのですが、疑問も残る消化不良な感じです。
ご存知の方、ご教示お願いします。

Aベストアンサー

>なぜ上陸前に艦砲射撃しなかったのですか?

上陸前に艦砲射撃は行われています。
オマハ海岸ではアメリカの戦艦アーカンソー、フランスの巡洋艦モンカルムとジョルジュレイグ、イギリスの巡洋艦グラスゴーの他、駆逐艦8隻が上陸前に艦砲射撃を行いました。

ちなみに同じアメリカ軍が上陸したユタ海岸ではイギリス巡洋艦エンタープライズとホーキンス、オランダ軽巡洋艦スエムバ、の他、駆逐艦8隻が艦砲射撃を行っています。


>オマハビーチなるものが消滅するほどの艦砲射撃をすることは可能だった筈。

海軍では当初、海岸の防備を叩くために上陸開始前に2時間の艦砲射撃をする予定でした。しかし、陸軍側から、そのような長時間の砲撃をしていると敵増援部隊が到着する時間を与えるとして、40分の砲撃にしてくれとの要請があり、海軍側が折れて40分の砲撃になりました。
完全に孤立し援軍の望みのない硫黄島の日本軍の戦いと、後方からの増援が望めるドイツ軍、そして海岸に橋頭堡を築く前にドイツ軍増援部隊に到着してほしくない連合軍のノルマンディー上陸作戦では状況が違います。

なお、当時、連合軍はオマハ海岸のあるオルヌ川~ヴィール川の間には、ドイツ軍は第716歩兵師団の1個師団しかいないと判断していました。
しかも、この師団は2個連隊編成で偵察大隊も欠いている2線級の部隊でした。
その部隊が守備するオルヌ川~ヴィール川の間は60キロの距離があり、とても1個師団では完全に防備できる距離ではありませんでした。
ここにドイツ軍は第352歩兵師団を5月になって配備しましたが、この情報を連合軍司令部は掴み損ねたのです。フランスで活動していた情報部員がこの第352歩兵師団の情報をイギリスに伝えようとしますが、それが失敗しており、連合軍司令部は1個師団しかいないものと思い込み上陸作戦を行っています。
そのドイツ軍1個師団が守ると判断していた海岸線に連合軍は4個師団以上の兵力を上陸させる計画でした。(オマハ海岸にアメリカ第1歩兵師団、ゴールド海岸にイギリス第50歩兵師団と第8装甲旅団、ジュノー海岸にカナダ第3歩兵師団と第2装甲旅団、スゥオード海岸にイギリス第3歩兵師団と第27装甲旅団)

ちなみに硫黄島は約21平方キロメートルであり、日本軍は約2万人2千人の兵力を配備していました。

つまりドイツ軍の守るノルマンディー海岸は手薄だと判断されており、極端に長時間の艦砲射撃をしなくても敵防備を破壊できるとも判断されていました。


>上陸後に援護として艦砲射撃したと

それだけ戦況が悪く、状況を打破するために行われました。
「突撃部隊は消滅しつつあり。被害甚大。敵砲火のため浜を越えられず。上陸部隊は狭小地区に集結したまま。工兵の地雷撤去、水中障害物爆破不可能。戦車を含む車両は狭い浜に釘付け。敵第716歩兵師団のほか第352歩兵師団をも確認せり」
という悲観的な報告が、アメリカ第1軍司令官オーマン・ブラッドリー中将に伝えられるほどです。
駆逐艦部隊は座礁の危険を冒して海岸に接近し敵拠点に砲撃を行い、上陸部隊の援護を行いました。
ノルマンディー上陸作戦の1カ月後、オマハ海岸を担当したアメリカ第1歩兵師団の参謀長から海軍に感謝が伝えられています。
「あの砲撃がなかったら、我々には絶対に海浜を突破する事はできなかった」と。


つまり、海軍の艦砲射撃は実施されていましたが、敵増援部隊が来る前に海岸線に橋頭堡を築きたい陸軍側の要請で、艦砲射撃は短時間になりました。ただし、当時、オマハ海岸に配備されていたドイツ軍は弱小部隊と判断されており、空爆と短時間の艦砲射撃でも充分、効果あるものと思われていました。しかし、予想外にドイツ軍の防備は固く、兵力も多かったという事です。
簡単に言えば見込みが外れたという事です。
そして見込みが外れたのはオマハ海岸だけであり、ユタ、ジュノー、ゴールド、ソゥオードの4海岸は見込み通り上陸作戦はうまく進展しています。
上陸後の援護射撃も本来なら内陸部にしか行いませんが、あまりにオマハ海岸の戦況が悪いため、味方への誤射と駆逐艦の座礁の危険を冒して、敢えて行われました。

>なぜ上陸前に艦砲射撃しなかったのですか?

上陸前に艦砲射撃は行われています。
オマハ海岸ではアメリカの戦艦アーカンソー、フランスの巡洋艦モンカルムとジョルジュレイグ、イギリスの巡洋艦グラスゴーの他、駆逐艦8隻が上陸前に艦砲射撃を行いました。

ちなみに同じアメリカ軍が上陸したユタ海岸ではイギリス巡洋艦エンタープライズとホーキンス、オランダ軽巡洋艦スエムバ、の他、駆逐艦8隻が艦砲射撃を行っています。


>オマハビーチなるものが消滅するほどの艦砲射撃をすることは可能だった筈。

海軍で...続きを読む

Q兵士同士の掛け声「フーバー?」 ―プライベートライアンにて―

昨日、"プライベートライアン"を見たときに、兵士同士の掛け声で「フーバー」というのを耳にしました。
ちょっと前に、"戦火の勇気"をみたときも、そのような掛け声を聞きました。
士気高揚のような感じにも受け止められました。
これの本当の掛け声と、その意味・生い立ちは何なんでしょうか?

またほかに、このようなもの("メーデー"のような)その単語だけでは直接の意味がわからないような、言葉があったら教えてください。
”ブラックホークダウン”をみたときも、バズカー砲のようなもので狙われたときに周囲に知らせる言葉もあったような...

Aベストアンサー

公式サイトより
<FUBAR(フーバー)>
兵隊のスラング
Fuck Up Beyond All Recognition・・・何から何までめっちゃくちゃ。見るも無惨な大失敗。
同意語
<SNAFU(スナフ)>
Situation Normal All Fucked Up ・・・いつものように全てめちゃくちゃ。
だそうです。

>>”ブラックホークダウン”をみたときも…

「RPG!」ですね。
あのロケットランチャーを「RPG-7」と言いまして、それに「狙われているぞ!」って警告の意味です。『プラトーン』でも使ってました。

軍隊の無線通信では、聞き間違いを防止するためアルファベットのひとつずつに単語を対応させた、フォネティックコードというものが使用されます。
例えばベトナム戦争時代のベトコンはVCという略号で呼ばれますが、これをコードで話すと「VICTORY・CHARLIE」となり、これが現場でスラング化することによりベトコン=敵兵=“チャーリー”となるわけです。
『コンバット』で有名な“チェックメイト・キング・2”というコードネームも実体は「KC2」のことです。
このコードが、時代によって変わる(昔はC=チェックメイトが =チャーリー に変更された)ものですから、非常にややこしいですね。

先の<FUBAR>も、こういうコードのややこしさを皮肉った、兵士のお遊び的感覚で生まれたものではないかと思うのですが。

参考URL:http://www.warmovie.com/movie/SPR/faq.html

公式サイトより
<FUBAR(フーバー)>
兵隊のスラング
Fuck Up Beyond All Recognition・・・何から何までめっちゃくちゃ。見るも無惨な大失敗。
同意語
<SNAFU(スナフ)>
Situation Normal All Fucked Up ・・・いつものように全てめちゃくちゃ。
だそうです。

>>”ブラックホークダウン”をみたときも…

「RPG!」ですね。
あのロケットランチャーを「RPG-7」と言いまして、それに「狙われているぞ!」って警告の意味です。『プラトーン』でも使ってました。

軍隊の無線通信では、聞き間違...続きを読む

Qスターリングラードの戦いについて

第二次世界大戦の独ソ戦で、スターリングラードの戦いは
非常に大規模な市街戦だと聞いています。

が、高校のときの先生から、この大規模な市街戦の中、
住民の一万人ほどは市街戦の最中であるにも関わらず、
スターリングラードで生活をしていたらしいと聞きました。

ウィキペディアで見ても非常に激しい戦いであったようです。
そんな中、住民が生活することなどできたのでしょうか?

Aベストアンサー

当時、スターリングラードには60万人の市民がいたと言われています。
スターリングラードから避難するにはヴォルガ河を渡らねばならなかった訳ですが、船は全て軍が徴発して使っており自由にはなりませんでした。
また、スターリンは、市民がいれば、スターリングラードで義勇兵として軍に参加した兵士は家族を守る為によく戦うだろうと考え、なかなか避難の許可を出さなかったとも言われます。
この結果、ドイツ軍が攻撃を開始した最初の一週間で砲撃・爆撃により4万人の市民が亡くなったと言われます。
後には、避難の許可がおりますが、対岸に渡れたのは30万人だったと言われています。全員を避難させる事はできませんでした。多くの船がドイツ軍の攻撃により沈められ、前線で戦っている部隊ですら補給は不足し、負傷者を撤退させられないほどの戦況になったからです。

こうして多くの市民が残された訳ですが、ドイツ側では、ヒトラーが占領地域の市民を街から退去させるよう命令を出しています。
これにより多くの市民がドイツの後方占領地区に移動させられたと言われます。一説によると6万人の市民がドイツ本国で強制労働させられるために運ばれたとも言われています。

避難もできず、ドイツ側にまだ捕われていない市民が市内に残っていた訳ですが、その殆どは子供と女性と老人でした。男は兵士として戦っていたからです。その残された市民の生活は悲惨を極めました。
廃墟の地下室や下水道、切り立った川岸に掘った横穴に隠れました。
夜になると郊外で木の根っこや野生の果実を探したり、ソ連・ドイツ、両方の前線に行って一切れのパンを分けてもらったりしたそうです。
女性は生きる為に、子供達の為に、そのやせ衰えた体をドイツ軍の兵士にすら提供し、食料を貰ったそうです。
ドイツ軍の食料を盗もうとして射殺された子供もたくさんいたそうです。戦火で焼けた穀物倉庫があった場所で、焼けた小麦を拾っていた子供もいたそうです。

また、子供達は食料を得る為にドイツ軍に利用されています。
ドイツ兵は子供達に水筒を渡し、ヴォルガ河の水を汲んでこさせ、それと引き換えに、パンを一かけら渡しました。ソ連の狙撃兵が狙っていて危なかったからです。ソ連兵は子供達がドイツ兵士の為に水を汲んでいる事を知り、その子供達を射殺しています。
また、ドイツ軍は市民に食料と引き換えに、戦場で死んでいるドイツ兵を自軍の陣地まで運ぶ事もさせました。この事についてもソ連軍は、死体を運んでいる市民に容赦なく発砲し射殺しています。

スターリングラードが解放された時、9796人の民間人が生き残っていた事が確認されました。その殆どの人は、汚染された水と粗末な食物しか取れなかった結果、やせ衰え、病気になっている者も多かったそうです。
生き残った子供にしても、精神的に参ってしまい、怖がって大人と話をする事ができず、相手の顔をまともに見る事もできない子が沢山いたそうです。

スターリングラードでは大勢の市民が死にました。生き残った9796人の人達は、悲惨を極める中で、やっとの思いで、どうにか生き延びたという事でしょう。

当時、スターリングラードには60万人の市民がいたと言われています。
スターリングラードから避難するにはヴォルガ河を渡らねばならなかった訳ですが、船は全て軍が徴発して使っており自由にはなりませんでした。
また、スターリンは、市民がいれば、スターリングラードで義勇兵として軍に参加した兵士は家族を守る為によく戦うだろうと考え、なかなか避難の許可を出さなかったとも言われます。
この結果、ドイツ軍が攻撃を開始した最初の一週間で砲撃・爆撃により4万人の市民が亡くなったと言われます。
後に...続きを読む

Qなぜインパール作戦は失敗してしまったのですか?

僕は日本史の勉強をサボってきたので大雑把な質問しかできなくて申し訳ないんですけど、なぜインパール作戦はうまく行かなかったのですか?

インパール作戦が失敗したのは、牟田口廉也中将の「突撃主義」が破綻したからと言われてますけど、それは具体的に、何がどうダメだったのですか?

Aベストアンサー

まず、作戦の目的が軍事上の必要よりもむしろ東条がチャンドラ・ボースの自由インド政府構想に参ってしまいその政治拠点を作ろうと言う政治的要素が強かった事。

牟田口が盧溝橋事件の時の現場の隊長であったため、日中戦争以来のおとしまえをつけて自分が手柄を立てて戦争を終わらせるなどと言う個人的な動機により立案した事。
川辺がそれを許容した事。

英印軍を侮り、2週間分の食料しか携行していなかった事。マラリアなど熱帯性の疾患が発生したときの備えが皆無だと言っていいほど貧弱だった事。これにより戦病死者・餓死者が続出した。日本軍の撤退路には餓死者、重病者が放置され白骨街道とまで言われた。またこの白骨転々と転がる様が後続部隊の道しるべとなったとさえ言われる。

武器弾薬の補給が全く考慮されていなかった事。
牟田口はジンギスカン作戦と称して牛に荷物を運ばせ最後にはその牛を食えばいいなどと言うフザケタ運輸方針しか持っていなかったため、山脈越えやチンドウィン川を渡河するときに牛はどんどん損耗していった。
敵は飛行機などをフルに使って補給を行ったがそれに対して無策だった事。
日本軍は山越え行軍のため軽装備であったが敵は戦車や大砲を備えた円筒陣地で待ち構え、日本軍の切り込み攻撃を無力化した。

司令官の牟田口は前線に出る事もなく知る事もなく避暑地のメイミョウあたりで安楽にしていた事。一説によればメイミョウでは遊郭まであったそうな。

現場の師団長3名の反対を押し切り牟田口が作戦を強行した事。
意見の違う師団長3名を作戦中に罷免し指揮が崩壊した事。

現場指揮官のそれぞれをみれば勇戦敢闘したケースも見られる(特に撤退時の宮崎繁三郎少将など)が、そもそもの作戦の土台自体が牟田口のアレなもので、成功する見込みははなからなかったと言える。

まず、作戦の目的が軍事上の必要よりもむしろ東条がチャンドラ・ボースの自由インド政府構想に参ってしまいその政治拠点を作ろうと言う政治的要素が強かった事。

牟田口が盧溝橋事件の時の現場の隊長であったため、日中戦争以来のおとしまえをつけて自分が手柄を立てて戦争を終わらせるなどと言う個人的な動機により立案した事。
川辺がそれを許容した事。

英印軍を侮り、2週間分の食料しか携行していなかった事。マラリアなど熱帯性の疾患が発生したときの備えが皆無だと言っていいほど貧弱だった事。これによ...続きを読む

Qミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい

ミッドウェー海戦の敗因を教えて下さい。なぜあんなに強かった日本軍が負けてしまったのですか?理由を教えて下さい。ちなみに僕は戦史に関してはド素人ですので、その辺はご了承ください。

余談ですけど、先日新聞を読んでいたら「アベノミクス第三の矢はミッドウェー」とかいう記事が載っていて、要するに第一、第二の矢(経済政策)はうまくいったが問題は第三の矢で、これが日本の今後の経済趨勢を決するという内容でした。

それで僕は、緒戦の快進撃から一転、大敗北を喫したミッドウェー海戦の敗因とやらをどうしても知りたくなった次第です。

Aベストアンサー

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%BA%81%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%A0%94%E4%BF%AE%E6%89%80%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%AE%A4/dp/B000J9GX1M

この本によると次の6項目が大きな日本軍の敗因として取り上げられています。

(1)情報戦の大敗。日本海軍の暗号が解読され、米軍は日本軍の計画を察知していたのに、日本軍は敵情がよくわかっていなかった。

(2)心のゆるみ。開戦以来の戦果から心にゆるみが生じ、作戦の計画と実行に慎重さを欠いた。

(3)山本長官の出撃。山本長官が戦艦に座乗して出撃したので、その位置を秘匿するため、無線の使用が制限され、作戦指導に支障を生じた。

(4)航空戦様相の事前研究、訓練の不足。索敵、偵察、報告などの地道な訓練及び、空母の被害局限対策の研究が足りなかった。

(5)5日の航空決戦の指導の誤り。二度の兵装転換によって弱点を作った。

(6)戦艦主兵思想の転換の不十分。戦艦部隊が後方遠く離れて航空決戦に寄与できなかった。


○ちなみに当時、敵であったニミッツ太平洋艦隊司令長官は戦後に出した著書の中で、「勝利は主として情報による。・・・日本軍は奇襲を試みようとして日本軍自体が奇襲された」と述べています。また日本軍が空母戦力を分散してアリューシャン作戦を行った事を批判し、その戦力分散が無ければ米艦隊が敗北していた可能性があると述べています。

○なお、アメリカ海軍公刊戦史を編纂したサミュエル・エリオット・モリソン少将はミッドウェー海戦について、日本の空母が最も脆弱な状態の時に、米爆撃隊が偶然に日本の空母を発見し攻撃できたという、幸運に恵まれた事から「100秒足らずの時間に起こった事実の相違で、日本軍はミッドウェイに勝ち、太平洋戦争にも勝利をおさめたかもしれない」と日本軍にも勝利の可能性が十分あったことを述べています。

○英国の著名な戦史家リデルハートはその著書で日本の敗因について、十分な数の索敵機を出さなかったこと、戦闘機の援護不足、空母の防火対策が不十分、空母での兵装転換時に敵に向かって航行したこと等、他にも色々指摘していますが、最後は「・・・これらの過失は自信過剰から生じたと言っても過言ではない」と述べており、日本軍の「自信過剰」を問題視しています。

○日本には防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)が編纂した「戦史叢書」という全102巻にも及ぶ太平洋戦争について書かれた公刊戦史がありまして、ミッドウェー海戦について書かれたものは、その第43巻が「ミッドウェー海戦」として出されています。
「戦史叢書ミッドウェー海戦」・・・市立や県立図書館でも置いてるところは結構あります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E6%B5%B7%E6%88%A6-1971%E5%B9%B4-%E6%88%A6%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qコンビニで往復はがきは売っていますか?

どこのコンビニでもいいのですが
往復はがきは売っているのでしょうか?
普通の葉書が売っているのは知っているのですが。

Aベストアンサー

ファミリーマートでアルバイトしてます。
とりあえず、うちの店では、常時50枚以上は置いているみたいです。
で、折らずに売ってます。

なんとも言えないのですが、住宅街のお店なら結構あるんじゃないでしょうか?

Q戦場で衛生兵を撃っては行けないルール

戦争映画を観て、よく戦場のシーンで「衛生兵!」って
叫んで、衛生兵がケガした兵士の所に走って行きますけど
戦場では、敵国の兵隊の衛生兵は撃ってはいけないという
国際ルールでもあるのですか?

Aベストアンサー

1864年の第1回赤十字条約「戦地における軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する条約」で、戦地病院は局外中立であるとともに、この病院が「任用する人員」、即ち病院の監督員、事務員、負傷者運搬者、説教者はその本務に従事し、かつ傷病者を救助する必要のある間に限って、局外中立であることが認められています。つまり衛生兵(負傷者運搬者)はその本来の任務を遂行している間は、敵対行動の目標とされていないことが規定されています。
次に1929年の赤十字条約は、その3章で衛生兵の保護について詳細に規定し、「傷者及び病者の収容、輸送及び治療並びに衛生上の部隊及び造営物の事務に専ら従事する人員並びに軍隊所属の説教者」は、戦争中であればどのような場合でも保護されなければならず、また捕虜としても取り扱われません。(敵に捕まっても、拘束されないという意味。)
このような赤十字条約を批准している国家は、戦争中といえども衛生兵をはじめとして、傷病者を救護する任にある者を攻撃してはならないのです。現代の戦争は実はある一定のルールに従って行われている、と言ってもいいでしょう。(もっとも批准していない国との戦争や、戦場が入り乱れている場合などでは、衛生兵が射撃されることもあります。ですから「衛生兵!!」と叫ぶのでしょう。)もっと詳しく知りたければ、国際法の中の「戦争法」を読んでください。

1864年の第1回赤十字条約「戦地における軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する条約」で、戦地病院は局外中立であるとともに、この病院が「任用する人員」、即ち病院の監督員、事務員、負傷者運搬者、説教者はその本務に従事し、かつ傷病者を救助する必要のある間に限って、局外中立であることが認められています。つまり衛生兵(負傷者運搬者)はその本来の任務を遂行している間は、敵対行動の目標とされていないことが規定されています。
次に1929年の赤十字条約は、その3章で衛生兵の保護について詳細に規...続きを読む


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