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いつも楽しく拝見させて頂いています。

現在、ドイツの哲学者のカール・マルクスについて勉強しています。
「疎外」というコンセプトを学び終えたところで、
そこからカールマルクスの思想の重要点を見つけなくてはならないのですが、
彼の思想で一番重要な事とは何でしょうか。
彼は人間にとってどんなことが大切だといっていたのでしょうか。

できれば「疎外」から繋げて、
現代人に納得ができるように説明して頂けると助かります。

よろしくお願い致します。

A 回答 (4件)

マルクスの思想の重要事はまさにその「疎外からの開放」です。


資本論で示されているように、彼にとって疎外は人間性を失わせていくもので
これをなんとかしよう、というのがマルクスの思想です。

あれ?ここだけ見るとまともに見える。ふしぎ!



では、その原点はどこにあるか。彼の思想の土台となった唯物史観は簡単に言うと
「モノによってモノが生まれる」という考え方をします。
どういうことかというと、疎外にしても「モノ」が原因になるわけです。

ここから疎外の原因はとなるモノは何かを探ったときに、それはお金(資本)だとしたわけです。
お金というものがあれば(本源的)蓄積が起こるので、人間社会に「疎外」が起こる。
疎外の原因がお金として、唯物論的観点から、マルクスはお金を
キリスト教の原罪と同じ表現であらわしたわけです。

つまり、お金を持っている人は原罪を有している=資本家は吸血鬼で根源的な悪!
ということになります。ここからはもはや善と悪の話になってしまい、
後は宗教国家が歴史的にたどってきた暴力的な異端排除や戦争と同じ。
この悪を成敗するは、神聖なる労働者階級であって、
資本家に対しては暴力と独裁を持ってしても許容される、と結論につながるわけです。



ええ、やっぱりむちゃくちゃでんがな。



もちろん歴史を見れば明らかではありますが、共産主義を標榜すれば、予定通りに独裁が起き、
結果としては疎外が自由主義国とは比べ物にならない勢いで強まっていきました。
ただ、このむちゃくちゃが19世紀には一部で支持されたことも間違いない。これは何故でしょうか?
私は、資本に対する無知や不理解(あるいは積極的誤解)がもたらした誤謬であると思うのです。


ここ100年で経済の分析は進み、現代において我々が容易に知ることができるように、
資本は原罪なんて大仰なものではなく、観測・分析が可能な道具に過ぎないものです。
そもそもマルクスが問題にした本源的蓄積にしても、お金が無くたって発生しうるケースが多く示されています。

それでもマルクスの思想は、土台が唯物論なので原因をモノにおかなければいけない。
本源的蓄積の原因を、現代においてごく普通の観点のように人間の精神活動によるもの、
すなわち利己心によるものであるともできなかったわけです。
そこで目をつけられたのが、彼にとって"よくわからない"お金だったんじゃないでしょうか。
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回答ではない一言です。



>人間にとってどんなことが大切
――いかなる事を大切であると見るとしても、それは当然に「人間にとって」である訳ですから、この問い方には、何らかの「人間」を想定したものがあり、その上でその何を問うている、と見てもよろしいですね。その上で思うのですが、Karl Marx はおそらくそれに否定的に答えるのではないでしょうか。人間に於いて斯くなる事が大切であるという把握をするという事は、人をそうであるものとして捉える事であるから、そう捉えるに至る歴史的連関を見なければならない、と言うのではないか。

>「疎外」というコンセプトを学び終えた
――と言われるのですが、
>そこからカールマルクスの思想の重要点を見つけなくてはならないのですが
――これが分かりません。Karl Marx の思想の重要な「唯物史観」を飛ばして、何を見つけるというのでしょうか。「唯物史観」には、非・反マルクス主義派による通俗的解釈があるので、疎外論を別に扱う論議もあるようですが、その流れにあるでしょうか。であるとしても、弱肉強食、金が支配する社会、暴力と独裁の社会が「疎外」形態であるといったprimitiveな疎外論ではないでしょう。もう少しましな論議であるとしても、自己疎外論は基本形として、何らかの本来的な人間性なるものがあって、それが何らかのメカニズムで齟齬を来たし、人にとって疎遠なるものとして対峙して来る、という形になるでしょう。
Marxは、「本来的な人間・人間性」を想定した論議をそもそもしているのか、その反対に、人々がある物・事を本来的と見るのは如何なる現実的歴史的連関においてなのか、としていないか。wildstrawberryさんの受け取られたMarxはどうであったのでしょうか。私の理解では、前者が観念論で、後者が唯物論です。観念論はそれなりの「深い」人間理解をもたらすでしょう、限りのない深みを覗いてみたいという欲望に答えてくれるように見えるでしょう。一方後者は、深みのない俗世にとらわれた思考で、味わいのない経済学・社会科学的な思考で、物にとらわれている、との偏見と隣り合わせです。唯物論はさらに、……と別の方向に流れるので、ここで止めまして。Karl Marx の思想の重要な点の一つは、我々はその観念論対唯物論のどっちをとるかという選択をする所にあるのではないか、という見方もあり得るのではないか。云々として、さらに、ではその選択をするには何らかの人間観が有るのじゃないか。Marxのそこを知りたい、と堂々巡りをするか。
その観念論的堂々巡りを断つのが唯物史観で、本来的な人間という観念がいかにして成立し、人々の活動がいかにして自らに疎遠なものとして立ち現れるのか、という事を追求する途を拓いたのではないか。

先人の何を重要と見、何を継承すべきと見るかは、あるいは見ないかは、一種の自己告白ですから、辞退させていただいて、ご質問への感想ということで、纏まらない文で、失礼致しました。
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社会が発達する以前、生命として生きる方法は、全て1人の


個体の内に備わっていました。
社会=分業化・組織化の発達に応じて、人は生きる上で、
自らの行動を“自分が生きるため”以外の目的に費やさねば
ならなくなりました。
それでも、その社会性=助け合いが自らの意思によるものな
らば、自己の意思の達成として意識的な充足感につながるが、
実際は生産手段を持つ経営者や、「助け合い」を目先のお金の
争奪に変えてしまう資本主義(貨幣制)によって、「生きる事
(心→個人の意識)」と「生きている事(体→社会的必要)」は
分断されるようになるのです。

そこには「助け合いとしての社会」はなく、人の意識は目先の
弱肉強食に分断される「疎外」に陥るのです。
そもそも、マルクス主義の根源である、「人は使用価値の獲得
において幸福となる=モノをたくさん得るために生きている」と
いう物質主義的な考えが、人間を単純化し過ぎており、その
根底にある「人の生きる目的は精神的充足感の追求である」
というのは、「物質の獲得」ではなく、助け合い=自律的社会
行動による生きる事(=労働)自体による充足として、むしろ
与える事によって達成され得るものなのです。
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疎外論を卒業とのことですので、『経済学哲学草稿』をお読みだということでしょうか。


『資本論』の最初に商品論があります。その第一章なかに、マルクス自身の註があって、「人間は鏡のように人を映す」という趣旨の記事があります。昔これが気になっていました。
今思うに、これはやはり、マルクス理解の鍵だと判断しています。
商品論は、さまざまな労働生産物を交換によってとてつもなく抽象化し、『党宣言』の表現によると、人間自身も抽象化してしまい、教師も医師も聖職者もみな、「賃金」によって計られるだけのものに堕してしまう、といいます。ここに、本来の、たとえば医師なら、固有の名を持った他者の命を救うという具体的な仕事とその意味があるはずなのに、「たとえば50万円の手術」とされ、教師の一月の労働=一月分の給与と、等価であるとされてしまう。
こうした「本来の固有の意味」が抜け落ちることが「疎外」ですね。
この疎外からどうしたら脱却できるのかということがマルクスの生涯の課題だったのではないでしょうか。
そのために、人間さえ商品化する資本主義というものを分析しつくすことを自らに課し、労働運動を統括する国際労働者協会を設立する運動を手助けし、革命理論を打ち立てた。資本の活動がインターナショナルだから、労働運動もインターナショナルでなければ解決できない、ということなのではないでしょうか。
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